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2005年12月28日 (水)

バブルの軌跡

現在、株価が異常なスピードであがり続けている。不動産も都市部では堅調なようだ。専門家によると、今回は前回のバブルとは様相が違うと指摘する。確かに、デフレからインフレへの転換点にあるのかもしれない。変化する時は、世の中の動きが激しいのかもしれない。

流風自身の確認のためにも、前回のバブルを簡単に覚えを以下に書き出してみた。資料を見て調べていないので、若干の間違いはあるかもしれないが、大体のところはあっているつもり。

1985年9月にニューヨークで開かれたG5におけるプラザ合意がバブルの発端である。これは自由貿易の活発化を促進し、ドル高の是正にあった。なんたって当時は一ドル260円程度だったのだ。もちろん、是正するにしても緩やかな是正を考えていたが、市場は過剰に反応し、1988年1月には120円まで円高になった。

円高に対して、企業が大騒ぎしたものだから、マスコミも大きく取り上げた。政府は慌てて色々な政策をとる。円高不況対策として、まず低金利政策をとった。その結果、銀行など金融機関はお金があまり、それを資金需要がないのに企業(サラ金含む)や個人に無理やり融資して、必要のない不動産投資・株式投資などを企業・個人にさせた結果がバブルである。誰もが少しおかしいなあ、とは思いつつ幻想を追っていたのだ。

そのような実態のない経済がそんなに長くは続かない。それはバブル崩壊という形で徐々に現れてくる。銀行は不良債権を抱える時代になり、銀行・証券会社倒産の事態にまでなった。

当時、一部の企業や人々を除いて、国も人々も落ち着きをなかなか取り戻せなかった。対処療法で右往左往していた。つまり景気を良くすることのために借金を増やしてまで歳出を増やしたが、景気は回復せず、それが歳入・歳出のバランスをさらに悪化させていった。そのことに関しては、一部元官僚や知識人が指摘されていたにもかかわらず、危機感の足りない当時の政治家や多くの官僚はその利権のため聞く耳を持たなかったことが大きく災いしている。

その政策の過ちに気がついたのは90年代後半頃からで、やっと国の財政が大変なことになっているのに気づいた。国家財政は多くの矛盾を抱えて、どうすることもできない異常事態になっていた。それは戦後デフレということを経験していなかったため、過去の経験に捉われて、その解決方法を探るのに時間がかかりすぎたことが原因の一つであろうと言われている。

そして、やっと経済の建て直しとして、金融機関の不良債権の処理を急ぎ、近年その問題はほぼ解決しつつある。いろんな評価はあるだろうが、最近の景気回復は福井俊彦日銀総裁と竹中平蔵大臣が作り出したと見ている。もちろん、小泉首相の強いバックアップがあったことは間違いない。歴代のボンクラ首相と違って、比較的短期間に指導力を発揮したのは、この問題に関しては、単純に偉いと思う。

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2005年12月25日 (日)

教育改革の前に考えること

現在の日本の教育は日本の将来に対して危険な状態にある。現在の教育体制は戦後復興において戦争で失った多くの人材を補うための促成栽培教育の名残である。しかし、それは現在の状況に全く当てはまらなくなっている。

それにもまして、一体、現在の教育の中身は何なのか。学校教育だけでは不十分として、受験用の学習のために塾通いをして、意味のない学習を続けることが大勢になっている。

そのような受験テクニックは、結局彼らの生涯には、あまり役立たないことは明らかである。そして、結果的には、子供たちは一番大事な時期に無駄な時間を過ごしている。

学校の授業は一体何なのか。母親は子供に塾に行かせるために、塾代を稼ぐためにパートで働き、そのため子供たちとのコミュニケーションは十分でなくなる。当然夫婦の会話も短くなって、家庭崩壊の危険性をはらむことになる。何かがおかしい。

他方、企業ではIT化の進展により、事務的仕事の占める割合は減っている。日本の教育は高級事務員の育成だから、今の企業にはあまり必要がない。

企業が求めるのは創造的な仕事ができる人間である。自ら情報を収集し、分析し、自分なりの考えをまとめて、それに基づき行動する人間が求められている。すなわち、自ら課題を課すことができる人間が求められているのだ。

ところが日本の大学はそういった人材は提供していない。長年の偏差値教育で受験疲れしたゴムの伸び切った人材しか提供していない。大学では受験勉強の反動からアルバイトとサークルの遊び場になって本来の勉学に励んでいないのだ。

それは私の世代でもそうであったが、現在では大学生としての意識も低い。そして大学院はもっとひどい。学問が地に足がついていないため、中身が伴わないのだ。もちろん教える側にも問題がある。

結局、企業としては大学院卒は大卒より出来が悪いと言う評価なので、基本的に採用は慎重になる。更に、今、大卒は専門学校の卒業生より質が悪いと言われる。このように人材の需要と供給が非常にアンバランスになっている。日本の教育が行き詰っていることは間違いない。

教育改革が叫ばれているが、人間教育をベースに、再度『礼記』の基本に戻って、小学校から教育の仕組みを考え直す必要がある。よく米国のやり方を見習えと言われるが、あれは、そもそも中国の『礼記』に載っているやり方なのである。すなわち

①まず子供の悪習を断つ。
②学習意欲に応じた教え方をする。
③思考力の程度に応じた個別の教え方をする。
④学生同士の議論により、理解を深める。

というものである。このようにすれば、小学校の段階では塾などいらない。後に大学生になってからも、自らの課題を設定して、追い求めるようになる。そういった学生を大勢にしなければならない。教育の基本は、昔も今も変わらないのだ。

日本は一度体制が出来上がると、ずっとその体制を維持したがる傾向がある。時代に合致した教育体制にしないと日本の将来は危うい。もう一度原点に戻って、人間教育をベースとしながら、時代の求める多様な人材づくりに励むべきであろう。

また、そのためには、民間企業等の定年退職者などの補助教員・ボランティア教員の採用も積極的に考えるべきであろう。なお、彼らには、教員免許は不要であることを付け加えておく。

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2005年12月24日 (土)

外交の一貫性

民主党の前原誠司氏の外交姿勢に批判的な意見があるようだが、別に彼の言う外交政策が自民党の主張と似ていても何ら問題はないと思う (その外交政策の中身は問題があるが、そのことは別にして)。そもそも外交には、どんな政権になろうと一貫性がなければならない。政権が変わるごとに外交政策が変われば、それは国益に反することになる。

そういう意味で、民主党の前原氏の投げかけた外交姿勢は評価していいと思う。彼の野党としての外交センスは今の日本に求められることなのだ。自民党後継者にこういう人材がいないから、小泉首相としては彼をヘッドハンティングしたい気持ちだろう。

ただ前原氏の外交絡みの憲法改正への考え方は民主党としての立場を無視しており、自民党との対立軸としては、彼の信条はともかく、護憲(あるいは公明党の主張する加憲を容認)を主張すべきだろう。そういう意味では、彼の外交方針の方法論に関しては再吟味に迫られるかもしれない。

ところで日本は政権が変わるごとに外相をころころ変えるが、あれは宜しくない。本来、外相と言うのは、政権交代にしろ、内閣改造にしろ、簡単に変更すべきではないのだ。

なぜ日本の外交が成功していないとかというと、それは外相を頻繁に変えることにある。世界とのお付き合いも基本的に人間関係であると考えるならば、そんなに頻繁に外相の変更はありえないはずなのだ。そして外相の位置づけも副首相くらい(本来ならトップ)の位置づけでなければならない。自民党の外交軽視の歴史は、日本外交のつたなさにつながっている。

また日本には外交を専門とする大統領制もないことも災いしている。首相が内政と外政と兼任していることもおかしい。実際、小泉首相のように外相未経験者は、外交で苦労している。それに日本のような大国で首相が両方こなせるとはとても思えない。首相はスーパーマンではないはずだ。

小泉首相は、それなりに努力されていると思うが、その割りに成果が出ていない。対米重視はいいが、その表現が素直過ぎて、その他の国々に多くの誤解を与えている。極めて頓珍漢な外交が多い。それは外交センスというものが欠けているからだ。そういったものは急に身につくものではない。専門にやって身につくものである。外交の戦略性についても同様であろう。

日本が将来も大統領制を取り入れないとすれば、外交に関しては何か新しい仕組みを作らなければ、戦略性もなく、一貫性もなく、機敏な対応もできず、世界から取り残されることになるだろう。憲法改正も第九条がすぐ話題になるが、現状、全く改正の必要はなく (米国も将来の米国の国益を考慮すれば必ずしも望んでいないように思う。機敏に変化対応できる各種法律の周到な用意ができるなら現憲法で十分対応できる)、むしろ機敏に意思決定できる政府の仕組みに変える必要があると思う。やはり大統領制の検討はできないものだろうか。その方が、すっきりするんだが(*注)。

*注

現実には、大統領制は不可能に近いようだ。むしろ、首相の分業が求められる。副首相を3名ほど欲しい。

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2005年12月23日 (金)

マスコミ報道姿勢の問題点

来年度(2006年度)税制改正大綱が発表された。概ね増税の方向にあり、一部のマスコミでは、その増税政策を批判している。その内容は負担がこれだけ大きくなるという説明が極めて多い。

ただ私達が気をつけなければならないのは、なぜそうなったかを理解することであり、また歳出の中身がどうなって、そのバランスで、税制をどのように変えようとしているのかを知ることである。

その点、マスコミの報道姿勢に疑問を感じる。税制改正大綱においては、決まりかけは決定の意味に近い。すなわち、ほぼ決まりかけていることを批判しても何も意味がないのである。

だから、その時々で、決まりかけていることを批判的に煽るだけ煽ったところで、国民としては、この段階で反対しても、無駄と思っている人も多いだろう(実際は無駄ではないかもしれないが)。これは単に人々の消費意欲を抑制するだけの効果しかない。

マスコミ報道は、その特性から、プロセス報道がいい加減で、これといった提言もないままに終わることも多い。確かに全く触れていないとは言わない。ただ継続的な問題提起が弱いのである。継続的に国民に訴えないと、国民は日々の生活に追われているため、問題意識を持つことが難しい。

そうすると、国民からは賛成とも反対とも国には聞こえてこない。そのため、政府・官僚は何も問題がないと思い込み、どんどん話を進めてしまう。今まで、その繰り返しだったように思う。

「点」における報道の限界であると言ってしまえばそうだが、何かもう一工夫求められる。プロセスは簡単に報道 (マスコミのレベルでは報道したつもり) して、後の結果は知らないと言う無責任で済まされるものではないはずだ。

今では、ネットとの併用で情報を流す手段もある。論点を整理して、国民に提供すれば反応はあるはずだ。国民はそういう場を求めているはずだ。国に直接提言することも仕組みとしてはあるが、個人で提言しても限界がある。マスコミで国民の思っていることの論点をまとめれば、国としても大勢が把握でき、助かるはずだ。それに一般国民はそれほど馬鹿ではないのだ。

また日本のマスコミの旧態依然の体質は、よく指摘されるように、記者クラブから情報をもらうため、情報をもらえない危険性を重視して、当局に対して批判的な報道をしない姿勢である(*注)。

その結果、情報源が限定され、自分で考えて独自の取材をしない姿勢になってしまう。これらは彼らの本来の役割を自ら貶めて、その及ぼす影響力を単に利用されているということなのだ。

マスコミの役割は、国と国民と一定の距離を保ち、問題の本質の客観視と時系列でものごとを把握して国民にわかりやすく説明することでなければならない。現在の日本のマスコミにはそういう意識が欠けていると思う。

ある時点での現象を煽るのが役割ではないはずだ。本来あるべきマスコミの役割を再認識してもらいたい。また国民に意見の場を提供し、それをまとめていくのがマスコミの役割でもあるのだから、もっと積極的にネットの活用を検討すべきだろう。そういう活動がマスコミのレベルを上げることになり、ひいては国民のシンクタンクにつながるのである。

*注

そればかりか、政府の姿勢を常に容認する発言する人をコメンテイターやコメンターとして取り込み、当局にゴマをすっているマスコミも存在もある。御用学者、御用政治評論家、御用エコノミスト、御用文化人等だ。テレビ等は、よほど注意しないと、間違った認識につながる可能性がある。ここでは、具体的に氏名は挙げないが、各人がチェックしてみると、自然に分るだろう。

*追記

誤解を与えてはならないので、一応記すと、マスコミは、権力に対しては、常に批判的に報道することは正しい。ただ、もう少し、情報を整理して、再度発信する部門が必要だということ。流れる情報を流れるままに流すだけでは、マスコミの価値は低減する。

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2005年12月22日 (木)

趣味を考える

流風は趣味は無い方である。最近であれば、強いて言えば読書かもしれないが、本来読書は趣味の範囲には入らないだろう。その他のこと、例えば音楽鑑賞、映画鑑賞、絵画鑑賞なども深くは知らないので趣味という領域でない。と言うわけで、無趣味に近い。

そういうわけで、金のかかる趣味は何も持ち合わせていない。時々これでいいのかと思うこともあるが、今更何かをやりたいとも思わない。あっ、そうだ。庭いじりなら少し興味が。若い時はあまり好きではなかったが、庭の手入れを手伝っていたら、意外に面白いので、その方面に少し力を入れてみようと思う。人間観察も面白いが、物を言わない樹木観察も面白いかもしれない。

人はそれぞれ自分の趣向にあう趣味を持っている。それを大事にすることは無駄ではない。人間に飽きたときは、そういうことで息抜きできる。そうすることが、人間関係をリフレッシュできることでもある。遅まきながら、少し趣味の範囲を広げていこうと思う。

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2005年12月20日 (火)

小学校時代の思い出 その1

小学校に上がったとき、母親があれこれ忘れ物はないかとうるさかったのを思い出す。近所の年長者と一緒に学校に行くのだが、不安だった。心細く学校に行くと、みんな忘れ物だらけ。なんだ、なんとかなるんだと思ったことを思い出す。現在の母親達も大変子供に構うようである。だが、それもほどほどにしないと、自立心がつかない。過剰な子供への介入は子供のためにならない。

低学年の頃、小児喘息のため、授業中、コンコンとやるものだから、嫌がられた。いじめというほどではなかったが、大変しっかりした女子三人組に休み時間にかなりきつく嫌味を言われたことを思い出す。今から思えば、彼女らの嫌味が皆を代表しており、男子生徒からのいじめを防いでいたことになる。

彼女等の言葉を受け取る側としてはセキをする当人は苦しいのだから一番辛かった。しかし当時は回りの人間の気持ちまで気が回らなかった。実際セキで授業がその度ごとに中断するのだから、皆にとっては迷惑そのものであっただろう。

ちなみに彼女等の1人は遠いところに転学してしまうのだが、中学生頃まで年賀状のやり取りがあり、優しい言葉が連ねられていたのを覚えている。他の二人はそういうことはなかったが、いつも見守ってくれていたような気がする。一般に男子生徒は関心がある女子生徒をからかったり、いじめたり、スカートめくりをしたりするが、その逆バージョンであったかもしれない。子供の頃は結構可愛かったかも(笑)。

その喘息も、小学校の中頃になると自然に治った。祖母が母の心配に対して、大きくなって体力がつけば治る、と言っていたのを思い出す。これは今から思うと、母親の心配が子供に伝染して、症状を改善しないと考えることもできる。過保護もほどほどにしないといけないのだ。

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2005年12月19日 (月)

悲惨な事件を考える

幼児の虐待や、小学生の殺人事件など、大変ショッキングな事件が多すぎる。なぜ、このような事件が多発するのだろう。文部科学省もいろいろ対策を考えているようだが、文部科学省だけで解決する問題でもない。そこで流風も少し考えてみた。

① 犯人のパターンに計画的犯罪と衝動的犯罪がある。それぞれの個別に対応方法を講じる必要がある。但し、事件に対処するだけでは、根本的解決にはつながらない。ⅰ 社会的問題なのか、ⅱ 犯人個人の特殊な問題なのか、それぞれに検討が必要である。

② 根本的な社会の変化を再認識する必要がある。

   ⅰ まず儒教思想が日本から消えてしまったことがあげられる。
              日本は性善説前提で成り立っているが、それで解決できない。
        残念ながら、欧米風の性悪説で社会の仕組みを変える必要がある。

   ⅱ 日本の文化に馴染まない海外からの労働者の問題がある。
              米国や欧州で起こっている移民問題は他人事ではない。
             長期に彼等を受け入れる素地・体制があるのかどうか考える必要がある。

③ 人間の心理に悪影響をもたらすメディアの自己規制ができていない。メディアの流す情報に自己規制が求められる。

自己規制できないので、規制しようとすると、言論の自由と言うが、「自由」を履き違えている。自由とは社会的責任を伴う。人々に悪影響をもたらすテレビでのサスペンスドラマ、ホラー映画の放映、幼児・若年者虐待有害図書などを基本的に禁止することが求められる。また性描写も制限する必要がある。それらが若い人の精神を蝕んでいることは間違いないからだ。

   ⅰ 出版物におけるホラー、サスペンス、性描写の表現の制限
              規制すると共に、購入規制をすること。

   ⅱ 映画でのホラー、サスペンスは観客の年齢制限をすること。
              映倫規定を厳格に設けること。

   ⅲ 有害図書・ゲームコンテンツの発禁処置をすること。

④ 凶悪犯罪者の更正には期待しないこと。

儒教教育を受けていない世代に更正は不可能に近い。社会から隔離することが求められる。更正は儒教教育社会が前提となっている。儒教社会の崩壊した現代では、社会へ復帰させれば、再犯罪の可能性が高く、社会を再び恐怖に陥れる。よって、まず凶悪犯罪者を生まない社会の仕組みを考える必要がある。そのためには、犯人を作り出した家庭環境、両親の状況を調査・精査することが求められる。

   ⅰ 特に両親に心理的に不安定で問題が多いことが、犯人につながっている。
              夫婦の不和、喧嘩などは子供の前で見せないことが求められる。
              多くの家庭で危険性をはらんでいることを認識する必要がある。
              基本的に家庭の役割を知り、堅実な生活態度が望まれる。

   ⅱ 基本的には幼少の時代に母親の愛情不足が問題をもたらしている。
              家庭内教育の必要性と専業主婦の再評価が求められる。
              以前もブログで述べたが、幼児教育に母親の占める役割が大きい。
              父親は参加するなとは言わないが、過大な役割評価はできない。
              現在専業主婦への風当たりはきつい。
              しかし、子供が小学校を卒業するまでは評価すべきだろう。
             家庭内における子供の人材育成はどんな仕事よりも尊い。

⑤ 子供は基本的に親が守ること。そして子供を守ることは地域社会の問題であること。

  ⅰ 親は子供を守らねばならない。
            映像が自分の子供が将来加害者になる危険性を認識すること。
            それを踏まえて家庭教育を徹底することが求められる。

  ⅱ 文部科学省の施策や学校教育の改革だけでは解決できない。
            これは社会的問題との認識を持つこと。
       また子供は地域で守る意識を持つこと。
            保護者も積極的に地域活動に参加し、他人の子供にも関心を持つこと。
       それが自分の子供を守ることにつながる。

⑥ 基本的に小学校時代の塾通いを禁止すべきである。

  ⅰ 夜遅くまで、子供が繁華街を塾帰りか知らないが、うろついている。
            昔では考えられない。危険極まりないと言える。

  ⅱ 小学生に受験のための塾通いは不要である。
           小学校というのは、基本的に本人の特性を把握する期間である。
           また小学校エリートが社会に貢献する率は低いことの認識。
           勉強疲れの子供たちは大学入学で全てを完成したと勘違い。

  ⅲ ゼネラリスト養成のためだけの教育はいい加減にやめるべきである。
           また母親は子供の特性を把握して、長所を伸ばす視点が望まれる。

⑦ 子供を守るにはマスコミの協力なしでは進められないこと。

マスコミの子供たちへの影響力は大きく、社会に善であることの報道を多くする必要が求められる。危険を知らせる報道ももちろん必要だが、そればかりだと社会が萎縮してしまう。それは結果的には法律や規制で担当官僚の予算増額プランを増やすだけにしかならない。根本を解決するために一般国民は何をすべきかを提言してもらいたい。

ざっと、以上のことが思い浮かばれた。いろいろ問題はあるだろうが、子供は国の財産である。皆が関心を持って、守っていかなければならないと思う。

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2005年12月15日 (木)

大型店の苦痛

いつ頃からか、大型店が進出するようになって久しい。ワンフロアーの広さが3000平方メートルとか、それ以上だろうか。大きい駐車場がついている。確かに商品の陳列数は豊富だ。在庫も十分で、その日に引き取れる。そういう意味では、企業側からすれば機会損失も少ないだろう。

だが、こういった大型店舗は苦痛になってきた。流風がそれだけ歳がいってきたということだろうか。広いフロアーを商品を求めて動き回るのは、若い時は、ある意味楽しいが、段々楽しめなくなってきた。それに、商品はその日に入手できなくても、予算の範囲内で確実に入手できるのであれば、入手日が確定でき、配達日が確定すれば十分である。基本的に店では機能とかを現物を確認できたらそれでいいのだ。

今後中高年は人口の半分近くを占めると考えれば、店舗のあり方も再考を願いたいものである。縦横に広いフロアより、300平方メートルくらいで、上下移動できる昔ながらの店舗の方が楽だ。売り場に何があるか、わかりやすい。商品をショールームのような感覚で展示すればよい。後は宅配かなにかで送ってくれればよいのだ。

今すぐ持ち帰らねばならないというのは季節品とか消耗品に過ぎない。それだって、配達してくれた方がいい。季節品は基本的に在庫のある分しか注文しなかったら、配達がそんなに遅れることもないだろう。また消耗品は配達してくれるのなら、1カートン注文してもいいのだ。例えばトイレットペーパー、ティッシュペーパー、ペットボトル入り水など。

もちろん、都市部と郊外ではその店舗戦略は異なるかもしれない。しかし、配達してくれるのであれば、わざわざ車に積んで持ち帰ることもない。そうすれば、店舗面積はそんなに広くする必要はなくなる。企業には競争環境から、あるいは顧客のいろいろな考え方などから、種々の考え方があるとは思うけど、中高齢社会における店舗のあり方を再考し提案して欲しいと思う。

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2005年12月14日 (水)

認識違い

私達は度々間違った認識をしてしまうようである。世間で常識になると、あるいはある言葉が一般に使われるようになると、それが正しいと思ってしまいがちである。例えば、「夜の蝶」といえば、盛り場あたりのお姉さんを指すといわれる(最近はあまり言いませんが)が、生物学的には表現がおかしいらしい。

蝶は太陽の光を視覚で反応する。よって夜は活動しない。むしろ、蛾の方が相応しい。蛾は光には反応せず、匂いに反応する点でも。実際、夜は男は匂いとか雰囲気で反応している。大体、若い方は知らないけど、夜はお姉さん方の顔なんか見ていないもんね。見慣れたパートナーでも同じかもね。

まあ、日本人としては蝶のイメージが高く、「夜の蛾」と表現すれば、ムードも何もないから、夜の蝶というのかもしれない。確かに経験的に蛾の耳障りは悪い。そのように日本人は蝶と蛾は別のものと考えている。英国も「バタフライ」と「モス」とは分けている。フランスは区別せず、映画の題名にもあった「パピオン」で統一されているらしい。事実、生物学的には蝶も蛾の一種らしく、フランスの呼称の仕方が正しいことになる。

このように文化が養ってきた常識と言うものは、世界に必ずしも共通するものではない。もちろん生物学的に正しいからといって、呼称を分けることが悪いわけでもない。今更、別にしているものを同じにしろと言うつもりはない。

ただ正しい知識を持って、お互いの違いを認識する意識は大事だと思う。世界の国々と付き合う場合、最も必要とされるが、どこかの国の首脳同士は未だにそれに気づいていないようだ。トップの人間の器が小さくなっていると感じざるを得ない。

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2005年12月13日 (火)

ラジオ放送のコンテンツ

流風はどちらかというと、ラジオ派である。昔ながらの“ながら族”のくせが抜け切らないからかもしれない。

その点、“ながら族”とはいかないテレビは基本的に見ない。それにテレビのコンテンツが視聴率を意識しすぎて、内容がないのは、相当前からはっきりしている。視聴者を愚弄した番組が多すぎる。

例えば、出演者だけが笑う少しも楽しくないお笑い番組、出演者だけが楽しそうなグルメ取材番組、殺人事件やそのトリックが度々出て社会的に悪影響を及ぼしそうなサスペンスドラマ、訳のわからない専門家以外の人によるコメントを出させるニュース報道番組など。そんなのを見るのは時間の無駄でしかないと思っている。そんな番組に広告を出している企業も見識が疑われる。

ところがである。最近のラジオのコンテンツもイマイチだ。特に中波の放送番組は見直しが必要だろう(ただし、流風は関西のことしか知らない)。というのは、あまりにも、井戸端話(最近は井戸などないか)風の、うだうだ話しの番組が多すぎるのだ。内容もない。公共の電波を使って放送する内容とはとても思われない。放送を私物化していると言っても言い過ぎではないと思う。

特に芸人・タレントを使っての、くだらない話はもう飽きた。彼等は一般人の感覚で世間を代表していると思っているかもしれないが、とてもずれている。そんな時間があれば、芸を磨いてもらいたい。出演料欲しさで芸を落とすようなことをしてもらいたくない。もちろん芸能事務所の方針に問題があることは否めない。

また最近はアナウンサーも芸人化しているようだが、一人前に意見を言う。それがまともであればいいが、ピントがずれていることも多い。若いアナウンサーなら許せるが、ベテランアナウンサーだと聞き過ごすこともできない。情報を伝えるアナウンサーが意見を言うのは望ましくない。ネットで多くの情報が流されている現在、マスコミからもたらされる情報は限定されている。聴取者と放送関係者の情報格差は小さくなっている。わかったような意見は言わない方がいい(言いたければ、ブログを開設してそこで言えばよい)。

それから民放の場合、スポンサー絡みでマスコミ報道も限界があるといわれる。裏コンテンツに関しては、最近では賢くなって、タレントを採用し、放送局の意見を言わせているようだが、それも作為があって、あまり好ましくない。そうであれば、取材記者や専門家を前面に出し、スポンサーに遠慮せずに彼等に事実を解説させればよい。その方が真実味がある。

本来、ラジオのコンテンツは、ニュース、ニュース解説、交通情報、天気予報、音楽、スポーツ、地域・文化情報、自然災害等緊急報道中心で臨むべきだろう。ぐたぐだとした話は不要である。どうしてもなら、専用ブログを作って、そこで意見を述べればよいのだ。そのように、放送とブログとは役割分担すべきなのだ。至急、ラジオ関係者はコンテンツを見直しして欲しい。

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2005年12月12日 (月)

食わず嫌いと結婚

“食(くら)はざれば、その旨きを知らざるなり”と言われるけれども、食わず嫌いな人もいる。流風も、その1人かもしれない。誰でも、程度は違えど、ある程度は食わず嫌いかもしれない。

ただ流風の母のようなのは少し稀かもしれない。先日初めてシューマイと豚饅を食べたそうな。その感想が「こんな美味しいもの、食べたのは初めて」とのこと。そして「もっと早く食べておけば良かった」。

棺桶に足を突っ込むのが近い?年齢になって、やっと気づくか。人間、食の経験による食に対する拘りは強いが、それも、ほどほどにしないとね。味わってから、止めても遅くないのだ。

関西で食わず嫌いと言えば、納豆だろう。最近は本来の納豆とは少し異なる関西の口に合う納豆も販売されているが、それでも食しない人は依然多い。流風は納豆は比較的食べるが、覚えたのは、あの吉野家である。

若い頃、朝食を作るのが面倒くさくて、だけどパン食では昼までもたないので辛い。そこで外食。当時から朝飯屋はあったが、開店時間が少し遅いので、探した結果が早くから店を開けていた吉野家だった。

朝食メニューがあり、最初は鮭定食などを頼んでいたが、隣に座った人が納豆定食を食べていたので、試しに、はじめて頼んでみた。最初は食べ方もわからず、隣の人のやるように見よう見まねで食べたことを思い出す。それが意外と抵抗なく食べられたのが、現在まで続いている。

これは結婚も同じだと思う。少し言い過ぎかな。でも、これは流風の苦い経験からのアドバイス。若い人が経済的なことや結婚後のことをあれこれ心配して結婚しないのは勿体無い。結婚も若い時の失敗ならやり直せるし、体力がある若い時にしかできないこともある。

今は人生80年。同じ人と一生暮らせるのもいいが、適当な年齢でパートナーを変えるのも悪くない。現代では、同じ人と暮らせるのは30年くらいと割り切った方が現実的だ。熟年離婚なんてドラマが流行っているそうだが、人生50年の時代と人生80年時代の結婚生活は同じ必要がないと思う。

食わず嫌いで結婚しないでいるより、一度経験してみた方がいいと思う。やり直す年齢を考えておいて若い間に結婚するのも一つの考え方であろう。それが結果的に一生同じパートナーであったとしても。真面目な若い人はもう少し気持ちを楽に持てばと思う。

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2005年12月 9日 (金)

漫画のメリット・デメリット

流風は基本的にどちらかというと、やや左脳偏重気味なので、滅多に漫画を読まないが、時々息抜きとして読むこともある。

漫画のよさは、結局、新規導入理解力の促進だろう。文字を読むより、早く理解できることもある。短時間に大量に概要データを入力したい場合は適切かもしれない。多分、右脳が活動しているのだと思う。それに芸術的な解釈分野においては、その導入部としては力を発揮するだろう。

例えば、若干古いが、渡辺睦子作画『マンガ能百番』(平凡社)などは、一般には取っつきにくい能を漫画でおもしろおかしく表現していた。あらすじも的確に把握できる。この本を読んで、能に興味を持った方々もいることだろう。他の伝統芸能も、漫画でもっと紹介されたらと思う。

その他、ブログでも、例えば『農家の嫁の事件簿』は漫画風イラスト日記で、畜産農家の日常が描かれており興味深い。この農家の日常に触れて、畜産に関心を持つ人が出てくるかもしれない。写真なんかと比べても、書き手の人間性が出ていると興味を持ちやすい。

但し、漫画もコンテンツに内容がなければ、無駄に時間を過ごすことになる。それが息抜きだと言う人々もいるかもしれないが、それはそうではないと思う。コンテンツに意味のない劇画はゲームや携帯入力と同じで、見すぎたり、やりすぎると、脳の思考を単純化させたり、疲れさせたりしてしまう危険性が伴う。

何でもそうだが、それなりに目的を持って、適度に付き合うのが良いのだろう。

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2005年12月 8日 (木)

健康管理とブログ

季節外れの健康診断の結果が出た。いろいろあったため、健康診断が半年遅れていたけど、その結果が出た。内容的には、「良」でホッとした。年齢的に「優」にはならないが、「良の上」ぐらいらしい。久しぶりのよい結果である。

ここ十数年、血液検査の結果が思わしくなく、生活習慣病の危険性を指摘されていたが、今回は急激に改善されているようだ。血液はサラサラらしい。しかし、生活にさほどの変化もないし、不思議だ。運動量も食事の内容もそんなに変わっていないと思う。

一体何があったのだろうかと考えてみた。わかったことは一つ。4月からブログを始めて、生活の中に入ってきたことだ。できるだけ一定の時間に取り組むようにしている。でも、それだけなら、別に目新しいことはない。だいたい流風の生活パターンは規則正しいのだ。

それではと考えると、どうやらコンテンツのようだ。日頃考えていることを吐き出しているため、それがストレスの発散に役立っているのではないかということだ。人により、コンテンツの中身は十分考えて配慮しながら書かれている方も多いと思うが、流風のように気ままに書いていると、ストレス発散にはなるようだ。ネタになった人に感謝!

ということで、今後も、うだうだと書いていきます。

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2005年12月 7日 (水)

味わう文化とコミュニケーション

自分自身の食事のスピードを見てみると、とても味わって食事をしていないことに気がつき、修正するのだが、どうも悪い癖が直らない。いつから、こんなことになったのだろうと考えると・・・。

子供の頃はゆっくり食事を取っていたし、親からもそんなに急いで食べるようには言われなかったと思う。静かにゆっくり味わって食べなさいといわれた。何十回も良く噛んで食べると賢くなるとも言われていた。その割りに、あまり賢くならなかったが。

それが小学校に行くようになって、給食というものがあって、ある一定の時間内に終えないと、友達と遊ぶ時間がないので、食べる速度がやや速くなったかもしれない。しかし、家庭では、ゆっくり食べるので、総合的に見ると、ゆっくり食べていたように思う。

中学・高校の弁当時代は、早弁する者もいたが、そういうこともなく、割と真面目に自分のペースで食べていたと思う。大学時代は、それこそ学食だからマイペースそのものだった。全体的に、学生時代までは、自分のペースでゆっくり食事していただろう。

だが社会人になって、その様相が変わった。企業に就職すると、ゆっくり味わう時間は与えられなかった。基本的にゆっくり食べることが許されなくなった。どちらかというと、呑み込むような食べ方をしないと、先輩に追いつかない。

遅れると、放って置かれるから、どうしても早く食事を済ますようになった。この頃から、胃腸の調子がおかしくなったように思う。私の経験した企業社会においては、最近は知らないけれども、食事は軽く見られていたようだ。

それにも増して、最近は企業社会だけでなく、最近の親は子供に早く食べなさいとだけ言うようだ。それは後片付けのことしか意識がない。本来あるべき躾とか教育への視点が欠けている。

子供に正しく食べる方法を躾けると共に、子供の考え方や起こっていること、考えていること、悩んでいることを聞く時間であり、コミュニケーションの時間であることが忘れられている。

最近、スローフードとかよく言うけれど、食事は本来「味わって食べるもの」ではないのか。家族が一緒に食事する昔の日本の食卓の復活が望まれる。現代では、静かに食事を取ることは難しいかもしれないが、コミュニケーションの場としては、食卓は今でも適切であると思う。夫婦間、家族間のコミュニケーションが食事を通じて増やすことが求められる。それは家族の心身の健康維持につながるはずだ。

実際、個食では食べる速度も速くなり、コミュニケーションができないし、十分注意しないと栄養も偏る。誰かと一緒に食事して初めて、コミュニケーションがはかられ、料理も味わえ、健康も維持しやすいことは間違いない。

そのためには、そういう風に対応できるように企業社会も改革していく必要がある。結局は残業のない社会が求められる。まずは大企業から率先すべきだろう。

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2005年12月 5日 (月)

ルミナリエ・マジック

クリスマスムード一色の流風の住まい周辺です。あちらこちらに、イルミネーションが点灯している。宗教色を排した日本独特の一種の祭りですなあ。日本人は本当に祭りが好きだ。本日から急に寒くなってきたので、祭りを盛り上げるにはより最適の雰囲気になっている。

さて、神戸では、例年のルミナリエという“祭り”が今週から開催される。もう11回目だ。震災時の鎮魂の意味もあったが、一応昨年で、震災復興の一応の区切り宣言している。今回は、自然災害への教訓をいかに皆に伝え、他地域の被災者を励ますかに移っているため、象徴的な「新しい願い」として、第二章の始まりとしている。

ルミナリエ会場になっている場所は震災後、夜は真っ暗だった。人間、光がないと心細いものである。それが、あのルミナリエが開催されることによって、人々の心を幾分明るくしたのは間違いない。だから、東京で同様の催しがされても、その意味は全く異なる。今回もそういう意味で、ルミナリエは人々に新しい光を提供するだろう。

もちろん弊害もある。大変多くの人が短期間に集中するので、都市に負荷が大きくなりすぎるのだ。それに交通機関以外にそれほどお金が落とされることもなく、地域は潤わないのだ。まして、会場以外は閑散として、寂しいくらいになる。全体バランスとしてはあまりよくない。

しかし、ルミナリエは、ある意味、全国的な催しになっており、止められなくなっている様だ。それに、神戸には伝統的な祭りがないので、ルミナリエは今後も継続していくと思う。行くと不思議な雰囲気になり、気分が高揚するのもルミナリエのマジックかもしれない。家族、友人同士、恋人同士、あるいは1人で行っても、それぞれ楽しめるだろう。注意する点としては、今年はクリスマス・イブ、クリスマスとは重複しない日程になっていることだ。今年は久しぶりに行ってみるか。

ルミナリエ開催日程

  日程    :12月9日(金)~12月22日(木)
  点灯時間 :18:00頃~21:30 (土日は若干変則時間)
    スタート地点 :元町
  交通機関 : JR元町、阪神元町 下車すぐ

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2005年12月 3日 (土)

観察力を考える

少し前のことだが、あるマーケティング会社の社長が、牛丼店で販売される牛丼の御飯の部分と具の部分の重さを量ったという記事があった。並、大盛、特盛と種類があるのだが、まず第一番に、店によって、御飯・具の重さが同じメニューでも異なるのだ。第二に、具の重さはメニューの違いにもかかわらず、あまり変わらないとのことだった。その時感じたのは、外食産業は、計測に関しては、割といい加減だなと思った記憶がある。ただ現在のデータは知らないので、何とも言えないが、既に改善済かもしれない。

ところで話は変わるが、別の記事で、ある店員の方は、御飯の分量を秤ではかるわけではないのに、正確に提供できるそうである。当然相当の経験がものをいっているのだろうが、多分、それは対象に対して、観る力が強いのだと思う。

それは「目機銖両(もっきしゅりょう)」とも言われる。その意味は、わずかな重さまで一目見ただけの目分量で確実に見分けてしまうことをいう。対象に集中した結果だろう。こういうことは全ての人ができるという訳でもない。そういう方は、どの業界にも、いらっしゃるようで、それぞれ重宝されている。

同様に、人間の目利きも、眼前に現れた人物を一瞬で、どのような人物か、洞察してしまう。それは全体、部分を見て、多面的に、すぐ判断できるようである。当然多くの人を見てきた経験がものをいうのであろうが、人間というところに問題意識を強く持ち続けた結果であろう。そういう方は、一般に目力が強く、会って話をしても、全てを見破られているような気がする。

注)
一斤の16分の1が1両で、1両の24分の1が1銖である。1銖はだいたい1.5グラム。

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2005年12月 2日 (金)

建設業界の後進性

耐震が不足しているマンション入居者に対して、国家が救済策を模索しているようだ。国家が基本的に救済するのは、自然災害や戦争被害の場合だ。今回は民間レベルでの人的災害で、民間レベルで処理すべき問題で、なぜ国家が関与するのか。政治家、官僚は業者と過去に後ろめたいことがあるのだろう。今回の事件は氷山の一角のような気がする。長期に同じ体制で行くと、人も業界も倦んで腐っていく。

他方、建設業界に消費者(最終購入者)を保護する仕組みが確立されておらず、政治家・官僚もそれを放置してきたことに問題がある。建設業界は品質管理・品質保証の面で立ち遅れている。それを指導してきた国土交通省の体質も問われる。今まで、業界の常識に捉われて、長いものに巻かれろ式で、何も手を打っていないことがわかる。流されてきたというべきか。基本的には、戦後一貫して、政府の建設業界指導体制に問題があったことは否めない。日本が遅れていると言われる建設業界の改革が急がれる。

それには、まず基本的に、一般最終顧客に支持される仕組みが必要で、顧客満足が達成されなければならない。製造業への政策を見習うべきだ。長期継続的品質管理・品質保証という課題もある程度解決できるはずだ。これまで建設業界の反対で実施できていない住宅・マンションなどの建築物PLの検討も必要だろう。もちろん、そこでは消費者教育も必要であろう。そのようにして、結果的には、本当に最終顧客に対応できる企業が残り、対応できない企業は退出していくだろう。

そして、これらの問題は、国土交通省で解決できないのであれば、国土交通省を解体して、経済産業省に併合させればよい。経済産業省としても、すでにやるべきことはなくなっており、新しい課題が必要だ。

夏目漱石『草枕』の「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」のように、これは、いつの時代でも、世の中の真実かもしれない。できれば、議論もなく、何もしないでおきたいのは人間の本質かもしれない。

だが、国民を守るということは、問題が発生してからでなくて、問題が起こる前に対策を打てていなければならない。今までの日本は、その政治家・官僚体質から問題が起こってから、整備する傾向が強すぎる。ある程度は仕方ないが、予見に対する心構え・チェック体制がなさ過ぎる。国としても、時代に合致したシステムに切り替える必要がある。

これは見方を変えると、根本的には日本人の心を失い時代の変化を読めない人々がいるということは、日本人全体に問われる問題でもある。今回の事件は、戦後も地下水脈として残っていた武士道という“日本の心”が枯れてしまっていることを象徴するものでもあるのだ。それは、あの会計監査の問題と本質は同じなのである。そして士業における職業倫理という精神性欠如は時代が生み出しているということも言える。結局は、政治家・官僚・業界関係者は、今一度一般国民に対して、『信義』ということに立ち戻るべきだろう。

しかしながら、今まで日本が儒教の『性善説』を前提として、あらゆる仕組みが作られているのに対して、儒教精神が失われている現在、『信義』というだけでは、良くならないかもしれない。規制緩和と共にペナルティの強化が必要かもしれない。本来の法治国家の前提の『性悪説』に切り替えざるをえない状況かもしれない。残念ながら、ペナルティが現在のところ、非常に甘いので、厳しくする必要はありそうだ。当面、建設業界は『性悪説』的に整理していくしかないようである。

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2005年12月 1日 (木)

忘年会と新酒

この時期になると、若い頃、忘年会での、いろいろな失敗を思い出す。もともと酒が弱いのに、酒を注がれて、ついつい上司・先輩の機嫌をとり、飲みすぎて、意識朦朧となった記憶の数々。

多分、上司、先輩に暴言をはき、その後、誰かに送ってもらったに違いないのだが、そういったことは全く記憶になく、目が覚めると家にいたことはよくあった。駅、トイレ、道路などで吐いたこと数知れず。駅の終点まで乗り過ごし、記録できないほど。そのたびに、いろいろな人に迷惑をかけただろう。今から思えば、なんて馬鹿なことを、と思う。

まあ、お酒で女性がらみの事件を起こしていないのは、少し救いがあるか。またどんなに酔いつぶれても、翌日には定時に出勤していた。朝の4時に帰宅していても。それも救いか。頭はガンガンして、仕事にはならなかったけどね。でも、毎年、懲りずに同じ事を繰り返していたのは、学習能力がなかったからなのか。でも、それが忘年会のような気もする。

最近は、ほとんど飲まなくなった。飲みに行っても、皆紳士だから、酒の無理強いはない。静かにマイペースで飲むだけだ。時々、昔が懐かしくなるが、ああいう思いはもういい。

ところで、日本酒の酒造会社の軒先に酒林が今年初めて飾られるようになってきた。新酒ができたんだろうな。これから作られる日本酒の新酒は期待できそうだ。今年の米が豊作だったこともある。

流風は今でも飲めない方だから、量は飲まないので、できるだけ良い酒を購入する。しかし、あまり新しい銘柄には挑戦できない。

と思っていたら、最近はいろんな種類のカップ酒がはやっているらしい。これなら気軽に試飲できる。昔からカップ酒はあるが、銘柄は限られていたように思う。全国に散らばっているカップ酒を集めただけで、これだけ人気があるということは、流風と同じように考えている人が多いのであろう。試飲できるカップ酒を増やしてもらいたいものだ。

まあ、そういうことを言っている流風は本当の酒飲みではないのだろうが。酒飲みは銘柄を選ばないもんね。さあ、今年もラストスパートに入ってきた。それでは、来年は新酒をじっくり味わうこととしよう。

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