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2005年11月29日 (火)

贈り物に対する考え方

季節的に贈り物の時期になってきた。ただ贈り物は簡単なようで難しい。心がこもっていればそれでいいと言う人もいるが、一方的であれば、そのようにしても必ずしも喜ばれるわけではない。以前、頂いたもので、ご自身で作られた工芸品があるが、飾る場所もないし、出来上がりはイマイチだし、でも交流はないでもないので捨てるわけにもいかない。そういう経験は誰でも経験のあることと思う。

確かに、『礼記(らいき)』に「何かを与える時には、何が欲しいかなど問わない」とある。これは事前に欲しいものを聞いて、相手に期待させておきながら、贈り物をしない失礼を言っているのかもしれないし、相手が欲しいものを贈り物として、(資力などで)できない場合の問題を注意しているのかもしれない。ただ受ける側からすると、いきなり欲しくもない贈り物を頂いても困るのである。

つまり贈り物は、相手と自分をバランスさせながら、相手の望みを汲み取る姿勢が常に必要なのだろう。言い換えれば、贈り物は日頃から相手の望んでいるものを探りながら、自分が提供できる可能なものを見つける準備が必要である。そのためには、日頃からのコミュニケーションが大切で、相手の望まないものであれば、いくら高価なものでも相手に喜ばれないのである。相手の気持ちを察した程よいものを分相応にプレゼントするのが理にかなっていると言えるのだろう。

このように贈り物をするには周到な準備がいる。だから付き合いの浅い相手に贈り物をするのはギャンブルと言えないこともない。ただ、はっきりしていることがある。女性は年齢にかかわらず、花が好きなことだ。少し言葉を添えて、花を贈り物をすることは喜ばれる可能性が高い。花のように形が長期に残らないものは、ある意味、気楽で受け取りやすいのかもしれない。

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2005年11月26日 (土)

地域トイレ考

流風はお腹が比較的ゆるいので、公共(あるいは開放)のトイレのお世話になる場合が多い。少し遠出をする時は、到着時トイレの場所を事前確認するようにしている。

ということで、結局、地方旅行は典型的な観光コースを余儀なくされる。コースを外れたところにはめったに行かない。でも典型的な観光コースは一回行ったら十分なんで、次に訪れることはほとんどない。だが多様なコースの開発はまだまだ未整備だと思う。

実際、地方に行くと、トイレがない場合が多い。その場合の悲惨さは幾度も経験してきた。観光はキャンプではない。野糞はできるだけ避けたい。そして仮にあってもトイレの状態は最悪な所が多い。はっきり言って、そういうところには観光はしたくない。トイレは人間にとって欠かせないものである。観光地ではトイレの整備は必須と思う。

ただ公共のトイレの設置は意外と金がかかる。これに対応するには、公共トイレの充実と共に、神戸市のように一定の助成をして、民間のトイレに対しても一般開放が求められる。ただこういったことは、各自治体単独ではなくて、広域的なトイレ対策が求められる。

それから、トイレの整備と共にトイレの清掃システムが整っていないと、トイレだけ整備しても、うまくいかない。各自治体に設備は作っても、メンテナンスは放ったらかしという所は多い。

それでは荒れ放題のトイレになり、誰も利用しなくなる。そうならないようにするには、メンテナンス体制を整え、メンテナンスコストは比較的かかる認識を持って、費用の予算化と地域の理解が必要である。またコスト低減のためには、地域トイレ掃除ボランティアの充実や観光関連企業を巻き込むことも必要だろう。

またトイレのタイプは、高齢者や外国人観光客用に洋式トイレへの転換が求められる。未だに駅、公共施設や百貨店で和式トイレがあるのは問題だ。それから身障者用のトイレは大分普及してきたが、利用者は少なく、利用頻度は高くない。基本的に一般人共用トイレと明示すべきだろう。

地域の時代とか、ビジット・ジャパンとかエコ・ツアーとか言われ、地域に旅行ビジネスのチャンスはあると思うが、地域の人は意外とトイレに関しては、気づいていないのかもしれない。多様なコースの開発と共にトイレの充実は地域の発展に欠かせないことを認識して欲しい。

*追記

公共トイレは、場所によっては、メンテナンスにコストがかかるかもしれない。その場合は、有料も仕方ないと思う。

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2005年11月25日 (金)

自己管理への反省

今年も、終わりに近くなってきた。来年のカレンダー、来年の手帳の準備、年賀状の準備、クリスマスムード、正月の準備などで、何か気ぜわしい状態になりつつある。時間の経つのが早いと感じる今日この頃であるが、果たして、今年何ができたのか疑問である。

今日のことを今日終えるようにと思っていたが、何か今年はメリハリがなかった。何か気持ちがなかなか乗らなかった一年のような気がする。明日があると思っていたら、もう年末だ。明日あるということに騙されて、今日が本当に意義深い日であったのか、反省がいっぱいの一年だった。

唯一良かったのはブログを始めたことであろうか。自己管理というのはこの歳になってもなかなか難しいものである。ブログに取り掛かる時間を決めたことにより、時間のメリハリが若干つくようになったかもしれない

さて徳川頼宣が大阪冬の陣に一戦及ばず、早くも大阪城が落城したことを悔しがり、慰め言葉をかけられた時、彼の心意気として紹介される次の言葉がある。

「予の十三歳の時が、復(また)とあるか」

この言に対して、徳川家康は激賞したようだが、この歳になって、改めて彼の言葉を噛み締めたいと思う。

最後に、朱熹の作とされる(実際は日本人作といわれる)『偶成』を挙げておこう。

           少年老い易く学なり難し

             一寸の光陰軽んずべからず

             未だ覚めず池塘春草の夢

             階前の梧葉已に秋声

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2005年11月24日 (木)

明言することの難しさ

はっきり言った方がいい場合と言わないほうがいい場合とがある。流風は度々逆をやって失敗したことがある。それは場の雰囲気を読んでいないことや相手によって対応を変えていないことが災いしている。

流風は料理に対して、比較的美味しい、まずいと言う方だが、外食店で「美味しかった」と言えば、大抵店の人はうれしそうにして、次ぎ行った時も覚えていてくれて、その応対がいいことがよくある。それに対して、「不味い」とはさすがに外食店で言ったことはないが、身内の作る料理に対しては、よく不味いとか言っていた。その度に、母の機嫌は悪くなっていた。別れた妻も。その点、伊達政宗は偉い。彼は名言を残しているが、食事に関しては、次のように言っている。

   朝夕の食事は、うまからずとも褒めてくうべし。

   元来が客の身なれば、好き嫌いは申されまじ。

心に留めておこう。料理だけでなく、すべてそのようなのだろう。その点、ブログは言いやすいなあ。匿名だから許されるのかもしれない。それはそれで問題はあるのだろうが。

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2005年11月22日 (火)

看護師の仕事環境

かつて流風が入院した時、一番励まされたのは医師ではなくて看護師の方だったように思う。特に子供の頃の印象は強い。彼女ら(看護師には男性もいるが、その業務内容から少数)の存在がなくして、医療活動は成り立たない。特に高齢者が増える時代では、より看護師の役割は大きくなる。

その看護師の仕事環境は厳しそうである。特に勤務の過酷さと人間関係に悩む人が多いようである。かなり体力を要するし、精神的にもストレスがたまりやすい。また女性の多い職場は、病院に限らず、人間関係が複雑といわれるケースが多い。男社会とは違った苦労があるようである。

それは絶対人数の不足からくる勤務の過酷さが原因と言われている。看護は技術と患者対応という人間性ということから成り立っており、両方が要求されるが、それは看護免許を取ったからといって、すぐつく能力ではない。また扱う相手が人間の生死に関わるものであり、職人的な能力を高めながら、人間的なものも高めてコミュニケーション力も高めなければならない。そういう意味では、高度の仕事である。

彼女等の労働意欲を高めて、なおかつその生産性を高めるには、その作業環境を整備する必要がある。そのためには、効率の良い医療・看護体制と共に、働きやすい環境を病院単独ではなくて、地域の医療機関全体で整備していくことが求められる。そうすることが、結局患者に反映されるように感じる。

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2005年11月21日 (月)

成功話の落とし穴

経営者は誰でも何かに成功すれば、それを発表してみたくなるようである。それが人間かもしれない。しかし、もう一段上を目指すなら、現役時代に成功話をしてはならない。

現に、現役の経営者で成功話をし、本まで出版された経営者が奈落の底に陥った例は多い。それは、その経営者の驕りから生じる油断かもしれない。その結果、他社にヒントを与えてしまう場合もある。そこを攻め込まれると、意外に脆いものである。

かのロスチャイルドも次のように言っている。

『万事成功の秘訣は、自家の業務を怠らざること。企業の成功をみるまでは、みだりにそれを他言せざること』と。

日本の経営者では、このことを徹底したのは、ヤマト運輸の経営者であった故小倉昌男氏であろう。彼は現役時代はマスコミのインタビューもできるだけ控えて、「引退すれば、インタビューに応じる」と記者達を説得している。

企業経営者はそのような慎重さが求められる。企業開示の時代でも、オープンにしてよい情報とオープンにしてはいけない情報がある。将来の企業価値を貶めるような情報ならば、いくら要求されても、オープンにしてはならない。

もう一度、ロスチャイルドに登場してもらおう。彼は次のように指摘している。

『商業の要は秘するにあり。故にわが商略は深く収めて、他に漏らすなかれ』と。

このようなビジネスの原理・原則は現代でも同じだと思うが、マスコミに担ぎ出されている経営者は果たして、どのように感じられているのだろうか。

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2005年11月19日 (土)

風邪とセキ

関西も、さすがに最近はぐっと寒くなってきた。小売店はうれしいだろうな。でも、季節どおりの寒暖は望ましいと思う。だけど、周囲はこんこんと咳をする人が増えてきた。う~ん、これはいつもながら困ったものだ。ということで、風邪にまつわる落語2席の紹介?を絡めて、始まり、始まり。

風邪の神の親分がが新入りの子分に人間に風邪をひかせるコツを教える落語(『風邪の神』)がある。

親分は「人間に風邪をひかせるコツは、まず肩にさわってみろ。凝っていれば上々だ。そして隙を狙って、鼻の穴から飛び込め。そうすると、温かい部屋がある。熱袋というところだ。そこに座って前を見ると、三本の筋が通っている。一番目がクシャミのでる筋。二番目が咳の出る筋。三番目が熱の出る筋だ。その筋を引っ張って、いつまでも治らねぇように、長く逗留しろ」と。

フム、こういう風に狙われるんだ。隙を見せないようにしよう。実際はそういう筋があるかどうか知らないが、気が緩んだ時に風邪をひく確率は高いと思う。そうかといって、いつも緊張の連続では疲れるし。難しい。

別の落語(『風の神送り』)で、これに対応する人間の知恵は大したことがなくて、昔(どれくらい昔か不明)は風邪が流行すると、町内の者が皆で出て集まり、「風邪の神送れ、お送れ送れ」と『風の神送り』という行事を行ったという。まぁ、そんなことでは、風邪は行かないだろうけど、当時は真剣だったかもしれない。

現在は風邪をひいてから追い出すより、予防に重点が置かれている。風邪の予防は、十分な休養と適切な食事だろう。もちろん、外出から帰った後は、手洗い、顔洗い、うがいは必須。また看護師さんに教えてもらったのが、指の間、手の甲も必ず洗おうということ (斯く言う流風も数年前までは、そんなに丁寧に手を洗っていなかったのだが)。そうすると、風邪をひく頻度が必ず落ちるような気がする。鳥インフルエンザが騒がれているが、まず基本をきっちりしておきたいものです。

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2005年11月18日 (金)

縁の不思議さ

流風は人の縁で助けられたことは多い。ただ、それがどういう機縁でそうなったのかわからないことが多い。考えられるのは、まずマスコミ等での情報、知り合い等関係者からの情報、たまたま出会った人からの情報、そして単なる閃きからヒントを得たものが機縁になっているかもしれない。

そして得た情報に基づき、他者に働きかけた時のみ結果が生じる。その結果はすぐ出る場合もあれば、十数年経ってから結果が出る場合もある。この人間関係は非常に不思議で、未だ原因や理由がわからない場合も多い(仏教で言う因縁結果)。

また情報源が多いから、よい結果がもたらされるということもない。結果的に良質だった情報はすごく限定される。だが、多くの情報を得たことは無駄にはなっていないかもしれない。

脳は日々、情報のより分け作業をしていると思うが、その判断基準はどのように形成されるのだろうか。それは親による幼児教育のような気がする。逆に考えれば、それがその人間の限界を作っているかもしれない。社会に限界がある以上仕方のないことだが。それが縁の限界かもしれない。

ブログの場合も、縁になりうるのだろうか。ブログは、ネットで空間的にも時間的にも広い。それは縁的空間を広げているかもしれない。これは基本的に匿名性が高いが、その情報価値はあると思う。ただコンテンツの内容に責任が問われていないことが、情報価値として問題かもしれない。ただその気楽さからか本質を突いている場合は多いと思う。

すなわち、人々はその広がった縁的空間に自分の隠された部分の表現として評価されるのを期待しているのかもしれない(全てをさらけ出している人もいるだろうが)。それに対して、縁が動くかもしれない。

ただ良質の縁を求める場合の、人物判断は難しい。人間の評価は総合的判断に委ねられるから、ブログだけの一面的な判断はその人物判断としてはやや危険ではなかろうか。

実態とは異なるイメージ作りが可能だ。文章力でその人柄はわかると判断するのは、やや早計に過ぎるようにも思う。匿名だと文章に作為が生じやすい。判断するには、コンテンツの継続的評価が求められる。

ただ流風にとってブログは、偶然見つけたブログを読むことで、いろんな人の考えに接し、世の中には面白い考え方をする人がいるなあ、という程度で遊びの道具になっている (ただ、たくさんあるブログの中でどのように選択しているのかが不明でも不思議である)。そして、他方、日頃考えていることの意見表明でストレスを解消している。

今後、ブログがどのように進化していくのかわからないが、単に「覗き見できる日記帳」から「新しい価値」が生まれることを期待している。しかし、それが縁につながるのかは、未だにわからない。

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2005年11月16日 (水)

手ぶら主義

どこへ行くのも手ぶらが理想と流風は思っている。散歩に出かけるのも、できるだけ手ぶらが良い。買い物も、手ぶらで行きたい。旅行も、手ぶらで行きたい。ところが、帰り道には女性の方々ほどではないが、いろんな物を買い込んでいる場合もある。しかし、基本は手ぶらでありたい。

手ぶらサービスはもっとあっていいと思うのだが、最近はあまり聞かない。以前スーパーがある一定の金額以上を購入すると当日に配達してくれた。だが最近はそのサービスをあまり見かけない。一定の金額(配達料)を支払えば、配達してくれるサービスもあるようだが。

旅行も、できるだけ必要物は宅配で送って、手荷物は少なくし、土産物は宅配で自宅に送ってもらうようにしている方は多いだろう。ビジネスシステムとしてはあるはずなのに、旅行業界を除いては、あまり宣伝もされていない。物やサービスの価格を安くするだけが能ではないだろう。企業はきめ細かい付随サービスの体系をもっとアピールして欲しい。

時代は身につけないという、もっと気楽さを求めているように思うのは流風だけだろうか。ある程度は身につけても、持つには限度がある。そうかといって、いきなり身軽になれないところが日本人かもしれないが。

でも、生まれたときは何も持っていない。死ぬ時もそうだろう。生と死の間で、持つばかりが能ではないように思う。私達も、もう少し自分流で自由でありたいというのは、無理な望みであろうか。

ところで、流風は個展を若干無計画に鑑賞しに行くのだが、時々知的障害者の方々の手によるアートに遭遇する。それは一般の感性とは異なるが、何か純粋なものを感じさせる。アートを学習したものでもなければ、計画されたアートでもない。それは自分流というか、自然な自己主張のような気がする。直接的な感性と言えようか。

以前ラジオかテレビで聞いたのだが、ある織物作家が知的障害者に織物を指導したところ、彼等は熱心に取り組み、またデザインがユニークで、その作品は非常に人気があり引き合いも多かったらしい。

そこで、少しでも彼らの生活の糧にと同じものを作るよう指導をしたところ、作品はできるにはできたが、彼等も楽しそうには取り組んでいなかったし、あまり売れもしなかった。そこで元に戻して、彼等にやりたいようにやらせたら、また元気が戻って、同じものはないが、良い作品ができて、相変わらず引き合いがあったとのこと。

このことは私達の日常でも、そのような気がする。どこか無理をしている。矢張り、やりたいことができるのが一番自然なんだ。現実は難しいと思っているが、意外と簡単なことかもしれない。

そんな彼等の展覧会が下記のところで催されるらしい。興味のある方はどうぞ。彼らの人生が手ぶらかどうかわからないが、何らかのヒントが得られるかもしれない。

ART PARTY 2005 「手ぶら主義~あるがまま、自分流の表現者たち」
主催:西宮甲子園ライオンズクラブ/西宮市
期間:11月29日~12月4日 
    10:00~18:00 初日11:00から/最終日17:00まで)
会場:西宮市立北口ギャラリー(アクタ西宮 東館6階)

(この催しは終了しています)

 

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2005年11月15日 (火)

医療・介護体制に対する疑問

医療費・介護費の問題が最近マスコミによく出てくる。高齢社会における医療費の増大が予測される中、国の歳出削減問題も絡んで、この問題は取り上げられやすい。そこで流風も何が問題なのか少し整理してみた。

まず第一に、医療費の問題である。

医療行為に対する対価が患者には不明朗なことである。例えば治療費の明細が患者に示されていない。大体大病院では明細が示されることが多く、診療所クラスになると、明細が示されないことが多い。

また薬局で薬代は大体レシートに明細が記されたことはない。医師はすでに患者に対して指針を示しているのに、医薬分業を楯に取り、薬局が患者に指導して指導料を取っている。無駄というしかない。薬局を救済する医薬分業の悪い面が出ている。

患者にすれば医療機関や薬局のやることには間違いがないだろうという暗黙の了解がある。その結果、このような慣習になってしまったのかもしれないが、現在のような情報化社会においては、無駄ははっきりわかっているのだから、皆の意識が高まり、、医療機関も考え直さなければならないだろう。

第二に、検査中心主義ということだろう。

何でも、検査、検査である。患者の方を見ようともせず、問診、触診もいい加減。とりあえず、まず検査してくださいという。あなたは医師かと問いたい。これは特に大病院の医師は病人を診るというより、病気を診ることに意識が行ってしまっているからである。

また診療所で検査済みなのに、大病院ではまた検査する無駄。患者の検査情報がきちんと利用されていない。診療所の設備では細かいことはわからないからというが、細かい検査をやっても結果は同じという話はよく聞く。地域医療体制ができていない証拠である。非常に遅れた業界だと感じる。

第三としては、国も気づいているようだが、介護費の問題である。

一度介護業者の手にかかると、介護される人の状態がよくならない問題がある。介護業者としては、ビジネスとして、顧客を逃したくない意識が働く。結果として、過剰介護になり、介護される人は状況が改善されるどころか、その依存度が高まり、状態は悪化する。

一体どこまでが奉仕で、どこまでがビジネスなのか、非常に曖昧になりやすい。明確な区分は難しいかもしれない。しかしながら、介護される状態が悪くなるのでなくて、良くなることによってインセンティブがもたらされるような仕組みが必要と思う。そうしないと、いつまでも過剰介護の問題が生じやすい。もちろん、老齢化により状態は悪化すると考えるのが普通かもしれないが、何らかの基準を設けるべきではなかろうか。それは簡単な作業ではないが、改善の余地はあると思う。

第四に、終末医療の体制である。つまり延命医療をどこまで認めるかという問題である。

病院に入院した場合、人は自分で自分の死を選べない。実質死の状態であっても、延命治療は「本人が苦しまないように」という家族の依頼を元として、続けられる方向にある。本当に延命治療は必要なのか。それは個人や家族によって、いろいろな考え方があるだろう。しかしながら、各人は「死計」は考えておく必要がある。そうすることが、国や家族の医療費の負担を軽くするのではないか。

第五は、医療体制・医療プロセスにも無駄があるのではと思う。

医師や看護師の不足がよく言われる。確かに絶対数で足りないだろう。多くの医師や看護師が過酷な労働に従事されていると思う。

しかしながら、例えば、大病院の医師の場合は、先程も触れたが、病人を治すというより、病気を治す意識が強い。そのほとんどがまず検査により診療にかかる例が多い。患者の総合状態の把握・生活指導はかかりつけ医に任して、大病院は総合病院ではなくて専門病院の位置づけにすればよい。そうであれば、地域医療体制を組みなおして、患者の総合状態の把握・患者日常指導→検査→診療→再度総合状態の把握・患者日常指導、の早期徹底が望まれる。現在はまだ中途半端な感じがする。

そのためには、かかりつけ医と大病院の連携・役割分担、カルテの共用システムの推進が望まれる。そうすれば、かかりつけ医は「病人」を診て、大病院は「専門の病気」を診ることで役割分担ができる。

また医療業界では、そのような動きのようだが、患者には十分理解されていないように思う。それを一般に周知徹底させることが、全体のロスを小さくすることができると思う。

また大病院で治療の目途が立てば、事後のことは診療所に任せる姿勢も求められる。大病院は診療所から来た患者をずっと抱え込もうとする姿勢に疑問を感じる。総合状態の把握は診療所の医師に任せるべきだ。もっとも、それには診療所のレベルアップが望まれる。

また看護師の場合では、外来で診療を受けると、必ず看護師がついている。しかし、そのやっている作業は極端に言えば、事務系のアルバイトでもできそうな作業である。そんな仕事に看護師をはり付ける必要があるのだろうか。看護師は看護婦ではない。医師の付属ではないのである。独立した責任ある仕事である。

看護師の役割は医師の治療後、患者の任意で時間を十分とって(現在はせいぜい次の予約程度でしかない)患者の生活指導まで踏み込むべきだと思う。そのことに対して、指導料が必要なら支払ってもいい。そのことを医療機関が理解していないのではないか。そこに改善の余地がある。

以上、気づいたことを列挙してみた。日常考えていることだけなので、実際はもっとあるかもしれない。そういったことが新規に出てきた場合は、後日検討してみたい。

ただ言えることは、私達は、一般に医療機関に対して発言してこなかったことだ。だが自分の身体は結局自分でしかわからない。そういう意識を持って、今後は全てを任せるのではなくて、患者としての意見も言うことが、必要と思う。また比較的健康な時には、医療体制の問題も他人事と思わず、意見を述べることが医療機関の発展・改革につながっていくという意識を持ちたいものである。

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2005年11月14日 (月)

求道者による予知

未来を予測することは現代のように科学の発達した時代でも難しい。例えば自然災害の予知は依然不完全であろう。あらゆるデータを分析してもあまり予知能力は向上せず、当たらない。

だが地震の例でもよく見られるように動物は人間より早く危機を察知している。しかし、何年も前から察知しているわけではなさそうだ。

ところが、関東大震災(大正12年)では、明治の剣聖と言われた鹿島神流第15代、直心陰流、山田次朗吉一徳斎はその4年前に地震を予測したという。大正8年には大正13年までには東京に一大天災(大地震)があって、市民の7~8万人が死亡するだろうと、予測し、その記事がロスアンゼルスの新聞に出たという。

達人が明鏡止水の心境になると、感が鋭くなって、予知できるようだ。達人になると、その周囲には何か見えないバリアみたいなものが広がって、それが感知するのかもしれない。山田次朗吉一徳斎の場合は、それが4年前というのだから驚く。

科学が発達したとしても、我々が察知できないものはたくさんある。科学によって知りうるものはいつの時代になっても、限界があるように思う。全てのことを知り尽くすのは不可能だ。所詮限られた世界での知識でしかないことを再認識して、私達はもっと謙虚であるべきなのだろう。

と同時に、人間は修業して極めれば、未来をもう少し予測できるということを忘れてはならないような気がする。人間が持っている能力を過小評価すべきではない。ただ全ての人が極めることは難しいだろう。求められるのは極める人を活かす環境の整備なのかもしれない。文化の支援とは、そういうことも含まれるように感じる。

*追記 

参考 拙ブログ「明鏡止水」(2007年8月7日付)

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2005年11月11日 (金)

話し上手と聞き上手

話し上手な人を見ると流風はうらやましくて仕方なかったことがある。なぜこんなに話が下手なのだろうと悲観したこともある。おしゃべりでないからなのか、緊張しすぎるからなのかとも考えてみたこともある。

しかし、ある時に、いやそうではないんだ、という記事を読んで得心した。それは、次のような内容だったと思う。「話し上手な人は頭脳が緻密でない人が多い。むしろ話し下手ということは、悲観するに及ばないことである」と。

これには、多くの人の反論があるかもしれない。流風はそれによって若い頃、慰められたような気がしたことは事実である。もちろん、おしゃべりが全て緻密である必要はないと思う。緻密でなくても、周囲を楽しませてくれれば、それでいい場合も多くある。

ただ言えることは、話し上手でないと自覚すれば、自然と論理的に考えることに目覚めがちではないかということである。文章にして考える癖がつくし、それによって論理的矛盾を発見しやすくなる。

もう一つ言えることは、話し上手な人は聞き下手な人が比較的多いことだろう。すなわち自己主張が強いのだ。逆に話し下手な人は聞き上手になりやすい。何でも情報を吸収しようとする。世の中はこの二つのタイプで占められているように思う(もちろん、話し上手で聞き上手な人、話し下手で聞き下手な人もいるにはいるが)。そして、商売で成功している人を見ると、意外と話し下手で聞き上手な人が多い。

ところが、企業では勘違いして、話し上手というだけで営業に回したり、話し下手というだけで内勤に回したりする。最近はそういう考え方を見直しているようだが、時々そういう営業に出くわすと、まだまだだなという感がする。それほどに人間の能力の評価は難しい。

それに人は変わる。話し下手な人も歳を重ねることによって、話がうまくなる人もいる。それは筋道の通った話し方で、相手にも理解されやすい。話し下手な人も悲観するには及ばないと思う。ただそれなりの自覚と努力が必要なだけだ。

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2005年11月10日 (木)

成功者と観察力

豊臣秀吉は、愛玩していた珍鳥を家来の1人が逃がして、その次第を恐る恐る言上したところ、彼はカラカラと笑い、「所詮日本国中は俺の庭、籠から逃げた鳥は、今頃俺の庭のどこかでさえずっているだろう」と言ったとか。

その秀吉は洞察力でも非常に優れていたといわれる。それは人に対しても、物に対しても。彼の有名な話で、持ち物で人物評をしているのがある。

五大老の徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜田秀家のそれぞれが持っている刀剣を見ただけでその持ち主がわかったという。それは至極始末な家康、武功を立てた頃を忘れない利家、親の影響の強い景勝、異国の風を好む輝元、見栄っ張りの秀家はそれぞれ、それとわかる刀を所持していた。

人は自分の趣味嗜好を隠そうとしても、出てしまうものである。頭隠して尻隠さず、のようになってしまう。そして、いくら隠そうと努力しても、人間として滲み出てしまう。部下の観察を日頃から怠りなくしていた秀吉の面目躍如と思われる。まあ、これは別に秀吉でなくても、当たり前という方もおられよう。そうであれば問題はない。あなたは偉い。

秀吉の逸話から学べるのは、大胆な思考に含まれた細心ということであろうか。リーダーは思考の豊かさと観察力によって支えられているのかもしれない。そう考えると、成功者には小心者が多いことがわかる。

本日は大燈国師の歌で締めくくっておこう。

  耳に見て 目に聞くならば うたがわじ

     おのずからなる 軒の玉水

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2005年11月 9日 (水)

公務員改革と法律の整理

現在公務員改革が強く叫ばれている。大変遅かったと思うが、やらないよりよいだろう。公務員の無駄遣いはなぜ起こるかといえば、仕事を作るからである。その典型が法律だろう。法律を作れば作るほど公務員の仕事は増える。

公務員改革をするということは、法律のリストラをやればいいのでは、と流風は思っている。それはいろいろな事件や事故が起こり、国民やマスコミが騒げば、規制を求める声が増え続ける。それに応じて、法律が作られ、それを守らせるために公務員が必要になる。こういう悪循環である。ということは、事件や事故が起こらないようにすることが一番大切なような気がする。そして法律をリストラ・改廃し、簡素なものにする。そうすれば、公務員はそれほど必要がなくなる。

これは言い換えれば、公務員改革は国民全体のあり方が問われていると思う。特にマスコミは事件や事故に対して騒ぐだけ騒いで事の本質を追及することを怠っている。国民はマスコミの影響を受けやすいので、あおられた結果、国民が騒ぎ出し、官庁はそれに対して、仕事を増やすチャンスが来た(全ての公務員がそう思っているわけではないが、官僚レベルではそうであろう)として、法律作りに邁進する。そういうことが、大きな政府になった原因だろう。

元の耶律楚材も次のように言っている。

「一利を興すは一害を除くに如かず。一事をふやすは一事を減らすに如かず」

役所の○○省の「省」は「かえりみる、はぶく」という意味である。役所の方々は、耶律楚材の言葉に加えて、この意味を深く理解して欲しいものだ。自浄能力がないというのであれば、政府の言うように、国民の方で強制的に整理するしかないのだろうか。だが、国民の協力なくして、公務員改革は進まないように思われる。国民としても、なぜ国や公共団体が肥大化したのかを理解し、どうあるべきなのか考えることが問われていると思う。

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2005年11月 8日 (火)

箸使い

最近若い人の間で、マナー講習がはやっているようだが、まず箸使いをしっかりしてもらいたいと思う。基本的に箸の持ち方がおかしい人が多い。作法以前の問題である。多分親が、きちんと子供の頃教育していないためと思われる。

流風は、子供の頃、箸の持ち方については、厳しく訓練を受けた。昔は、どこの家庭でも厳しかったと思う。最も難しかったのが、豆を一粒ごとに箸で取って移し変えることだった。それができないと食事させてもらえないのだから必死だったと思う。

お箸を、きちんと持つだけで、その人の人物がわかるような気がする。その人の親の子供に対する姿勢も当然見える。パートナーを選ぶ時、そういったことも大切である。

また、作法については、流風も自信がないので、ここでは軽くしか触れない。一応、不作法とされているものでは、さぐり箸、ねぶり箸、まどい箸などが有名だろう。その他にもいろいろあるようである。基本は美しく食べることである。そうしようとすると、姿勢もよくしなければならない。

こういった文化は、日本独特のようで、「身が美しい」すなわち「躾」とはそういうことで、この漢字は日本にしかない。日本人は、もう少し日本文化である「躾」を取り戻したいものである。

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2005年11月 5日 (土)

プロ野球球団騒動

村上ファンドが阪神球団の上場を言い始めてから盛んに紙面を賑わせているが、結論ははっきりしている。当面球団の上場はありえない。

プロ野球は12球団で一つの会社と考えるのが、普通の考え方で、上場するとすれば、プロ野球機構が上場すべきなのだ。その傘下にある球団が勝手に上場などしたら、全体の統制が取れなくなる。そんなことは企業人ならわかるはずだ。

村上氏は何か勘違いされていると思う。単に欲ボケかもしれないが。それに彼等(楽天、三木谷氏含む)には驕りを感じる。彼等を踊らしている黒幕も明らかになりつつある。その方々も含めて、いずれ大きな落とし穴に落ちるかもしれない。それは歴史が証明している。

“稔るほど頭を垂れる稲穂かな”ほど彼等に似合う忠告の言葉はない。私達庶民は遠くから観察することにしよう。

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2005年11月 4日 (金)

お茶と饅頭

流風は比較的お茶が好きだ。コーヒーもよく飲むが、頻度で言えばお茶の方が多いように思う。若い時、気分の高揚や、喜怒哀楽を抑制するため、熱いお茶を飲むことを思いついた。熱いお茶をゆっくりすすると、気分がすっと落ち着く。

お茶にも、番茶、煎茶、紅茶に加えて、いくつかの中国茶を加えれば、レパートリーも増えてきた。気分で飲むお茶を決めている。

それに落語の『饅頭こわい』ではないが、お茶といえば饅頭だ(ちなみに落語では、饅頭のあとにお茶が来る)。どちらかというと甘党の流風は饅頭とか煎餅が大好きである。でも豚饅も饅頭なんですよね。そんなに甘くないけど豚饅も好きだ。そして、それらに合うお茶が必ずある。

人間でもそうだけど組み合わせは大切である。一般的に人の場合、その組み合わせは本人同士が合うと思って決める場合と第三者から見て合うと判断される場合がある。本人同士が決める場合はしっかり両目を開けて相手を観察しなければならない。第三者に見てもらう場合は、適切な人生経験を持った人に選定してもらうことが望ましい。

お茶と饅頭の場合は、お茶や饅頭が意思決定できないので、人間という第三者が決めている。ただ、その決め方は饅頭からお茶を決めるか、お茶から饅頭を決めるかが人によって異なるかもしれない。いずれにせよ、第三者の視点になる。

お茶の話から、取り留めのない話で大きく脱線してしまった。流風は要するにお茶と饅頭が好きなんですよね。あっ、しまった。ブログで公開してしまった。饅頭はこわいと言っとけばよかった。

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2005年11月 3日 (木)

聞きたい声だけ聞く

人間というのは我がままに自分の都合のよいように思考しているのかもしれない。それを自制できるかどうかが人生の分かれ道のような気がする。

ところで、ある企業が聞きたい音だけ聞こえる装置を作ったそうだが、耳障りよい声だけ聞こえるようになったら危ないというのは以前にもブログで触れた(「イエスマン」)。

実際ブログでも自分に心地よい記事だけをついつい選択していると思うと、あっ、危ないと修正をかけるが、人間心地よい方向に走りがちだ。自分とは違う見識で、全く反対の意見こそ目を通さなければならない。

同調できる記事や同調してくれる意見は確かに楽しいが、自分の見解とは違う意見を楽しまなければ、人間の器は大きくならないといわれる。若い時は、それなりに実行していても、だんだんいろいろ経験することにより、自分の意見にしがみつくようになる。トップといわれる方は特に気をつけてもらいたいと思う。誰とは言わないが。

参考:
「イエスマン」 

http://ryufuu.cocolog-nifty.com/hibinokaze/2005/05/post_5939.html#comments

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2005年11月 2日 (水)

子供の責任とは

最近はどこにいても高齢者が目立つ。元気な高齢者ばかりだと問題はないが、いずれ自分の力ではどうしようもない事態に陥る。そういう場合の子供の対応は様々だ。

例えばAさんは子供が二人姉妹ですでに結婚されて、お二人とも遠方に住まわれている。それぞれの義父母の介護の問題もあり、親の面倒を見るために帰れないだろうから、子供には頼れないと思われている。いろんな世話は他人に頼るしかない。身体が弱いそうであるが、夫は妻の面倒を見ないらしい。

Bさんは独身で、子供がないため、介護の世話になるしかないと割り切っている。1人暮らしをずっと続けてこられたため、その辺の割り切り方はできるらしい。本心まではわからないが、結構楽しく暮らされているそうだ。

Cさんの場合は、子供が親の介護のために会社を辞められ、ずっと介護をされている。介護保険の時代でも、子供が近くにいると親は安心するそうである。他人に面倒をみてもらうのはいやという親達も多いようである。

Dさんの子供は大企業で出世され、遠方におられるため、親の面倒はまったくできない。子供の妻と折り合いが悪く、夫には先立たれ、介護保険の世話になられている。子供からは盆と正月に贈り物がくるだけで、子供と最近会ったことがない。だが、それは本当に寂しそうであるとのこと。

Eさんの場合は、何人かの娘夫婦が度々訪れ、その面倒はそれぞれが面倒を見ておられるそうだ。義父母の面倒とバランスよく調整しながら見ておられる。必ずしも近くではないが、そんなに遠方でないことも幸いしているのであろう。子供との関係作りがよかったことがこのような結果につながっているのではないか。

ざっと流風が知っているだけで、本当にいろいろ考えさせられる。実際はもっと様々な親と子の関係があるだろう。高齢者時代、少子化の子供たちはどのように親に対応していくべきなのか。親も若い時は子供の世話にはならないと強がりを言っても、次第に気弱になっていく。だが親の変化を見抜き対応している子供は少ないと思う。

親の介護のあり方、他人による介護の利用の仕方、子供自身の仕事・生活の問題のバランスは意外なほど難しいかもしれない。子供に見てもらおうとすれば、長期に人間教育を図るべきだろう。

しかし、それでも、やはり親の世代が早めに老計、死計という覚悟をするべきなのかもしれない。すなわち現代では子供はあまり当てにならないと考え、親はそれぞれの計画を早めに立てるのは止むを得ないのかもしれない。ただ、それが社会にどのような影響を与えていくのか心配である。

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2005年11月 1日 (火)

真に強いとは

競争社会でいかに生き残るかということは大切なことかもしれない。しかし、真に強いリーダーは限られている。いそうでいない。それが現実の世界のような気がする。

中高年の方には、ほとんど知られている話で、『木鶏』という話がある。若い人に聞くと意外と知らない方がいるので念のために紹介しておく。この話は『荘子』とか『列子』に載っている。話の概要は次の通りである。

紀渻子という人が闘鶏の好きな王のために軍鶏を養って調教訓練していた。王は矢の催促でまだまだかと言ってくる話である。

王が10日ほど経つと「もうよいか」と聞くと、紀渻子は、「まだ駄目です。むやみに威張って俺がというところがあります」と答えた。

さらに10日経って王が聞くと、「まだ駄目です。相手を見たり声を聞きつけると、興奮するところがあります」と答えた。

さらに10日経って聞くと、「まだ駄目です。相手を見ると睨みつけて気勢を張ります」と答えた。

王が更に10日経つて聞くと、「どうにかよろしいでしょう。他の鶏の声がしても、もう何も反応することがありません。これを離れて見ても、木で作った鶏と何らかわることはありません。その徳は完全なものになりました。もうどんな鶏を連れてきても、これに応戦するものはなく、背を向けて逃げてしまうでしょう」と答えた、という物語である。

流風には、とても考えられないことだが、会議などして侃々諤々論議して一向にまとまらない感じがしていても、ある人が席に着席しただけで、自然と何かが決まってしまう人物は確かにいるし、そんな経験もある。「ある人」は、必ずしも、特別、地位が高いわけでもない。

そのようなリーダーは全てを知っていて、なおかつ人間的に魅力のある人が多い。若い時から、人間的な努力を積み重ねて、信用を重ねてきた結果ともいえる。

ところが世界の大国のリーダーを見ると、木鶏とは程遠い。彼等は木鶏になろうともしていないし、木鶏という話も知らないのかもしれない。この話の出所の中国のリーダーさえも。

そういう状況下で日本が生き残るにはいろんな知恵が必要な気がする。果たして、私達は国に「木鶏」となりうるような知恵を提供できるのであろうか。

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