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2006年2月11日 (土)

“自由”と規制緩和

最近、規制緩和により、いろんな事件が起こっているとの指摘が一部マスコミなどで見受けられる。さて、それは真実なのだろうか。どうもポイントがずれているように思う。

規制緩和を考える前に、まず“自由”の理解が為政者を含めて、日本人には不明確なような気がする。“自由”とは“フリーダムやリバティ”の翻訳である。しかし、この翻訳が問題であることは、以前のプログで触れた。

再掲すると、“フリーダムやリバティ”が「束縛や牽制から解放される」という意味である。それに対して、日本語訳となっている“自由”は漢語で、その文字からわかるように「抑圧や制裁もなく、他から手の出しようのない自ずから出る働き」を意味している。

このように、全く意味が異なるにもかかわらず、日本人は“フリーダムやリバティ”を日本的に“自由”と解釈している。

規制緩和というとき、それは規制を緩和して、“フリーダムやリバティ”の状態にするというのが本来の意味に近い。言い換えれば、“フリーダムやリバティ”の状態にするため、束縛したり牽制する規制を現状に合わせて緩めようという行為と捉えられる。

すなわち、現状に合わなくなった規制を緩和しようということである。ところが海外から規制緩和を要求されたとしても、日本の理解が全く違う。日本は全く“自由”にしなければならないと言う強迫観念に陥る。ニュアンス的には「緩和」より「解除」に近い理解の時もある。そこから、変な理解の規制緩和を推進することになっている。

また、本来は規制を緩和したら、それでよいかというと、そうではなく、緩和された状況に応じて、新たな合理的な仕組み(新しい規制含む)が必要なのは言うまでもない。どうも、この点が国の政策に抜け落ちているように感じる。日本語の“自由”という言葉に惑わされてはいけないのだ。為政者はその点に配慮が必要だ。

結論を整理すれば、古い規制→規制緩和→新しい仕組み、という流れが最も適切なのだ。もちろん新しい仕組みが新しい規制だけに留まるならば、それは将来害をもたらすかもしれない。それに新しい仕組みはいずれ古い仕組みになる。そういう心配はあるかもしれない。しかし、それは定期的に常に見直すルールにしておけば、問題は少ないだろう。いずれにせよ、規制緩和という言葉をもう一度考え直す必要があるように思う。

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