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2006年3月31日 (金)

報道の読み方

中学生の頃、恩師より新聞の読み方について、教えてもらった。その後、この関係についての教示はないから、流風にとっては、これが情報への接し方のベースになっている。基本的には、そのまま受け取ってはいけないということであった。多少、後知識も含めて以下に述べてみよう。

① まず新聞は毎日、見出しから読んで全体像をつかむ。最初から、部分的に詳細を読まない。

② できれば、数紙読み比べる。日本の一般紙は情報源が同じ場合が多いので、傾向としては内容が似ているが、細かく見ると、内容が違う。

③ 情報源を確認する。自社の情報源か、第三者からもたらされた情報か。記者の記名情報か、そうでないか。事実報道か、意見報道か。

④ 情報の速さより正確さを重視する。間違った速い情報を受け取るより、遅くても確実な情報の方がロスが少ない。

⑤ 記事の内容はそのまま受け取らない。思考が停止すると、人は情報をそのまま受け取るようになる。これは危険な兆候だ。よって情報の裏を読んだり行間を読むくせをつける。

⑥ なぜ、その情報が選択されて掲載されているのかを考える。選択するということは、その新聞社の編集者の意思が入っている。どういう思考の持ち主か把握しておくこと。

⑦ 各社の報道の比重を調べて、その報道姿勢・特徴を知ること。

⑧ 他社は報道しているのに、情報提供されなかった報道は何か調べる。また、それはなぜか考える。情報源がしっかりしていないか、報道したくないからか。他社に先を越されたからという面子の問題か。そういうことを頭に入れておく。

⑨ なぜ、その時期に報道されているのかを考える。特に特別記事には注意する。なぜ「特別」なのか考える。タイミングがずれて、報道される情報には注意を要する。何か特別な情報をつかんだ可能性がある。ただ、そうした特別記事より、ベタ記事のほうが重要なことが多い。

⑩ 時系列で報道を捉える。そうすれば、報道の整合性や矛盾を知ることができる。新聞では時系列で情報を捉えるのは苦労するが、現在はネットで整理されているものもあり、それを参照する方法もある。

以上が、概要である。ただ、流風がこのようにできているかと言えば、若干心もとない。人間、どうしても楽な方に流れやすい。だが、こういう見方をしっかりしておれば、判断に大きな間違いが少ないかもしれない。

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2006年3月28日 (火)

恋占いな~んちゃって

関西でも、桜の標本木が昨日咲いたようである。来週は花見かな。今回は流風には似つかわしくないテーマ(笑)。数十年ぶりにふと思い出した恋占い。どういった脳の構造になっているんでしょうね(笑)。それは桜とは全く関係のない飲み屋街でよく使われていた恋占いらしい。

実は中学生時代、ある雑誌にちょっと変った恋占いが載って少し流行ったことがある。流風も当時は、密かに憧れのマドンナとの相性を調べたものだ。結果は散々だったが。後で知ったことは、この占いはおじさんたちが飲み屋界隈で女性たちとコミュニケーションするのに使っていたと聞いて、へぇと思ったことがある。

さて、その占いとは、ご存知の方も多いと思うが、「ア・キ・ス・ト・ゼ・ネ・コ」である。別に暗号ではないよ。勘のいい人はおわかりだろう。では、知らない方のための説明を以下にしてみよう。

それは次の通り。

① まず「ア・キ・ス・トゼ・ネ・コ」の意味であるが、

    1 ア・・・・・・・・・・愛している
         2 キ・・・・・・・・・・嫌い
    3 ス・・・・・・・・・・好き
    4 ト・・・・・・・・・・友達
    5 ゼ・・・・・・・・・絶交
    6 ネ・・・・・・・・・熱烈
    7 コ・・・・・・・・・・恋人

   と、以上のようになっている。前についている数字は意味を持っている。

② 次に、自分の姓名と相手の姓名をひらがなにしてみる。

そこから、その母音を取り上げてみる。母音には番号がついていて、アは1、イは2、ウは3、エは4、オは5となっている。

 例えば、山田花子であれば、やまだはなこ、だから、1、1、1、1、1、5となる。相手も同様に数字化する。相手が鈴木一郎であれば、すずきいちろう、だから、3、3、2、2、2、5、3、である。

③ 今度は両方の共通する数字を同じ個数消していく。

上記の例であれば、5のみである。それを消す。

④ 次に残った数字を合計する。

山田花子さんは5、鈴木一郎君は15となる。

⑤ 判定は、①の表より、山田花子さんは、絶交、鈴木一郎さんは(15-7-7)で1となるので、愛している、となる。残念ながら、このペアはうまく行かないとなる。

まあ、他愛のない占いだが、意外と当たると言う人もいる。ただ、ここには仕掛けがある。7つの項目の内、肯定的なものが5件、否定的なものは2件である。だから、いい結果が出そうなのである。ところが、この人はと思った人があまり結果が良くなくて、何でだろう、と当時思ったことを思い出した。確率の計算に強い人計算してみてください。

こういうことは、今では、ソフトを使えば瞬時に出るんだろうが、アナログでやることが面白いのだ。そういうことで楽しめる。でも、結果は保証の限りではない(笑)。皆様も暇な折は試してくだされ。時間つぶしにはもってこい。但し、彼氏、彼女の前でやる場合は、事前に調べておきなさいよ。悪い結果で、恋が壊れても責任持ちませんから。それにしても、こんなコンテンツ書いている流風も暇だなあ(笑)。

*3月29日追記

上記占いの⑤の判定で、7の倍数を引いてゼロになった場合が不明であると、ご指摘を頂きました。この場合は、「パー」になる関係とお考えください。

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2006年3月27日 (月)

バス会社の運営について

本日はバスの運営について、ぶつぶつと。ある地域の某バスの運行状況について疑問を持っている。時間表には、来ることになっているバスがなかなか来ないことが多い。もちろん、道路状況によっては時間通りには難しいかもしれない。

しかし、ある時、暇だったので、一時間ほど待って運行状況を調べてみたが、なんと時間表どおりではなかった。なんと本数が時間表の半分以下くらいなのだ。これって、間引き運転?役所の交通局には届けてあるだろうし、違反じゃないのか。どこのパス会社もとは言わないが、どこか怪しい。こんなことはどこでもあるのだろうか。

こういうことが放置されているとすれば問題だ。また、その路線は、朝晩は混雑しているが、昼間は乗車率が低いのに、時間表には本数が極めて多い。そうだったら、はじめから、本数を少なくすればよい。よくわからないが、本数を多くしていると、バス会社にいいことがあるのかもしれない。

バス会社の経営は、厳しいのかもしれないが、運転手の給料も異常に高いことは以前指摘されていた。それに、バス運行表の不正があるなら、客としては不信を感じざるを得ない。経営が出鱈目な感じがする。

それにバスはほとんど大型バスだが、その必要性はあるのだろうか。確かに、朝晩とか、休日は、その必要性があるかもしれないが、運行時間によっては、乗車人数も数人と言うことも多く、必ずしもその必要性はないはずだ。極端に言えば、マイクロバスで十分だ。ガソリンも少なくて済むだろう、駐車スペースだって狭いところで十分だ。なのに、なぜそうしないのだろう。

日本のビジネス社会はかなり優秀と思うが、こういう公共交通機関は遅れているように思う。地下鉄のように採算ベースに乗らない無駄な公共交通機関も多い。役所の縦割りの弊害もあるようだ。

また都市は比較的システムが進んでいる所もあるが、少し離れると、システムは機能していないし、改善もできていないところが多い。こんな無駄を改善すれば、相当お金が浮くだろうに。歳出削減改革の視点は案外こんなところにあるのかもしれない。

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2006年3月26日 (日)

住宅への思い

流風の住んでいる阪神間は震災後、趣のある家が激減してしまった。古い邸宅など、それなりの風格と品位があったが、震災には耐えられず、ほとんどが倒壊し、なくなってしまった。その後は、ありきたりの建材を使った今時の家のオンパレードである。日本の家のよさは全く感じられない。

お金のある方は、是非、和風木造建築で家を建ててもらいたい。今、国産材も比較的入手しやすいコストになっているそうで、その活用も望まれる。問題は技術を持った大工さんが減っていることかもしれない。そういう技術も伝えるには、そういう建築物を増やすしかない。しかし、庶民ではなかなか建てられない。お金に余裕のある方は、そのように考えてもらいたいのだが。

もちろん、流風はマンション暮らしで、戸建住宅に住んでいないのだが、戸建に住むならと思って共感した内容を記しておく。一戸建てを検討されている方のため、参考まで。それは矢野恒太氏によるものである。建築担当者に指示した内容は次の通り。

① 敷地内に建物の位置を正しく定めること

② 外観の表現、手法は質素にして、堅実、しかも渋みのあるものにすること

③ 建築全体として、なるべく大きく見えぬようにすること

④ 健康上の点から、日本の気候風土に適する木造として、耐震構造にすること

⑤ 内部の戸締りに厳重なこと

⑥ 通風、採光、暖房、給水、排水、防火が完備のこと

⑦ ガラス戸を外部にはめ込み、雨戸を内側に設けること

⑧ 防火用水として庭園に水溜めを設けること

⑨ 日照除けの樹木を植えつける位置に注意すること

⑩ 庭園は自然の趣を活かし、なるべく手入れに費用を要しないこと

⑪ 材料は永久性のあるものを用い、工作は真面目なること

まあ、別に、このようでなくてもいいのだが、施主は方針を明確にしておけば゛設計士も仕事がしやすいはずである。もちろん、それなりの知識が必要ではあるが。和風木造建築が増えれば、街がもっと落ち着いた感じになる。そのように期待せざるを得ない街の状況なのだ。

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2006年3月25日 (土)

住宅事情雑感

本日は住宅事情雑感。マンションと戸建について、とりとめもなく、だらだらと。

公示地価が下げ止まりし、三大都市圏の商業地では上昇しているらしい。都市部の住宅地も底を打った様子であるが、地方はまだ下落状態という。確かに、流風の住んでいる地域でも、賃料はわずかながら上がり続けている。中古のマンションも値上がりしているようだ。金利の上昇も予測され、新築マンション購入を考えられている人も多いと聞く。

だが、ここで考えなければならないのは、マンションは終の棲家ではないということ。最近はバブル崩壊の影響で、止む無く、終の棲家にしている人もいるが、終の棲家ではないだろう。マンションは購入すれば、所有権を持つことになるが、実際は賃貸料の先払いと権利の取得に過ぎないと考えることもできる。

それに昨年から問題になっているマンション業者の不正は一部だけではないだろう。特に高層マンションは住むにはリスクが伴う。震災の時も、高層階は揺れが激しく、非常に被害も大きかった。それに立替となると権利の調整で大変だったようである。また高層マンションは人口減が予測されることもあり、いずれ廃墟になることも予測される。取り壊すコストや環境問題も大きい。となれば、マンションに関しては、それらに対応しやすい低層の方が望ましい。マンション業者の方々は考えて欲しいものである。とは言っても、都会ではそれが難しいのかもしれないが。

今後も起こるであろう震災のことを考えれば、戸建が望ましい。それも、100坪くらいの土地に、そこそこに、スペースにゆとりのある部屋の建物がいい。都心部では難しいか。しかし現在はあまりにも小さい家が多すぎる。狭い敷地にいっぱいいっぱいの小さい家を作り過ぎる。また隣家との隙間があまりにも少ない。景観上も望ましくない。あの程度だったらマンションの方に住めばいいのではとよく思う。

しかし、戸建の場合、マンションのような管理会社がないため、煩わしい面もある。その辺の改善は必要だろう。マンションの管理会社のように、地域戸建住宅管理会社というものがあっても良いとおもう。もちろん全てを管理会社に任せるのもどうかと思うが、住む人の諸条件により、こまごまとした地域の催しに参加できない人も多い。自治会も、それで助かるはずである。それに対する仕組みは今のところ無いようである。住宅会社は是非取り組んで欲しい。

こういうことを整えると、中古戸建住宅の流通がもっと速やかになるはずである。もちろん米国のように、常に転売を意識した改築という所有者の意識転換も必要かもしれない。それには、もっときめ細かな査定が望まれる。そういう情報が流れると、所有者も設備更新にしても意識するようになる。

戸建住宅市場はこれからもっと動き出すと思うが、しっかりした住宅を建ててもらうと共に、住まい周辺のサービスにも住宅会社には目を配って欲しいと思う。

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2006年3月23日 (木)

個人による公共投資

最近、金原明善という人がいたということを知った。彼は静岡の植林に貢献したとかで、関東の人には馴染みが深いかもしれないが、関西ではそれほど有名でないと思う。それとも流風が知らないだけか。よって、あまり詳しいことは書けない。今回は覚えのようなものになる。

彼は、実・行・業を重んじ、家憲を次のように定めたという。流風なりの解釈を付け加えておく。

一 君国を重んじること

国から与えられ、守られるだけでは駄目である。一命をかけて、国に対して、自分の境遇と力において、できる限り尽くすこと。

二 財産を重んじること

私有財産といえども、公共のために使うこと。社会のために、国家が必ずしも全てできるわけではない。それを私有財産で行う。

三 衣食住に制限を設くること

自分の生活に捉われては、結局、何もできない。よって、衣食住に制限を加える。すなわち、生活を律することは心をしっかり律することにつながる。心身ともに健康であればこそ、事業が行える。

四 人はみなその力に食むべきこと

伝えられてきた自分の持ち場を大切にして発展させることが、国家の発展につながる。全ての存在には意味がある。自分を大切にすると共に、相手を尊重し、研鑽すれば、社会の発展につながる。

五 家計は一定の年額を設くること

質素にして、毎年使う家計費を一定にしておけば、余れば貯金し、足らなければ、それで補えばよい。そうすれば、緊急のことにも対応できる。堅実な生活態度を求めている。

六 家伝二宝のこと
    二宝とは、忍ぶこと、嗜むことのない、これを二宝という。

あらゆる苦難に耐えること、贅沢なものに嗜まないこと。苦難に耐えれば、全てのことが大したことでなくなるし、人間社会が見えてくる。人間は日々贅沢になっている。いろんなものに嗜めば、心に捉われができ、それが油断につながる。

企業の社会貢献がよく言われるが、個人が社会貢献するにはどうすればよいか。今更ながら、鋭い指摘である。もう一度、個人の社会貢献について考えてみたいものです。

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2006年3月21日 (火)

社会貢献への考え方

現在、個人と社会の関係が、危うくなっているように感じる。それは義務意識のない自由の履き違えの行き過ぎ~本来責任の伴う個人主義の履き違え~かもしれないし、社会への無関心が生んでいるのかもしれない。

見方を変えれば、自由という観念を理解せずに迷って、精神的ゆとりを失っているのかもしれない。そのようなことは、おそらく多くの人が考えているだろうが、現実は時間がどんどん経っていく。そこにジレンマを感じている人が多いのが実際のところかもしれない。

土光登美は、土光敏夫のご母堂(共に故人)であり、晩年(70歳)になって学校を創設した人である。彼女は次のように主張した。“正しきものは強くあれ” “個人は質素に、社会は豊かに”と。すなわち、これは自己を確立しつつ、「一人は全体のために、全体は一人のために」という思想に基づく。

社会を熟知し、個人が対応するには、どうすればいいのだろう。例えば、福に対する考え方を見てみよう。“福は受け尽くすべからず”という言葉があるように、福を受けるには、余裕をもって受けなければならない、と言われる。

つまり、余福を残すのだ。この考え方は、欧米式のとことんやるというやり方とは相容れないものだ。人間社会に絶対的な福はなく、全て相対的なものである。よって福を受けるにしても、次善の方策が望ましい、という考え方である。

言い換えれば、70~80%の福で満足するということである。極端は虚構の世界では面白いが、現実の世界ではそういうことはなく、そういうことを期待すると、厳しいことが待ち受けているだけである。私達は、禍福の中間を行きつ戻りつを繰り返しているのだろう。それが人間社会であると再認識しなければならない。

そして、その上で、福を受けても、独り占めしてはならない。世の中に“お賽銭”をばら撒く必要がある。“お賽銭”は必ずしもお金とは限らない。

例えば、幸福な気分を分かち合うこともそうだろう。またボランティアをすることもそうだし、席を譲ることもそうかもしれない。困っている人がいれば、できる範囲で援助することもそうかもしれない。人の世話や人材育成もそれに当てはまるかもしれない。もっと広く考えれば、先祖供養することもそうかもしれない。

ところが、老いも若きも、最近の成功者といわれる方々は、日本の持っている良き考え方を否定しているように感じる。特に若い政治家や経済人を見ていると、その目的が私的で、目線が低く、見ている範囲が狭いように思う。社会に対する認識が薄いように感じる。個人と社会は連関している。目線を上げて、社会に対して、もっと高邁な思想があってよいのではないか。

それには、個人の生活も見直す必要がある。“私”を捨てれば、見えてくるものが違ってくるはずだ。私達は毎日、何らかの“福”を受けているはずだ。だが、“お賽銭”を投げ入れているだろうか。自分が何のために存在し、活動しているのかを、時々立ち止まって考えることは大切なことだと思う。

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2006年3月20日 (月)

消費税増税論議を考える

二宮尊徳が、『植樹の秘訣』について、次のように語っている。「樹木を植えるに、根を切る時は、必ず枝葉を切り捨つべし。根少なくして、水を吸うの少なければ、遂に枯るるものなり。大いに枝葉を切りすかして根の力に応ずること肝要なり」と。

政府関係者が、盛んに消費税アップは10%以内とか予防線を張り始めた。財政当局は、政治家を巻き込んで、将来に向けた自らの運営が楽になるための喧伝が過ぎるように思われても仕方ない。

それに、国の財布を預かるものとしての立場はわかるが、国や地方は政策の失敗の責任は誰も取っていない。無駄な支出も遅々として改革できていないし、結果的にドラスチックな歳出改革も進んでいない。

それでも、小泉政権後はどうしても消費税を上げたいらしい。国債残高の積みあがりや将来支出の増大予測で、国・地方は身動きできなくなり、そのつけを全て消費税増税に回すことで処理しようと踏み出すのであろうか。なぜ消費税だけがターゲットになるのであろうか。他に増収案はないのだろうか。そして、本当に消費税増税が必要なのだろうか。

確かに、現実問題としては、デフレ時代の財政政策の失敗と高齢社会到来による財政負担の拡大は避けられないようだ。だが財務省の消費税増税に関して、国民が納得する資料は提出されていない。実際は、特別会計改革と社会保険関連との二つに絞って国民を説得すればいいのである。

そして、まず特別会計関連にはもっと厳しく踏み込んでいくべきだろう。国民の真の協力を得ようとすれば、彼等自身や政策ミスした彼らの先輩達が身を切らない限り、国民の協力は得られないことがわかっているのだろうか。

国や地方の“暮らし方”は、稼ぎが少なくなっているのに、まだ“派手に暮らしている”。ドラスチックな改革は進んでいない。例えば、債務超過で、とても支払える状況ではないのに、政治家も官僚も俸給はそんなに下がっていないし、退職金も廃止されていない。天下り先の特殊法人の改革もまだまだだし、独立行政法人も変な状態になりつつある。それに地方自治体はもっとひどい。官僚機構が邪魔をして、歳出削減はままならない状況が続いている。地方の特殊法人も同様である。

それらの処理が完了しないのなら、安易に消費税増税に手を染めるべきではない(但し、社会保険改革は同時に進める必要がある。特に年金改革は平行して進める必要がある。後期高齢者の年金支給額の上限も考えねばならないかもしれない)。

更に言えば、国が税を集めて、それを分配する時代は終わろうとしていることが十分に認識されているかということだ。小さい政府にするなら、それなりの身代に変更しなければならない。また「小さい」政府というが、“どれくらいの規模”の政府にするかも明言されなければならない。そして、その規模に相応しい税体系に変更する必要があるだろう。

そのことを踏まえて、どうしても、税収が不足するなら、増税を国民に認めてもらわねばならないかもしれない。しかし、税収を増やす手段は、消費税だけではない。増税手段としては、優先順位しては、次のことが考えられるはずだ。

① まず所得税の累進課税の強化。現在、累進課税が機能していない。そのため、所得の再分配がなされていない。都市と地方の格差は広がるばかりである。

② 法人税の増税。デフレ期、法人税はかなり軽減された。増税のタイミングは難しいが、日銀も発表しているように景気はかなり堅調である。

③ 日本に進出している海外金融機関の不正は多い。彼等は軽い刑で野放しにされている。日本は市場を開放しているのだから、彼等がルールを守らないのであれば、厳しい制裁をして、もっときつい課徴金を課すべきである。

④ ①、②、③で以ってしても、歳入改革が進まない場合、初めて、消費税増税を国民に要請できるのだ。だが、消費税増税は、タイミングによっては、非常に景気を冷やすので、慎重に検討すべきものである。ベストの導入は過度のインフレ懸念が強まった場合に増税することが望ましい。

以上のことを整理し、若干付加説明するなら、次のようになる。

ⅰ 政治家・官僚は、政策の失敗責任をとり、かなりの減俸か、リストラが求められること。国債残高処理のための増税には、責任処理として、国民に協力を求めるなら最低限求められる。
ⅱ 特別会計予算をすべて一般予算に転換すること
ⅲ 小さい政府の規模を国民に明確化すること。それに伴い、社会保険改革、特に年金改革に国民の協力を要請すること。予測できなかった厚生労働省の政策ミスは明らかなので、その責任を取ってリストラすること。
ⅳ 小さい政府に相応しい税体系にすること。
ⅴ 増税プランの順番は、所得税の累進課税の強化→法人税増税→海外金融機関の懲罰強化・課徴金強化→消費税増税とすること

以上のことをいい加減にして、消費税増税するなら、国民から大きなしっぺ返しがあるだろう。原点に戻って、尊徳のやり方を今一度再考する必要がある。

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2006年3月18日 (土)

楽な生き方

流風も、若い時は、なぜこんなに努力しているのにうまく行かないんだろうとか、よく考えたものである。だが、よくよく考えると原因はすべて自分にあるのだと、ある時、気づいた。結局は心の持ち様でどうにでもなる。古典には、人間があくせくして休むことのできない理由として、次のことが挙げられている。

①長生きしたいと思うこと
②名誉を得たいと願うこと
③高い地位を得たいと願うこと
④金が欲しいと願うこと

これらの願いを持つ人は、死を怖がり、他人の評価を怖がり、権力を怖がり、刑罰を怖がる。すなわち、これらは他人に自分の運命を左右する力を握られていることを意味する。自分自身が失われている。この状態であれば、いつも心は不安で、心の安寧は得られない。

だから、人は自分の運命を怖がらないことが望ましいのだ。人は人、自分は自分。そのように割り切ると、自分の前が開けてくる。そう考えると、世の中、怖いものなしである。自然の道理に従って生き、多くを望まず、死生への執着をなくすことが楽な生き方かもしれない。

でも、そう簡単に悟れないところが人間かもしれない。だが、人は、それぞれ幸せの価値観は違うはずだ。それでいいのだ。自己満足だけでは社会を停滞させるかもしれないが、満足には限りがなく、どこかで満足しないと辛くなるだけだ。そのように、肯定、否定の繰り返しで、人は道を歩んでいくのかもしれない。

人は、それぞれ意味があって生まれている。自らの使命を確認し、主体性をもちつつ、自然体で生きるのがいいのだろう。

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2006年3月15日 (水)

外国人への接し方

英語を共通言語とする時代は終わりつつある。多文化国家の米国でも、英語を話せないことを前提に多言語教育が始まっている。その他の国々でも、母国語教育が中心になりつつある。だから外国語教育も、その目的に従って、多言語教育にすればいいという認識だろう。

さて、流風の住んでいる地域は、外国人が多くいるので、彼等を特別意識することはない。街を歩けば、いろんな国の人々が行き来している。そしていろんな言葉が聞こえてくる。だから基本的に、彼等との交流は“日本語”である。日本にいる以上、日本人に話しかけるなら、当然日本語ぐらいは勉強していて当たり前なのだ。英語を母国語とする人たちに、話しかけられても、日本語で対応するようにしている。そうすると、彼等は、どうしても聞きたいことがあれば、身振り手振りで知りたいことを示す。それは人間、誰でもそうだと思う。ビジネスで日本に来ているのであれば、なおのことである。

もちろん、観光客に対しても、同様にしている。ここは日本なのだから。そうすれば、彼等はどのようにすればいいか考える。別に無理して英語で話す必要はないのである。確かに観光ガイドとか、標識は英語で示していた方がいいかもしれない。それも考え方である。せいぜいローマ字で表記しておれば問題はない。

ただ観光業者や土産物業者の考え方は違うかもしれない。新たな顧客を招くには、言葉のサービスも必要と考えるかもしれない。しかし、それも旅慣れた人々とあまり海外旅行していない旅行者とでは、対応をそれぞれ考える必要があるだろう。旅慣れた人にとっては、日本語や日本語表記のものが歓迎され、旅行経験のないものにとっては、母国語が安心をもたらすかもしれない。

だが日本人は、あまりにも海外からの来訪者に対して、言葉の配慮をし過ぎていると思う。そんなことをしていては、真の交流はできない。彼等には、日本語のシャワーを浴びせかけるのがいいのだ。それが第一の異文化体験につながる。そして、そこから、お互いの言語を通してコミュニケーションが始まるのである。

むしろ、今、日本人とって、問われているのは正しい日本語を話し、使うことだろう。いずれ日本語を勉強した外国の方々から、「その言い方はおかしいのでは?」と問われかねない日本語の乱れの状況が感じられる。日本の学校教育でも、英語の時間を減らして、美しい日本文化・日本語教育の徹底を図るべきだろう。

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2006年3月14日 (火)

気になる中国と日本の誠意

良くも悪くも、中国政府は日本の内閣の諸大臣の発言に注目している。そして、中国から見て、それが不適切だと判断すれば、すぐ抗議している。それはどこの国でもそうかもしれない。

しかし、気になることがある。外交的手段かもしれないが、強硬的発言を作為的にやっていることだ。それに外交の舞台で、あのような品のない言い方や知性が全く感じられない態度をしている。

それも中国当局のそこそこの地位の人だから、本当に情けない。単純に日本人と中国人との違いでは済まされないと思う。彼らの先人は地下で笑っているかもしれない。あのようにすれば、仮に彼等からして、正しい意見であったとしても、日本国民からは反発を受けるだろう。

物には言いようがあるはずである。あんなことをすれば、一般日本国民に反中意識を高めるだけである。日本人はあのような態度を非常に嫌う。もちろん、そのことを意図しているのかもしれないが、一般日本国民にさえ、影響を与えれば、日中双方にとってよい結果は得られまい。

確かに双方のマスコミも悪い。きちんと整理されていない状況で、発言者の背景や状況を調べず、作為かどうか知らないけど、ただ垂れ流しして煽っている。さらに、いろんな思いから流れるネット情報もある。それらが相俟って、混乱に拍車をかけて、双方の誤解を生じさせている。

これらを改善するには、もう少し整理して日中双方の外交にプラスになるように、双方の報道機関が建設的に報道する必要がある。もし、今後も、このような報道が続くなら、国民としては外務省の公式発表で判断して、マスコミ報道は無視するしかない。

さて、それはそれとして、それでは、中国が、なぜあのような発言や行動をとるのか。歴史を十分把握していない大半の日本の一般国民には理解しがたいかもしれない。しかし、原因は、日本側が作っている。

それは小泉首相による靖国神社参拝にあることは間違いない。なぜ、彼等がそれに拘るかと言えば、それは“日中平和条約”(正確には、このようなものはない。共同声明や平和友好条約等を指す。*注参照)に、あの行動が違約であると判断しているからであろう。

日本には、日本の理由があるという人もいるだろう。だが満州事変にしろ、日華事変にしろ、当時の日本の政策ミスは否めない。そして、その原因は当時の国際情勢を見誤った優柔不断な指導層や一部軍部の暴走であったことは明らかである。

それらの指導者や軍人が戦死でもないのに、靖国神社に祀られている。そこに現在の日本のトップが参拝しているのだから、これは“日中平和条約”を否定するものと捉えられても仕方ないのだ。

ただ見方を変えれば、小泉首相としては、第二次世界大戦の後半のより多くの戦死者が出た太平洋戦争への思いが強いのかもしれない。すなわち、あの戦争は欧米のアングロサクソンとの戦いであったという気持ちが強いのだろう。

あの戦争は欧米列強との戦いで自存自衛の戦争だったと言いたいだろう。中国と戦ったのではなく、欧米諸国と戦ったのだと。そのことに関しては、中国にも多大な迷惑をかけたが、理解してくれと。確かに歴史を精査すればそうだろう。

しかし、あの悲劇を作ったのは当時の政治家であり、軍部の暴走であったことは間違いない。そして、当時の隣国の政治状況は混乱していたとしても、中国人の思いを裏切り、中国の人民に多大の迷惑をかけたことも事実である。その辺は日本国民は十分反省し、後世にきちんと伝えていかなければならない。

そう考えれば、靖国神社への参拝は自重すべきなのである。それが中国人民への日本としての誠意であろう。次の日本の指導者は靖国神社には参拝すべきではないだろう。そして第三国から侵略を受けないようにするためにも、日中の指導者はコミュニケーションに厚みと深みを持たせ、それぞれの立場を超えて、歴史観を共有する必要がある。そうすれば、多くの双方の誤解は解けるだろう。

*注

中国との声明、条約、共同宣言には次のものがある。

 『日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明』 1972年9月29日

 『日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約』 1978年8月12日

 『平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言』
                                 1998年11月30日

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2006年3月11日 (土)

花粉症の季節

もう春だなあと感じる今日この頃ですが、嫌な奴がやってくる。花粉症だ。流風は5~6年前から花粉症になり、ティッシュペーパーがいくらあっても足りなくなるし、鼻は赤くなるし大変な時期を過ごしていた。

そうかといって、あの気持ちの悪い大層なマスクをするのもなんだし、それはせずに措いたのだが、あの症状には勝てない。耳鼻咽喉科で薬を処方してもらったり、薬局で点鼻薬を買うであるが、効果はなかった。

そして、いろいろ考えた(恐れ多くも研究とは言わない)結果、花粉症は自宅が原因ではないかと思った。人は寝ている時に無防備になり、病気になるという。そのことを踏まえて、対策をそれなりに講じてみた。

まず、第一に、掃除を頻繁にやること。掃除は苦手で、流風には辛かったが、あの症状には勝てない。

第二に、外気からのほこりは拭き掃除でこまめに除くこと。出入り口、窓など外気が入るところ全て。

第三に、それでも微細なほこりは取り除けないので、S社の空気清浄機を設置した。他社製でもいいかもしれないが、この会社のものがよさそうと判断した結果である。

第四に、風邪の予防と同様、帰宅後は、手洗い、顔洗いを徹底したこと。本当は頭も洗ったほうがいいのだろうが、さすがにそこまではね。

第五に、これは以前からそうしているが、帰宅したら、外出用の服を家庭内の服に着替えることの徹底。

このように、去年の秋から実行したら、今のところは、花粉症の症状は出ていない。外出したら、もうすでに、ひどいくしゃみをする人が多いのに、今年は症状はない。花粉が今年は少ないからかもしれないが。

それにしても、電車に乗っていると、後ろから、前からくしゃみされるのは、あまり気持ちのよいものではない。なあ、おばちゃん、はよ治しや。あんたとこ、掃除してないちゃうかと言いたくなる流風であった。

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2006年3月 8日 (水)

神戸パン屋巡り

流風は、基本的に「ごはん党」なので、パンはそんなに食べない。それでも、週に2~3回パンを食べている。若い頃は、パン食では力が出ないと思っていたが、年とともに、それほどエネルギーが必要でなくなり、パン食でも大丈夫かなと最近では思っている。

そして、それほどグルメではないが、画廊の散歩がてら、時々いろんなパン屋を発見し、覗いたりしている。そこで見つけるのは、食パンだったり、菓子パンだったりするが、最近は色々なパンが出ている。価格も様々だ。菓子パンであれば、ケーキのようなパンもあれば、ボリュームたっぷりの食事用のパンもある。そして、評判ほどでなかったり、逆に紹介されていなくても、意外な美味しさを経験したりする。

神戸には、フランスパン系、ドイツパン系、北欧系、イタリア系など様々なパン屋が、比較的狭い地域にあるので、一日あれば、パン屋のはしごができる。一人では、なかなか全てを食することは難しいが、多人数でのパン屋巡りはなかなか楽しいはずである。

ただ、菓子パンばかり食べていると飽きるので、素に近いパンをいかに自分で加工して、味わうのも、もう一つの楽しみ方だろう。女性だったら、そのようなことはされているだろうが。やはりパンも最終的には料理の材料なのだろう。そういう時間の余裕を持ちたいものです。
   

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2006年3月 7日 (火)

次の政権の課題

小泉政権後の次の政権がどのようになるのか注目される。庶民には直接関係ないと言われる方もいらっしゃるだろうが、そうではないだろう。関心を持つことは大切だ。

ところで、民主党の岡田氏が自民党の次のリーダーと目される人々に“口頭試問”していたが、あれは面白い試みだった。次のリーダー達がどういう考え方を持っているのかや対応の処し方が国民にも、わかって面白かった。あのように基本的な考え方を確認することは大切だ。

さて、小泉政権の評価であるが、内政に関しては、いろいろな評価があるだろうが、70~80点ぐらいではなかろうか。しかし、外交に関しては、国民を無視した在日米軍対応のことを含めて、限りなく0点に近い。評価できることがないのである。小泉首相が、外交に見識がなく、無関心であったことの現れであろう。また、それは自民党の伝統かもしれない。自民党は選挙に勝つため、票になる内政重視の政策だったから。

でも、これからは外交の重要性には国民も目覚めるべきだろう。すなわち、今後は、外交と内政は直結しており、内政と外交のバランスが要求されるのだ。

優先順序的には、今後のリーダーに、まず求められるのが、国際認識がしっかりしており、地政学的なものも含めて、戦略的な外交戦略においてリーダーシップが取れる人物が次の首相になることが望ましい。首相はどちらかと言うと外交に重きを置くべきなのである。首相直轄で外務省を置き、外務大臣を議長にして、総合外交戦略会議を置けば、もう少しましな外交ができるはずである。

小泉首相は外交に対する見識が全く欠けていたから、外交に関してはリーダーシップを発揮するどころか、英米からも馬鹿にされたのが現実だろう。それを補ってあまりある人物がはたして自民党内にいるのかは不明である。しかし、日本において、喫緊に求められるのは言うまでもない。

その次に、内政では、副首相を置いて、全般的に担当させるべきだろう。首相が外交も内政も担当するのは、無理なのは、以前にも述べた(但し、大統領制は無理そうなので、首相は外交担当、副首相は内政担当の体制にする)。形式はともかく、実質ははっきりと分業をすることが望ましい。副首相の下に各大臣を配すればよい。そして副首相が内政を担当すれば、もう少しきめ細かい政治が可能ではなかろうか。国会答弁でも、副首相がやれば、内容のあるものが可能であろう。

そして、その内政問題で優先順序として求められるのが、歳出削減であろう。よく消費税増税とセットで論じられるべきだと言う方がいるが、政府の役割を小さくするのであれば、消費税増税はありえない。縮小均衡であれば、消費税増税は必要がないはずだ。その辺を国民がどう判断すべきなのか、シュミレーションも提示がないまま、消費税増税を喧伝しているのはおかしい。

なぜ歳出削減の論議からしなければならないのかというと、歳出削減のシミュレーションをやればいろいろな課題が浮き上がってくるからである。それを国民にオープンにして議論すればよいのである。それを政府関係者と政治におもねた御用学者の中で議論するから、堂々巡りするので、一向に議論が進まない。

議論すれば必ず出てくる課題で、最も注意しなければならないのが、現在の社会保障費の大幅な見直しと特別会計の一般会計化である。

すなわち、前者は国民の賛成が得られないという選挙絡みの判断で、真剣に議論されない。つまり現在の医療・年金制度の大幅な見直しをすることである。

後者は、一般会計は国会で審議されるが、一般会計の5倍と言われる特別会計は審議されない。そこで官僚達が大きな無駄を作り出している。これを全て一般会計化する必要がある。

いずれにしろ、このような問題意識で、国民にテーマを具体的に下ろせる人に次のリーダーになってもらいたい。

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2006年3月 6日 (月)

ご当地検定

最近は、あちらこちらで地域の知識を深めるため、いろいろな検定が行われているようである。別名『ご当地検定』とも言うようだ。もちろん、これは地域のことを深く知ってもらって将来ボランティアの観光ガイドして頑張ってもらおうという意図があるようだ。海外から観光客が来ても、地元のことを説明できなければ、困りますからね。それに、意外と身近であっても知らないことは多い。

流風の近くでも、「明石・タコ検定」が先日、実施された。533人も参加されている。明石といえば、魚の町で、先日紹介したイカナゴ漁と、それを調理したイカナゴのくぎ煮とか、明石鯛の産地でもある。それに明石海峡はタコの産地で、玉子焼き (ちなみに明石では、たこ焼きとは呼ばず、「明石焼き」または「玉子焼き」といい、大阪のたこ焼きとは区別している。下記参照)が有名である。こういった知識を身につけて仲間内だけでなく、広く披露すれば、それなりに面白いかもしれない。

この『ご当地検定』、関西だと、「京都・観光文化検定」が2004年から始めている。先日も、先程紹介した「明石・タコ検定」が実施された。その他にも、今年の計画では、「姫路・観光文化検定」「ジュニア京都検定」が行われるようだ。また今後の予定では、「六甲・摩耶学検定(神戸市)」「奈良まほろばソムリエ検定」などもあるようだ。

しかし、『ご当地検定』とはうまく考えたものである。定年退職者でも、自分の住んでいる地域のことは知らない方が多いだろう。多少費用はかかる(受験料、公式テキストブック代、対策セミナーなど)が、そういう理解をするには手っ取り早い。それに新たな知識を取り込むことで、脳の活性化にもつながり、ひいては地域の役にも立つ。大学などの公開セミナーなどもいいが、これは地域に直接関与できる可能性に多分魅力を感じるだろう。これは相当なスピードで全国的に普及するかもしれない。

*明石・タコ検定公式認定ホームページ
http://www.tako-kentei.com/pop.htm

*明石焼き(玉子焼き)に関するホームページ
http://www.tohtani.com/akashiyaki.kigen.htm

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2006年3月 4日 (土)

ベストセラーは読まない

以前どこかで書いたと思うし、コンテンツが重複するかもしれないが、流風はベストセラーは読まない。もちろん、書店で選んだものが、たまたま後でベストセラーになったことはある。だがマスコミで囃されたものは、基本的に避けるようにしている。

何でもそうだが、マスコミに囃された時はピークか終わりと考えた方がいい。よくテレビ好きな人が、テレビを見ていると時代が見えるなんて、言い訳しているが、テレビからもたらされる情報は、ある意味「情報の残骸」を示しているに過ぎない。

それに、人間でもそうだが、遠くで見ていると美人が、近くで見ると皺だらけということもある。スポットライトを浴びて、本来気にしていないものさえ、見えてしまうのだ。知らなければいいことまで知ると、その人のイメージも低下する。

マスコミは一種、拡大鏡なのである。全体をバランよく評価してくれればいいが、一部に焦点を当て過ぎると、第三者には誤解を与えやすい。マスコミの罠に嵌らないように注意したいものである。

話を元に戻すが、そういうことは、本でもそうなのだ。時々、ある本が注目されて、著者がマスコミなどに出て、本の意図を説明しているが、疑問だらけのことがよくある。そういうのを耳にすると、気になって、本屋に行ってみて確認するが、大抵は駄作である。頓珍漢な内容のないものがほとんどなのである。なぜ、これがベストセラーなのか、首を傾げたくなるようなものが実に多い。

マーケティングでも、そうだろうが、注目を浴びすぎると、それは新規ビジネスとしては、おいしくない。その情報はすでに終わっているのである。本当の価値あるものは深く潜行しているのが普通である。本来、それを見つける楽しさが、ある意味、快感なはずである。人々は手抜きして、楽しさを追い求めようとしているのかもしれないが、やはり、そこには無理があるのだ。

本屋で、本を選ぶコツは、目次、コンテンツ、印刷、本の作り、装丁などであろうが、慣れてくると、ぱっと手に取るだけで、いい本か悪い本かわかる。但し、最近は、装丁は立派だが、中身は空っぽというものも多いので注意は必要だ。やはり全体的なバランスだろうか。こういうことはネットでは確認できない。

やはり本屋で立ち読みが必要なのだ。最近は、ハタキで追い払われることもなく、自由に読ませてくれる書店が多いのは本当に助かる。ただ、本屋にいくと、不思議とトイレに行きたくなるのが困るけど。それでは、本日も、掘り出し物を見つけに本屋に行こう。

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2006年3月 1日 (水)

イカナゴのくぎ煮

本日3月1日は、関西ではイカナゴ漁(新子、小さいイカナゴ)の解禁日だ。以前は3月末頃だったのが年々早くなっているようだ。温暖化など地球環境の変化が影響していると言われる。

イカナゴの名称(但し地域により呼び名が違うらしい。かなぎ、小少女(コウナゴ)など)の由来は色々あるらしい。一つは「いかなる魚の子なりや」という疑問そのものからイカナゴと言うようになったとか。もう一つは、旅人に、そのことを尋ねられたことに対して、地元の人がその質問を方言で聞きなおしたことから来ているともいう。いずれにしても、疑問から発した言葉が魚の名前になっているのは面白い。ただ色々な言い伝えは、後付講釈がありそうな感じがする。この魚の成魚は20センチくらいになるようだ。

それはそれとして、漁に伴い、明石~神戸・淡路島にかけて、漁港近くでは、「くぎ煮(出来上がりが錆びた古釘のようだから)」が作られる(最近では、作る地域が広がっているようだが)。スーパーでもイカナゴを入手できるが、傷みやすいので、すぐ料理しなければならない。それでも、好きな人は、自宅でくぎ煮を作っているようだ。イカナゴのくぎ煮は、春の報せでもある。それに、この時期に、くぎ煮があると、さらに食が進む。それにイカナゴはカルシウムが豊富であるから健康にもよい。

イカナゴのくぎ煮はさすがに作ったことがない。料理としてはそんなに難しくないと思うが、鮮度の高いイカナゴの入手は難しい。一応参考までに、下記に作り方を記したホームページを紹介しておく。流風は、せいぜい出来上がりを購入して、いろいろな味を楽しむことにしよう。美味しいので、御飯を食べ過ぎて、体重オーバーになる危険性があるが。

 

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