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2006年3月21日 (火)

社会貢献への考え方

現在、個人と社会の関係が、危うくなっているように感じる。それは義務意識のない自由の履き違えの行き過ぎ~本来責任の伴う個人主義の履き違え~かもしれないし、社会への無関心が生んでいるのかもしれない。

見方を変えれば、自由という観念を理解せずに迷って、精神的ゆとりを失っているのかもしれない。そのようなことは、おそらく多くの人が考えているだろうが、現実は時間がどんどん経っていく。そこにジレンマを感じている人が多いのが実際のところかもしれない。

土光登美は、土光敏夫のご母堂(共に故人)であり、晩年(70歳)になって学校を創設した人である。彼女は次のように主張した。“正しきものは強くあれ” “個人は質素に、社会は豊かに”と。すなわち、これは自己を確立しつつ、「一人は全体のために、全体は一人のために」という思想に基づく。

社会を熟知し、個人が対応するには、どうすればいいのだろう。例えば、福に対する考え方を見てみよう。“福は受け尽くすべからず”という言葉があるように、福を受けるには、余裕をもって受けなければならない、と言われる。

つまり、余福を残すのだ。この考え方は、欧米式のとことんやるというやり方とは相容れないものだ。人間社会に絶対的な福はなく、全て相対的なものである。よって福を受けるにしても、次善の方策が望ましい、という考え方である。

言い換えれば、70~80%の福で満足するということである。極端は虚構の世界では面白いが、現実の世界ではそういうことはなく、そういうことを期待すると、厳しいことが待ち受けているだけである。私達は、禍福の中間を行きつ戻りつを繰り返しているのだろう。それが人間社会であると再認識しなければならない。

そして、その上で、福を受けても、独り占めしてはならない。世の中に“お賽銭”をばら撒く必要がある。“お賽銭”は必ずしもお金とは限らない。

例えば、幸福な気分を分かち合うこともそうだろう。またボランティアをすることもそうだし、席を譲ることもそうかもしれない。困っている人がいれば、できる範囲で援助することもそうかもしれない。人の世話や人材育成もそれに当てはまるかもしれない。もっと広く考えれば、先祖供養することもそうかもしれない。

ところが、老いも若きも、最近の成功者といわれる方々は、日本の持っている良き考え方を否定しているように感じる。特に若い政治家や経済人を見ていると、その目的が私的で、目線が低く、見ている範囲が狭いように思う。社会に対する認識が薄いように感じる。個人と社会は連関している。目線を上げて、社会に対して、もっと高邁な思想があってよいのではないか。

それには、個人の生活も見直す必要がある。“私”を捨てれば、見えてくるものが違ってくるはずだ。私達は毎日、何らかの“福”を受けているはずだ。だが、“お賽銭”を投げ入れているだろうか。自分が何のために存在し、活動しているのかを、時々立ち止まって考えることは大切なことだと思う。

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