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2006年1月30日 (月)

視線を感じる

街などですれ違いざまに、ちらっと視線を感じる時がある。大体が20代の若い女性である。微笑を含んでいる場合が多い。それは一瞬であるけど、そういうのを感じると悪い気はしない。

その微笑にどういう意味が含まれているかはともかく(髪の毛が立っているとか、眼鏡がずれているとか、歩く姿勢がおかしいとか,で笑っている可能性もある)、不愉快な笑顔ではないので、少しハッピーである(笑)。

ところがである。電車で新聞や本を読んでいて、視線を感じて顔をあげると、よく中高年の女性がじっとこちらを見ていることがある。流風が視線を感じてそちらを見ても、視線をそらさない。じっと見続ける。ちょっと、なんだかね。知り合いでもなさそうだし、好意も敵意も感じられないが、少し不愉快である。そして、若い女性であることは、ほとんどない。

記憶をたどってもその人に記憶にはない。それとも流風の顔が珍しいのだろうか、と思ったが、どこにでもいる「おっさん」とは言わないが、特に注目する顔でもなさそうだ。仕方なく、目線をこちらから、はずすのであるが、それでも、しばらくは視線を感じることがある。一体、彼女等は何を見ているのだろうか。こういう日は一日が不愉快である。

だが、流風も知らず知らずにそういうことをしているかもしれない。人の振り見て我が振りなおせとは、よく言ったものである。女性の皆さん、もし流風がじっと見つめても勘弁してください。それだけ、あなた自身に魅力があると勘違いしてください(笑)。

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2006年1月28日 (土)

二大政党の時代なのか

最近の日本人は大体、曖昧なものを嫌う傾向がある。それゆえ、世論が極端から極端へ心理的に流れる。おそらく、政治についても、そうだろう。国民はそのようにして、バランスを取っているともいえる。

そして現在は保守合同の時代から、より二分化した政党が必要な時代になってきたように感じる。二大政党が現実的になってきたと認識している。政策的にも、自由主義と民主主義を分離して、政権交代することが望ましい時代になっている。

ただ日本の現状の二大政党の場合は、その政党の主張の相違点が見つけにくいし、その主張に主体性がなく節操がない。二大政党が本来好ましいかもしれないが、基本主張の対立軸が見えにくい。

そのことが国民から見て政党が見えにくくなっている 。実際、それは投票率の低さにつながっている (そもそも投票率が50%以下であれば、その選挙は実質無効だと思う。そのような状態が実に多いことが嘆かわしく、放置されていることが最も危うい)。

これを解消するには、政党の主義・主張の整理は必要で、お互い基本線はぶれないようにする必要がある。ライバル政党の政策をずるく取り入れて政権を維持するという時代ではなくなりつつある。お互いの主張は尊重すべきだが、自党の主張は曲げないようにすべきだ。

そのためには、各政党の基本的理念と政策を整理すべきだろう。例えば、両党共に、党内に、改憲と護憲が一緒になっているのはおかしいし、党内で全く反対の政策を打ち出すのも矛盾している。そういったことは国民に政治不信を植え付けるだけなのだ。

このように考えていくと、曖昧な政策は今後支持されないだろう。お互い、党是に従いメリハリのある政策でぶつかる時代になっているのだ。そうすれば、国民が真に望んでいることが浮かび上がってくるだろう。

当然、ある時代には支持され、ある時代には支持されないだろう。政権交代は定期的に起こるかもしれない。そういう意味では、お互いの党は冷や飯を食うことを怖がってはいけないのだ。そういう期間があってこそ、切磋琢磨して初めて政党は成熟するのだし、日本に真の民主主義が根づくことを忘れないで欲しい。

そこで、流風の独断で、異論はあるだろうが、一国民の視線で、自民党、民主党それぞれの政党の色分けをしてみた。

●自民党は日本自由党へ名称変更が望ましい。

①自由主義中心
②米国重視、新しい世界組織を創造するポスト国連主義、現実路線
③憲法改正主義
④国際競争重視
⑤成長路線重視
⑥市場競争原理重視、絶えざる改革、規制緩和
⑦組織重視・企業重視 企業献金重視
⑧支持母体をエリート都市住民に変更。中高所得者にターゲット。

課題 :出来上がった人材を選挙に投入するため、派閥解消論以来、新しい人材が育っていない。どのように自前で立候補者を育成したり、議員を教育するかが今後問われる。立候補者に経済人、官僚や学者を過大評価している。自前の政治家の育成が望まれる。

●民主党は日本民主党への変更が望ましい

①民主・平等主義中心
②米国重視でありながら、国連主義ともバランス
③憲法は基本的に護る。平和主義堅持。但し加憲を容認。すなわち拡大平和主義。
④国内政策重視
⑤安定成長重視
⑥緩やかな改革、改善重視、所得再分配重視
⑦個人生活重視 個人献金重視
⑧支持母体から労組を廃し、中低所得者の個人中心に。特に地方都市と郡部中心に。また大都市圏勤労者も。

課題 :立候補者の人材育成は一部整いつつあるが、組織としての足腰の強さにまだ欠ける。政策が個人に浸透せず、支持母体が弱い。若い人が多いためか、自民党との政争におけるずるさ、駆け引きに対して脆さを感じる。自前のシンクタンクを作ったことは評価できる。

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2006年1月27日 (金)

モーツアルトの誕生日

誕生日と言っても、流風なんて、この歳になると誕生日に誰も祝ってくれない。別に悲しいとも思わないけどと、強がり。それに昔は数え年で年齢を言っていたので、今でも時々年配者には、それを言われて少し混乱。戦後は満年齢が常識になっているが、おかしいと彼等は指摘する。このことについては、後日機会があったら考えてみたい。

まあ、それはいいのだが、実は流風の誕生日ではなくて、本日はモーツアルトの誕生日。モーツアルトが今年生誕250年だということは、先日のブログで触れたが、今日は彼の誕生日。

彼のことはいろいろな伝記や映画で紹介されているので、ここでは取り上げないが、ユニークな発想の持ち主だったことは事実だろう。基本的に既成概念の打破があったように思う。ある意味、その素質を遺憾なく発揮したベンチャーの先駆けのような人物であっただろう。それ故、多くの嫉妬を受けたのだろう。それは現代でも見受けられるが。

それはそれとして、ドイツ、ウイーンはもちろん、日本でもいろんな所で、誕生日コンサートが催されるようだ。大体、今日から3日間のプログラムの所が多いのかな。流風の近くでも催されるようだ。それに1月29日は旧正月の元日だ。なんだか、祭り祭りしてくる。祭り好きな流風は何かそわそわ。

モーツアルトなんて普段全然関係ない方も、楽しんでしまうところが日本的。何でも祭りのように取り入れるのが、日本の特徴。でも、盛り上がって楽しんでしまえば、どなたの誕生日も、それはそれでいいですね。少なくとも、クリスマスやバレンタインデーよりましだ。

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2006年1月25日 (水)

自意識

最近は街を歩いていても、私の世代では少なかった背の高い大柄な女性をよく見かける。180センチぐらいの女性だと、少し見上げなければならない。先日も、それくらいの女性たち3人が、横並びで歩いていたので、思わず、道を譲ってしまった(笑)。彼女達は堂々と歩いていた。歩き方も美しく、様になっている。モデルかも。

その一方で、背の高い女性は劣等感を持つ方がいるらしい。ハイヒールなどは履かず、パンプスなど履く靴にも気をつけているようだが、やはり目立つことは確か。それで前かがみになる人も多いそうだ。だが、そんなことは気にせずに堂々としておれば良いのに。

そういうことで、気をつけて見ていると、男女のカップルも最近、男性より背の高い女性の組み合わせも案外いるのに気がついた。蚤の世界では、遠の昔から、メスの方がオスより大きいらしい。そこで、そういうカップルを“蚤の夫婦”とか言っている。

以前は若干抵抗感があったように思うが、それは身長差が極端な場合で、確かに目立ちすぎるかもしれない。しかしながら、両方共に背が標準より高いと、女性が男性より背が高くても、意外とおかしく感じないものである。

背の高い女性も劣等感など最早そんなことを気にしないで済む時代のようだ。結局、パートナー選びには、極端なケースを除けば、そういうことを考慮する時代でないことは明確なようである。

私達は、度々過去の慣習に捉われて自意識過剰になるかもしれない。しかし、慣習は時代と共に変る。それに人というものは、意外なほどに、他人に関心を寄せないものである。その人に余程意識が集中していて、初めて関心を持つものであるようだ。

確かに毎日のように接していれば、他人であっても無意識に観察しているかもしれない。あるいは、自分のテリトリーに普段と違う人物が入ってきた時は注意するかもしれない。しかし、一般的に第三者的な人は他人に無関心なのである。

見られることは無視できない (実際、女性は見られることによって美しくなるという) が、過度に意識過剰になることは、自分を小さくしてしまう場合もある。自意識もほどほどがよさそうである。

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2006年1月23日 (月)

生まれか、育ちか

生まれか、育ちか、どちらが大事か、という論争は昔からある。

若い人は知らないだろうが、柴田錬三郎という作家がいた。彼は生まれで全ては決まるという考え方だった。生まれが良ければ、どんな劣悪な環境で育っても、正しい道を歩むようになる。反対に、生まれが良くなければ、どんな良い環境で育っても、将来、ちょっとしたきっかけで悪の道に踏み入れる。そんな考え方だった。

もちろん、これと正反対の考え方もある。どんなに生まれが良くても、環境が悪ければ、悪事に手を染めたり、どんなに生まれが良くなくても、環境が良ければ、正しい道を歩むという考え方である。

果たして、どちらが多いのか、流風にはわからない。大抵、多くの人は、中間であるだろうから。極端なケースは上下1割にも満たないだろう。

確かに世の中では、良くも悪くも、リーダーは生まれる。彼等は特別な生まれや特別な育ち方をした人かもしれない。だが結局、中間にいる大半の我々が、どのように判断するかで大勢は決まる。

時代を創るのはリーダーだと思われがちだが、実際は大部分の中間層が形成している。事実、時代の風を感じ取るのは庶民が一番早い。リーダーといわれる人は、その風に乗るのが上手ということだろう。そして、リーダーはいつまでもリーダーではない。風を読み違えば、すぐ転落する運命にある。

そういう意味では、普通の人が最も大切だと思う。特別よい生まれでなくても良いし、特別よい環境でなくても良い。リーダーと云われる人は一種、特殊かもしれない。そんな人も必要だが、そんな人ばかりでは、まとまらない。結局、庶民が時代を担っているという認識を軽く持つ必要があるのだろう。

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2006年1月21日 (土)

やっぱり

米国産輸入牛肉の中に危険部位が含まれていた事件を聞き、やっぱりという気がする。米国はその国民性から、いい加減なことを度々やる。矢張り、米国産牛肉の輸入はすべきではなかったのだ。小泉首相が訪米時、ブッシュ大統領に迫られて、簡単に同意したことが、そもそも誤りである。首相はブッシュ大統領が支持母体に突き上げられるのに配慮したのだろうが、日本国民を守るという意識が低かったとみえる。今回も、無理やり、輸入再開をさせてこの結果だ。小泉首相は猛省が必要だ。一体どこの国の首相なのか。世論は米国産輸入絶対反対に動くだろう。

流風はこれほどBSEが騒がれなかった頃、牛丼チェーン店で、数回食べて、いずれも気分が悪くなり、それ以後、その牛丼店では食べていない。何となく、危険を感じたからだ。割と食品には過敏に反応する体質らしく、それを疎ましく思うこともあるが、今では、それで良かったのだ思う。

以前のブログでも記したが、日本に米国産の牛肉はいらないと思う。それに健康のためにも、牛肉を含め肉の摂取は控えた方がいい。外食産業は御用学者を招いて、米国産牛肉に、いたく御執心の様だが、米国産牛肉の利用はあきらめて、方向転換したほうが賢い。一部チェーン店はそのように対応しており、好ましい。

また輸入牛肉において今回は米国が注目を浴びているが、その他の輸入牛肉についても注意した方がいい。すなわち、米国産牛肉の混入輸入が考えられる。特に加工品の輸入の注意が必要だ。どこの牛肉が使われているか不明な場合が多いからだ。

日本人の遺伝子に関わるといわれるBSE問題。あまりいい加減な政治的判断では、将来、国家的賠償問題(発症には時間がかかるため、証拠の確定が難しいといわれるが)に発展しかねない。為政者は国民を守るということがどういうことなのか理解し、『未必の故意』に陥らないようにしてもらいたい。

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2006年1月20日 (金)

貢献の測り方

人々の存在価値は、それぞれ意味があり、外見とか評判だけなどで単純には評価できない。そういうことは、わかっていても、普通、よく目に見えるものや、よく聞こえるものをよく評価しがちである。成果主義が言われて、割と時間が経ったが、その考え方には、未だ若干偏狭さが感じられる。経済界は評価しているようであるが、果たして、それは正しいのか。

プロセスと結果のバランス評価が大切だが、現実は結果だけの評価ということもよくある。それほどにプロセスの評価は難しい。人のプロセスをもらったり、盗んだりして、要領よく成果を挙げる人だけが評価されることが多ければ、その組織は崩壊するだろう。そうかといって、プロセスは努力の跡が見られて立派だが、成果が出せなければ、企業では評価されないだろう。

確かに、一人の人間で、他の協力者なしで、成果のあげられる職種であれば、それは成果主義が望ましいかもしれない。ただ、そういった職種であっても、見えない誰かの協力を得ていることがままあるものである。成果主義には、人間は一人で成果をあげられるという何か錯覚のようなものがあると思う。

私達の存在価値は、それぞれにある。それが、たまたま同じ組織にいれば、お互いに影響しあう関係であることは間違いないだろう。もちろん、組織に悪い影響を与える個人は投げ出されるであろうが、そうでない、それぞれが努力している人たちは、それぞれの存在価値をお互いに認める必要がある。共通の目的に対して、正しい努力をしていれば、評価は同じであることが望ましい。

結局、何が大事かと言えば、企業が成果をあげるには、お互いの存在価値を認めつつ、その中で最適の人の組み合わせが大切であるということだろう。それほどに、トップは人員配置には、もっと頭を痛めなければならない。そうすれば、成果主義という言葉もなくなるだろう。

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2006年1月19日 (木)

存在の意味

『抱朴子』という書籍に「糸、竹、金属、石の楽器は、音階・音質がそれぞれ違うが、耳に快い点は同じである」とある。これは何を言おうとしているのかと言うと、「人の貢献の仕方は色々である。現在に貢献するということもあれば、後世に貢献することもある」ということのようである。

そういう意味では、一日一日が大切である。若い時は何となく時を過ごすこともあるが、その存在そのものがいろんなものに影響していることを忘れてはならない。それが現在に影響するかもしれないし、遠く未来に影響するかもしれないし、存在が無くなった後に影響するかもしれないのだ。

言い方を変えれば、人々は、息を吐いたり吸うだけでも、その存在価値はあるといわれる。それほどに、世の中は連関しあっている。その呼吸は宇宙とも連動しているとも考えられる。大きく、そのように考えるだけで、自らを慰めることもできる。早まった自己評価というのは勿体無いし、危うい。自己評価と他人の評価以外に、見えぬ評価があることを忘れないようにしたいものである。

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2006年1月18日 (水)

ベンチャー経営者のあり方

新興のベンチャー企業の事件が取り沙汰されているが、未成熟な企業では起こりうることである。しかし、誤りを放置すればよいかというと、それは問題だ (今回の問題は、当局は早くから把握していたのに、発表を遅らせたのは政治的思惑があるのだろう)。そこで、ベンチャー企業のあり方を少し考えてみた。

そもそも、ベンチャー企業の経営者の特色は、基本的に新しいことに挑戦できることにある。彼等は、ある意味尊重されるべき人々だ。ただ、それには、人々に夢を与えつつ、経営的に現実のものとしていくことが求められる。

おおよそ現在の日本のベンチャー企業の経営者を見ると、大体二つのタイプに分けられる。

一つタイプは、夢を示し、実行していくという決断力は評価できるが、そのプロセス管理の甘さ、経営管理の甘さが見られる経営者である。非常に多いタイプである。たまに経営管理面がしっかりした企業があるが、この場合、成長性に乏しい欠点がある(女性起業家に多い)。

もう一つのタイプは、投資会社(あるいは投資家)に気を払いすぎて、当初の夢を忘れ、法の灰色部分を突いたり、過剰なM&Aを実行し、本来の企業目的とずれた形態で闇雲に企業価値(株価上昇)を追求する経営者である。

前者の場合、経営力に問題がある場合で、経営管理に実績のある有能な人材をスカウトすることで、その不足は補える。そうすることで、当初の企業目的が変質しないで済む。つまり夢と現実のバランスをとって、成果をあげやすくなる。若い人たちだけで、固まらず、広く人材を集めるべきだろう。

後者の場合は、初心に戻って、夢をもう一度取り戻す必要がある。上場している場合が多いが、投資家にそのことを説明して理解を得る努力が望まれる。ある段階を超えれば、急激な成長より、社会から評価される確実な成長を投資家は望むのが日本の投資家の傾向ではなかろうか。初期の目的とずれるようなM&Aは慎むべきであり、地道な経営活動が望まれる。

もちろん、急激な投資回収をはかる投資会社もいることは事実である。日本の投資会社は経営者の尻を叩くか、騒ぐことは得意だが、共に成長させていこうという意欲が感じられない。急激な投資回収は、最悪、その企業買収ということで回収できるかもしれないが、ベンチャー企業の健全な発展には寄与しない。日本において、ベンチャー企業を健全に育てるには時間は必要である。経営者は急には育たない。またベンチャーの成長速度は教科書にあるようには一様ではないだろう。投資会社は経営の仕組みについて、もっと研究して柔軟に対応すべきだろう。そういったことは投資家に事前に説明すれば、納得は得られるはずである。

また、そのビジネスの特徴を見極め、最初から過度な投資をしないことも求められる。直接金融による資金調達は、あまりにも容易な資金調達で経営者を駄目にしているのかもしれない。間接金融中心の時代は、融資の査定が厳しく、金融機関から融資をもらえないので、経営者は苦しんだ。しかし、経営者が資金を集めるのに苦労するのは良いことである。その中で、ビジネスプランは練り直される。

これからの人口減少社会においては、健全なベンチャー企業の育成は必要だが、周囲も野放しにせず、健全・堅実な成長をするようにバックアップすべきだろう。そのため、特に税理士、監査法人の役割は重要だ。

ベンチャー企業の経営者は、いずれにしろ、謙虚に専門家の意見を取り入れ、人材の不足を補い、経営的にバランスさせることが求められる。そうすれば、時間はかかるかもしれないが、企業経営としての足腰がしっかりして、社会から認められるようになるだろう。

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2006年1月17日 (火)

阪神・淡路大震災、耐震偽装証人喚問、ライブドア摘発

本日は、いろんな日である。うだうだ記していく。

まず、阪神・淡路大震災の11回目の記念日である。以前にも記したが、よく復興できたものと思う。これは日本だからこそ、こんなに早く復興できたのだろう。個別的には、まだ問題を抱えた人々もいるだろうが、支援していただいた人々に感謝である。

しかし、咽喉下過ぎれば、の如く、意識は段々薄くなっているかもしれない。しかし、関西で今後も大震災が、3~5件ほど予測されており、安閑としてはおれない。基本的には日々の備えである。確かに水とか食料とか防災グッズも必要だが、いざとなったら、大切なのはお金である。そのためには、地震保険の加入も必要かもしれないし、兵庫県がやっている住宅再建共済制度の普及も必要だと思う。日本はいつ、どこで震災が起こっても不思議ではないから、全国的な相互扶助の仕組みが必要である。

次に、耐震偽装に関する証人喚問であろう。耐震偽装に関しては国民は大きな迷惑をしている。もっとも従来から建築業界がいい加減なことをしてきたし、それを放置してきた政府・官僚の責任も大きい。政治家や官僚が業界とどろどろになっている。首相周辺もおかしなことになっている。但し、これは見方を変えると、いわゆる権力闘争なのだろう。もっとも小泉政権は郵政民営化法成立で、その役割を終えたかもしれない。意外と早く退陣があるかもしれない。次のリーダーが見えない(首相が指名しようとしている候補は首相に値しない)ので、日本の政界は混沌とするかもしれない。

その次に、ライブドア摘発である。なぜ、この時期にという疑惑がある。極めて作為的である。彼らのやったことは悪いが、タイミングが計られすぎている。このような作為的行為で最早国民の関心を逸らせて騙すことはできない。政治も作為が入りすぎると、おかしなことになる。策略家は策に溺れる典型である。

確かに、ライブドアのやったことは悪い。いい加減なベンチャー上場企業が多すぎることも事実である。上場に値しないベンチャー上場企業が多すぎるのだ。ベンチャーだ、といって、矢鱈持ち上げても、経営者としての資質に疑問のある企業が多い。これから、堅実な企業を除いて、多くのベンチャー企業が加速的に整理されていくような予感もする。

いろんな日本の課題を考えさせられる一日になりそうである。

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2006年1月16日 (月)

健康管理としての体重管理

健康管理の一つとして体重管理がある。体重計があれば簡単にできる。最近は色々な体重計があるが、流風の持っているのは一般的なものである。理想体重にはちと及ばないが、一応、標準体重を維持している。若い頃は、食生活の乱れや睡眠不足などにより、危険水域にあった時期もある。病気をして以後、節制に勤めた結果、標準体重をここ十年くらいは維持している。

一応、流風の覚えとして、次に常識とされる体重に関するメモをしておく。

①標準体重=身長(m)×身長(m)×22

ちなみにBMI指数=実測体重÷身長(m)÷身長(m)で計算して、22に近いと病気しにくいといわれる。流風はほぼこれに近い。

②理想体重=身長(m)×身長(m)×20

理想体重までは、5㎏も減量しなければならない。でも、そこまではする気なし(笑)。

③肥満度=(実測体重-標準体重)÷標準体重×100

±10%以内なら大丈夫。10~20%だったら過体重で、20%以上は肥満と判定。
流風はもちろん大丈夫。

ただ、減量に苦労されている方は多いと思う。努力しても努力しても減量できない人も多いだろう。一般に肥満の原因は、体質、運動不足、食生活に問題がある場合であろう。しかしながら、肥満の方に私がどんなアドバイスを言っても聞き流される感じもする。私が肥満だったら、多分そうだろうから。

そこで、蘇東坡の健康法を挙げておこう。彼の健康法は次のように示されている。いわゆる、『内観法』と呼ばれるものである。必ずしも、減量法を示したものではないが、こういうことをやっていると、体質は改善されるのではなかろうか。

①食事は空腹になってから食べ、腹いっぱいになる前にやめておく。

②そして、散歩をして、できるだけ腹を空かせておく。

③腹が空いたら、静かな部屋で端座して、出入りの息を整える数息観(すそくかん)を行う。一から数え十に至り、十から百へ、百から千と数えていく。

④やがて身体は兀然(ごつぜん。動かぬ様)として動かず、心は寂然たる虚空のようになる。

⑤これを久しく続けていくと、ある時、一息自ずから止まって、出るのでもなく入るのでもないと観ずるようになる。

流風的理解では、精神統一して、空気を食っていれば、お腹は空かない(笑)。間違っているかな。まあ、参考まで。常時、実践しているわけでもないので、効果は不明(笑)。

それはともかく、肥満を解消するのは、基本的に本人の意思でしかない。流風の場合は、肥満になった時、階段を上るのも大変だったし、痛風にもなりかけた。これは、いかんということで、何が何でもという意気込みで修正をかけたのだ。

一番注意したのが、散歩の量を増やすことと、食事内容の見直しと間食をできるだけ絶つこと。そして午後9時以降は飲食しないこと。また規則正しい生活をできるだけ心掛けることだった。ここで注意したいのは、肥満恐怖症に煽られて、食事内容に関しては、一度にあまり、きつすぎる計画にしないこと。

一番の基本は蘇東坡も言っているように、腹八分目が守られたら、まず良しとしている。それから段階的に生活習慣を修正していく。そうすれば、流風の場合、時間はかかったけど、効果は出ていると思う。

肥満になると病気になりやすいし、病気になると、苦しむのは本人だしね。肥満の方、悪いことは言わない。減量すると、全てハッピーだと思うよ(笑)。減量後の自分を想像するのもいいと思う。いろいろ試してみて。後はあなたの決断次第。

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2006年1月14日 (土)

雑木の効用

よく聞く話で、猪や熊が山に食べ物がなくて、里に出てくる話がある。それは戦後、人工林の造成中心で、「雑木」が少なくなったことが災いしていると言われる。

「雑木」とは、広葉樹で、ケヤキとかコナラなどを指す。これらは経済に寄与しないから、「雑木」と言われてきたのであろう。極めて不名誉な名前だ。

今、その価値が見直しされている。これらの実が猪や熊の食料になるだけでなく、災害への強さが注目されているそうだ。例えば、台風の被害は人工林に多く、これら雑木林では被害が少ないという。もちろん、樹種は地域の土に合ったものが求められる。

これは組織の人間にも言えることだろう。中国の見識ある王族はいざという場合に備えて、いろんな能力を持った人間を、普段は役に立たないが、食客として養った。

有名なのは、斉の王族の一人である孟嘗君の食客の話だろう。彼は莫大な財産を投じて、天下の人材を集めた。彼のもとに身を寄せた者は何千だそうである。

その中には現代の日本では問題になるような人材もいた。すなわち「鶏鳴狗盗」として有名な輩達である。しかしながら、詳しい話は省略するが、一見無駄と思われる人材でも、使い方ひとつで、役に立った例である。

何とか立ち直った日本の経営者も、もう少し落ち着いてきたら、「鶏鳴狗盗」の人材とは言わないが、余裕を持って、次の時代に手を打つべく長期的視野で多様な人材を養いたいものである。

すなわち経営者は短期的な目に見える効率だけ追うと、その企業の未来が危うくなることを常に念頭におき、利害関係者を説得しなければならない。それが経営者の見識というものだ。

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2006年1月12日 (木)

アトピーの人たち

少し前(昨年)のことだが、電車に乗っていると、顔から首にかけて、皮膚が炎症を起こしている女性が乗っていたのに遭遇した。若い女性である。視線がいかないように、自然に目線を動かしたつもりだが、彼女に気取られたかもしれない。妙齢の若い女性にはむごすぎる。なんとか治す手立てはないものか。

もちろん、彼女がアトピーかどうかは医者でもないので、判定しづらい。しかし、アトピーなら皆いろいろ研究されているようである。アトピーの原因としては、私は次のように考えている。

すなわち、

  ①母親の体質に問題がある場合

  ②母親の妊娠前、妊娠中の食生活に問題がある場合

 ③母親の母乳に問題がある場合(すなわち①②から導かれる)

 ④生まれた後の子供の食生活に問題がある場合

などではなかろうか。

ただ、子供にとって、原因はどうでもよく、早く治したい気持ちだろう。いろいろ見たり聞いたりしたところでは、基本的に西洋医学では治らず、東洋医学的見地から患者の親達が治療法を模索しているのではないだろうか。

そう思っていたら、広島の女性がアトピー用の商品を開発している記事が載っていた。有限会社キュアラインという会社で、子供のアトピーを克服するため勉強された女性が起業されたそうだ。基本的にタンニンという渋み成分が濃いお茶を煎じて「薬」としているようだ。実際、この「薬」で治っているそうだ。全ての人が治るかどうかわからないが、試してみる価値はありそうである。

それから、これからお母さんになる方も、食生活には気をつけたいものである。バケツプリンとか、ケーキバイキングとかがよく話題になるが、ほどほどにしたいものである。一番苦しむのは当人の子供であるが、その親もまた苦しむことになるからである。

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2006年1月11日 (水)

えべっさんと福引

商売繁盛で笹持ってこい ! 本日1月11日は関西の祭り「えべっさん」最終日。残り福。別名、縁起物値切りの日(笑)。

念のために記すと、この祭りは関西の恵比寿神を祭る神社で行われる。神さんを「えべっさん」と気軽に馴れ馴れしく呼びかけるのも、関西らしい。女性が飴を「あめちゃん」と呼ぶのと同じ感覚 ? でも、いくらなんでも、えべっちゃんとは呼ばないか(注・神さん→戎さんの発想だから、エビスさんの語形変化からもありえない)。

兵庫県・西宮の西宮戎と大阪府・大阪の今宮戎が有名である。商売繁盛の願い事はこの祭りを逃してはない。関東では酉の市に相当するもの。

笹をもらって子宝(吉兆)を笑顔が素敵な福娘につけてもらう。これが楽しみ(笑)。神社によっては、すでに取り付けてあるところもあるが(悲)。でもこの子宝、結構高い。これが世の中か。しかし、福娘がつけているところでは、福娘の選択権はあるのだ。もちろん、列に差ができ、これも世の習い? 流風は笑顔の素敵さで選ぶ。

子供の頃、えべっさんで近くの神社によく行った。氏子の関係で、商売している祖父は福引券がたくさんもらえたので、その福引券をもらって福引に行くのが、毎年楽しみだった。例のガラガラポンを何回もやるのがうれしかったことを覚えている。

だいたいが末等の粗品が多いのだが、時には、2等、3等とかが当たる。懸賞品はよく覚えていないが、当たると、チリンチリンと鐘をならして、「大当たり」とやってくれる。これが心地よい。流風は未だに商店街やスーパーなどでガラガラポンをやるのが大好きである。ポイントカードのポイントいらないから、ガラガラポンさせてくれ !(笑)。

そして景品を母から預かった袋に詰めて持ち帰るのだが、それが子供には結構重く、大変だった。何回も休み休み持って帰った。お酒の小瓶等が何本もあると重いのである。だが、お菓子類はほとんどなく、喜ぶのは母だけだったように思う。

今年は、初詣もそうだったが、えべっさんも人々の表情はいつもと比べて明るい。景気はやはり良くなっているのだろう。この景気が続けばよい。10年くらい続きそうな気もするが。

今年も、いい福を授かろう ! !  残り福歓迎(笑)。

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2006年1月10日 (火)

モーツァルト生誕250周年

今年は有名な音楽家の生誕祭が多いようである。特にモーツァルトは生誕250周年らしい。ミーハーの流風は昨年そのことを知って、モーツァルト初心者として、彼のCD「モーツアルト100(CD10枚組)」(エイベックス)を買ったばかり。今年はあちらこちらでモーツァルトが演奏され、音楽が奏でられるのだろう。ウィーンへの旅行も増えるだろうし、その関係のグッズも売れるだろうな。

彼の音楽は癒しに良いということであるが、彼のCDだけ、なぜか持っていなかった。今回はいい機会だったが、何しろ彼の楽曲は多いので、初心者向けのCDを購入したのだ。一応そのCDに関しては10分類されている。彼の音楽は曲によって、色々な効果があるのだそうで、その時の状態によって、聞く曲目を変えると良いらしい。それは「映画」「頭すっきり」「おはよう」「おやすみ」「仕事がはかどる」「ほっと一息」「ドライブ」「癒し」「親子で楽しむ」「マタニティ」の10種類に分類されている。

以前、みゅうさんに眠くなる曲を紹介してもらった中にモーツァルトの曲「アヴェ・ヴェルム・コルプスK.618」があるのだが、「おやすみ」の分類ではなく、それは「マタニティ」の分類に入っている。とても私が子供が産むとも思われないし、ちょっと流風にはね(笑)。それに合唱曲のため、妙に目が冴えてしまうのだ。このように、聞く曲の効果は個人差があるのだろう。また男女でもその受け取り方は異なるのかもしれない。

それはさて置き、モーツァルトの曲は全体的に若干退屈である。聞き慣れた曲はいいが、初めての曲は若干退屈なのである。まぁ、私の音楽のセンスがないからかもしれない。聞き慣れた、いいとこ取りのCDが流風には、いいのだが、いつまでも、そればかりでは能がないのも事実である。もう少し聞くレパートリーを広げようと思う。

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2006年1月 9日 (月)

小学校時代の思い出 その2

小学校時代は虚弱体質のため、よく学校を休んだ。母は「しんどければ、休めばいい」という姿勢だったので、気持ちは楽だった。それでも、自宅で自習するので、特に授業がわからないということはなかった。

ただ父は帰宅後、勉強を教えてくれたが、教え方が下手でよく理解できない教え方だった。子供の目線になれない人だった。その時感じたのは、結局、自分で学んで理解するしかないということだった。

小学校2年から3年へはクラス替えのため、例の女子3人組からは解放されたが、よく休むので、男子生徒から一種のいじめにあうようになった。ただ私の場合は戦ったし、腕力では勝ち目はないのに、無謀にも、ぶつかっていった。

いじめた人間は、私がどれくらいの力量があるのか試しているみたいだった。私が子分になるのが嫌だから、「まいった」となかなか言わないものだから、彼はいらついていたように思う。

また当時の喧嘩は基本的に一対一で、審判みたいな奴がいた。大体クラスの委員長がそうだった。勝負がありそうなところで仲裁に入るのである。喧嘩にもルールがあった。そういう時代だった。

ただ一度だけ、下校時に3人組に喧嘩を仕掛けられ、ぼこぼこにやられた。この卑怯なやり方(その他にもいろいろ問題あり)は、後々大問題になり、両親の知ることになり、担任の先生を巻き込んで、やっと終息した。その結果、彼等とはその後、最終的には4年生になって友達にはなれた。この時ほど、両親や先生に感謝したことはない。

そして、学んだことは、戦わなければならないが、自分だけでは勝てないことがあるということだった。父には、体力で勝てなかったら、どうすれは体力で勝てるか考えろ。それでも勝てなかったら、どうして勝つかを考えろ、と言われた。答えは教えてくれなかった。

小学校3年生時代は、辛くて苦い思い出だが、それが今の私の人格形成に良くも悪くも影響を与えているかもしれない。

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2006年1月 7日 (土)

賢婦人とは

山内一豊とその妻千代の物語、司馬遼太郎原作『功名が辻』が大河ドラマで放映されているらしい。流風はテレビはあまり見ない上に、最近の時代劇は時代考証がいい加減なので、見るのも阿呆らしいので、今回も多分見ることはないだろう。役者も当時の空気を伝えることができない。学芸会の延長に過ぎないのだ。

但し原作は持っている。20年以上前に購入したものだが、処分せずに手元に残っている。司馬遼太郎にしては駄作だと思うが、信長、秀吉、家康の時代の匂いが、彼の創作が混じっているとしても、これを読むと概観できるのである。

それはさて置き、この物語の主人公は、山内一豊ではなくて、その妻の千代になっている。ドラマ化されたため、あらすじは多くの新聞に出ていたが、念のため紹介しておこう。

その内容を現代に当てはめて考えると、大企業に勤める凡庸な営業サラリーマンが、妻の母に見込まれて、その娘を妻に迎えるということから始まる。妻の母に見込まれたのは、多分その実直さであっただろう。

妻は「あなたをかならず社長にしてみせます」と結婚時に宣言。しかし、この時、わずか10歳(現代では無理。高校生で嫁ぐとしよう)。これは、妻の母の入れ知恵があったものと考えられる。

その後、妻が自分の情報ネットワークを活かして、若干差し出がましい提言するのを夫が採用し、また優秀な部下と妻の実家の人的支援を得て、混乱の時を潜り抜け、夫は子会社の社長に出世する。

夫婦には子供がないから(一度女の子が生まれるが事故により亡くなる)、妻はより世間の動向に注意し、夫の参謀役になり、夫はさらに大きい子会社の社長になる。夫は、無事、時代の波をくぐり抜けた。しかし、彼女の才覚なしに無理であっただろうというお話。

しかし、実際、千代がどれだけ偉かったのかはわからない。司馬遼太郎は彼女を過大評価しているようにも感じる。確かに二つの出来事は史実として残っているし、その評価は高い。すなわち持参金で当時の一豊ではとても買えない馬を買わせたし、秀吉亡き後の国の情勢を読み取り、徳川への帰参をいち早く提言している。

しかし、前者は彼女の母の隠れ持参金という知恵が活きたということであり、後者は当時であれば誰も感じていたことである。彼女が優れているのは、全体的判断というより、女性特有のカンで空気を読んで、その時々の判断が的確であったという評価であろう。

だが世渡り上手だけでは、戦国時代を潜り抜けることはできなかっただろう。山内一豊が実直過ぎる武将だったから、彼女が余計に目立ったというだけである。

実際、山内一豊は自らの能力の限界を知り、彼女だけでなく、家来や多くの関係者の話を謙虚に聞いて判断しているのだ。そういう意味では、一豊はもっと評価されてもいいのだ。

千代のアドバイスはあったかもしれないが、それを自分で考え、実行している。すなわち、彼らの取り合わせが良かったと理解すべきだろう。

しかしながら、山内家は信長、秀吉、家康は三代に仕えて生き残り、一豊亡き後も明治維新まで生き残ったのも事実である。千代は家宰として山内家をうまく導いた可能性は高い。

後年、土佐に入ってからは、千代の家宰としての役割は限定されたが、その統治の考え方は、その後二代目以降の政治に活かされることになったようである。

一般に『雌鳥が鳴けば凶事がある』とか『雌鳥が鳴く家は栄えない』と言うが、少なくとも千代が増上慢にならなかったことが後世に賢婦人と称えられることにつながったのだろう。

事実、彼女は一豊が亡くなると、無常観があったのか、すぐ出家している。そして、もう一つの要因は彼女に実子がいなかったことが、そのようにさせたのだろう。捉われの対象がいないと、女性も立派に振舞えるということかもしれない。

それはともかく、なんだかんだと言っても、山内一豊にとって女運が良かったのは間違いないだろう。自分のことは棚に上げても、どこかに千代はいないかと思う現代の男性諸氏もおられるかもしれない。ただ、あわよく現代の千代を得ても、結果を得ようとすれば、男は実直性や誠実性が要求されるだろう。

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2006年1月 6日 (金)

お節痩せ

正月は飲んだり食べたりと運動も足りず、とんだことになっているのではと、体重計に乗ったら、増えていると思っていた体重が、大晦日より1キロ減っている。??? これはどうしたことか。

どうもお節に原因があるようだ。大体最近は手間は掛からないけど、高価なお節があちらこちらで販売されているので、いつも、そのようにしていたのだが、今年は思い切って昔のお節を思い出しながら、自分で作ってみた。と言っても、大半は購入品だけど。そのお節は、いわゆる田舎お節である。ということは、根菜類どっさり(レンコン、ごぼう、金時人参、小芋など)。あとはこんにゃく、焼き魚、ゆで卵、黒豆(市販の物購入)、田作り(市販の物購入)、昆布巻き(市販の物購入)、かまぼこ(市販の物購入)、アナゴ巻き(市販の物購入)などを三段のお重に詰めて出来上がり。それに別途焼き鯛。肉系はなし。

それに健康食品のおもちを食べるものだから、健康に悪いわけはないのだ、ということが今になってわかった。市販されているお節は確かに豪華だが、カロリーも高そうである。それを田舎お節に変えただけでこんなに効果。ふ~む、これは日本の伝統的な食生活がいかに健康にいいか再確認した次第です。本当はお節句ごとにお節を作ったほうがいいのだろう。そうかといって、お節句ごとにお節を作るわけにもいかないが。手抜きしている、そこの主婦の皆さん、家族の健康のためには、手作りお節ですぞ。でも、そんなことを言わなければならない流風は少し侘しい。来年のお節は誰か作ってくれないか。

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2006年1月 5日 (木)

女性の自己申告

自己申告といっても、あの確定申告のことではない。いわゆる女性の自分の顔の説明の自己申告である。よく誰に似ているかと問われて、「○○に似ている」と言われて、実際会ってみると似ても似つかない場合はよくある。そのように、人がお世辞で言ったのを鵜呑みする呑気者もいる。自分に都合のよい理解は誰でもあるかもしれないが。

実は流風の母親は面食いである。基本的に美男、美女が大好き。テレビで見ていても、芸能人はもちろん、スポーツ選手、経済人、政治家すべて、これは醜男、これは美人と言って、「なんで、こんなんがテレビ出るんや」とよく言っている。

芸能人はともかく、スポーツ選手、経済人、政治家は関係ないと思うのだが、某野党の党首が選ばれた時は、「これは男前や。次の選挙で入れようか。しかし、選挙区違うから投票できひんな」などと、ほざいている(もちろん冗談ですよ。彼女は政治的見識をそれなりに持っている)。

それはさて置き、母は好きな女優は誰かと、すぐに私に尋ねてくるが、どうも同意が欲しいらしい。最近では仲間由紀恵の評価が高く、少し前には鈴木京香が好きだったらしい(ただし、ミーハーで芸能情報にあわせて評価がころころ変る)。

それは、どうも彼女の若い頃と似ているという思いがあるようだ。いわゆる南方系美人ね。確かに、今では見る影もなく、その面影は全く想像できないが、若い頃は丸顔でかわいかったらしい。父もお見合いで一度で気に入ったらしい。でも、美人ではないだろう。どうも女性は自分の顔の申告に対して過大評価の傾向があるようだ。

ところで、人相学によると、人の顔は類型があるようだが、人相は年と共に環境の変化などで大きく変わる。顔の骨組みの骨相はあまり変化がないように思うが、顔は非常に変わる。女性は特に変る。結婚して一番変るのは女性の人相だろう。

よく言われるのが、美人は変化が激しいが、不美人は一生あまり変わらないということだ。私の経験でも、独身時代は皆に、美人、美人と褒められていた女性が、結婚後、見る影もない人も多い。逆に、独身時代は、どちらかと言うと外見は貧相で不美人だが、その立居振舞いのよかった人は結婚して、顔がふくよかになり、いい婦人になっておられる。

そのように、女性は大きく変る。若い男性諸氏は、くれぐれも彼女の現在の容姿にこだわらないようにしなければならない。立居振舞いが見るポイントなのだ。外見ではなかなかわからないが、心を耕している女性を選びなさい。

そして女性の容姿を変えるのはパートナーが大きく左右することを忘れてはならないだろう。ただ、このことは、女性にも言えるかもしれない。

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2006年1月 4日 (水)

蔵書整理

流風は本当の読書家とは言えないものの、本は比較的購入する方だろう。最近はネットで情報が入手できるとはいうものの、やはり書籍の情報も捨てがたい。

本来、書籍は成人までに万巻の書籍を読みたいものだが、流風の場合は成人までの読書は十分ではなく、社会人になってからの読書量が多い。ただ、この傾向はあまり望ましいものではないと思っている。

成人までは行動のための前段階で、知の固めが必要なのに対して、成人後は行動が主として求められる。よって、社会人になってからの読書は、どうしても補助的であり、趣味的である。学生達が、多くの読書の障害物に邪魔をされて、読書しないのは極めてよろしくない。もちろん、その書籍の内容は吟味されていないといけないが。

さて流風の部屋は本箱が6本あるので、それを取り除けば、すっきりするかもしれない。多分がらんとした部屋になるに違いない。実際、蔵書は3.5本ぐらい使用し、あとは資料関係のファイルであるので、蔵書は約1000冊くらい(雑誌類除く)でそんなに多くない。

以前は2000冊くらいあったが、部屋が狭くなるし、ある意味、読まない本はゴミでもあるので、10年位前から、毎年200冊くらい処分している。蔵書をためすぎて、部屋の底が抜けた事故も記事に載っていたので、それは正解のようである。

基本的に、蔵書のコントロールは、これ以上本箱を増やさないことである。そして本箱からはみ出した分は即処分することである。蔵書の処分は資源ごみに出したり、中古書店に出したりするのだが、中古書店の引き取り額が一冊10円なんて言われると、持ち込む労力も大変だから、最近は資源ごみに出すことが多い。

それにしても、蔵書資産が1万円程度にしかならないのは少し寂しい。そういう意味では、蔵書には場所をとるため、費用対効果という面で無駄が多いかもしれない。そうは言いつつ、なかなか処分できないんですよね。

そういう処分を潜り抜けた書籍は何かと言えば、結局、哲学、古典や歴史物が中心で、残りは専門書関係と言うことになる。やはり先人の残した書籍は意味があるのだ。若い人たちよ、古典を蔵書しなさい。必ず学べるものがあるはずだ。

*2014年11月22日追記

以前にも「蔵書」について記したと思って検索したら、8年前に記していた。その後も記したと思うのだが、どうも削除してしまったらしい。当時からすると、蔵書も、かなり処分して、本箱も4本に減った。資料関係も今年かなり処分したので、稼動している本箱は3本だ。ここから減らすのには、かなりの思い切りが必要だと思っている。

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