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2005年10月20日 (木)

外見という錯覚

流風はいい年しているのに、美人を見ると目が泳いだりしている。男は異性に興味がなくなると終わりとも言われるから、まあ、いいかと言い訳。でも若い頃、美人は賢いと思ったのは大きな錯覚であった。ところで、若い女性なんかに聞くと、好きなタイプはなんて尋ねると、外見にはこだわりませんと言う。嘘をつけ!と大きな声で言いたい。

人間、外見で判断してしまうのは、自然な性だと思う。子供の頃、身だしなみをきちんとするようにうるさく言われたが、やはり外見は大切である。容姿とかは確かにどうすることも出来ないかもしれないが、その人の持っている雰囲気は作ることができる。それは姿勢、表情、言葉遣い、態度であるかもしれない。

しかしながら、私達はその外見という判断で、たびだび誤った判断をする。そして、それを逆手に試す人々に度々打ち負かされる。例えば、一休和尚の逸話で、彼が破れた衣を着て托鉢していた時の話。歩いていると、金持ちが先祖の法事を盛大に行っているところに出会った。そこで、その門に立って食(ジキ)を乞うた。ところが相手は乞食坊主を、いやしんで、一紙半銭を与えて追い返した。

その後、また同じ家が法事を営んだ時、立派な衣を着て出かけ、名乗ると、いんぎんに上座に通された。立派なご馳走まで出た。彼は衣を脱いで、膳部の横において、結局膳部には一箸もつけずに帰った、という話。

もう一つの例は、古い話なので若干記憶違いがあるかもしれないが、米国のある大手の会社の会長の話。会長夫婦は金持ちであるにもかかわらず、質素な生活であった。いつもより立派な身なりで、某大手百貨店に買い物に出かけた。そうすると、店員は争うように声をかけて売り込みに来た。しかし、その時には何も買わなかった。

そして、それから、かなりの時間を経て、今度はいつもの質素な装いで、夫婦で、その百貨店に出かけた。そうすると、そのみすぼらしい夫婦に誰も声をかける店員はいなかった。ただ、ひとりだけ若い男性の店員だけが声をかけて、丁寧に商品説明してくれた。その時は買わなかったのだが、その後も、いつも態度は変わらなかった。そして、ある日、かなりの額の商品を、その男性店員指名で購入する。

このことは流風も実際同じことを試してみた。そうすると同じようなことになった。私達はいかに外見で判断し、判断されているかがわかる。そうしてはいけないとわかっていても、そのようにしてしまうのだろう。人間の修業が足りない。そうかもしれない。誰に対しても同じ態度で接するとき、人格が完成するというのは少し大袈裟だろうか。

*追記

先日、新調した服装でウインドーショッピングに行くと、ある売り場では、かなり高い商品を強く勧められた。店員は、非常に熱心だったが、こちらは持ち合わせもないし、買う気もない。適当に相手にしていたが、強引な販売に、辟易とし、若干不愉快な思いもした。外見で判断されると、当方も迷惑。こうなると、服の新調して売り場にも、うろうろできないということになる。

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