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2006年2月28日 (火)

ながら族と「名曲ラジオアワー」

学生の頃、ラジオを聞きながら勉強していたら、父から「そんなことしながら勉強できるわけないやろ。お前は、いつから聖徳太子になったんや」と度々叱られた。それでも、気づかれないように、ボリュームを小さくするか、イヤホンで聞いていたことを時々思い出す。父の言うことはもっともで、ラジオを聞きながら勉強していたら、眠ってしまったことも度々。勉強もはかどらないしね。まあ、そういうことで、あまり勉強はできなかったなあ。

「ながら族」は小学校高学年からだから、その経歴は長い。だが、流石にプロ野球の実況放送は聞かなかった。あれを聞くと「ながら」どころか、応援に身が入り何もできなくなるからだ。それで、当時は4月からは野球実況のないラジオ局といえば限られていた。

NHK・FMもあったがクラシックが多いので、あまり聞かなかった。それで唯一、『ラジオ関西』が「電リク(電話リクエストの略)」というのをやっていてよく聞いていた。他の番組でも、洋曲主体に、世界のポピュラー音楽の放送があり、日本の歌謡曲と違って、気分が明るくなるようなものが多かった。それに何となく選曲が優れていたと思う。

昔のことを懐かしくなると、老化の傾向があるといわれるが、昨年から、同じ局で、「名曲ラジオアワー」という番組を日曜日の夜に始めたので、聞いてみると、耳にすっと入る。当時の曲はよかったなあ。

現在のヒップホップなんてものは聞くのが苦痛だから、本当によい番組だと思う。聴取者は流風より年上の団塊の世代から上の方が多そうだが、大変な支持を集めているようである。東京方面にも電波が届くらしく熱心に聞いている人がいるらしい。「電リク」を当時聞いていて、関西から東京に行った人たちかもしれない。

もちろん、他局でも同様な番組はあるが、何か物足りないのだ。それは長年、洋曲を扱ってきた歴史の差がものをいうのだろう。だが、同局でも近年はプロ野球実況中継をやり始めたので、4月になれば、放送がなくなってしまうかもしれない。流風としては、プロ野球実況中継などは、どうでもいいから、この番組を続けて欲しいのだが。そんなことなら、放送局に言えって。それもそうだな。

まあ、ながら族だった者が、そういう番組を楽しんでいるものがいるということで。それに、夜(8時から12時くらいまで)は若者向けの番組が多く、団塊の世代前後向けの番組は現在少なく、ラジオ放送局はもっと検討してもらいたいものだ。l

* 追記

なぜ、この番組が人気があるのか考えて見ると、二人の熟年の男女のパーソナリティーの個性が微妙に絡まり、掛け合い漫才風に聞こえるのも、一つの魅力なのだろう。どうも視聴者は、肩が凝らない、そういうところに共感しているフシがある。もちろん、音楽の選曲が優れているのも確かだが。

*  平成20年9月28日追記

残念ながら、このプログラムも、ついに本日で終了だ。後継番組は、「名曲ラジオ 三浦紘朗です」(放送時間は、日曜日の午後8時30分から9時20分まで)になり、今までの加藤女史との掛け合いは聞かれなくなる。音楽自体の選曲は変わらないと思うけれど、少し残念。

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2006年2月26日 (日)

神戸波止場町 TEN×TEN

神戸に、神戸空港に加えて、新しい観光施設が生まれた。それは2月23日にオープンした「神戸波止場町 TEN×TEN」。いろんなクリエイター100名が出展している広場である。わかりやすく言えば、工芸作家の集まりみたいな感じ。

神戸には、時々道路を利用して、工芸ショップの出展などをやっているが、このような比較的広いスペースで、工芸ショップを開いたのは初めてではないか。京都などは工芸ショップが多いが、神戸では、このような集結したものはあまり見られなかった。なかなか一度では見ることはできないが、特色あるクリエイターが出展されていた。素人目にも期待できる内容だ。

交通は地下鉄海岸線「みなと元町駅」下車1番出口より海側へ徒歩2分。阪神「西元町駅」または阪急「花隈駅」から徒歩5分。マリンロードを南に行き、国道2号線を渡ればすぐである。

観光コースとしては、メリケンパークの近くなので、JR元町駅か阪神元町駅から、メリケンパーク→神戸海洋博物館→ポートタワー→中央ターミナルかもめりあ周辺→神戸波止場町 TEN×TEN→元町商店街というコースも考えられる。

場所:神戸市中央区波止場町6番5号
営業時間:11:00~19:00 入場無料
定休日は毎週水曜日。祝日の場合は翌日が休み。 

*追記

本日は、NGO日本モンゴル白樺協会が馬頭琴やモンゴル民芸品を出展されていることもあり、記念にモンゴルの馬頭琴の演奏と歌が催され(男2名、女2名)、初めてモンゴル音楽の生を聴いた。予定は知らなかったので、ちょっと得した気分。

日本人には、モンゴルの血が流れているので、共鳴できるものを感じた。どこか雅楽に通ずるものや、意味はわからないが、掛け合いのような歌もあり、なかなか面白い。

問合せ先:NGO日本モンゴル白樺協会 TEL 078-583-2100

*2006年10月24日追記

時々、午前中に行くのであるが、客が少ないことが多い。オープン時間を遅らせて、午後1時からでも、いいような気がする。

パンフレットは、各種施設に配布されているが、他の施設との動線が不十分で、この施設に引き込まれていない。近隣の施設と共同販促して、引き込む努力をする必要があるだろう。
     
また展示内容からして、各種カルチャーセンターとの連携、生徒の作品の展示場所としての提供が望まれる。

 

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2006年2月25日 (土)

米国のアジア国際戦略

米国のアジア国際戦略なんて、流風が語れるわけがないが、趣味的に、個人的見識を交えてまとめてみた。

米国は、ある意味、公表した戦略(参考参照)に忠実だ。もちろん、言行不一致の点も戦略に含まれているようだけど。まあ、政治に矛盾はつきものだ。大体最近感じるのは次のようなことだろうか。

まず第一に、米国は世界戦略として、中国とインドに強い関心を持っている。特に中国に対しては、米国市場を開放してきたが、それも第二段階に入ったようだ。

①中国に対しては、今後政治的自由と宗教的自由を要求するということ。

ただし自由度の程度は段階的でもよく、逆流しなければよいとのニュアンスがある。また中国が経済的自由と政治的自由は不可分であるとの認識を示していることに対して、それを理由に自由に踏み出さないなら圧力を加えるというニュアンスもある。

②米中貿易のバランスと柔軟な市場に基づいた為替システムの導入。

かつて日本に対して取った対策と同様である。この件については、特に記さないが、日本も影響を受ける。

③中国に米国企業が「公平な条件で競争できる市場を提供する」よう要求していく。

どこの国に対しても要求している事柄である。

④知的財産権の保護の強化。

表面的には関心を示しても、実際は無関心な中国に、継続的に要求していく姿勢を示す。

⑤中国の国際社会での積極的な役割を期待。

世界を米中で運営しようとする思惑。パートナーとしての位置づけ。戦略的競争者ではあるが、敵対国ではない。

第二に、インドに対しても、米国市場を開放し、引き続き開放していくようだ。

確かに、インドについては、まだ発展段階で、彼等に対する政策は明確ではない。現在のところ、期待している分野が、ITと医療分野に限定している。しかし、中国同様、その人口の多さから、エネルギー問題は重要だろう。

それに中国の次に関心が深いことはダボス会議(世界経済フォーラム年次総会)での分科会の数が中国に次いで多かった(インド7件、中国13件)ことが証明している。政策内容はいずれ中国の後を追いかけるだろう。その時、同様の政策を掲げるかもしれない。だが、インドが中国と同じ役割をするかは不明である。インドに対してはインドの独自の文化を考慮して、別の政策が取られるかもしれない。

第三に、中国、インドに対しては、それぞれ国情に合わせた民主主義を求めるようである。

中国・インドへ米国の市場開放をしているのは、民主化から逆行している、ある国をターゲットにしているのではないかということ。これは東欧諸国の米国寄り政権を企てたことより、意味が大きい。

第四に、中東政策は、中国やインドに対するエネルギー供給政策が絡んでいるということ。

すなわち、脱石油を現実できるかどうかは別にして、それを前面に出してきたことは、その表明でもある。中東諸国から石油輸入量を現在の米国石油輸入量の24%比率から6%まで落とすということの表明は大きな意味を持つ。

第五に、脱石油を打ち出したことにアジア戦略が見え隠れすること。

「先端エネルギー・イニシアティブ」を発表したことにより、新エネルギーの創造と共に、省エネ・環境問題に本格的に取り組むと発表した。

ビジネスレベルまでにまで引き上げ、より米国的なシステム作りに走るものと考えられる。そして、いずれ、大掛かりな省エネ・環境システムを武器に世界をくくっていくと予測される。

これらを踏まえて、日本は今後、海外戦略を練ることが求められる。中国・インドに主体的に関与していくことも必要だが、その周辺の米国が関心の薄い地域に対しても、日本は整備していく必要がある。東南アジアの内、民主化の遅れている国々やインド周辺国家、西アジアに対しても、米国とは異なる政策で関与していくべきだろう。

* 参考
 

①「京都で自由と民主主義を語る」
  2005年11月16日、ジョージ・W・ブッシュ大統領が来日時、演説したもの。
②「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書」
  2005年12月7日
③「ブッシュ大統領の2006年の一般教書」
  2006年1月31日
④ダボス会議(World Economic Forum 年次総会)

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2006年2月24日 (金)

おぼっちゃま政治家

民主党の失態には笑ってしまった。折角、自民党がたくさんの失敗を提供して、攻めどころを与えているのに、攻めこなすどころか、逆に自滅している。なぜそうなのか考えてみた。

まず言えるのは、幹部が若すぎる。若いことは悪いことではないが、政治は老・中・青のバランスが取れていなければならない。それを無視して、若い人たちで固まり暴走している。これは、問題を起こして今まさに上場廃止になろうとしている、かの企業のトップ層と同じ組織形態にうつる。

あのメールがどのような形で出されたものかは、不明であるが、民主党を引っ掛けるために提供されたのではないか、と穿った見方もできる。それを正面から受け止めたということは、いかに民主党のトップ層がおぼっちゃま体質を持っているかかがわかる。あのようなものは、国対が駆け引きの交渉ネタにストックしておくべきもので、大体表に出すべきものではないだろう。

ああいうことになるのは、政治家として基本的な哲学が欠けているのだ。政治とは黒と白の間をどう調整するかが求められるのだ。全くの黒は認められないが、全くの白なんてものはない。それは人間が糞袋であるように、人間社会も糞袋であるという観点から考えなければならない。今の時代は、清濁併わせ呑めということまでは言わない。ただ、もう少し人間とは何か、人間社会とは何かを知ってもらいたい。

私たち国民は、政治ごっこを期待しているのではない。本当の政治は、世界的視野で、いかに国益を守るかにある。民主党トップ層は全員退任し、新しく老・中・青のバランスで出直ししてもらいたい。

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2006年2月23日 (木)

髪の毛、危機脱出!!

まさか、ジェームズ・ボンドじゃあるまいし、大袈裟かもしれないが、長年抜け毛の多さで悩んでいた流風が危機脱出を成し遂げた模様!!

というのは、流風は、十数年髪の毛がよく抜けて、内臓になにか重大な病気でもあるのかなと思っていたのであるが、昨年の健康診断では別に問題もないことから、基本的に外部からの問題と判断した。それで、色々調べていたら、シャンプーに問題がありそうだということがわかった。

実は、流風は若い時は比較的頭も毎日は洗わず、女性に嫌がられたかもしれないが、髪の毛は若いこともあり、しっかりしていた。抜け毛もほとんどなかった。それが30代半ば頃から、毎日シャンプー(いろんな有名メーカーの商品。もちろんコンディショナーも使っていた)をするようになってから、今からすると、抜け毛が増えてきたような気がする。それが最近まで続いていた。

そこで、シャンプーを思い切って止め、身体を洗う石鹸にしたところ、髪の毛が元気になり、抜け毛も急激に減り、髪の毛も太くなったように感じる。

なぜか。それはシャンプーに含まれる成分にあるらしい。ある美容師の方が語るには、「△△硫酸○○という成分の含まれていないものを選べば、髪にやさしい」とのことだった。要するに硫酸系の成分が含まれていなかったらよいとのことだった。

そこで、まず試してみようと思ったが、硫酸系成分のない適当なシャンプーが見つからないので、石鹸にしてみた。某メーカーから出でいる『植物物語』(化粧石鹸らしい)というので、実際洗髪したところ、割といい感じだったので、それを続けている。そうすると、抜け毛が急速に落ちている。季節的なこともあるかもしれないが、流風は年中抜け毛がひどかったので、快適である。

まだ完全に危機脱出かどうかわからないが、3ヶ月経過して順調なことから、限りなく、それに近いと思う。部分的な薄毛も回復しつつあるのが、うれしい限りである。こうなると、気分もいい。抜け毛に悩んでいる方は検討されてはと思う。

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2006年2月22日 (水)

大臣の発言とプロパガンダ

よく大臣クラスが、軽口発言して問題になる。あれは多分本音だろう。だが現在の国の基本方針とは異なることが多い。そのため大臣の資質が問われることになり、指名した首相の責任にもつながる。

なぜそうなるのかを考えてみると、一番多いのが、大臣になって少し浮かれている場合もあるし、支持者に阿っている場合もあるようだ。だが、日本の大臣の発言は世界に時々刻々と注目されていることを忘れてはならない。

日本の大臣は日本国の大臣であると共に、世界の大臣であるという意識が必要なのだ。そういうことを周囲が注意しても、自覚のない大臣がいることは大変残念だ。発言内容によっては、国を危うくしかねない。

それは利害関係のある関係各国が交渉を有利にする材料として、内外のマスコミを利用するプロパガンダによって、物事が大袈裟に取り上げられたり、過去の解決している事柄を蒸し返されることになりかねない。

戦略的外交をする国々は、それらの失言に合わせて、事前に用意していたプロパガンダを流して、自国の色のついた内外のマスコミ・報道機関を利用して工作する。そのように、失言ネタは待ち構えられているのであり、発言は慎重になされるべきだ。

そういう風に考えると、本当の大臣というのは、本来何も言えないことになる。そういう風に対応すると、周囲は大臣の態度や数少ないちょっとした発言から判断せざるをえない。それは以前ブログで紹介した“木鶏”に通ずるものがある。

結局の所、周囲は、基本的には、その大臣になる前の過去の言動が根拠になるかもしれない。これから大臣を目指そうとする政治家の方々は、現段階で、もっと発言の仕方に注意しなければならないのだ。

いずれにしても、大臣は発言する前に、一旦発言を呑み込んで発言して欲しい。それが日本の政治家に最低限求められることだと思う。

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2006年2月21日 (火)

中国の脅威とは

民主党の前原代表が中国のことを軍事的に脅威と言っているらしい。外交交渉の席で“脅威”を駆け引きの手段として用いるのは、一つの便方かもしれない。確かに中国は軍事費を拡大させており、質レベルでも上がっていることは否めない。

それに中国は侵略と被侵略の歴史を持つ。日本とは海を隔てているため、漢民族に侵略されたことはないが、元には侵略を受けた(水際で堰き止めたことになっているが)。日本が将来、中国に侵略される可能性は絶対ないとは言えないかもしれない。

ただ中国には中華思想があり、それからすると、本来侵略は目指さない。但し、侵略されたら、侵略し返すという歴史はある。そういうことは将来の想定としては、あるかもしれない。だが、軍事的脅威だけが脅威だろうか。一般には、脅威とは、次のことが考えられる。

①敵対的軍事的脅威~領土・領空・領海などの侵犯・侵略
②敵対的政治外交的脅威~敵対的プロパガンダなど
③競争的経済脅威~市場における競争者
④エネルギー多消費・環境破壊脅威~隣国なので影響を受けやすい
⑤拡大的文化脅威~いわゆる文化侵略
⑥中国国家崩壊的脅威~政治的混乱による難民含む
⑦犯罪拡大脅威~犯罪の広域化・ネットワーク化

民主党の前原氏の指摘は、①のみを指しているように感じる。だが、中国を脅威というなら、真の脅威は13億人という人口(実際は15億人ともいわれる)だろう。米国が言う中国の脅威はそのことであろうと推測している。民主党の前原氏は、それを狭く理解していないか。それなら問題だ。

その辺は、米国はよく考えていて、戦略的競争者と言いつつ、米国市場を中国に開放し、逆に呑み込もうとしている。また今年の一般教書では脱石油も打ち出したが、これは将来のアジア戦略も絡んでいると見る。

日本としても、矢鱈、脅威を国民に煽るだけでなく、現実的な課題の解消方法を中長期に亘って提案する努力が政党には求められる。それには、米国のアジア戦略を注視し、それに沿った中国戦略が求められるだろう。そして、中国とは多方面の人材交流に基づき、共同の未来戦略が欠かせないと思う。

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2006年2月20日 (月)

武満徹没後10年

本日2月20日で武満徹が亡くなって10年になるそうだ(1996年2月20日没。ちなみに生誕は1930年8月8日)。

武満徹といえば、映画音楽のイメージが強いが、流風の年代からいうと、少し古く、実写で観たものは少ない。それに日本映画の音楽は当時は、それほど注目を浴びていなかったように思う。映画は知っているけれども、音楽は知らないのだ。例えば『乱』は観た記憶があるが、当時の映画は映像と音楽が一体になっているため、音楽のみの場合は思い出せない(聞けばわかるかもしれないが。日本の映画音楽は洋画に比べて、当時はあまりテレビやラジオで放送されなかったと思うので記憶に残らない)。

だから彼の音楽のイメージとしては、いろいろあるんだろうが、雅楽の印象が強い。流風は、武満徹を通して、若干雅楽に興味を持ったことがある。雅楽には春と秋がテーマになっていると思うが、彼の音楽は、春というより秋のイメージが強い。「ノヴェンバー・ステップス」とか「エクリプス」にしても、この時期に聞く音楽のイメージではない。ただ、いい機会だから、もう一度聞き直してみた。そうすると、今の時期でも日本人には合うという気がする。まだ寒いからかもしれない。

日本人の根底に流れている精神性を武満徹は十分理解していると思う。欧米のクラシックも良いが、いつもしっくり来るとは限らない。それぞれの音楽ができるには、それぞれの自然の背景があると思うが、武満の音楽とクラシックの違いは明確である。ただ欧米人にも支持されているところが不思議だ。彼等は日本の自然や風土を理解できるのだろうか。同時に、私達も西欧の自然や風土を真に理解してクラシック音楽を楽しんでいるのであろうか。

ああ、きれいな音色だな、という楽しみ方もあると思うが、少々ひねてくると(笑)、これでは飽き足らなくなってくる。一般人も、単なる欧米への憧れでクラシックを聞くのもよいが、それだけでは少しおかしいと、そろそろ気づかねばならないと思った。

風土、環境、時代。作曲家の感性がそれらに感応した時、そこに住む人たちに、共感できる音楽ができるのだろう。武満徹を聞き直して、そう感じた次第である。

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2006年2月17日 (金)

近所づきあいと紅白饅頭

最近は知らないが、流風が子供の頃は、よく近所から紅白饅頭が配られてきた。どこどこの上棟内祝いとか、誰々ちゃんの卒業祝いとか、お婆さんの米寿内祝いとか、いろいろあった。そのように、よい祝い事は近所に分けるという慣習があったように思う。それで、ああそうだったんだとお互い確認していた。最近は、核家族化したためか、近所との付き合いも浅く、そういうことはあまり聞かない。

確かに、その頃は足りなくなると醤油を借りるとか、作りすぎた料理を近所に分けるとか、釣果をおすそ分けするとか、お中元・お歳暮のおすそ分けとかもよくされていたと思う。年末には餅米を持ち寄って餅つきをしたりして、近所が助け合っていた。子供も近所のおじさんにぼろくそに叱られるし、子供もそういうことを通じて、やっていいこととやっていけないことの区別ができるようになっていた。

社会の不安定化が言われる時、大上段に構えて、議論するより、このような庶民レベルでの交流を取り戻すことが大切なように思う。もちろん、ある意味、煩わしさも伴う。しかし、これは物事の表裏の現象で、今まで私達があまりにも奇麗事で我がまま言ってきたことを反省しなければならないのではと最近思う。

そんなこと、今更できないと言う人もいるかもしれない。しかし、まず声を掛け合うことからはじめられてはと思う。女性同士は比較的されている。しかし若い女性は子供関係の知り合いを除けば、地域交流は必ずしもできていないように感じる。また男は仕事場との往復になるため、地域社会をあまり意識していない傾向がある。それが故に、その存在価値も薄い。気軽に声をかけて存在を知ってもらうことも大切だろう。そして、そんな基本的なことが地域の防犯につながっていく。当たり前のことから始めよう。

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2006年2月16日 (木)

関西のおばちゃん

関西のおばちゃんは何かと話題になるが、流風も若干付き合うのがしんどい時もあるが、結構そのお節介にお世話になっている口でもある。比較的下町に住んでいるので、年に何回かお世話というか、お節介に出くわす。

まず買い物に行くと、次のようなことがある。スーパーや商店街などの売り場で考え事をしていると、見知らぬおばちゃんが、(たまたま野菜売り場にいたので)「兄ちゃん、メークインと男爵薯は違うから、料理する時は考えて買いよ。奥さんに何を頼まれて来てんの」と店員でもないのにお節介が来る。

呼びかけは、いいおっさんをつかまえて、大体「兄ちゃん」である。それから、メークインと男爵薯の説明に入る。こちらが急いでいる時でも完全に無視。自分のペースで周囲を意識することなく、話し出す。

でも、時々、たまに参考になるときがある。別のおばちゃんだが、例えば「男爵薯、煮るときは梅干入れたら煮崩れせえへんよ」とか「ジャガイモは水から茹でるんよ。そしたら煮崩れしないから」とか言うので、騙されたつもりでやったらその通りだった。う~ん、こういうことがあると無碍に無視することもできない。おばちゃん、有難う。

また以前、魚屋の前では、魚の選び方のご教示があった。その店のサービスまで教えてくれる。大体知っているけど、聞かないと嫌な顔をされる。先日も肉屋の前で選択に迷っていたら、店の人でもないのに「あんた、これこれにしい」と厚かましく言ってくる。流風はよっぽどいいやすいタイプなんかね。結局その日は買わなかったけど。

これらは、買い物をゆっくりやっていると決まってこういうことになるので、最近はさっさと買い物をしている。流風にとって、大袈裟に言えば、売り場をゆっくり見ることは日本の動向の縮図が見れて好きなのだが。

また逆に、ものを尋ねたら、詳しいけれども、当方の事情お構いなしに、いろいろな話を聞かなければならなくなる。流風も最近は賢くなって、彼女等に聞くことはなくなったが、街で会うと「あんた、最近避けてるな」という顔をされるので難しい。

もっと若い時のことを思い出せば、買い物ではないが、流風に嫁さんの世話をするといって走り回っていた近所のおばさんがいた。休みの日はゆっくりしたいのに、お見合いの話を持ってきて、それから長い話を聞かされるのである。大体が自分の家族や親戚の話に始まって、近所のこと、知り合いのこと、成婚した自慢話などを聞きたくもないのに話たがる。

見合いの話は、はぐらかしながら、帰ってもらうのである(帰った後はぐったり)が、10回に1回くらいは別に気に入ったタイプでなくても対応しなければならなくなる。まあ、彼女にすれば流風はビジネスの対象であったのかもしれない。でも、あれは仕事と言うだけではできないね。典型的な世話焼きでないとね。

このようなおばちゃんに囲まれて、日々が過ぎて行く流風のある日の日常でした。あ~あ、おばちゃんは、あのようにお節介に生きがいを見出しているんだろうな。それに比べて、おじさんのお節介というものは極力少ない。流風はせいぜいブログでお節介するか。

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2006年2月13日 (月)

政治家の花道の難しさ

歌手だった山口百恵さんは人気の絶頂期に惜しまれて引退した。しかし、政治家は、なかなかあのようにはいかないようだ。小泉首相も、郵政民営化法案が通った時点で、身を引いておれば、名宰相と謳われることになったかもしれないが、チャンスを逃したようである。

郵政民営化法案成立後の状態は、彼一人の責任ではないが、決してよくない。だがワンマンの限界かもしれない。そこで問題になったことを整理してみた。次のようなことが挙げられよう。

①昨年12月14日、ブッシュ大統領はイラク戦争に対し、「大量破壊兵器情報の多くは誤りだった」と大義がなかったと発言した。このことにより、自衛隊派遣の大義もなくなった。結果的に残ったのは、日本も英米陣営として軍隊を派遣してきたという悪い印象をアラブの人々に植え付けただけになった。そして日本がテロの標的の範囲内に加えられたことだけだ。

②マンション耐震偽造事件発覚により、属する派閥の関与が疑われたこと。検査民営化に伴う建築基準法などの見直しができておらず、国土交通省の指導体制の改革ができていなかったことが露呈した。その後、東横ホテルの建築基準法違反など、見て見ぬふりをしていた国土交通省の体質がさらに露見した。この結果、国民に建設業界に対する不信感を植え付けた。

③ライブドアの不正事件。よく論じられているように衆議院選挙にホリエモンを担ぎ出し、そのセンスの悪さを問われている。また証券業界の構造的問題を露呈させた。過剰な上場が根本原因にある。それにホリエモンを小泉首相を支持している日本経団連が支援したセンスも問われている。その結果、日本経団連の見識が問われ、その支持母体が揺らいでいる。

④米国産牛肉輸入再開をブッシュ大統領の支持基盤に配慮して、日本国民の保護を無視して、急ぎ過ぎた。その結果、多くの国民から支持を失った。

⑤頑なな対中国外交で、米国からさえ、最早支持されていない。靖国神社に行くことが、どういう影響を及ぼすか何も考えていない。中国の駆け引きの材料にますます利用されるだけである。参拝するのは、首相官邸からでもできる。引退すれば、毎日でも参拝できるだろう。首相の信念と政治は切り離すべきなのだ。中国が当時の中国為政者の責任を問わないで、日本だけを責めることが正しいとは思わないが、首相のやり方は外交ではない。

⑥北朝鮮外交との交渉のまずさ。政権前からの過去の政治家が、自己のためにいろいろ画策したことを整理せずに、結果を求める甘さは、かの国から足元を見られている。外交テクニックがないのなら、かの国が崩壊するまで、拉致問題に対する制裁だけして、あとは何もせず動かなければよかったのだ。

⑦中国、韓国を除く他のアジア諸国に対する軽口で、不信感を与えている。アジアが全く見えていない。味方になりうる東南アジア諸国を敵にまわしてどうするのか。歴史の不勉強もはなはだしい。

⑧皇室典範に関する改正に対する強行発言の割りに、このことの本質を理解していないレベルの低さを露呈してしまった。国民に自らの無知を恥としてさらしてしまった。多くの国民はバカにしている。こんなリーダーをなぜ支持してしまったのかと。

ざっと、気がつくものだけ列挙したが、まだ、その他にもあるかもしれない。確かに小泉首相は、あの泥沼の時代に予定外の首相になったにもかかわらず、過去の自民党政権の失敗の尻拭いをして、経済の方向性を確立したことは評価できる。

しかし、優先順序をつけず、あれもこれもと課題を抽出しすぎて、国民を混乱させてきたことは否めない。ところが予想以上に衆議院選挙で大勝して、おかしくなったようである。選挙などせずに、郵政民営化法案成立を条件に、身を引いておればよかったのだ。しかし、それはできなかった。

そして、いつのまにか首相はワンマンであるが故に、裸の王様になってしまった。国民は彼がバカに見えて、彼のやり方にだんだん飽きてきた。人気を当てにした政権は比較的脆い。人間の評価は前半より後半にある。首相に花道は用意されていないだろう。彼の引き際がどのようになるのか注視したい。

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2006年2月11日 (土)

“自由”と規制緩和

最近、規制緩和により、いろんな事件が起こっているとの指摘が一部マスコミなどで見受けられる。さて、それは真実なのだろうか。どうもポイントがずれているように思う。

規制緩和を考える前に、まず“自由”の理解が為政者を含めて、日本人には不明確なような気がする。“自由”とは“フリーダムやリバティ”の翻訳である。しかし、この翻訳が問題であることは、以前のプログで触れた。

再掲すると、“フリーダムやリバティ”が「束縛や牽制から解放される」という意味である。それに対して、日本語訳となっている“自由”は漢語で、その文字からわかるように「抑圧や制裁もなく、他から手の出しようのない自ずから出る働き」を意味している。

このように、全く意味が異なるにもかかわらず、日本人は“フリーダムやリバティ”を日本的に“自由”と解釈している。

規制緩和というとき、それは規制を緩和して、“フリーダムやリバティ”の状態にするというのが本来の意味に近い。言い換えれば、“フリーダムやリバティ”の状態にするため、束縛したり牽制する規制を現状に合わせて緩めようという行為と捉えられる。

すなわち、現状に合わなくなった規制を緩和しようということである。ところが海外から規制緩和を要求されたとしても、日本の理解が全く違う。日本は全く“自由”にしなければならないと言う強迫観念に陥る。ニュアンス的には「緩和」より「解除」に近い理解の時もある。そこから、変な理解の規制緩和を推進することになっている。

また、本来は規制を緩和したら、それでよいかというと、そうではなく、緩和された状況に応じて、新たな合理的な仕組み(新しい規制含む)が必要なのは言うまでもない。どうも、この点が国の政策に抜け落ちているように感じる。日本語の“自由”という言葉に惑わされてはいけないのだ。為政者はその点に配慮が必要だ。

結論を整理すれば、古い規制→規制緩和→新しい仕組み、という流れが最も適切なのだ。もちろん新しい仕組みが新しい規制だけに留まるならば、それは将来害をもたらすかもしれない。それに新しい仕組みはいずれ古い仕組みになる。そういう心配はあるかもしれない。しかし、それは定期的に常に見直すルールにしておけば、問題は少ないだろう。いずれにせよ、規制緩和という言葉をもう一度考え直す必要があるように思う。

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2006年2月 9日 (木)

ダジャレ記念日とフグ

本日2月9日は、いろいろな日らしい。業界の人は本当にダジャレが好きですね。特に関西は、それで盛り上がる。経済も、ちょっと元気が出て、えらく川柳も流行っているようだし。関西パワーは川柳の遊び心が源泉かもね。

まず「服(フク)の日」。と言ったからって、あらためて服を購入することもない。どの家も服で溢れているのでは。何か別の物語がいるよ。業界の人ももっと考えて。

次に、「肉(ニク)の日」。これは肉のバーゲンでもやれば、そこそこの成果は出るのだろう。ただ安全・安心な良質の肉を頼むよ。米国産はいらないよ。

それから「フク(関西ではフグとにごらせるが、産地では「フク」と言うらしい)の日」。今までの人生で、あまりフグは食したことはないので、その本当の美味しさは理解していない。

子供の頃、不満があると、ふくれて頬を膨らますと、よく両親に叱られた。「お前、いつまでもそんな顔してたら、ふぐになるぞ! お前が悪いから叱っているのだ。誰も喜んで叱っているのではない」と。今から思い出すと、懐かしい。

ただ、高齢者が、この頬を膨らますことは、口腔内強化につながるらしい。高齢になって母が歯科の医師に言われて、やっているが、それがなかなかできないらしい。そんなことと思うことが、加齢に伴いできなくなる。人生の悲しさを覚える。

それはそれとして、今夕は、以前もらった「フグの缶詰」でフグ鍋といきますか。服と肉は本年はペンディングして、後日考えることにしますわ。それにしても、流風は影響されやすいなあ。

今日一日が、いろんな「フクの日」として「福の日」であって欲しい。

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2006年2月 7日 (火)

電磁波問題

今年の初めのことであるが、大変きつい肩こりになった。それは肩にずずんとくる本当にしんどいものだった。そこで肩こりがおこってから、通院もしたが、特に異常はなく、医師からは運動不足ではないかと指摘を受けた程度だった。確かに散歩も途絶えがちで、運動不足は否めない。他の生活においても特段問題になるようなことはしていない。しかし、それだけではないように思う。

実は、これは去年の冬も経験している。原因も心当たりがあるのだ。大変寒かったので、洋室にあるパソコン・プリンター・FAX一式を電気コタツのある和室に移動してからなのだ。洋室との環境差は暖房方法にある。洋室は電気ストーブであるのに対して、和室は電気コタツ。また洋室はデスクで作業するのに対して、和室はコタツと同等の高さの机で作業していた。どうも、そこら辺に原因があるようだ。そこで、考えられるのが、電磁波が干渉しあっているのではないかということ。

そこで、パソコン一式を寒いのは辛いが、洋室に戻してみた。そうすると、肩こりは、しばらくして、嘘の様になくなってしまった。このことは去年も同様の経験をしていたのだが、寒さには勝てず、去年の学習が活かされなかった次第だ。

やはり電磁波は何らかの影響を人体に及ぼしていると思う。電磁波に対しては、神経質な人とほとんど意識しない人がいるが、一応検討しておいたほうが良いと思う。自然界には電磁波が存在するが、今の我々の環境は過度に電磁波に囲まれて生活していると思う。健康に対するリスクとして認識しておいた方がいい。特に、子供、高齢者、妊婦などは要注意である。

よく高齢者が電車内で携帯電話を使っている人の近くには行かないという話しを聞く。彼等に近づくと、心臓がバクバクしたりするそうである。心臓が弱っている人々にとって、電車の出す電磁波と携帯電話の発する電磁波が干渉して、影響を与えているのでなかろうか。

また子供に対しても、最近は携帯電話を携帯させる家庭が多いようであるが、かつてよく議論されたように脳に悪い影響を与える可能性は高いと言われる。海外では規制の検討を現在でもしているという。規制はともかく、子供が携帯電話を使うのは制限が必要だろう。パソコンも同様だ。ゲームなどで過度にパソコンに向かうのは制限したほうがいい。

それから妊婦が携帯電話、パソコン類、電子レンジを扱うのも注意した方がいいと思う。子供に悪い影響を与えないようにしたいものだ。

もちろん、以上のことは科学的に解明されているのかと問われれば、確証はない。しかし、何かおかしいと思ったら、それに近づくのは避けた方がいいのではなかろうか。それが人間の持っている本能を活かすことだと思う。

*平成23年6月1日追記

WHOが、携帯電話による脳腫瘍の発がんリスクの可能性について、初めて言及した。前々から言われていたことだが、やっとという感じ。今後、携帯電話会社は、タバコ同様、携帯電話に、「長く通話し続けると、発がんリスクが高まるので、長時間の通話は止めましょう」と注記するかもしれない。

他に、どういう対策が取られるだろうか。まず耳から25ミリ離せるような台をつける。あるいは、イヤホンの奨励。また通話時間が長いと警告を発するか、自動的に切れるようにするかもしれない。

電磁波については、身体に何の影響もないと強弁する人もいたが、少なくとも、今後は、そういうわけにはいかなくなる。特に子供の使用制限は強化されるべきだろう。

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2006年2月 6日 (月)

虫の目、鳥の目、魚の目

よく議論していて、全くかみ合わないことがよくある。おかしいなあと思って、議論を後で整理してみると、視点が全く違っていたことに気づく。

人はそれぞれ考えるポイントがあり、それが違うと、議論としてかみ合わない。そのことを無視して延々と論じてみても埒があかない。それが高じて、ついに喧嘩に発展することも多い。そこで、今回は視点の違いについて整理してみた。

よく言われるのが、表題に掲げた“虫の目、鳥の目、魚の目”である。それぞれを見ていくと次のように考えられる。

虫の目とは近いところで五感をフルに活用して見ること。そして、それは、いろいろな角度で多面的に見ている。人間の世界で言えば、現場の実態を把握することに比重がある。

よって、近くは詳しく見えるが、全体感に乏しく、空間的にも、時間的にも、近視眼になりがちである。どちらかと言うと、女性に多いとされるが、最近は男性もこういったタイプは増えている。

鳥の目は虫の目とは違って、広範囲に亘って、高い所から俯瞰している。全体感を持ち、根本的な課題を発見して、問題意識を持つ。

よって、虫などの動きを通して、全体での優先順序が読み取れて判断できる。だが、餌を常に遠くに取りに行く必要があり、それに気を取られると、外敵に襲われる可能性も高い。

それを避けるには、鋭い観察眼と共に仲間と連絡を取り合いながら、何回も予備調査をするなど慎重な行動が望まれる。

魚の目は世の中の流れを感じ取り、未来を察知する。長期的視野で物事を見るため、時間的・空間的により広く決断できる。

すなわち歴史の流れの中で、未来を観て、現在を見て、また逆に現在を確認しつつ、未来を観ることを繰り返して決定する。

ただ短期的視野に問題があるため、現実感にやや乏しい。そのため、作為的に仕掛けられた罠に引っかかりやすい。一般に男に多いタイプと云われてきた。

これらは別の言葉では東洋の三原則として提示できる。すなわち、事象を多面的に観て、深く観て、遠くを観て近くを見ることによって、誤りなき結果を得ることができるのだ。

私達の思考も、大体これらのパターンのどれかに属している。相手の議論が、どれに属しているのかを見極めて、議論すれば、誤解は小さくなる。世界のあらゆる論争はこれらに収斂すると言えば、大袈裟だろうか。

*追記  「見る」と「観る」の違い

    「見る」・・・現象面を眼で見る。

    「観る」・・・現象面の深いところを

                       心で読み取る。あるいは、

                       まだ見えていないものを

                       心で読み取る。

* 追記 「魚の目」でなく、「魚の眼」について。

魚の眼は、対象物の見分けは、1~2メートルの範囲と言われる。また、15メートル離れるとほとんど見えないらしい。本論は人間から見た喩えであり、生物学的見地からすると、おかしい議論になることを了承願いたい。

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2006年2月 4日 (土)

春の調べ

本日2月4日は立春。これから、段々温かくなるのだろうが、でも、寒いなあ。春というのは基本的には、海と山。海の波が穏やかになって、山には新緑が美しくなるだろう。そういう期待感から気持ち的には明るくなる。今回は春の気分を味わう音楽を流風なりに取り上げてみよう。

音楽的には、海関係では、お正月に聞いた宮城道雄の『春の海』がちょうど合う季節になるのだろう。また『六段』なんてものもこの時期に聞くのがいいのかも。あの感じは日本の春の海に似合う。でも、旧正月は始まったばかりなのに、この時期になると琴の音があまり聞かれないのは残念だ。琴や尺八がもっと日常的に聞こえるようになればいい。

またクラシックはあまり詳しくないけど、海ではないが、スメタナの『ヴルタヴァ』が好きである。何の曲と思われる方もいるかもしれないが、ドイツ語で言えば「モルダウ」のことである。ヴルタヴァはチェコ語。この曲はチェコ人のスメタナが彼の祖国チェコのヴルタヴァ(モルダウ)という大河を謳った曲という。日本人の感覚の川と違い、どこか海に似たゆったり感があり、流風は好きである。そのほかには、ヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナウ』やドビュッシーの『交響詩「海」』もいいかも。気分をほぐしてくれる。

山関係では、特に山と言うことではないが、新緑のイメージのあるベートーベンの『ヴァイオリン・ソナタ第五番第一楽章』が好きだ。彼の音楽はあまり好きではないが、これはまあ聞ける。ヨハン・シュトラウスの『春の声』とか『ウィーンの森の物語』なんて曲もいい。別に山とか緑と言うことではないが、ヴイヴァルディの『四季』の春は定番かもしれない。

こう見てくると、流風の音楽趣味は小学生以来進歩していない。現在レパートリーを増やそうとしているが、なかなか自分の好みの楽曲はみつからない。これは子供の頃に味わった舌の感覚と同じなのかもしれない。子供の頃に聞いた音楽はどうしても耳に残る。子供たちには、できるだけ多くの良質の音楽を聞かせたいものです。

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2006年2月 3日 (金)

鬼はどこに

2月3日は言わずと知れた節分。子供の頃、「鬼は外、福は内」と豆まきして、逆に蒔いて叱られ、また後の掃除が大変だったことを思い出す。ところで、鬼はどこにいるんでしょうね。

落語にも『節分』というものがあるそうだが、実際は聞いたことがない。内容は、大晦日を何とか言いくるめて借金の返済を延ばしてもらったものの、その期日の節分がやってきた貧乏落語家の話しらしい。その掛け取りに対して、掛け取り漫才の手を使って相手の好みに合わせて、角力・端唄・芝居・喧嘩などの断り言を並べる。

そして、とどのつまり魚屋の親方にふぐをご馳走になり、親方がふぐを箸につまんで「ふぐは内とはどうだい」と言うと、「骨は外」という落ちという下げで終わる。その落語家にとって、鬼は掛け取りだったかもしれないが、咽喉もと過ぎれば気楽なもんだ。でも本当に鬼は掛け取りなんだろうか。

それはそれとして、最近は“鬼嫁”と称して、姑や夫に強くあたる妻が話題になっているが、どうなんでしょうかね。当人達は、あれで結構楽しんでいるようにも見えるし、実際はどうなのだろう。でも行き過ぎれば、第三者からから見ると、あんなみっともないことはない。姑や夫を強く牽制して、うまく行けばよいが、相手が過度に萎縮してしまえば、問題も多いことだろう。結局、鬼嫁は未熟で、こだわりの強い偏狭な女性と第三者によって捉えられるかもしれない。

そんなことより、もっと謙虚に周囲をホンワカさせて、天然ボケを振舞えるアホ・カシコ嫁の方がいいと思う。そんな嫁は、福嫁として理解されるだろう。長期的には、その方がいいのでは。鬼嫁から福嫁へ。そんなことを期待してしまう流風です。

ということで学べることは、鬼というのは、結局自分の心の中にあるのではなかろうか、ということ。もちろん、福も心の中にある。一年に一回、心の掃除をして、鬼を追い出してみるのも悪くないと思う。今日はどんな鬼に対して、どれだけ豆をまこうか。

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皇室典範は改正すべきなのか

流風が皇室典範について論じる立場にはないが、最近盛んに論じられているので、自分なりの意見を整理してみた。ただ実際はどうなのかわからないが、小泉首相も何もわかっておらず、危うい理解の仕方と言われている。また、その彼が何ゆえに皇室典範改正を急ぐのか不明である。まして流風が正しい認識をしているか疑問だが、思い切って少しだけ述べてみる。

天皇の位置づけは、日本国憲法に謳われているように、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である。そして、天皇は2000年以上続いた伝統であり、歴史のない他国が羨む世界に誇る伝統的な日本独特の文化である。

日本は歴史的に良くも悪くも天皇を中心として、直接・間接的にまとまってきた。戦後、国民はそのように感じていないかもしれないが、諸外国の捉え方は明らかに違う (戦後、マッカーサーは日本統治のため天皇制は残したし、ブッシュ大統領も、日本は君主制の下での民主主義であると言っている)。ある部分で畏敬の念がある。

そして、不遜な言い方かもしれないが、伝統を守ってきた天皇の歴史は“世界遺産”でもある。日本人としては、それを何としても守る責務がある。よって、そのようなものに簡単に手を入れることはできない。だから、その皇位継承については、慎重に議論されるべき性格のものであると思う。

そもそも皇室典範の改正論議は皇室に男子が途切れることを配慮してのことだと思う。それで女性の天皇を容認しようという話になっている。ただ歴史的に女性天皇は未亡人か独身で通し、基本的にピンチヒッターの役割が強い。

基本は男系によって守られてきた。男系を守る工夫はいくらでもあると思う。別に俗世間の慣習に従う必要はない。また最悪、旧宮家の皇籍復帰も考えられる(*注)。

それを現代の時代の風潮に合わせて、女性を天皇にし、夫を迎え、その子供も天皇にするという考え方は、女系天皇を認めるということになる。これは歴史文化を無視した、短絡的な非常に残念な発想と思う。

天皇という長期間続いてきた日本文化を現代の発想で簡単に変えていいものだろうか。長い歴史を通じて維持してきた天皇の継承の流れを時代におもねて、簡単に変えるべきではないと思う。現在の政府の考え方はどこかおかしい (それを促した有識者会議の決定もおかしい。本当に有識者なのか)。日本人としては、天皇という文化をもっと大切に考える必要があると思う。

結論として、一国民の意見としては、天皇という日本固有の文化を軽々に変更すべきではない、ということに尽きる。世の中には変えていいものと変えてはいけないものがある。客観的に見ても、皇室典範は決して変更すべきではないだろう。

もし、皇室典範改正案の提出を強行するなら、小泉政権は崩壊するだろうし、日本の政局は混乱するだろう。だが、実際は、そんな短期的な問題ではなく、遠い将来、日本及び日本国民に多大な困難をもたらすだろう。

*注

旧宮家の皇籍復帰のために、皇室典範を改正するのなら、最悪仕方ない。ここでは、女系天皇のための皇室典範改正しようとする動きを批判している。

*2016年12月24日追記

天皇の生前退位について議論されているが、天皇も民主主義体制の一員であるなら、退位は当然考慮されるべきものだろう。天皇は戦後、「人間宣言」されている。高齢なのに、いつまでも、神様でもないのに、天皇「職」を無理強いするのはおかしい。ここは皇室典範の改正が望ましい。但し、内容については、将来、齟齬をきたさないように細かく吟味する必要があるかもしれない。

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2006年2月 1日 (水)

欠点を隠すには

シェイクスピアは男に女性の選択について、次のように警告している。

              “汝、うわべによりて選ばざるもの、
               かえりて恵みあり、その選びかた、正しければ”
                                                  『ヴェニスの商人』より

ただ、女性の本質を見抜くのは、若い男性にとって、至難の業であろう。それで、昔は、その女性の親を見よ、と忠告していた。それは現代でも通用する適切な手段だろう。若い男性諸氏よ、付き合う前にその母親を見よ !!

さて、子育てで、昔、不器量な娘には、ある一定の教育の仕方をしていたと言われる (今のことは知らないが、同等のことをされている家庭もあるかもしれない)。それは、そのままでは、嫁ぐのが難しいと親が判断したからである。不器量を隠すために、次のようなことをした。

①まず、“笑顔よし”にすることである。始めは作り笑顔でもよく、鏡を見ながら、笑顔の訓練をさせる。実際、子供の頃から、こういう訓練をしていると、大きくなっても、本当の笑顔でいれるようになるという。男は笑顔に弱い。そんなところをうまく突いた教育である。

②それから“料理上手”。料理を早くから手伝わせて、徹底して料理を教え込む。男にとって、料理の上手な女性が好ましいからである。適切に“餌”を提供し続ける女性は幸せになれるという考えであろう。料理の下手な女性をもらうと、男は「一生の不作」と言ったものらしい。

③最後に“床上手”。いわゆるアレですね。夜の営みは男女間で大切ですが、基本的に昼と夜のけじめがしっかりした上で、甘え上手で、事後のマナーがしっかりしていることが、男には好まれる。そういったことも、きちんと家庭で教育していたようだ。

これだけ、三拍子揃えば、男は放っておかない。そして、離れることもない。

現代の女性のように高学歴ではあるが、それらができない女性は、現代の男にとっても、若干魅力がないかもしれない。現代は昔のようにはいかないかもしれないが、女性の学歴も男女関係においては、あまり関係がないようである。

逆に、大した学歴もなく、不器量であっても、三拍子揃えば、うまく隠すことができる。それで、愛嬌がよければ皆に好かれ、家は安泰になるのである。

“男は度胸、女は愛嬌”、これは現代でも変らない気がする。でも、現代では、男に度胸がなくなって、女に愛嬌がなくなっているのは問題だけどね。

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