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2006年4月19日 (水)

父と謡曲『松風』

謡曲が趣味であった父は『松風』が好きのようであった。テレビで放送されていると、よくこれはいい、と言っていた。小説の中にも題材として取り上げられていることを時々嬉しそうに言っていた。当時は流風は謡曲には関心がなく、聞き流していたが、今になって時々思い出すことがある。

『松風』は悲しい物語である。平城天皇の孫であり、阿保親王の子供である在原行平と女性たちの物語である。ちなみに彼は在原業平の兄である。彼は親の阿保親王が薬子の変により大宰府に左遷されたことを受け、平城天皇に連なる彼ら一族は冷遇される。

行平は都を離れ、須磨のわび住まいをした(実際、当時の彼の年齢については、いろいろ言い伝えがあるのだが、流風の推定では、35~36歳頃ではと思っている)。彼は須磨のわび住まいについて、『古今集』に次のように歌として残している。

           わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に

                              藻塩たれつつ わぶと答へよ

そこでの物語である。彼が、ある日、浜辺の松林で美しい姉妹に出会った。名前を聞いたが教えてくれなかったので、「お前たちを、松風、村雨と呼ぶことにしよう」と言った (実際は、彼女等は汐汲みに来た多井畑という村の村長の娘で、姉が「もしほ」、妹が「こふじ」という名前であったと伝えられている)。

彼は二人を愛し、彼女等は彼の身の回りの世話をするようになった。時は過ぎ、三年後、行平は許されて都に帰ることになったが、二人の娘は深く嘆いた。そこで、彼女等が浜に出ている間に、こっそりと都に旅立ち、形見の冠と狩り衣を残した。彼はこの時、小倉百人一首として有名な次の歌を残している。

            立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる

                             まつとし聞かば いま帰り来む

因幡守を拝命し任国に赴任したのだろう。その時の心情を歌っている。ただ、この歌をいつ歌ったのかは明確ではない。流風が思うに、彼は70歳で引退後、須磨に戻ってきたのではないかと感じている。その時、改めて当時のことを懐かしんでの歌ではなかろうか。

いずれにせよ行平が都に召された後、どれくらい経ってからかは不明だが、彼女達は無常観を感じ、髪を落として、出家し、行平の住居の傍らに庵を結び、行平の無事を祈ったという。この庵の跡に堂として「松風・村雨堂」(須磨)が残っている。

それにしても、謡曲では描かれていないが、行平をめぐる姉妹の女性としての葛藤はあったはずである。姉妹であれば、それはより厳しい。少しわからないのは、姉妹は行平が去ったから、三角関係の愛憎半ばして、あんなに愛を争っていたのに、肝心の人が去ってしまったら、意味のない無常観を感じて出家したのか、後年、行平の死を知って、人の世の無常さを覚え、出家したのか(当時では、高齢での出家は可能性は低いが)が明らかでないことである。

どちらにしても、こんな複雑な愛情関係は流風としては、避けたいものである。まあ、そんなにもてる要素は全くないので、そんな心配はありえないが(笑)。また、父はこういうスキャンダルはなかったはずであるが、そういうものに憧れたのだろうか。単に『松風』という謡曲が好きなだけであったのだろうか。とうとう聞かずじまいになってしまった。

*5月10日追記

行平の「立ち別れ」の歌に対して、松風の返歌があるらしい。

               三瀬川 絶えぬ涙の うき瀬にも

                              乱るる恋の 淵はありけり

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