« 靴下の思い出 | トップページ | 傘がない »

2005年10月11日 (火)

寄付文化について考える

パキスタンの大地震で大変多くの方が亡くなっている。阪神・淡路大震災のことを昨日のことのように思い出される。ただ自然の力には人間の力では抗いようがないと思うと悲しくなる。亡くなった方のご冥福をお祈りしたい。

ところで、阪神・淡路大震災の時も、全国から寄付や多くの支援を頂いた。その結果、10年を経てほぼ復興したわけだが、復興の仕方の現実はどろどろしている。例えば、官庁などは震災太りであろう。また要領よく動いた人は一儲けしている。それは、ある意味仕方のないことかもしれないが。

さて、今回は寄付文化について、若干触れてみたい。日本のように海外と比べれば、ある意味官庁がしっかりしていた時代は、災害時の民間支援も官庁が中心になって活動していた。逆に言えば、官庁が動かなければ、何も進展しないリスクを持っていた。

海外は官庁が出来ることと民間ができることをはっきり分けているように思う。ある意味、官庁がだらしないように感じる。ただ逆に民間企業・個人・財団の寄付金の膨大さも特筆すべきだろう。また税制もそのようになっている。官が税金を集めるより、寄付により税を免除し、それを活用することにより、潤滑剤にしている。もちろん、これらはどちらにも長所・欠点があるだろう。

ただ今後、日本で大災害が集中的に起こった場合、国等官庁が対応できるかどうか疑わしい(東京でもしものことがあれば、司令塔を失い、パニックになることは目に見えている)。また今の日本では、財政状況厳しい折、官が配慮・対応できるかどうか疑問だ。

そこで、最近、そういった場合も含めて、非営利部門が注目を浴びている。よく知られたところでは、NPOといわれている組織である。NPOにも公益と非公益があるが、私達は一般に公益の非営利法人と理解している。

これらの組織はお金がないため、活動を継続するには寄付金に頼らざるを得ない。ところが、寄付に対する税制の厳しさもあり、なかなか寄付が集まらないことをよく聞く。実際、日本では個人の寄付は一世帯あたりの年間寄付額は3000円程度らしい。

米国では、その約390倍程度寄付しているようだ(寄付総額では日本の約890倍)。大金持ちが寄付するから、そうなるのかもしれないが、日本の個人の寄付額は少なすぎるようにも感じる。一方企業の寄付総額は米国の40%程度である。

ただ日本では寄付を受け入れる組織に問題があることは否めない。以前ボランティアに参加した時、その会計がでたらめだったことを覚えている。一般企業では信じられないほどである。もちろん、きちんとした組織もあるだろうが、寄付金を受け入れる体制が整っていないことも事実である。

また善意の顔をした、そのような組織が寄付を主催した場合、個人が寄付したお金の流れが不透明で、かつ寄付側の意図したことと違うことに使われることも多い。例えば1000万円の寄付が集まったとしても、本来の目的に使われるのは、50%程度か、よくて70%程度である。その他のお金は主催者の別の意図先に流れることが多い。これでは、寄付をする方も、納得がいかない。

少し話がそれるが、最も大きい世界的組織の国連をそういう組織と位置づけると、国連に流れたお金の10%しか目的の地域・国に流れないと言う。誰かが抜き取っているのだ。その程度がひどすぎる。

同様なことが、国内で横行しているのである。日本国内において、寄付文化を定着させるには、税制も大切だが、受け入れ組織の透明性や運営の透明性が求められる。寄付する側が納得するようにしないと、いつまでも寄付文化は定着・発展しないだろう。そのためには、NPOの格付けを急ぎ、広く公開すべきだろう。

|

« 靴下の思い出 | トップページ | 傘がない »

考え方」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/99784/6347965

この記事へのトラックバック一覧です: 寄付文化について考える:

« 靴下の思い出 | トップページ | 傘がない »