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2005年5月30日 (月)

小奇麗にする

流風は子供の頃、小奇麗にするように、よく親に言われた。当時は理由はよくわからなかったが、現在でも、その精神は持ち続けているつもりである。

その内容としては、いつも、きちんとしておきなさい、ということ。よく言われる言葉に直せば、こざっぱりしておきなさい、ということであったと思う。贅沢な身なりはする必要ないが、いつ、どんな状態でも、恥ずかしくないような服装にしておけ、ということだった。

そのため、特に下着は常に清潔な状態にし、あまり古くなった下着は処分しなさい、ということだった。その結果、上着には、あまりお金を使った経験はないが、下着は比較的頻繁に取り替えるようにしている。最近の下着は強いので、破れるまで使う人も多いようだが、第三者が見れば、侘しい事である。そして、その人格も貧しく見えてしまう。

また上着も、特にお金をかけるわけでもなく、安いものでも、つねに清潔に、不愉快を与えない服装が求められた。そのためか、会う人には、時々ではあるが、割とセンスがよいとか言われることもある。特にお年寄りに。

最近、考えるのは、これは茶道の根本精神といわれる「和敬清寂(よく和し、よく敬し、そして清く寂しく)」に通じるものがあるのではないかと、思っている。流風は茶道の心得はないが、親は茶道を習っていたから、子供の生活指導に、そういった精神が持ち込まれたのかもしれない。

茶道を少しかじってみようかな、と思う今日この頃である。あきっぽいので、本格的には無理だが。

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2005年5月28日 (土)

画廊散策

流風は気分転換を兼ねて、きまぐれに画廊を散策する。散歩ついでに目に入った画廊を訪問するのである。

鑑賞の仕方は、基本的に気に入った作品だけ見る。後は適当に流す。気に入った場合はポスターや葉書を購入する。大体、見に行ったことだけで、感謝される。

ところで、最近、気がついたことは、傘寿、米寿、喜寿記念として、高齢者の方が個展を開かれているケースがやや目立つことである。作品は玄人跣のものもあれば、高齢になってはじめた趣味のような作品もある。年代それぞれに、各人の人生経験による個性も加わって、面白い。

流風はどちらかというと、趣味の延長のような素人っぽい作品が、好きである。なぜなら長い人生観に裏打ちされた表現が直にされているから。彼等、彼女等には、人生の先輩として、多くの指針を絵から頂くことが多い。そして、彼等に、このような趣味を持たせ、アドバイスしている方々に感謝するのみである。

また、現在、実質年齢は、年齢の男性8掛け、女性7掛けというが、彼等は絵画制作を通じて、さらに若返っている、と感じる。作品だけを見たら、決して高齢者のものとは判らない場合も多い。芸術に参加することは、脳を活性化させ、若返る手段として、もっと評価されてよいと考えた次第である。

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2005年5月26日 (木)

日中問題の認識

相も変わらず、日中はもめている。日中双方の低レベル意識では、いつまでも続きそうな雰囲気である。利するのは第三国だけなのに。流風は専門家ではないが、認識する問題を次のようにまとめてみた。

まず中国による日本への刺激的な事件は多い。例えば、潜水艦による領海侵犯、尖閣列島上陸問題、一方的な東シナ海ガス田開発、反日暴動デモ、呉儀副首相の会談キャンセルなど。

また中国の発言で日本人の心を逆なでする例としては、上記事件に対する誠意のない発言、歴史問題に対する一方的な意見、教科書問題に対する一方的な意見、靖国神社参拝反対、日本の常任理事国反対などであろう。

逆に日本が中国を刺激する例としては、EUの対中武器禁輸解除措置反対、日米間の台湾海峡の平和と安定などの戦略合意、台湾独立問題への動き、シベリアパイプライン敷設に対する日本の横槍などであろう。

さらに中国では、過去、長期にわたって、為政者の都合で政策がいろいろ変更され、中国国民が日本に対する不満を抑圧されてきた事情が加わる。その中には、進出日本企業に対する不満もあるだろう。

そして日本の発言として最も中国を刺激しているのは、小泉首相の靖国神社参拝を中止しない、ということであろう。靖国神社参拝反対の件は中国指導者にとって申し送りのようなものであることを首相は理解していない。

以上のように見ていくと、全体としては、中国が日本に仕掛けているケースが多い。その背景は、印象として、中国のトラウマのようにも感じられる。いわゆる欧米列強に植民地化されたことや日中戦争の被害者意識が強いということであろう。

一方、日本においては、小泉首相の外交音痴が目立つ。彼の主張は間違ってはいないが、十分な説明の土台を築かずに、自らの主張を貫くから、中国に理解してもらえない。外務省も従来、日本の立場を説明してこなかった感じがする。それを調整するのが外交ではないか。

以上のことからわかることは、全体として日中双方は政治レベルでの相互のコミュニケーションやそのための人材交流を欠いている、ということだ。さらに産業界、留学生など、点や線での接触があっても、それらを活かして総合的・立体的なコミュニケーションの仕組みにする意識が欠如している。そのことが現在の不協和音を招いている。

そのためには、まず日中近代歴史は客観的に評価できるほど年月が経過してきたことを踏まえ、双方で事実関係をオープンにし、アジアの平和と安定を築くべく、どうすればよいかをまとめる時期に来ている。そうすれば靖国神社問題も解決するだろう。

そして、それが結果的に、双方の外交に対する新思考が根づく可能性もでてくる。日本としては、今からどう応えるか、真剣に考えなければならない時期に来たということだろう。

*平成25年12月30日追記

ある混血女性タレントが、ヒトラーの問題と靖国参拝と一緒にして話していたが、彼女は何も分っていない。別に保守系の人間でなくても、日本人にとって不愉快であろう。日本は戦前、確かにドイツと同盟していたが、ヒトラーのユダヤ抹殺に賛成していない。

不合理な東京裁判で戦犯とされた軍人等が靖国神社に合祀されていることとは全く別問題(戦犯と言うのなら、日本に原爆を落とし、都市部を焦土にし、多数の民間人を殺戮した米軍こそ戦争犯罪人に相当する。そういう意味では靖国神社は二面性があるが、それを政治問題化するから、ややこしくなる)。日本軍はヒトラーのようなことはやっていない。反省するとすれば、中国に進出した際、狂人的とも言える一部の軍人が暴走して、残虐な殺し方をしたことだ。

ただ、当時の中国の国民党自体は内戦で、日本軍より、はるかに多くの中国人を殺戮している。戦後、満州帰りの父の知り合いも父に、「中国人は、人間を牛や豚のように殺す。日本人にあの真似はできない」と呆れて語っていたと言う。日本軍の一部に暴走があったことは事実のようだが、多くは国民党の仕業で、それを日本軍に、なすりつけているのが歴史的史実のようだ。

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2005年5月25日 (水)

清潔すぎる子供環境

少し前から、抗菌関係の商品が多く出回っている。流風はなぜ、このような商品が必要なのか、少し考えてみた。つまり、需要があるからなのだろうが、なぜ、そんなに清潔好きが多いのかと。今回は子供環境について絞って考えてみた。

流風の子供の頃は、どろんこ遊び、スコップで土の掘り返しや川遊びなどをやって、毎日どろどろになっていた。およそ、清潔とは程遠い状態だった。もちろん、そのため、下痢や腹痛は度々だったし、高熱を出してお医者さんに往診に来てもらったこともある。ただ、それで、泥んこ遊びを止めたような記憶はない。

比較的過保護と思われた流風でさえ、そのような状態だった。ところが、最近は子供の遊ぶ環境が悪化しているのか、それともマンション住まいのため、適当な遊び場所がないのか、泥んこになっている子供はほとんど見受けない。

外見から察するに、非常にきれい。脛を怪我している子供や切り傷で泣いている子供も少ない。何か特別のスポーツ活動している子供を除けば、汚れないように、怪我しないように遊んでいるのではないか。

このようなことが、子供の抵抗力を奪っているのではないか、と思う。そのことが抗菌商品などの普及につながっているのではないか。そして、それらの商品が更に子供の抵抗力や免疫力の低下に導いているのではないか。

ここでは本来の意味合いは異なるが、「人は糞袋である」ことをもう一度、確認する必要がある。私達は虫や細菌と共にあることを再確認すれば、もう少し子供環境を違った視点で見ることができるのではなかろうか。

すなわち、それは「清」の理解と共に「濁」の理解も求められる、ということだ。このことは、広く一般社会でも言えることではないだろうか。

追伸

もう一つ気になることで、最近の子供さんは家に帰っても着替えないらしい。抗菌グッズの利用より、まず外用着と内用着の区別がきちんとされているか、そちらの方がむしろ大切である、と思う。

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2005年5月23日 (月)

ポイントカード・リストラ

最近スーパーなど小売店では、どの店でも、「ポイントカードはお持ちですか」と尋ねてくる。流風はポイントカードなどもらっても、いつのまにやら、どこにあるかわからない。多分どこかにあるかもしれないが、年末にゴミとして捨てられる運命にある。結局「持っていない」と返事する。

すると、大体がいやそうに、「ポイントカードも持たずに、節約もせずに、それでいいの」という風にちらりと、見られる。これが不愉快なんですよね。そもそもポイントカードは店の都合で作っているのだから、別にポイントカードを持っていなくてもいいではないか。

ポイントカードの目的は、本来、顧客の囲い込みのためであろうが、スーパーなどでは、特売品のみの購入客排除にある、と言われる。そんなことをしなくても、適正価格で売ればいいではないか。一部の特売品で客を釣ろうとするから、ポイントカードなどが必要になるのである。

ポイントカード分価格を引き上げて、優良顧客については、最終的に値引きするということであろうが、どうも納得いかない。こんな風に気を回す流風も、ポイントカードシステムがなければ、当然、考えもしないことである。こんなシステムを作って、顧客を敵に回す。流通マーケティングとは是如何に、と疑念を持たざるを得ない。

流風としては、その場で、買い物額に応じて何らかのサービスをしてくれるほうが、どれほど面白いか、と思う。さて、皆さん、ポイントカードはどれくらい、お持ちですか。

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2005年5月22日 (日)

席を譲る

先日、電車で立っていたら、前に座っている男子高校生が荷物を置いて、席二人分を占領していた。

余程注意しようかと思っていたら、次の駅に着いた。そこで高齢のおばあさんが乗車してきたら、その高校生がさっと席を譲った。隣に座っていた女子高生はお話に夢中で気づかなかったが、男子高校生は周囲の状況を判断したらしい。

流風は複雑な気持ちになった。よく荷物で席を占領していいるのは、この高校生にとどまらない。よく見かけるのは百貨店での買物帰りの上品そうな奥様方が自分の座った横に荷物を置き、新たな客が乗車してきても無視しているのをよく見かける。周囲から見ても、あまりよい気持ちはしないものです。

ただ、この高校生の場合、席を余分に占領したのはいただけないが、席を譲ったのは感心なこと。若い時は、席を譲るというのは意外と度胸がいるんですよね。

流風の若い時の経験でも、席を譲ったのはよいが、その高齢者が遠慮か何かわからないが、座ってくれない。それがため顔が赤くなったのを覚えている。一般に女性の高齢者はよろこんで座ってくれる場合が多いが、男性の高齢者は「私はまだ若い」とばかり、怒り出す人もいる。

最近は高齢者の様子を見ながら、譲るので、はずれはなくなったが、先日、男性の高齢者は、かなりふらついておられたので、すぐ譲ったのだが、なかなか座ってもらえなかった。

そのことを、ある高齢者に話をすると、「高齢になって、座って立ち上がるのは大変なんだ。その高齢者は次の駅で降りなかったか?」と言われた。

確かに次の駅で降りられた記憶がある。流風も、まだまだ修業が足りない。

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2005年5月19日 (木)

水虫の季節

水虫の季節が近づいてきた。

働く女性の3人に1人が水虫だそうな。わかるような気がする。革靴で走り回れば、足も汗をかくし、菌は大喜び。でも、水虫のお嬢さんとはお近づきになりたくないな。

電車に乗っていても、爪が変形している女性も多い。ペティキュアで誤魔化しても、あきらかに、あれは水虫。話は変わるが、よく女性が足のサイズを無視した靴に足を無理やり入れている、お嬢さんを時々見かけるが、あれも水虫と関係があるのだろうか。足の指が変形してしまっているのは、見苦しいの一語に尽きるのだが。足を小さく見せたいのが、優先するのだろうか。

さて、実は流風も若い時には、水虫には苦労した。原因はよくわからないが、サウナとか温泉から帰った後に症状が出たような気がする。

実際、あの痒さはたまらない。医者に行っても、なかなか治らなかった。そこで、市販の塗り薬を塗ったり、お酢を沸かしたものにつけたり、べルツ水をつけたりして対症療法を試みるが、根本的治癒には、ほど遠かった。しかし年齢と共に水虫も退散するのか、最近はあまり感じなくなった。それとも流風が鈍くなったのか。

お節介のようだが、最近はよい薬も出ているようで、早めに皮膚科の治療を受けることを薦めたい。ただ爪水虫は飲み薬は肝臓に副作用があるそうなので、塗り薬の方がいいみたい。かつては塗り薬では治らなかったが、現在はある企業から出ている塗り薬でほぼ完治するらしい。

水虫をパートナーにうつす危険を脱して、梅雨の時期を快適に過ごしたいものである。

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2005年5月17日 (火)

村上華岳展

京都に行ったついでに、京都国立近代美術館に行ってきた。現在開催されているのが、「村上華岳展」であった。国立美術館ということもあって、展示品も多く、合間の鑑賞には若干きつく、走り鑑賞になってしまった。

また華岳の絵で知っているのは、「日高河清姫図」ぐらいだが、本物を鑑賞するのは本日始めてであった。新たに見たものがほとんどのようだった。彼の絵を理解するには不勉強で、コメントする能力はないが、気づいたことを記してみよう。

彼の絵は大正時代に描いたものと、神戸に隠棲してからの絵があるようだ。前者の絵は絵が活き活きとしており、躍動感がある。しかしながら、後者の絵は仏画が多く、絵自体も非常に暗く感じる。量的には昭和の時代の絵が多いのだが、宗教性が強くて若干重い感じがする。

大正時代に描かれた「日高河清姫図」(大正8年)は、あーこれこれという感じで鑑賞。清姫の顔の表情が詳しく描かれているわけでもないのに、女の業を感じさせる不思議な絵である。「二人舞妓」(大正7年)「妓女舞踏図」(大正9年)も楽しい踊りの動きの感じが出ている。ただ「裸婦図」(大正9年)はすでに将来の仏画を予測させる感がにじみ出ているようだ。この段階で女性をそのように捉えているように感じた。

その後、昭和に入って、神戸に隠棲したのは、画壇活動などで、自分の描きたい絵が描けなくなったこともあるようだが、持病の喘息が悪化したことが主たる理由のようである。

その結果、表現は悪いが棺桶に足を突っ込んだ状態での絵の表現のように感じる。非常に幽明を行き来して描いたような絵のようなのだ。

また流風の推測だが、晩年後期には、目も相当悪かったのではないかと思う。色彩感が全く感じられないのだ。確かに水墨画であれば、色彩感がないと言われるかもしれないが、躍動感がなく、色彩のない世界で描かれた絵のような感じを受けた。禅坊主の絵とも違うのだ。

しかし、それが華岳の意図であったとしたら、流風はうまく、嵌められたことになる。実際はどうだったのだろう。

絵画の鑑賞は研究者の方は十分知っておられるようなことでも、何も知らない一般の人間が、あーだこーだと思いながら、鑑賞するのも案外面白いものである。事実と大きくかけ離れていても。ただ今回は時間を十分かけて鑑賞できなかったのは心残りだが。

5月22日まで。

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2005年5月16日 (月)

サマータイム法案

環境問題やエネルギー問題絡みで、サマータイム法案が検討されているらしい。しかし、早寝早起きの流風に関しては、まったく関係ないといってよい。朝、明けてきたら起きるし、暗くなってきたら寝る。超原始人的生活を送っていれば、どうということはない。

だいたい今の日本人は、起きるのが遅く、寝るのも遅い。朝早い国は栄えるというが、朝遅い国は栄えた例がない。流風の子供の頃は、朝6時に起きると、母はすでに起きており、一仕事を終えていた。父は通勤にそんなに時間がかからないのに、すでに出かけていた。近所も同様で、4時にはすでに光が煌々としていた。

それが現在では、周辺の家は6時になっても、明かりが点くのは数件にも満たない。7時になっても同様。一体何時に起きるのか。こういう事態だから、国が仕方のないことを考えるのだ。

別にサマータイム法案が出来なくても、企業は始業時間を7時にして、終業時間を4時にしたら、企業も個人も、もっといろんなことが出来るのではないか。そういう可能性を探って欲しい。現在は始業時間が遅すぎるし、国に言われたから変更するのでは、あまりにもお粗末すぎる。

さて、皆様は何時に起きて、何時に寝ますか。

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2005年5月14日 (土)

神戸まつりレポート?

久しぶりに神戸祭りを見に行ってきた。今年はいつもの年より、早いようだ。神戸祭りといえば、大体雨と記憶しているが、本日土曜日は晴天。そうだ、雨の時期をはずして、早めたのだ!

そのためか、行楽には最適とあって、家族連れ中心に人の群れだった。本日土曜日だけがメインの祭りという理由もあるのだろう。土曜日だと、明日、日曜は休養が取れる。そういうことに配慮したのかな。ただ流風は、物凄い人手に圧倒され、それだけで疲れてしまった。

さて、祭りの特徴としては、おまつりパレードが中心だ。ただ、このパレード全て見ようとすると3時間以上かかる。出演者に知り合いがいない限り、適当に見ることで終わってしまう。出演者が多すぎるのも良し悪しだ。

また、メインのおまつりパレード以外にも、それぞれ場所割りされたところで各種催しがされていた。流風は、いつもやっているサンバストリートとかワールドカフェ、夢太鼓等は、流風は見飽きているので、ジャズやボサノバの音楽が聴けたパフォーマンスコーナーが特によかった。毎年地域の特徴を出す新しい試みは必要ですよね。

それにしても、会場が三宮、元町、神戸ハーバーランド、新神戸と広いので、全てを見ることは人の多さもあり、不可能。ただ、どの位置にいても、それなりに楽しめるので、集客できるのだろう。

それから、人々も動き回るのではなくて、一定の位置で留まる傾向が見受けられた。高齢者や子供も多いしね。

物販店は特に変わったことはなかったが、安物買いの習慣がなおらない流風は、おもわず500円のかばんをゲット。市販だ1000円はする?環境に配慮して長く使うぞ。

また、いつもながら、トイレはあちこちに配備されていた。これは助かるんですよね。特に流風みたいにトイレの近い人にはホント!観光開発はトイレ配備に尽きる?といつも思うけど、それが出来ていない地域は多いですよ。

さあ神戸祭りが終わると、本格的な夏。今年は夏が早そうだ。

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2005年5月12日 (木)

国を愛するって何?

教育基本法改正がらみで、「愛国心」をどうするか議論しているらしい。文部科学省では「国を愛する」と「国を大切にする」の両論併記で提案して、それに基づき、政府では「国を愛する」を削除するだの、しないだの侃々諤々議論しているようだ。そこで、流風も、日頃考えたこともない愛国心について、少々脱線気味に考えてみた。

第一に、そもそも「国を愛する」ということは、どういうことだろうか。また「愛する」ということは、どのような理解なのだろうか。

「愛する」とは見返りのないものである。すなわち、「国を愛する」とは母親が子供を愛するように、無条件に国を愛せよ、ということだろうか。

それは子供の出来、不出来にかかわらず、本来母親は無条件に子供に愛情を注ぐ。すなわち、国と国民に置き換えれば、国の出来が良くても悪くても、国民は国を愛せよ、ということだろうか。何かおかしいですね。

そこには、国民は日本国において、主権を持つが故に、国と関わりを持つ。ただ、それだけで国を愛せるとは言えない。つまり国は国民を愛していることを明確にする必要がある。国民は国から愛されていることを理解して、初めて国を愛するようになるのではないか。その結果、国民から愛される国になる。そういったことも明確に表現する必要がある。

第二に、以上のように「国を愛する」について考えたが、何かが物足りない。

つまり、家庭における父親の役割のようなものだろう。それは「敬する」ということだ。

すなわち、国と国民の関係も、国が国民から「敬される」ようになって、はじめて国民は国を「敬する」ようになるのではないか。

よく言われるように、父親は子供に対して、母親のように、ただ愛すればよいというものではない。父親の役割は、子供の本質を見抜き、子供の将来を見つめて、あるべき方向に誘導することにある、とよく言われる。そのためには、自らが模範を示さなくてはならない。そのようにして、はじめて父親は背中を見せて、子供から「敬される」(残念ながら、日本では父親教育不在のため、父親の存在価値がなくなっていることは情けないことである)。

そのことを、論じなければ、片手落ちのような気がする。

第三に、文部科学省が提言している「国を大切にする」というのは正しい議論だろうか。

「大切にする」というのは「モノ」に対しての感覚に近い。国をモノ扱いするのはいかがなものか。「大切にする」というのでは、若干軽すぎる感じがする。「愛する」とか「敬する」の二義的な感じがするのだ。これこそ、削除すべきだろう。

第四に、「愛国心」というのは、国を誤らせる教育リスクがあるのか、ということ。

多分、愛国心が問題になっているのは、戦前の愛国教育が問題ではなかったかと、いうことであろう。確かに当時の日本では、知識人を除けば、正しい知識は一般国民は持ち合わせていなかったであろうし、情報は操作可能であったかもしれない。

ただし、現在の日本ではほとんどの情報が開示されており(*注)、一部の人間だけで日本の方向を決められるものでもない。愛国心が問題になるのは、情報が国民に開示されていない国家だけであろう。

むしろ、今後増えるであろう移民や帰化人に対する「愛国心」教育という意味では、はずせないと思う。

以上、不十分だが、今気がついたことを記してみた。皆様のご見識を賜りたいものである。

*注

残念ながら、安倍政権になって、国あるいは為政者にとって、いろんな不都合な情報が開示されなくなっている。また国家による国民統制を強化する動きもある。これは大変危うい。国民が国家に不信感を持てば、愛国心どころではなくなる。愛国と言うのは、まず国民に信頼される国家運営が前提だ。

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2005年5月10日 (火)

日中外交の思考方法

今回は、流風は外交専門家ではないので、日本と中国の考え方の違いに若干触れてみたい。いつも感じるのは、日中双方の外交の思考方法が根本的に異なっているのではないか、ということだ。

よく言われるように、中国の文化は「四角」である。それに対して、日本の文化は「丸い」。

具体的に言えば、日本人の持っている中国人の印象は、一見いい加減そうに見えるが、ああ見えて、中国人は日本人より論理的思考である、と思う。

それは儒教思想に代表される。孔子の「論語」は人間の心を論理的に分析したものだと言える。彼等は論理的に納得できないものは同意しない。どちらかと言うと、それを相手国に押し通そうとする。それがトラブルの要因になる。

その辺はプラグマティズムの米国とある意味似ている。だから中国と米国は思考方法が似ているのではないか、と思っている。ある意味似たもの同士だ。それゆえ、彼等は表では言い争っても、裏では握手しているように見える。

では、日本の丸い文化とは何かというと、現在は若干修正されてはいるが、それは論理以前のあるがままを受け入れることだ。

例えば、日本の食文化でも、素材そのものを大事にする。いろいろ調味料で味付けするのでなくて、素材そのものの良さを大事にする。そういったことが、全てに通じているのではないか。

ただ自然素材の確保に安定性はなく、常に自然に影響されて変化する。その結果、曖昧性が出てきたり、定性的なものを大事にする。それは日本国内であれば、事情がわかっているので、問題ないが、海外とのやり取りでは必ずしも理解されない。

また日本は戦後米国から四角い「プラグマティズム」を学んだが、中国の儒教文化と同様、四角い「プラグマティズム」を日本的解釈で丸くしてしまっている。日本の文化は基本的に丸いのである。日本に入ってくると、それらの外来文化は全て丸くなるのである。

こういうことが相俟って、日中外交におけるキャッチボールがうまくいかないのではないか、と思うが、いかがであろうか。

外交に携わる人々は、相手国の思考方法をまず理解する努力が求められる。そして相手国も日本の思考方法を理解し、止揚すれば、日中の未来は明るくなるだろう。

*追記

上記ブログに対して、「中国が論理的とは思えない。彼らは曖昧だ」という指摘を頂いた。確かに、そのように見えるかもしれない。しかし、彼らは論理的に考え、戦略として曖昧さを利用していると言えよう。その辺に、付き合いの難しさを感じる日本人は多いだろう。

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2005年5月 9日 (月)

女性のブランド信仰と環境問題

流風は、ブランド商品をほとんどと言ってよいくらい持っていない。先日も何かブランド商品は持っていないかな、と思って探してみたが、持っているのは安物のノーブランド品ばかり。このように、モノに執着がない流風は、かつて、ブランドを追っかけている女性たちをよく馬鹿にしたものである。

ただ、ブランド品は購入者がモノの評価ができない人々にとっては、大変重宝なものであることは否定しない。しかし、そればかりを追いかけると、真のモノの価値の見分けはいつになってもできなくなる。モノの価値がわかれば、本来ブランド物を追っかけることなく、良いモノを適正な価格で入手できるはずである。結果的に、それがブランド品であったとしても。ところが、今の日本は高ければ良いと思っている人々が多いように思う。海外のブランドメーカーは日本女性を馬鹿にしつつ、カモにしていると言える。

ところが、視点を変えると、ブランド品を度々買い換える場合を除けば、質のよいブランド品を適正な価格で買って長く使い続けることは、環境問題に良いことだと、この年になってやっと気づいた。流風のように安物買いは、まさに「安物買いのゼニ失い」で、環境問題にも良くないのだ。

若干遅きに失した感もなくはないが、今持ち物の再点検を始めた。貧乏根性が根づいているため、全ての持ち物と言うわけにはいかないが、入れ替えようかと思っている。

しかし、安いものでの失敗経験があっても、ブランド商品での失敗経験がないので、清水の舞台から飛び降りる勇気が求められそうである。

若い皆様、ブランド品には若い時から接しましょうね。あっ、そんな心配は不要か。皆、良い物持っているよね。

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2005年5月 8日 (日)

騒々しい社会とマスコミ

JR福知山線の事故で多くの方が亡くなったことは大変痛ましい。まず亡くなった方々のご冥福をお祈りしたい。またお怪我をされた方々の早期の回復を望みたい。

ただ今回の事故関連の報道で感じたことを若干申し述べたい。それは、この事故関連のニュースで、やや本質と違ったところで騒ぎすぎたように思う。例えば、事故当日、他の部門のものがゴルフに行っていたとか、ボーリングに行っていたとか、を問題にする(同じ事故車輌に乗っていた関係者が2名、事故現場を離れたことは追求されて当然だが)。不謹慎だとか、それが事故を起こした体質であるかのように。ややナイーブ過ぎる。

そしてトップに謝罪を求め、マスコミは鬼の首を取ったように歓喜している。確かにJRは社内広報面での危機管理が不足していたことは事実ではあるが、それが事故と直接どんな関係があるのか、疑問である。

もちろん部門の責任者とか、トップであれば、ゴルフをしていれば、それを中止して、引き揚げればなければならない。以前、国のトップが、災害情報を把握したのにゴルフを継続していたのは大きな過ちだったと、流風も思う。

さて、一般に我々日本人は事故以外の現象面から本質を把握しようとするが、本来、事故の本質は何だったのか、を追及しなけはればならない。そうすることによって、二度と事故を起こさないようにする必要がある。

マスコミや一般国民はまず、利用者の視点で、なぜ事故が起こったのか、を考えなければならない。マスコミはそういう一般国民の視点を話し合える場を作ることが求められる。他国からよく言われるように、日本人の一般国民は非常に優秀なのだ。国民の知恵を集約して、事故当事者とコミュニケーションするのがマスコミの役割ではないか。

神経質に騒ぎ立てるだけが能ではないと思う。そんなことをしていては、亡くなった方々も浮かばれない。二度と事故を起こさないようにするのは、JRの仕事(社風の改革、安全と効率のバランス、運用システムの改善、組織改革、社員教育、危機管理等々)ではあるが、一般の我々もなぜそうなったか、を考えることが求められているのである。そのため、マスコミはもう少し踏み込んだ役割を果たして欲しい。

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2005年5月 6日 (金)

イエスマン

どこの企業にも、あるいは組織にも『イエスマン』はいる。それは「イエス」と言う方が楽だからだ。自分は何も考えなくて済むし、責任は相手に押し付けることができる。

逆に「ノー」と言うのは日本社会では勇気がいる。『ノーマン』は組織では冷や飯を食わされる場合が多い。しかし、企業に残り続けた結果トップに登りつめた人々も多い。

トップは周囲に『ノーマン』を配置することが望ましいが、孤独なトップにとって、『ノーマン』だけではストレスがたまる。そのバランスをどう取るかは、トップの人生哲学に左右されるだろう。

それはそれとして、組織のトップにとって、『イエスマン』ほど危険な存在はない。「イエス」と言う言葉はトップにとって蜜の味のようである。「イエス」は心地よく心に響く。実は誰でもはじめは『イエスマン』を警戒するものであるが、長くその地位にいると、感覚は麻痺してしまう。その結果、周囲に『イエスマン』を侍らせて、蟻地獄に陥ってしまう。

そのことが、弊害として国レベルでも起こっている。米国に対して日本は『イエスマン』である。政治家の皆さんは『ノー」と言うのを恐れているように思う。米国に睨まれれば、政治生命を失うリスクを政治家は本能的に感じ取っているのだろう。

しかし、実際は米国の政治状況を十分把握して、理詰めで問題提起すれば、彼等は多分聞くだろう。政治家には物を言う勇気が求められる。また国民はそれで仮にその政治家が失脚しても守る度量が求められる。

今のように、米国の提案に無条件で「イエス」と言うことは、米国にとっても実はあまり良いことではない。例えば、外務省辺りは日本の常任理事国入りに米国に『イエス』と言ってもらうために、米国の要求に何でも「イエス」と言っているように感じる。よく考えた上での「イエス」とはとても考えられない。それは結果的に、日本の国益だけでなく、米国の国益にも良い影響を与えないだろう。

日本が主体的に世界に平和構築のために提案のリーダーシップを発揮して、初めて世界から認められ、常任理事国に相応しい国になるはずである(ただし、流風は、常任理事国になることを望まない。もっと違った選択肢があるだろう)。現在は常任理事国で話し合われていることがわからないので、常任理事国になりたいという低次元の願望である。そこには高次の理想などは感じ取れない。

是々非々で自らが主体性を以て判断するようになってはじめて、日本も真に大人の独立国として認められるようになるだろう。そのために日本は『イエスマン』から脱却しなければならない。

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2005年5月 5日 (木)

男は、清く正しくでいいのか

先日、女性問題で議員を辞めた人が再選された報道に接した。選挙も終わったことだし、少し考えてみた。それは、なぜ女性問題で議員を辞めなければならなかったか、ということである。

大体、男なら女性問題の一つや二つあってもおかしくない。もし女性問題を起こさないなら、それは男性の機能低下を裏つけているか、小心者のため、余程パートナーから、うまくコントロールされているかである。

フランスでは、大統領が堂々と愛人を公開している。それは少し行き過ぎかもしれないが、もし、その男に能力がある人材であるならば、女性問題で失脚させるのは社会の損失につながる。かの議員がどれだけ能力があるかは知らないが、精力満々の男性が良い仕事をするのは一つの事実である。

女性は聖人君子のような男性を期待されるが、現実にはありえない。男に清く正しくを期待するのは大きな間違いであると、流風は思う。宝塚の世界は、現実世界にありえない女性の理想だから、ずっと支持され続けているのだ。

ただ女性にとって、男性をいかに引き留め、コントロールするかは人生の課題かもしれない。もし、パートナーの男性に女性問題を起こさせたくなかったら、まず女性は男性を常に近くにいるように配慮する必要がある。

ところが実際は、女性が男性に積極的に浮気の機会を与えることもある。例えば単身赴任である。なんやかんやと理由をつけて、男性を単身赴任させるのである。欧米ではとても理解されない。

あちらでは、単身赴任は離婚問題に発展する。これはあるべき夫婦の姿ではない、という考えだ。そのような状態で男が問題を起こしても、女性は男性を本来責められない。

さて、男性の許を離れないということのほかに、もう一つだけヒントを差し上げよう。それは男は集団の中にいようと、常に孤独だということである。

そのためパートナーの女性は、男性に対して、突き放しつつ、常に抱き寄せる母親のような姿勢が求められる。すなわち、大人の子供だと思えば、男の蛮行も少しは許せるようになるだろう。そして、パートナーの男性の好い点を見つけることも大切だ。

そのように女性に振舞われると、男性は拘束されるより、動けなくなるのも事実なのである。賢い女性とはそういう人である、と流風は思う。あなたはどうですか。

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2005年5月 4日 (水)

もったいない

環境問題がらみで、アフリカの某女史による日本語の「もったいない」の再評価が最近注目を浴びた。

そういえば、私の子供の頃は、祖母も母も口癖のように「もったいない」を連発していたのを思い出す。今より、物のない時代に育った祖母や母たちは、物を大切にすることが自然に身についていた。

例えば、新聞紙の場合は、次のように使用していた。一部は今でも使っているだろう。

  1 釜風呂とか「おくどさん」に薪をくべたり、七輪に炭に火をつける場合、最初火が着きやすいように新聞紙を利用する。

  2 便所で新聞紙を下紙に使う。新聞紙を揉んで柔らかくして使うのだが、これは若干つらいものがあった。これはさすがに、後日質の悪いちり紙に変わった。でも、現在でも、非常事態になれば使えるだろう。

  3 畳の下に敷いて、防虫代わりに使う。定期的に畳を上げて、掃除し、新聞紙を敷くのである。そうすれば、ダニなどがつきにくいと言われた。

  4 箪笥の中に衣料の下敷きに使い、防虫代わりに使う。

  5 野菜や花を新聞紙で包んで、保管するのに使う。霧を吹いて、新聞紙で包めば、長持ちするのである。

  6 一般的な包装紙として使う。ちょっとした什器などの包装紙に使う。

  7 新聞紙を使って、子供のおもちゃを作る。兜を作ったり、音の出るものを作ったり。

  8 雨に濡れた靴を乾かすのに使う。濡れた靴の内側に新聞紙を入れて、水分を取り出す。

  9 新聞紙を濡らして掃除に使う 等々

そして、以上のように再利用した新聞紙は乾かして、燃やしてしまうため、結局ゴミは発生しなかった。

こうして使って、それでも余れば、2ヶ月に1回程度、リアカーを曳いてやってくる古紙の回収のおじさんに売って、小額のお金をもらうようにしていた(それが私の当番で、私の小遣いになるので、待ち遠しかったのを思い出す)。それほどに、再利用が徹底していた。

その他にも、服が破れたら、接ぎを充てて直し、当然利用していた。私は母が私が外で遊んで破った服をまるで手品のように、修繕し、それまでのデザインより良くなっていたのをうれしくなったりしたのを覚えている。

鍋なども底が抜けたら、時々来る「鋳掛屋」のおっちゃんに修理してもらって、使っていた。真空管ラジオなどは父が修理していたし、家具もそうだった。

結果的に、ゴミはほとんど発生しないような状態だった。常に再利用できないか、と考えながら、行動していたのではないか。ところが、今の時代は、物を買いすぎて、捨てすぎる。また、社会もそういう仕組みを喜ぶ社会になってしまっている。 

これからは、物を持つ時代から、いかに持たないかということが問われる時代のように感じる。

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2005年5月 3日 (火)

美脚の魅力

男は若い時は、女性の顔に目が行くが、年齢を重ねていくと、全体バランスを見ながらも、だんだん下に移動する。流風も、最近は女性の美しい脚に目が行くようになった。

パートナーがいれば、つねられそうだが、これは男の本能。女性で、このことに、ご不満の方は、黒川伊保子氏の解説書を読めば、そんなものかなぁ、と理解できるだろう。そうかといって、嫉妬は、なくならないだろうが、男性の脳の仕組みをわかりやすく知ることができる。

そういうことを、うまく利用している場所がある。喫茶店だ。特に全国展開している喫茶店・コーヒーショップは、男心を見透かしたように、脚のきれいな女性が多く、また脚を露出させるような服装をしているところが多い。ところが、容姿はあまり考慮されていないことが多い。あれは中高年の男性顧客を狙った販売戦略の一環かもしれない、と感じるようになった。

ところで、脚というものは、年齢に関わらず、比較的長く美しく保たれるらしい。というのは、高齢者でも美脚の女性は多い。これは顔と違って、紫外線の影響を比較的受けていないからという理由だ。

その結果、顔は年齢そこそこに高齢者であっても、脚だけ見ると、年齢はわかりにくい。電車の中で、脚の美しさにふと目をやると、意外と中高年の女性だったりする。股を広げた傷だらけの脚の女子高校生より、ずっと美しい。

そこの女子高校生、股を広げるのだけはやめなさい。スカートをつまんで風を送ることもやめなさい。ああ、恥ずかしい。大和撫子はいずこ。

*追記

だから、美脚を思い切り出している若い女性たちは、後年、色焼けして悩むかもしれない。まあ、焼けた脚も、姿が美しければ、それはそれなりでいいのだが。

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