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2005年8月31日 (水)

医療事故を考える

最近は医療事故の報道は減っているが、実態はそうでもないらしい。モノづくりでも製造ミスがあるように、人間のやることだから、医療の現場でもミスが起こる。ただ人の命に関わることなので、その持つ意味は大きい。

ただ私達患者側も彼等に任せるだけでなく、もっと医療行為(方法とプロセス)にもっと関心を持つべきだろう。特にそのプロセスに関しては、患者側も関与して改善させるべきなのだ。そこで、今回一般人の視点で、医療事故に関して、若干整理してみた。私達はあまりにも、その点について不明確な知識しか持ち合わせていないからだ。まず医療事故の持つ意味についてあらためて少し調べてみた。

●『医療事故(アクシデント)』とは、

1  患者が本来持っていた疾病や体質などの基礎的条件によるものを除き、医療にかかる場所での全過程において発生した患者に傷害を及ぼした事象を指す。

2  医療事故には医者側に過失がある場合とそうでない場合がある、とされている。

●そして、『医療事故のレベル』としては、大きく三つに分けられる。すなわち、

レベル1
 事故のために予測しなかった、もしくは予期していたものを上回る濃厚な処置や治療の必要性が生じた場合。

レベル2
事故のために予期しなかった、もしくは予期していたものを上回る永続的な障害や後遺症が残り、有意な機能障害を伴う場合。

レベル3
 事故が死因となる場合(原疾患の自然経過によるものを除く)

人間という生き物を対象とした医療行為は、ある意味、未知数のことが起こりうるということだろう。もちろん、そういうことを最小限に食い止める努力が医療機関に求められる。昔は医者は何人か殺さないと一人前になれないとよく言われた。今では公然とそういうことは言うことはできないが、そういう部分も先端医療活動では起こりうるかもしれない。

ただある調査によると、医療事故の43%程度はケアレスミスということだ。ということは、この部分は方法やビジネスプロセスの改善によって、無くすことが可能ということだ。こういうことは、当然医療関係者も努力されているだろうが、患者側の私達も提言できるなら、した方が良い。

私達は誰でもそうだが、忙しすぎると、そのことを処理するのに手一杯で、重要なことが置き去りになりがちだ。今までやっている方法やプロセスがベストとは言えないことはたくさんあるはずである。医療関係者は失敗をオープンにして、風通しのよい柔軟な組織作りをしてもらいたい。そうすれば、医療事故は削減できるはずだ。公表を恐れるべきではない。むしろ、それを逆に組織活動に活かすべきなのだ。

なお、最近報道された手術中に患者をなぐる行為は医療事故とは言えない。それは医師の人間性に関わることなのである。そういった医師は医師には向いていないことを知るべきだろう。さっさと退出されたい。

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2005年8月28日 (日)

子供に継がせるということ

創業者が子供に事業を継がせるということは、問題が多い。親の情としては子供に継がせたいだろうが、うまく行かない要因は何なのだろうか。いつものように、ふと気になった。

歴史的に見ても、優秀なトップの子供が優秀な例は少ない。武田信玄の子供たちがそうであったし、継がせた勝頼も平凡な人間だった。

織田信長も親を超える子供は1人もいない。それに彼は非業の死を遂げているので、子供に継がせることは生前中にできてはいない。

豊臣秀吉の場合、秀頼は優秀であったがために徳川家康に殺されたが、彼が秀吉の子供であったかどうかは疑わしい。徳川家康にしても、子供の秀忠は、ぼんくらの域を出ない。

ということは、優秀なトップに優秀な子供は期待できないということだろう。遺伝学的にもまたそのようである。親が優秀であればあるほど、子供の出来は悪いと結論づけても、大きな間違いはなさそうである。

創業者が全身全霊で事業に没頭した結果、遺伝子が疲れていしまうのだろうか。詳しいことはわからないが、子供の環境には望ましくないのかもしれない。

ということは、創業者のトップは、事業にしろ、政治にしろ、子供に継がせるということは問題が多いといえる。

それを解決するために、昔はどうしたか。大阪船場の老舗では、娘がいれば、見込みのありそうなものを婿養子に迎えて、跡を継がせいている。そして息子がいれば、養子に出したりして、家から出している。そのようにして、“血の改革”をしている。

現在でも、ビジネスの世界においては、そういうことをされているところは比較的元気だ。すなわち養子が頑張っている(但し最近は養子にしない例も目立つ)。

政治の世界でも、そのようなことはあるかもしれない。二世議員とか呼ばれる人々は必ずしも優秀とは言えない。政治家も養子の仕組みをもっと取り入れれば、息子や娘に継がせるより、国民にとっても良い結果を生むだろう。

ただ二世議員の可能性もやり方によっては道もある。例えば親の地盤が引き継げない仕組みにすればよい。自分で地盤を作ったのなら、まだ政治能力もつくかもしれない。少なくとも、“当選してから勉強します”という馬鹿げた発言だけはなくなるだろう。

私達は、企業家にしろ、政治家にしろ、トップの資質 (社長や首相だけを意味しない。いわゆるトップグループの人たちの資質) について、もう少し関心を持つ必要があるのではなかろうか。

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2005年8月27日 (土)

小林古径展~京都国立近代美術館

京都国立近代美術館で催されている小林古径展を鑑賞してきた。7月26日から開催されていたが、『髪』の展示が8月23日からということで、待つことにして、行ってきた。

以下、間違っているかもしれないが、素人的視野での感想を記しておく。

① まず『髪』(昭和6年)はさすがに大作で良い作品だと思う。ただ気になるのは、戦前の大正後期から昭和期の彼の作品の女性の目は全て似ているのである(『少女』『機織』『馬郎婦』『琴』など)。ところが、作品により、受ける感じが異なる。ある作品は何か疑視しているような感じも受け、ある作品は何かに集中しているように見える。どちらにせよ、時代背景がそうさせているのかもしれない。

② 『竹取物語』(大正6年)の受けた印象はどこか宗教的な感じだ。果たして、かぐや姫は異国の国に行ったのか、亡くなったのか。後者のイメージで捉えている。流風はずっと前者のイメージで捉えていたので、この年になって、そうだったのかと思い返した次第。もう一度、読み直さなければ(笑)。

③ 『清姫』(昭和5年)は場面ごとに描かれているようで、挿絵のような感じだ。そのため人物画として、清姫の表情を中心に描いていないため、そんなに思いつめたように感じ取れない。

④ それから『Cat』(昭和21年)は妙な猫であった。気品があるといえば、そうだが、実物の猫とはどこか違和感がある。日本的な感じがしないのである。

⑤ 戦後描かれた絵は全体的に立体感がなく、平面的である。奥行き・深さが感じられない。彼の絵は戦前で終わってしまったかもしれない。

絵全体の構成としてみると、古径の絵は日本画、中国水墨画、洋画などの手法がちゃんぽんになっている。古径がいろんなところから絵を学んだことがわかった。でも消化し切れていないようにも感じる。それがため、日本画の良さの継承が曖昧になっているのが、残念である。絵は上手かもしれないが、その中心になる哲学が弱かったのかもしれない。それは天心の罪なのか。

でも、やはり、『髪』 はよかったなぁ。

9月4日まで。

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2005年8月26日 (金)

クールビズのその後とウォームビズ

クールビスが予想外に定着しそうだ。日本の暑い夏に、無理をすることはないという意識が定着しつつあるのだろう。一度ネクタイをはずすことを経験すると、夏場にネクタイする人はいなくなるだろう。それほど楽なのだ。今までそういったことをしなかったことが不思議なほどだ。多くの人が常識に捉われていたのだろう。

さて、業界では、冬に向けて暖房温度を高めず、環境に配慮した「ウォームビズ」に期待が持たれているようだ。ただ流風が思うに、クールビズほどには盛り上がらないだろうが、可能性はないことない。クールビズの流れに乗って、シャツ等はお洒落なものが定着するかもしれない。ネクタイも体感温度を上げるので、問題はない。おしゃれなシャツに合わせたネクタイが売れるかもしれない。

それにもまして、業界で考えて頂きたいものは、スーツである。いつの頃からか、真っ黒なスーツが定着した。生地によってはあまり映えないと思うのだが、誰も彼もブラック・スーツ。どこか変。もっと明るい色で良いではないか。確かに海外では、茶色系統は遊び服とか言われるけれども、日本国内である限り、問題ないと思う。新しい流れを作ってもらいたいものだ。

クールビズが今後も定着し、ウォームビズも新しい機会として、男性ファッションが活性化され続けるだろう。そして、そういったファッションは高齢者にも支持されることになるだろう。業界の更なる努力を期待したい。

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2005年8月24日 (水)

読書の方法

最近若い人の話を聞いていると、「○○に書いてあったから」とか「△△で読んだから」といった言い方をする人が多い。確かに読書人口が減っている今日、読書をしていることは感心だが、何でもかんでも読めばいいというものでもない。読み方を誤れば、読まない人より危うい。

私達は、もう一度、読書や情報に接する態度を確認しないといけないのではなかろうか。流風は、基本的に読書に臨む姿勢は、孟子が指摘したこと以上に変化していない、と思う。

すなわち、

一、 自分の心を以って、作者の精神のあるところを迎え摂ること
    読む側に見識がなければ、本当の読書にはならない。

二、 書物にあることを全部信じないこと
    著者の見識が不明であれば、なおのことである。

三、 書物の作者の人柄や業績を知り、その時世を論ずること
    著者の背景や歴史的背景を十分知って、理解する必要がある。 

また読む著作物も十分に選択する必要がある。流風も若い頃、濫読で父に叱られたことがあるが、読む対象は十分精査する必要があるだろう。

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2005年8月21日 (日)

先人の教え

皆様は座右の銘はお持ちだろうか。流風ははっきりそうだというものはない。ただ肝に銘じている次の言葉がある。

いわゆる『六然』といわれるものである。これは明の時代に崔後渠(さいこうきょ)が作ったものとされる(陸湘客と言う人もいる)。東洋哲学者の安岡正篤氏が、いろんな著作で度々紹介している。また禅においてもお坊さんから紹介されることが多い。その内容は次の通り。

●自処超然 (自ら処するに超然)
人間というものは事に臨んで、自分の問題になると、捉われて心理が複雑になり、執着したり、拘泥したりする。しかし、それでは駄目で、事に臨んで、自分自身を取り扱うのに、自分に関する問題には捉われないようにすること。

例えば、自分が能力を発揮して成果を上げても、能力を発揮した自分に捉われないことが大切である。

●処人藹然 (人に処するに藹然(あいぜん))
人に処するには、常に好意を持ってなごやかに接すること。

その人に接すると、春の山の霞のかかったようなのんびりとした温かい気分・雰囲気になる。そのように心がけること。これは自分を活かし、人を活かし、結局全てを活かすことにつながる。

●有事斬然 (有事には斬然(ざんぜん))
何か問題があると、きっぱり決断して、処理すること。うろうろしたり、うじうじしないこと。

活気があって、活き活き、きびきびとしていること。言い換えれば、決断できるとは普段から準備できているということである。

●無事澄然 (無事には澄然(ちょうぜん))
何もない時は、氷のように澄み切ったように、心を平静に保ち、自分自身を深く見つめるように心がけること。

ダ・ビンチも次のように言っている。“偉大な才能は何もしていない時に最も仕事をしている”と。

●得意澹然 (得意のときに澹然(たんぜん))
得意の時はあっさりしているように心がけること。常に冷静沈着に自分は常に足りないと謙虚さを抱くこと。

誰でも得意の時はいい気になって増長してり、うぬぼれたりして、その結果、威張りちらしたり、驕ったりするが、そういうことのないように心がけること。

●失意泰然 ( 失意のときに泰然(たいぜん))
失意の時は、ばたばたせずにゆったりと落ち着いておること。

失意の時は、いつまでも続かない。ばたばたせずに、心を鎮めて次の機会を待つこと。

以上、当たり前といえば、当たり前だが、なかなかこれらのことをなすことは口で言うほど簡単ではない。凡夫の流風には至難の業だ。だが、これらの言葉を体得すれば、人生は多少楽になるだろう。『六然』は30代になって初めて知ったのだが、もう少し早く知っておけばよかった思う。そういう意味を込めて紹介した次第である。

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2005年8月18日 (木)

長期予測の闇

世の中、不可思議なものがいろいろある。最近気になっているのが、官庁などが出す長期予測である。長期予測の典型的なものが、国立社会保障・人口問題研究所が出す人口予測である。確かに人口というものは予測しやすい部類に入ると考えるかもしれない。しかし、長期予測が当たった例がない。もし当たっていれば、今ほど年金問題で悩む必要もなかっただろう。

長期予測と言うのは仮定がいっぱいである。社会状況などは現在の延長線上で考えられることが多い。現在では数年先でも不透明なのに、官庁は30年先の長期予測をしたりする。これは机上のお遊びに過ぎない。

さらに、問題なのは、この仮定の上の長期予測に基づいて、政策提言することである。その政策が予測と一致している場合は良いが、予測とずれるとその政策の実効性に問題が出てくる。政策変更は日本の場合、なかなか難しいところがあり、ずるずるやり続けて、無駄なお金を使うことになる。

またその長期予測に基づき、別の予測をする他の官庁・機関があるから、余計におかしくなる。そして、それに基づき政策提言するのだから、ますますおかしい政策がなされることになる。裏読みすれば、その予測の目的は予算取りのためと勘ぐられてもおかしくないと思う。

国家が将来に対して、夢や目的を掲げるのはよいが、長期予測などは止めにしてもらいたいものである。企業でも長期予測は止めているところが多く、中期計画のための予測で止めているところが多い。現在は経済・社会環境が変化しやすく、長期的な予測に対して意味を感じていないからだ。いかに主体性を持ちつつ、機敏に変化対応するかが問われているからだ。

官庁に求められるのは、国家の将来の目的を考えつつ、現在を深く把握することである。目標達成のための戦略には配慮しても、長期予測に時間や労力をかけてはいけないし、その予測の結果に期待してもいけない。構造改革は意識改革ということである。国の仕組みも変化に機敏に対応できる柔軟性が求められている。そのためには、官僚の意識改革が求められる。

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2005年8月17日 (水)

漢字の行方

欧米人にとって、日本語は難しい言語だそうである。日本語は、漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字が使用されるため、日本人はよくこんなに覚えられるものだと感心される。日本語を覚える日本人は皆、天才ではないかと!!

その中で、漢字が特に大変なようである。私達は生まれた時から使っているから、別に感じないが、彼等の思考回路とは異なる文字のようである (日本人も他の国の言語に関しては、よくわからないから、その点はどこも同じとも考えられるが)。

漢字は中国で発明され、ひらがな・カタカナは日本で発明され、ローマ字は輸入された。その中で、今回は漢字について、若干触れたいと思う。

漢字文化の国としては、日本、中国、朝鮮半島、ベトナムが挙げられるが、現在、漢字文化は衰退しているように感じる。

中国は簡体字になって、漢字そのものの意味が失われつつあるし、朝鮮半島は中国の文化侵略に抵抗するため開発されたハングルが主体で、漢字は利用されなくなりつつある。

ベトナムのことはよくわからないが、やはり同じ傾向があるとのことである。日本は戦前と比べれば、漢字は簡略文字になってはいるが、漢字の持つ意味が100%失われているわけではない。これらの国の中では、最も本来の漢字に近いものが多く使われている国ではなかろうか。

今後は中国の動向がわからないが、日本は今後も漢字を含めた日本語が残っていくと思う。日本は中国が発明し、捨てたものも残していく文化がある。時代が変わっても、日本は世界の文化の“図書館”であり続けるのかもしれない。

戦後、漢字は表面的な記号の役割に重点が置かれたように思う。私達は再度、漢字に込められた意味や文化を再認識すべきではなかろうか。そして、次の時代にいかに伝えていくかが問われている。

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2005年8月15日 (月)

占いが示すもの

流風は占いは信じない方だが、新聞・雑誌類に掲載されている占いコーナーには時々目が行きがちである。結局、毎回あまり変わり映えしない内容に幻滅するのだが。

さて5~6年前から、商業施設に「占いコーナー」が設置されているところが多い。占い師はそれなりの服装をして待機している。時々観察していると、昼間は客は少なそうだが、夕方以降はそれなりに客があるようである。客のほとんどが女性だ。

彼女等はなぜ占いで見てもらおうとするのだろうか。将来に対する不安だろうか。彼女たちは迷いが多いのだろうか。また、それで成果はあるのだろうか。

流風は、それは結局、人生相談と同じではないのか、と思う。占い師は相手の態度や話し振りから、何で悩んでいるかを察知し、占いの道具を一応通じて、それなりの回答をする。すなわち相談者は、占いに来た時点で、自分なりの答えを持っているはずだ。それを肯定した上で、占い師は自分の人生観を語っているのだと思う。

これと同じことが経営者たちに当てはまる。彼等は相談相手がなく、孤独だから、占いを見てもらうことがあると言う。流風も時々経営者の方たちから相談を持ちかけられるが、彼等はすでに答えを持っている場合が多い。相談するのは、誰かに背中を押してもらいたいのだ。

これらのことは、自分で決断することで、いかに迷っている人が多いかを物語っている。自分のことは自分で決めると言っても、なかなか難しいのが、人生だ。

流風も占い師ならできそうだ。始めようか。1時間2000円。嘘!

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2005年8月14日 (日)

指導者の条件

“三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい” 

こう言った人物は桐野利秋である(注 参考参照)。示現流を立木の中で独習して、非常に強かったそうだ。後にあの西郷隆盛の知遇を得て、倒幕活動に身を挺した人物である。彼としては薩摩藩のために動いただけであろうが、暗殺者のイメージから、別名人斬り半次郎とも言われている。

この発言は明治になって、陸軍少将になってからのものである。邪魔なものは全て殺してしまえという考え方である。すなわち、これは政敵を倒すことのみ考えて、後に西南戦争を引き起こす“予言”でもある。

もちろん、原因はある。明治になり失業した薩摩藩の武家は悲惨な状況にあった。“情”の桐野にとって、見るに見かねない状況であったことは間違いない。大久保利通のように海外留学の経験で得た情報から、日本の置かれた厳しい状況を理解し、国の改革を急いだ“理”の視点はない。

西郷隆盛は留学経験はないこともあり、大久保のような識見は残念ながら持たなかった。自らの主張の征韓論は受け入れられなかったため、国を辞した。ただ“情理”のわかる西郷隆盛は両者の考え方はある程度理解していたと思う (国の混乱を収めるため、敢えて止む無く薩摩軍の首領になったではないか。ある意味、日本のために捨石になったのは残念なことである)。

そういった状況下、西郷隆盛の片腕となった桐野利秋の考え方が結果的に悲劇を呼ぶ。いわゆる明治10年の西南戦争である。いかに薩摩軍が強くとも、近代兵器を持った官軍には勝てない。9月24日に鹿児島で戦死している。

さて、禅の考え方に『殺人刀・活人剣(せつにんとう・かつにんけん)』という考え方がある。人を精神的に殺し、また活かす考えである。一切の現状を否定し、一切の現状を肯定し、それを繰り返すことで、自由自在な心の状況に持っていく。よく言われるように捉われる心をなくすのである。

桐野利秋のように自らの主張だけが正しいとして、敵を潰す発想だけでは国をまとめることはできない。相国寺の独園和尚は次のように、彼に忠告している。

“三千世界の鴉と共に、主と朝寝がしてみたい” と。

*参考

なお、“三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい”については、高杉晋作の都都逸だという説もある。

参考文献: 武田鏡村著 『名禅百話』 PHP文庫

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2005年8月 6日 (土)

語学教育のこれから

日本は英語教育に失敗しているとよく言われる。確かに学生時代十数年学習して英語が話せない人々は多い。流風もその1人だろう。戦後の日本の英語教育が読み書き中心であったことは否めない。だから話す方がご無沙汰になったのかもしれない (逆に海外は話すことはできるが、読み書きできない人々も多いと聞く)。

しかしながら、戦後の英語教育が失敗しているかどうかは、判断が難しい。英語教育を大切だと思った戦後の教育者たちは、まず外書の講読で情報を得るには英語が重要と判断したのかもしれない。そういう意味では目的は達成したと言えるだろう。

ただ時代が変わったことを考えれば、英語教育は見直されなくてはならないかもしれない。当時の初期の英語教育の目的は果たされた。市中に英語の教材はあふれている。さらに最近、文書は完全とは言わないが翻訳ソフトが充実してきたし、会話は携帯音声翻訳ソフトが段階的に普及しつつあるからだ。

その結果、流風はもう英語教育は学校教育では不必要なのではと、思っている。語学の学習機会は飛躍的に増加しており、学校教育での英語教育は役割を終えたと思うのだ。基本的なことだけ教えて、高校受験でも、大学受験でも英語は基本的に科目からはずすべきだろう。

最近、文部省に小学校に英語教育をするべきだと進言した大学教授がいるそうであるが、現在の環境を無視した提言と思う。そもそも小学校では日本語を正確に読み書きし話すことができるようにすることが求められる。集中して教える重要な期間でもある。そこに外国語が入ってくれば、文化が混乱すると言ってよい。そうでなくても、テレビやネットで文化が混乱しているのに、それにさらに火に油を注ぐことになってしまう。

日本語は日本の文化であり、それを小学校で徹底して教えることが、彼等の未来を明るくする。それは国際化社会になればなるほど、その重要性は増すことをこの大学教授はなぜわからないのか。

ただ、今後の語学教育対応としては、子供たちに音感教育の充実が求められる。それは微妙な音を聞き分ける能力が、将来、海外のいろんな言葉の習得に役立つからだ。それは本来小学校に上がる前からが望ましいが、小学校教育でも有効だろう。

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2005年8月 2日 (火)

金銭教育について

最近、子供への金銭教育が声高に叫ばれている。しかし、流風はその内容に若干疑問を抱いている。金銭以前の教育が十分でないからだ。金銭は手段であって、目的ではない。人間として、どう生きるかということを、家庭教育、初等教育でまず教えなくてはならない。その上で、金銭に対して、どのように接していくかを教えるべきなのだ。

更に、あまりにも現在は金銭でいかに運用で失敗しないかということを重視しすぎる (それは、従来運用をあまり考えてこなかった親の世代や高齢者にむしろ求められることなのである)。たしかに無視はできないが、若い時は汗水たらして働いて稼ぐ方が効率がよいのは言うまでもない。そのお金をどうするかを教えるのはよいが、働いたこともない人間に金銭運用教育というのは行き過ぎていると思う。

以上をまとめると、子供に必要なのは、人間としてどう生きるかを考えることを前提に、金銭に対する考え方・見識が求められる。運用に関しては自分で学び取るしかない。運用は自分で情報収集して理解して、実行して、成功したり失敗したりして覚えるしかない。基本的には、理解できないものには投資しないということだけを教えればよい。

皆様は金銭教育をどのように考えられていますか。それを学校で教えるのが適切と思われますか。家庭では教えられないのでしょうか。

ちなみに、流風が親から受けた金銭に関する考え方は次の通り。

① 収入内で生活すること
② 貯金をすること
③ 借金をしないこと
④ 金銭の貸し借りはしないこと
⑤ 親兄弟でも保証人にならないこと
⑥ あぶく銭を儲けても身につかないこと

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