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2005年9月11日 (日)

誤訳によって築かれた文化

流風が翻訳書籍を読むとしても、経営関係が多いので、あまり文芸作品の翻訳モノを読む機会はない。読書傾向の偏りを修正しようと思うので、いずれ文芸作品にも挑戦したいと思っている。

ところで、経営書と言えば、米国あたりのものが多いのだが、時々変な翻訳に出くわす。前後関係がどうも合わないし、意味も不明。英語力からして滅多にしないが、原書にあたると全くそんなことが書いていない場合もある。

いわゆる、翻訳者の意思による意訳の場合である。もちろん、それが適切な場合もあるだろうし、頓珍漢でそうでない場合もあるだろう。そのように考えると、翻訳書は著者の本当の意向が正確に伝えられているか疑問であるかもしれない。

根本的なことを言えば、英語を日本語に翻訳することが既に問題なのかもしれない。例えば、よく指摘されるように、フリーダム(freedom)とかリバティ(liberty)は日本語では、「自由」と翻訳されているが、その意味は根本的に異なる。

「フリーダム」とか「リバティ」とかは、束縛・拘束されていることから解放されることを意味する。それに比して「自由」は出典は漢語から出ており、「みずから、おのずから」出てくるものである。すなわち、本来、束縛・拘束もなく、抑圧・牽制もない。

もう一つ、例を挙げれば、ネイチャー(nature)という言葉がある。これは日本語では「自然」と翻訳されているが、「ネイチャー」の意味は人間に対する客観的存在で、人間と相対的存在である。それに対して、「自然」は人間は自然と一体であり、根本的に意味が異なる。

以上のように見ていくと、外国語がまったく違う意味の日本語に翻訳されていることになる。明治時代に誰かがこのように翻訳し、それが綿々と続いている。私達は何も考えることなく、イメージで使っているが、その本来の意味を知らないで、果たして真の国際交流ができるか疑問である。日本にはカタカナがある。翻訳せずに、フリーダム、リバティとかネイチャーでよいのではないかと思う。

このようなことは、別に英語に限らず全ての言語に言える。最近読んだ本では、『老子(全)』(地湧社刊)がある。日本生まれの華僑の王明氏による翻訳であるが、従来日本で漢文として解釈されていた意味内容と全く異なる部分が多くある。

王明氏によると、学者によって誤訳が延々と日本では続けられていたと指摘する。確かに『老子の講義』(諸橋轍次著、大修館書店刊)と読み比べてみると、ところどころに意味が異なる。それは無理な解釈が含まれているように思う。

それに比べて、王明氏の翻訳は、さらりと読めて、無理がない。もちろん、王明氏も時々意訳が含まれているので、それには注意がする必要があるが、原文が書かれているので、それと照らし合わせれば、問題は少ないだろう。

私達は、結果的な日本文化の良し悪しは別にして、海外文化の間違った翻訳理解で、歴史的に文化を形成してきたのかもしれない。誤訳によって日本文化が形成がされていたとしたら、逆に正確な翻訳がされていたら、どのような日本文化が形成されていたのかも興味深い。

翻訳は文化に対する影響力が大きい。翻訳者に求められることは、外国語の表面的な解釈だけではなくて、文化も含めて、言葉の持つ意味を深く理解していないと、翻訳は無理だということだ。そして、場合によっては翻訳せずに、カタカナ表示で、注意書きに留める姿勢が求められるのではなかろうか。翻訳者の今一度の頑張りと、学者の方々には、革新的な古典の翻訳の見直しに期待したい。

*平成19年11月18日追記

拙ブログで、具体的な例を取り上げました。

「智と『老子』第65章の誤解釈」(2007.11.18付)

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