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2005年10月31日 (月)

庭の手入れ

流風はマンション住まいなので、庭はない。ベランダでガーデニングしている人も多いようだが、すぐ枯らしてしまうので、やっていない。実家には狭い庭だが、少し高い木があるので、毎年、この時期には俄か庭師になる。とても本物の庭師というわけには行かないが。

先週も枝が伸び放題になっているのを連絡してきたので、剪定してきた。ぐうたら流風には、剪定作業はそれほど好きな作業ではないが、最近は慣れてきたのか、それほど苦痛ではなくなった。結構楽しみながらできるようになった。

今回は雨上がりで曇っていたので作業は非常にやりやすかった。以前カンカン照りの時にやったら、汗がものすごく出て大変なことがあって、庭師の方は大変だなと思ったことがある。

剪定の基本は風通しをよくすることと全体の見栄えだ。そしてその作業には道具が適切に揃っているかに尽きると思う。また段取りよく作業をするのは普通の仕事と同じである。仕事としては大変かもしれないが、仕事でなければ、健康的でいいのかなとも思う。

一応、自己満足ながら、終了。見栄えもまずまず。これで木が枯れることもないだろう。

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2005年10月27日 (木)

ごはん派

政治の世界では、派閥は解消されたといっているが本当でしょうかね。ところで、流風は御飯が大好き。子供の頃から主食は御飯だからかな。よって「ごはん派」。

農林水産省によると、平成15年の国民一人当たりの米の年間消費量は年々減り続けて62キログラムだそうである。皆さん、生活の洋風化で、パンとか麺類が多いのかな。でも洋食でもごはんは出るし。食の洋風化もあるかもしれないが、どうも一回に食べる量が減っていると思う。高齢者も増えているしね。

流風なんぞは、パンでは力が出ない。別に力仕事をしている訳ではないが、朝などがパンだと昼までもたない。朝はごはんに限る。健康のために「パン派」の人も多いと聞くが、本当にパンが健康にいいんでしょうかね。

それにお米は何といっても「野菜」だ。ヘルシーなことにかわりはない。確かに、ごはんだけを大量に摂り過ぎると健康にはよくないが、それはごはんだけに限らない。何でも偏食はよくない。ごはんは割とどのようなおかずとも合うし、そのためいろんな献立が可能だと思う。そのおかずに油分の少ないものにすれば、健康には大変よい食事ができる。そんなことを誤解している人たちがいると思う。

さらに子供の頃、よく噛んで食べるようにと言われたように、ごはんは、よく噛む必要があり、よく噛めば賢くなると言われた。子供達を賢くしたかったら、ごはんだと思うけど。その割りに流風はイマイチだが。薮蛇。

もう少し、ごはんを見直ししたいものです。それにしても、地元の米に地元の水が最高ですな。本日もお百姓さんありがとう。美味しく頂きます。一粒も残さないよ。

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2005年10月26日 (水)

オタクって

最近、よくオタク、オタクって言うから仕方なく調べてみた。若い人には常識であっても、中年のおっさんには、わかりにくい。ちょうどよいタイミングで、野村総合研究所からレポートが出されていた。

それによると、オタクの定義は「強くこだわりをもっている分野に趣味や余暇として使える金銭または時間のほとんどを費やし(消費特性)、かつ特有の心理特性を有する生活者」とある。

なんだ、マニアのことか。お宅にこもって、個人で特別の趣味に興じることではないか。そんなものは昔からいる。どうも、それに若い人の好むコミック、アニメーション、ゲーム、趣味的AV・IT、芸能人関係が加わって、市場が拡大して注目を浴びているようである。国内主要12分野で、オタク人口は約172万人で、市場規模は4110億円だそうだ。

要するに何かを切り口として、集めるのが好きならオタクではないか。そういうことなら、流風も主要分類には入らないが、一応オタクと言えるのではないか。古くは子供の頃、切手に始まり、石の破片類をよく集めたものだが、すぐ飽きるところがオタクとして認められないかな。しかし現在でも、ビジネスには全く関係のない資料を集めたりしているのは、オタクと言えるかもしれない。

またオタクの分類にも、いろいろあるようで、家庭持ち仮面オタク、我が道を行くレガシーオタク、情報高感度マルチオタク、社交派強がりオタク、同人女子系オタクなどが紹介されている(詳しいことは野村総合研究所のホームページで公開されている)。流風などはレガシーオタクなのだろう。レガシーオタクとは「独自の価値観を堅持し、情報収集および批評活動を主にインターネット上でアクティブに行う人」らしい。ブログをやっている人は多かれ少なかれそうだと思うが。

ただ少し気になるのは、内にこもることが当たり前になっている現象である。そこには何か危ないものを感じる。基本的に外部とのコミュニケーションとバランスが取れていれば、問題はないが、もしオタクだけとすれば寂しい。

だが、それさえも、考え方によってはビジネスになるかもしれない。実際それはすでに展開されているようだ。オタク・マニアの集うところ、そこにビジネスメリットを感じている業者も多いようだ。世の中、考え方によって、何でもビジネスにできる。目端の利く人はうらやましい。

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2005年10月25日 (火)

米国の内政干渉

今週の『週刊東洋経済』に気になる記事が出ていた。それは「ミスターWhoの少数異見(パンタレイ)」である。よって書き手は不明である。私が関心を持った論点は次の通りである。

郵政民営化の実現は米国の要求によってなしえたもので、首相の信念で実現したものではない。つまり米国は毎年、日本に対して『日本国政府への米国政府の年次改革要望書』を突きつけている。郵政民営化の実現は、それに対応した政府の結果だ。それは日本に対する内政干渉ではないか。しかしながら、靖国問題で中韓の内政干渉には激しく抵抗するのに、米国に対しては、甘く、政府とマスコミはグルになって取り上げないのはおかしいではないか、というものである。

流風は、ミスターWhoの意見に100%は同調できないが、そのように考えれば、米国の要求は内政干渉であることは間違いないだろう。ただ言葉は難しい。実際の原文がどのようになっているのか、確認する必要はある。「要望」が実際は「要求」なのか。単なる好意的なプレゼンテーションと捉えれば、内政干渉ではないかもしれない。しかし、今までの米国の動きからすれば、米国の国益を考えての「要望」で、それはいづれ「要求」に変わる。

しかしながら、日本は経済的には、米国依存関係は依然として強いし、中国との貿易でも、それは間接的な米国との貿易でもあり、総合的に米国との関係は、中韓とは比べ物にならない。政治的には日米同盟であり、現在の国の規模からすれば、以前のような政経分離は考えにくい。

そのような状況下、米国の要望が果たして、内政干渉といえるかどうか。米国を重要なクライアントと見れば、その要望にいかに対応するかが日本に問われているのだろう。いわゆる『顧客満足』が問われているのである。そのためには、一般国民も政府任せにせず、米国の要望がどのようなものか、正確に知っておく必要がある。

ただ『日本国政府への米国政府の年次改革要望書』に対しては、もちろん日本の国益を踏まえて考えなければならない。そして、その情報が一般国民に対してオープンになっていないようであるなら、政府もマスコミもその実態を正確に国民に知らせる義務はあると思う。政府は国民にも知恵を求めるべきだろう。

日本は米国と関わりが深いのに、米国の直接情報が不足して、一般の日本人は米国が何を考え、何を望んでいるのか、正確に把握していないように思う。私達一般人においても、米国の要望を正確に理解しておれば、今後の臨み方が見えてくるのではないか、そのように思った次第である。

私も、もう一度『日本国政府への米国政府の年次改革要望書』を確認してみよう。(関心のある方は、在日米国大使館のホームページの経済欄の規制緩和の項にある『日米規制改革およびイニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書』を読めばわかる)。

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2005年10月23日 (日)

火星大接近と気分転換

火星が地球に2年2ヶ月ぶりに大接近するらしい。それが10月30日。とは言っても、地球との距離、7,733万キロメートル。おひつじ座の中に見られるとのこと。宵の内に東の空でも見てみるか。

別に天文ファンでもないので、それより詳しいことは書けない。ネットで「火星大接近」と検索すれば詳しい情報は得られる。フムフム、なるほど。ス・キ・チ・カ・モ・ド・テン・カイ・メイ。小学生の気分。口径8センチ以上の望遠鏡で模様を楽しめるらしい。

それは、さて置き、流風は気分転換に時々クラシックを聞く。でもクラシックにはそれほど詳しくない。知っている曲は限られている。ただ曲によっては不思議な力を持っていると感じている。若い時は人に会うとき、ベートーベンなどを気分を高揚させるため、聞いたものだが、ベートーベンの曲は赤ちゃんがすぐに泣き出すということを聞いて、これは身体にあまりよい影響はないのかな、と思って、現在はあまり聞かない。

ここまで書けばおわかりでしょうが、自らを鼓舞する時は、ホルストの「The PLANETS(惑星)」を聞いている。平原綾香の「JUPITER(木星)」で有名になったが、「MARS(火星)」も元気の出る曲だ。ただ「戦争の神」を意味するというのが少し気になるが(ちなみにジュピターは「快楽の神」を意味するそうだ)。

皆は自分を鼓舞するために、何を聞いているのだろう。また何をしているんだろう。

望遠鏡は持っていないけど、10月30日には空を見上げてみるか。

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2005年10月22日 (土)

人のイメージ

ある研究者によると、人のイメージは四つに分類されるそうである。それは、外国人(西欧人)の場合、イメージしやすい。そのイメージとは、次の通り。

 ⅰ ウォームでソフト
 ⅱ ウォームでハード
 ⅲ クールでハード
 ⅳ クールでソフト

まず、ⅰのウォームでソフトに分類される西欧人とはイタリア人。次にⅱのウォームでハードに分類されるのはドイツ人。その次の ⅲのクールでハードはイギリス人、その次のⅳの クールでソフトはフランス人だということだ。何となくわかるような気がする。

さて、日本人にどれが当てはまるのかというとなかなか難しい。日本は北海道から沖縄まで縦長(正確には斜め長?)なので、四季はあれども、その移り変わりは微妙に異なる。どちらかというと海に囲まれているので、海洋性民族のイメージがあると言えるのかもしれない。でも単純には言い切れない。

その研究者によると、ⅰは比較的海に面して開放的な神戸、大分、宮崎、松山などを指すという。ⅱは大阪、東北、裏日本など、ⅲは東京、ⅳは京都や京都の流れを汲む金沢などを指すらしい。なるほど。

流風はどれかと考えてみたが、うーん、どれも当てはまらない。ある時はイタリア人的、ある時はドイツ人的、ある時はイギリス人的、ある時はフランス人的。他人のことは比較的わかっても、いざ自己分析となれば、頼りないものです。

さて、今日はイギリス人で行こう。

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2005年10月21日 (金)

英才教育の有効性

現在の日本の職業人はサラリーマンが8割を占めているらしい。そのため、戦前や江戸時代のように職住一致の形態は非常に少なくなっている。すなわち職住分離している。子供は親がどんな仕事をしているか、全く知らないことが多いだろう。それが教育に大きく影を落としている。

ただし職住一致は階級社会の名残ともいえなくもない。江戸時代のように士農工商という階級社会では、なれる仕事に制限があった。それは必然的に専門家を育ててきた。それが職人意識を醸成し、プロ意識を養ってきた。そのことは人間教育にもつながっている。

維新後、明治時代もその流れを引き継いできた。その後、産業革命と共に、少しずつ変化はしていたが、儒教思想がその流れを止めていた。

戦後、日本は廃墟から復興するため、職人教育する時間が取れなかったので、必然的に人間教育をおろそかにして、効率で大量の人材を計ってきた。人々はそれに疑問を持ちながらも、戦前の教育を受けた人々がいる間は、問題は表面化しなかった。

それから少し人々が若干気持ちに落ちつきが取り戻せた時に、人々は新しい不安を感じ始めた。当時は女性の社会進出は現在のようではなかったから、彼女等は手に職のない不安をまざまざと感じていた。

自分の子供達(特に女の子については)には早くから手に職をつけさせたいという気持ちがあってもおかしくない。ちょうどその時に、母親達に注目されたのは英才教育ということであった。

それは本や新聞などの紹介で有名になった“鈴木メソッド”というものであった。音楽教育者の鈴木鎮一氏が若い頃のヨーロッパ留学の経験を活かして、禅知識と共に編み出した才能教育手法と言われる。その特徴は次の通りである。

ⅰ 子供の教育は早い方が有効性が高まる。
    できれば胎児の時からその環境を整える必要がある。
ⅱ 子供の能力に差はない。
    すなわち生まれながらの天才はいない。天才は作られる。
    ただ早くから始めないと、余分な癖がついてしまうと、修正に時間がかかる。 
ⅲ 全てはひたむきな努力で報われる。やればできる。
    ただし、希望を持たせることは必要だ。
ⅳ 記憶能力の訓練が才能を育てる基礎である。
    子供には早くから詩や俳句などを繰り返して覚えさす。
ⅴ 遊び心を取り入れ、関心を持たせる。
    子供の目線で考える。

このように見ていくと、鈴木氏の教育の特徴は職人教育に似ている。特に彼は留学時代にユダヤの人々にお世話になって、彼等の教育方法に強く影響を受けているものと考えられる。

ユダヤの人々は階級社会の西欧で差別的に扱われ、その仕事も限定され、そのため自ら仕事を創造する必要があった。限られた仕事の中で確固としたものを作り上げるには、飛びぬけた能力を発揮する必要があった。そのため彼等は早くから教育を重視している。

そういった知識に加えて、禅の知識を絡めて鈴木氏独自の教育法を編み出したようである。ただ、この教育の持つ問題点は、子供の人生を親が決めてしまうことであろう。子供の多くの可能性を早くから一つの型に嵌めて、限定してしまうのは、全ての子供達に適用できるものではない。

しかしながら、最近のサラリーマンの職人意識の低さ(一部の人だけかもしれないが)は、改めて鈴木氏の英才教育があらゆる分野で再評価されてもいいと思う。教育の分野でも集中と分散は時代に応じて求められるということだろう。

参考文献:鈴木鎮一著『愛に生きる(才能は生まれつきではない)』講談社現代新書

 

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2005年10月20日 (木)

外見という錯覚

流風はいい年しているのに、美人を見ると目が泳いだりしている。男は異性に興味がなくなると終わりとも言われるから、まあ、いいかと言い訳。でも若い頃、美人は賢いと思ったのは大きな錯覚であった。ところで、若い女性なんかに聞くと、好きなタイプはなんて尋ねると、外見にはこだわりませんと言う。嘘をつけ!と大きな声で言いたい。

人間、外見で判断してしまうのは、自然な性だと思う。子供の頃、身だしなみをきちんとするようにうるさく言われたが、やはり外見は大切である。容姿とかは確かにどうすることも出来ないかもしれないが、その人の持っている雰囲気は作ることができる。それは姿勢、表情、言葉遣い、態度であるかもしれない。

しかしながら、私達はその外見という判断で、たびだび誤った判断をする。そして、それを逆手に試す人々に度々打ち負かされる。例えば、一休和尚の逸話で、彼が破れた衣を着て托鉢していた時の話。歩いていると、金持ちが先祖の法事を盛大に行っているところに出会った。そこで、その門に立って食(ジキ)を乞うた。ところが相手は乞食坊主を、いやしんで、一紙半銭を与えて追い返した。

その後、また同じ家が法事を営んだ時、立派な衣を着て出かけ、名乗ると、いんぎんに上座に通された。立派なご馳走まで出た。彼は衣を脱いで、膳部の横において、結局膳部には一箸もつけずに帰った、という話。

もう一つの例は、古い話なので若干記憶違いがあるかもしれないが、米国のある大手の会社の会長の話。会長夫婦は金持ちであるにもかかわらず、質素な生活であった。いつもより立派な身なりで、某大手百貨店に買い物に出かけた。そうすると、店員は争うように声をかけて売り込みに来た。しかし、その時には何も買わなかった。

そして、それから、かなりの時間を経て、今度はいつもの質素な装いで、夫婦で、その百貨店に出かけた。そうすると、そのみすぼらしい夫婦に誰も声をかける店員はいなかった。ただ、ひとりだけ若い男性の店員だけが声をかけて、丁寧に商品説明してくれた。その時は買わなかったのだが、その後も、いつも態度は変わらなかった。そして、ある日、かなりの額の商品を、その男性店員指名で購入する。

このことは流風も実際同じことを試してみた。そうすると同じようなことになった。私達はいかに外見で判断し、判断されているかがわかる。そうしてはいけないとわかっていても、そのようにしてしまうのだろう。人間の修業が足りない。そうかもしれない。誰に対しても同じ態度で接するとき、人格が完成するというのは少し大袈裟だろうか。

*追記

先日、新調した服装でウインドーショッピングに行くと、ある売り場では、かなり高い商品を強く勧められた。店員は、非常に熱心だったが、こちらは持ち合わせもないし、買う気もない。適当に相手にしていたが、強引な販売に、辟易とし、若干不愉快な思いもした。外見で判断されると、当方も迷惑。こうなると、服の新調して売り場にも、うろうろできないということになる。

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2005年10月19日 (水)

髪の毛と環境

あの、あゆが髪を黒く染めたそうな。別にファンじゃないけど、フーンて感じ。茶髪はすでに流行から外れているし、今更ね。

一時、どいつもこいつも茶髪の時があった。全く不思議なくらい。日本人で茶髪が似合う人は少ないけどね。あの毛染剤は発癌物質が含まれていると言われていたが、皆はそれほど関心はなかったようだ。それほどに、おしゃれは優先するということだろうか。

ところで、茶髪には無縁の流風も、先日の報道には少し驚いた。実は流風の髪の毛も年相応に薄くなりつつある。禿げてはいないが、髪の毛が軽くなっているような気がする。抜け毛も若干多いような気がする。若い時と違って、シャンプー・リンスは毎日欠かさないが、それが問題かもしれないな、と思っていた矢先の報道だった。

それはリンスや洗濯の柔軟仕上げ剤の成分で毒性が比較的高い陽イオン界面活性剤が貝の内臓において海水の1万倍まで濃縮しているとのこと。すなわち生分解性の高いものでないため、自然界に影響を与えているのだ。そして私たちがその貝を食すれば危険なことになる。

自然界は循環している。私達も使っているモノに気をつけないと危ないことになる。手遅れかもしれないが、今からでも何か手を打たないと思った次第。

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2005年10月16日 (日)

マスカレード族とM&A

ライブドアのニッポン放送買収劇から始まったM&A騒動はその後、様々な企業やファンドが参加して、マスコミを賑わせている。おおよそ米国では収まっているように見えるM&Aがなぜ日本でもてはやされているのか、例により一般人の感覚で少し考えてみた。

第一に、日本にかつては考えられないような企業行動をする人々が出てきたことである。

その行動は、ある意味ビジネスにドライだし、資本の論理優先に何も疑問を感じない人々である。こういった人々を仮に“マスカレード族”と名付けよう。

その意味は「日本人の仮面を被った国籍不明(実際は一応日本国籍)の人々」という意味である。これらの人々は買収劇で有名になった人々だけでなく、多くのIT企業の経営者をも指している。しかし、流風は単に彼等を全て批判的に見ているわけではないことを断っておく。

第二に、一部の企業が日本資本主義の曲がり角を露呈させていることである。

現在M&Aの対象になっているのは、どちらかと言うと、国に守られてきた企業が多いと言うことである。それは、マスコミだったり、電鉄会社だったりする。従来の観念からすると、彼等の経営が問題なわけではない。

ただ当事者の経営者は意識していないかもしれないが、殿様経営であったことは否めない。彼等の経営は甘く、海外の投資家からすると、隙だらけのようだ。そこをマスカレード族に攻めさせている。

第三に、投資の対象になりやすい日本の企業は第三次産業だということである。

日本の第三次産業は一般的に生産性が低く、世界でも評価が低いと言うことである。日本の製造業と比べて、改善の余地はたくさんある。第二次産業レベルまで高めるには、マスカレード族の手を借りるのも一概に悪いとは言えない。

ただ、将来、日本企業ではなくなる可能性があることを日本として、あるいは日本人として許せるかどうかである。

第四に、多くのマスカレード族は、海外のヘッジファンド等金融会社などから、金の集め方を指南され、使い方まで指南されているように見えることである。

世界に金が余っていることもあり、更にオイルマネーのかなりな額がヘッジファンドとして流入しているように思う。その誘いに、マスカレード族は利用されているのではないか。

これらの知恵は、マスカレード族の知恵とは思えない。ルールの穴を探して、そこを徹底的に突くのは、違和感を感じる。確かに同様なことは、日本でも、税理士が顧問先に節税策としていろんな手口を教えている。

ただ、マスカレード族への知恵はその程度ではない。そこには、日本人としての、人間としての教養とかは全く感じられない。残念ながら、マスカレード族はお金のスペシャリストに資本第一主義を洗脳されて、日本人でなくなってしまったと言ってよい。ここでも流風はそれが全て悪いとは思わない。改革には、異端者が必要だ。

しかし、その結果、マスカレード族は、海外のヘッジファンド等金融会社の繰り人形になりつつあるように感じる。

なぜかと言えば、彼等の投資行動が、必ずしも事業目的に沿ったものではなく、お金を集められるから、投資しているように見えるからだ。投資の理由は後付けのように感じる。自分の頭で考え、自ら行動しなければ、いずれ彼等も資本の論理で切り捨てられるだろう。

これらは何かに似ていないだろうか。そう、バブルの頃に似ている。銀行は無理やり事業会社に金を融資し、お金の使い方まで指南した。その後は、私たちが見てきたあのバブル崩壊である。

第五に、来年4月から施行される「新会社法」である。現在の動きはその前触れとも言える。日本への投資・買収がしやすくなるのである。この部分は施行が遅れるようだが、圧力をかけてくるだろう。

すなわち、いずれ外国企業による日本上場企業の買収が横行するだろうということである。

予想される買収の段取りとしては、日本の子会社を設立し、その子会社が上場している日本の企業を吸収合併する。

そして株主には対価として、外国の親会社の株式を交付する。この結果、一応日本人が被っていた仮面が、いつのまにか外人が被っている可能性が高い。

以上のような状況下、私達一般人はどのように対応したらいいのだろうか。それには、時代の流れをしっかり認識して、流されないようにしなければならない。

今後はこれらの動きは、単に一部の企業だけの問題ではなく、自らに近づく危機として受け止めて、より堅実な生活態度が求められるような気がする。

*追記

なお、「マスカレード」企業群は、ヘッジファンドが目的を達成されたと思われた時点で、多分、跡形もなく、整理されそうな気がする。最初から、それを仕組んでいるように感じる。それらの経営者が感じているかどうかは不明だが。彼らと付き合うには、相当の覚悟が必要なようである。

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2005年10月15日 (土)

ハテナ~落語『茶金』と微生物の名

有名な落語に『茶金』がある。大抵の方が知っておられる品の良い作品である。念のために軽く触れておくと、次のようなお話である。

京の綾小路に、茶屋金兵衛という道具の鑑定には目の利いた骨董屋があった。彼が目をつけたり、「はてな」と首をかしげたりした品物だったら、たちまち百両の値打ちがついた。

ある日、彼が清水の茶店で休んでお茶をすすっていると、この茶碗をひねりまわして、「はてな」を6回繰り返して言った。これを近くで見ていた、道楽で失敗した借金のある江戸から流れてきた行商の油屋が、目をつけて、茶店のおやじと一悶着しながら、十両でせしめ、茶屋金兵衛に売りつけようとするところから物語りは始まる。

結局、金兵衛は値打ちがないと知りながら、油屋に誤解させたことを考慮して、十両貸す。油屋はものを置いていく。実は、この茶碗はどこにも傷一つがないのに、水を注げば水が漏れるので、「はてな」と言ったのだった。折角だから、歌を詠んでおいた。

 『清水の音羽の滝のおとしてや 

    茶碗のひびにもりの下露』

その後、この話が近衛公、さらには帝まで伝わり、それぞれ歌が詠まれ(下記参考参照)、品物に箔がついていく。帝に「波天奈」と箱書きされ、由緒あるものになった。それを聞きつけた天王寺屋が一千両で買い求めた。茶屋金兵衛は品物を持ち込んだ油屋に儲けの中から百両与える。それで調子に乗った油屋は更に欲を出して、水の漏れる水がめを持ち込んでくるというお話。

骨董品は持つ人によって価値が出るということでしょうか。それに、作品を包むもの、箱、箱書き、風呂敷などに加えて、特別な人の「命名」や「歌」が付加価値をつけるんでしょうね。

ところで、日本の学者が半分動物、半分植物の不思議な微生物を発見し、仮に「ハテナ」と命名されたそうだ。他の微生物を食べる動物の一種だが、藻類の葉緑体を取り込むと捕食装置が退化し、植物として生き、最終的には植物になる。米科学誌サイエンスに発表されたようだが、このことは南方熊楠が既に指摘していたことではないか。発表内容を確認していないので何とも言えないが、彼の研究を更に進めたものかもしれない。

そして、人間もある物質を摂り続けると植物になることがあるのだろうか。学問の骨董品(熊楠の研究は安物の骨董品ではないが)にも、更なる「ハテナ」の箔付を期待したいものである。ただし、学者の方々には、もっと文化の匂いのある研究をお願いしたいものである。いや、そんなことを期待するのは無理なのだろうか。

ちなみに、和歌の素養のない流風には骨董屋はできそうにない。

(参考) 記載順は詠まれた順です。

近衛公の歌

『音なくて滴り落つる清水焼、はて名の高き茶碗なりけり』

帝の歌

『森いでし岩間の清水流れきて、世に伝はりて涯なかるらん』

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2005年10月13日 (木)

三つ子の魂

報道によると、感情をうまく制御できないキレる子供たちの増加が指摘されていることを受け、文部科学省の検討会が「情動は5歳までに形成されるため、乳幼児教育が重要だ」とする報告書をまとめたようだ。

今更という気がする。乳幼児教育が何であるか理解していない親に問題があることはすでにわかっている。そして報告書で指摘する「5歳まで」が満年齢を指すとすれば、それは既に手遅れである。

昔から「三つ子の魂 百まで」というのは先人の知恵で、現代の学者や教育者が指摘するまでもない。すなわち、「三つ子」というのは数え年の三歳だから、現代風に言えば満2歳である。育児の専門家によると、この年にその子供の将来にわたる性格やものの考え方が決定すると言われる。2歳未満でもなく、3歳以上でもない、この満2歳がことのほか大切なのである。その時に、環境も含めて、親がどう対応するかで、その子供の人生が決まると言ってよい。

この時期は、乳児から幼児に変わる時とも言えようか。自分の意識を持ち始めるので、親は子供のやることを押さえつけてはならない、といわれる。ところが、実際、親はそれを押さえつけるので、問題児に発展しやすいとのことだ。すなわち2歳未満の時と子供の行動が明らかに変わることを理解し、過保護にしないことだ。

乳幼児教育というと、難しく考えがちだが、乳幼児の成長過程を理解して、親がいかに子供に接するかが大事と思う。お母さん方は、温かい心を持った子供を育てて欲しい。また乳幼児教育は母親が、本能的に乳幼児を理解できるのに対して、所詮父親には無理なことはわかっている。父親の出番は残念ながら、せいぜい、それ以後のようだ。

参考文献:内藤 寿七郎『育児の原理』

*追記

内藤 寿七郎先生は、2007年12月に逝去された。享年102歳。ご冥福をお祈りする。

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2005年10月12日 (水)

傘がない

傘がない、と聞けば、中高年であれば、陽水のあの歌を思い出すかもしれない。

  行かなくちゃ
  君に逢いに行かなくちゃ
  君の家に行かなくちゃ 雨の中を
  行かなくちゃ
  君に逢いに行かなくちゃ
  雨にぬれて行かなくちゃ 傘がない

でも、流風の「傘のない」思い出はこんな甘いものではなくて、少し辛い。

あれは入社5年目頃だったと思う。彼女もいなくて、休日に1人街を歩いていたら、急に雨が降り始めた。比較的近くにあった百貨店に雨宿りに入ったが、雨は止みそうにもない。仕方なく傘を買い求めることにした。

だが、当時は現在のように安い傘は置いていなくて、当時の給料からすると高い傘ばかりだった。でも思い切って購入することにした。それは今まで買った物より、本体や骨がしっかりしており、高いだけのことはあった。その頃は、よく傘を失い、その度に購入していたので、これだけは失わないように極力注意した。

それから、しばらくして、天気予報で、午後から雨ということだったので、普段は折り畳み傘を持っていくのに、その日は例の高級傘を会社に持っていった。

その日は遅くまで残業していると、同僚が雨が降ってきた、と言っている。ああ雨か、天気予報は当たったのだ、今日は傘は持ってきたし、心配いらないぞ、と思った。仕事を終え、帰り支度をして、いざ傘を、と思ったら、傘がない。

で、うろうろしていたら、同僚の女性が、どうしたと聞くので、かくかくしかじかと説明すると、「さっき、課長が傘をあれこれ捜していたよ。流風さんの傘らしいのを持って帰られたよ」とのこと。えー、なんで。

その日は雨が止むこともなく、強い雨が断続的に降り続いているようだった。仕方なく、駅まで同僚に頼み、相合傘で行ったが、傘が小さかったので大変濡れてしまった。

翌日も傘は戻ることはなかった。よく晴れていたからかもしれない。課長に聞くことも出来なかったが、しばらくたって、雨の日にその傘を発見した。

傘は取り戻したが、何か引っかかるものがあった。その後、私はプロジェクトでも、その課長との仕事は避けるようになった。

そして、その傘も、どこかに失ってしまった。

今から考えると、ナイーブ過ぎるかもしれない。現在の若い人ではありえないことかもしれない。ただ、その後、この教訓を活かし、会社には折りたたみの置き傘をロッカーに入れるようにすると共に、当日会社に傘を持参する場合は安い物にするようにした。

その後、同様の“事件”は起こらず、傘を忘れることもなく、雨に濡れることもなくなった。流風はあの課長に感謝しなければいけないのだろうか。

 

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2005年10月11日 (火)

寄付文化について考える

パキスタンの大地震で大変多くの方が亡くなっている。阪神・淡路大震災のことを昨日のことのように思い出される。ただ自然の力には人間の力では抗いようがないと思うと悲しくなる。亡くなった方のご冥福をお祈りしたい。

ところで、阪神・淡路大震災の時も、全国から寄付や多くの支援を頂いた。その結果、10年を経てほぼ復興したわけだが、復興の仕方の現実はどろどろしている。例えば、官庁などは震災太りであろう。また要領よく動いた人は一儲けしている。それは、ある意味仕方のないことかもしれないが。

さて、今回は寄付文化について、若干触れてみたい。日本のように海外と比べれば、ある意味官庁がしっかりしていた時代は、災害時の民間支援も官庁が中心になって活動していた。逆に言えば、官庁が動かなければ、何も進展しないリスクを持っていた。

海外は官庁が出来ることと民間ができることをはっきり分けているように思う。ある意味、官庁がだらしないように感じる。ただ逆に民間企業・個人・財団の寄付金の膨大さも特筆すべきだろう。また税制もそのようになっている。官が税金を集めるより、寄付により税を免除し、それを活用することにより、潤滑剤にしている。もちろん、これらはどちらにも長所・欠点があるだろう。

ただ今後、日本で大災害が集中的に起こった場合、国等官庁が対応できるかどうか疑わしい(東京でもしものことがあれば、司令塔を失い、パニックになることは目に見えている)。また今の日本では、財政状況厳しい折、官が配慮・対応できるかどうか疑問だ。

そこで、最近、そういった場合も含めて、非営利部門が注目を浴びている。よく知られたところでは、NPOといわれている組織である。NPOにも公益と非公益があるが、私達は一般に公益の非営利法人と理解している。

これらの組織はお金がないため、活動を継続するには寄付金に頼らざるを得ない。ところが、寄付に対する税制の厳しさもあり、なかなか寄付が集まらないことをよく聞く。実際、日本では個人の寄付は一世帯あたりの年間寄付額は3000円程度らしい。

米国では、その約390倍程度寄付しているようだ(寄付総額では日本の約890倍)。大金持ちが寄付するから、そうなるのかもしれないが、日本の個人の寄付額は少なすぎるようにも感じる。一方企業の寄付総額は米国の40%程度である。

ただ日本では寄付を受け入れる組織に問題があることは否めない。以前ボランティアに参加した時、その会計がでたらめだったことを覚えている。一般企業では信じられないほどである。もちろん、きちんとした組織もあるだろうが、寄付金を受け入れる体制が整っていないことも事実である。

また善意の顔をした、そのような組織が寄付を主催した場合、個人が寄付したお金の流れが不透明で、かつ寄付側の意図したことと違うことに使われることも多い。例えば1000万円の寄付が集まったとしても、本来の目的に使われるのは、50%程度か、よくて70%程度である。その他のお金は主催者の別の意図先に流れることが多い。これでは、寄付をする方も、納得がいかない。

少し話がそれるが、最も大きい世界的組織の国連をそういう組織と位置づけると、国連に流れたお金の10%しか目的の地域・国に流れないと言う。誰かが抜き取っているのだ。その程度がひどすぎる。

同様なことが、国内で横行しているのである。日本国内において、寄付文化を定着させるには、税制も大切だが、受け入れ組織の透明性や運営の透明性が求められる。寄付する側が納得するようにしないと、いつまでも寄付文化は定着・発展しないだろう。そのためには、NPOの格付けを急ぎ、広く公開すべきだろう。

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2005年10月 9日 (日)

靴下の思い出

靴下と言えば、流風が若い頃、お見合いした時の苦い思い出がある。それは本日のように晴れわたったお見合い日和であった。中に入る押しの強いおばちゃんの紹介で、気はあまり進まなかったが、会うことにした。

会ってみると、相手は比較的おとなしく、いい雰囲気の女性だった。おばちゃんを挟んで雑談した後、二人で公園や美術館を散歩した。いろいろ話をした結果、少し気に入ったので、お昼は当時の月給からすれば、少し張り込んで和風料理店でとることにした。

和室の畳の部屋に通され、仲居さんがお茶などを出して、料理は何にしようかと考え、注文しようと思ったとき、ふと気づいた。靴下に大きな穴が開いていた。その後は、何をし、何を話したかまったく覚えていない。結局、話も弾まなかったらしく、その件は流れてしまった。当時は純情だったんですね。今だったら、それを見せて、相手の反応を楽しんでしまうだろうけど。

ところで、今ではわさわざ穴の開いた靴下が売られているらしい。丈がくるぶしまでしかない靴下で、靴の中に靴下が隠れてしまって見えないとか。脱げやすくなるのをなるのを防ぐため足底の部分に穴が開いているらしい。その話を聞いて注意していたら、先日電車の中で、中年(私より多少若そうな)のおじさんが、その靴下を履いていた。ふむふむ、これか。でも、おっさんでは、似合わんな。

時代も変わったもんだ。穴あき靴下が歓迎されるなんて。もっとも、本当は靴を履いても、素足のように見える靴下が目的だそうだが。

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2005年10月 4日 (火)

村上ファンドはトラの尾を踏んだのか

セ・リーグで優勝した阪神球団の親会社の阪神電鉄株の村上ファンドによる買占めが話題になっている。星野シニアディレクターが怒ったとか。でも、あれは阪神と契約している立場上のポーズでしょうね。ファンによっては優勝に水をさすとか言っている人もいるが。

ただ冷静に考えれば、ある意味そういう時期に入ったということでしょう。ご老体のおもちゃの時期は終わっている。すなわち、最早、電鉄会社が球団を持つ時代ではないということだ。

古くは西鉄が西武に球団を売り、その西武もいずれ売却が現実のもとして、迫ってくるだろう。阪急はオリックスに売却したし、近鉄も結果的にオリックスに引き取られた。阪急は十分ではないがビジネスは整理できたし、経営は改善されている。近鉄も球団経営撤退の結果、その他の事業と共にビジネスが整理され、望ましい本来の経営に向かっている。

阪神グループは堅実経営ではあるが、球団経営をいつまでも続けることは難しいだろう。球団を売却して、より一層の価値あるビジネス・システムを作るべきだろう。球団の「阪神」という冠が取れても、甲子園にフランチャイズをおく限り、ビジネス・メリットは減価しない。上新電機のように協賛の仕方はいくらでもある。

ファン離れを心配する向きがあるかもしれないが、たとえ○○タイガースと名称が変わっても、甲子園にフランチャイズをおく限り、問題はないだろう。野球は選手がやるものだから。経営者が誰であろうと、ファンにはあまり関係のないことである。基本的に、優勝を目指して面白い野球をしてくれることを望んでいる。

むしろ、選手の方がひやひやしているかもしれない。経営者が変わり、楽天のようなやり方をされれば、士気が落ちるかもしれない。阪神はかつて優勝しなくても観客が入るので、トップは優勝を望まなかったと言われる。近年経営方針が変わり、優勝してもグループとしてビジネス・メリットが大きいことを知り、優勝を目指すようになった。それが、経営者が変わって、楽天のようになれば、また昔の阪神になる。

さて、どのように今後展開されていくのか、興味は尽きない。

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2005年10月 2日 (日)

内に籠もるロシアとの外交

プーチンが北方領土問題で四島がロシアに帰属することを確認する平和条約を結ばなければ、56年の日ソ共同宣言で約束した歯舞、色丹二島の日本への引渡し交渉に応じないとの方針を固めたそうだ。

また始まったロシア外交の特異性。要するに日本の外交姿勢を理解した上で、当面、平和条約を結ばないということでしょう。まったく困った輩だ。

今年7月に、欧州連合(EU)の立法機関、欧州議会でさえ、極東の安全保障と題した11項目の決議で、日本への北方領土の返還(四島全て)をロシアに促し、それに基づき平和条約締結をするべきだと言っているのに、時代の読めないロシアの指導者。

なぜこんなにロシアという国はわかりにくいのか。ロシア外交の専門家によると、詳しい説明は省くが、ロシアの外交の特色は次のようである。私達一般人も知っておけば、新聞報道などに接した時、ロシアの外交が理解できるかもしれない。

 ⅰ 都合のいいように、ルールを変更

 ⅱ 論点変更の誤謬

 ⅲ 両刃論法

 ⅳ 不当仮定の虚偽

要するに詐欺師の手法に似ている。基準が一つではなく、自分の都合でどんどん、すり替え変更する。彼等に対応するには、まともなやり方では難しい。日本の外交のように一つの基準で臨めば、かき回されるだけである。ロシアからすれば、日本はなんてお人好しなのだろうということである。橋本元首相とか森前首相などは大変与し易しと思われていたし、小泉首相も常任理事国問題で擦り寄ってきたので、同様に思っていることだろう。

日本にとって、ロシアはそんなに重要な国ではないが、隣国である。歴史的に彼等は南下政策を取ってきた経緯がある。いつ彼等が襲ってこないとも限らない。そういう意味では、つきあいの難しい国である。基本的には彼等の勢力を削ぐ必要がある。

今ロシアは米国の石油政策で大変潤っていることが、ロシアを増長させている。米国はロシアへの債権回収を目的にイラク戦争をしたのかもしれないが、ほぼその目的も達成した今、そろそろイラクからの撤退を考えてもらいたいものである。そうすれば石油価格も下落して、世界も幾分安定する。

その時、ロシアは石油価格の暴落であわてるだろう(但し暴落の条件は必要で、中国、インドに対しては省エネを日本としても協力しなければならない)。日本が外交交渉するのはその時まで待てばよい。しかしながら、民主主義の後退したロシアとのビジネスは当面期待できない。産業界もより慎重に取り組むべきだろう。

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