国を愛するって何?
教育基本法改正がらみで、「愛国心」をどうするか議論しているらしい。文部科学省では「国を愛する」と「国を大切にする」の両論併記で提案して、それに基づき、政府では「国を愛する」を削除するだの、しないだの侃々諤々議論しているようだ。そこで、流風も、日頃考えたこともない愛国心について、少々脱線気味に考えてみた。
第一に、そもそも「国を愛する」ということは、どういうことだろうか。また「愛する」ということは、どのような理解なのだろうか。
「愛する」とは見返りのないものである。すなわち、「国を愛する」とは母親が子供を愛するように、無条件に国を愛せよ、ということだろうか。
それは子供の出来、不出来にかかわらず、本来母親は無条件に子供に愛情を注ぐ。すなわち、国と国民に置き換えれば、国の出来が良くても悪くても、国民は国を愛せよ、ということだろうか。何かおかしいですね。
そこには、国民は日本国において、主権を持つが故に、国と関わりを持つ。ただ、それだけで国を愛せるとは言えない。つまり国は国民を愛していることを明確にする必要がある。国民は国から愛されていることを理解して、初めて国を愛するようになるのではないか。その結果、国民から愛される国になる。そういったことも明確に表現する必要がある。
第二に、以上のように「国を愛する」について考えたが、何かが物足りない。
つまり、家庭における父親の役割のようなものだろう。それは「敬する」ということだ。
すなわち、国と国民の関係も、国が国民から「敬される」ようになって、はじめて国民は国を「敬する」ようになるのではないか。
よく言われるように、父親は子供に対して、母親のように、ただ愛すればよいというものではない。父親の役割は、子供の本質を見抜き、子供の将来を見つめて、あるべき方向に誘導することにある、とよく言われる。そのためには、自らが模範を示さなくてはならない。そのようにして、はじめて父親は背中を見せて、子供から「敬される」(残念ながら、日本では父親教育不在のため、父親の存在価値がなくなっていることは情けないことである)。
そのことを、論じなければ、片手落ちのような気がする。
第三に、文部科学省が提言している「国を大切にする」というのは正しい議論だろうか。
「大切にする」というのは「モノ」に対しての感覚に近い。国をモノ扱いするのはいかがなものか。「大切にする」というのでは、若干軽すぎる感じがする。「愛する」とか「敬する」の二義的な感じがするのだ。これこそ、削除すべきだろう。
第四に、「愛国心」というのは、国を誤らせる教育リスクがあるのか、ということ。
多分、愛国心が問題になっているのは、戦前の愛国教育が問題ではなかったかと、いうことであろう。確かに当時の日本では、知識人を除けば、正しい知識は一般国民は持ち合わせていなかったであろうし、情報は操作可能であったかもしれない。
ただし、現在の日本ではほとんどの情報が開示されており(*注)、一部の人間だけで日本の方向を決められるものでもない。愛国心が問題になるのは、情報が国民に開示されていない国家だけであろう。
むしろ、今後増えるであろう移民や帰化人に対する「愛国心」教育という意味では、はずせないと思う。
以上、不十分だが、今気がついたことを記してみた。皆様のご見識を賜りたいものである。
*注
残念ながら、安倍政権になって、国あるいは為政者にとって、いろんな不都合な情報が開示されなくなっている。また国家による国民統制を強化する動きもある。これは大変危うい。国民が国家に不信感を持てば、愛国心どころではなくなる。愛国と言うのは、まず国民に信頼される国家運営が前提だ。
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