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2006年5月20日 (土)

基本は法三章

日本は法治国家だが、現在の為政者は法律に頼りすぎのように思う。法律が多ければ、その体系は複雑で、その運用も難しい。世の中が、ますます複雑になるだけだ。

もちろん、これは欧米社会を中心として、契約という概念が、彼らと付き合う場合、要請されることが背景にあることは理解できる。だが、彼らの国々がきちんと治まっているかと問われれば、疑問を持たざるを得ない。彼らは法律が手段でなくて、目的化しているように感じる。

人々を人心収攬する方法は、法律の多さでは難しい。それは歴史的にも、『法三章』が示している。多くの方々が、ご存知であろうが、念のために記せば、漢の元年(紀元前206年)、劉邦は秦軍を撃破して、覇上に達した。秦は滅び、彼は咸陽に入城する。

その時、部下の樊噲(はんかい)や張良の諫言を受け止め、秦の財宝や美女には手をつけず(先に項羽は財宝と美女に手をつけて、人々に反感を抱かせたことを踏まえて)、封印して、諸県の父老や豪傑を召して、次のように発表した。

「諸君は長らく秦の過酷な法律に苦しんできた。私は諸君のために害を除こうとして、ここに来たのであって、横暴などする気はない。安心してもらいたい。私は諸君に約束する。法は三章にのみにとどめ、その他の秦の法律は残らず廃棄する」と宣言した。

そして、法三章の内容としては次のように示した。

 一 人を殺した者は死罪に処す
 二 人を傷つけた者はその程度によって罰する
 三 人の物を盗んだ者も、その程度によって罰する。

法律は、この三つだけだとしたのだ。人々は喜び、劉邦が秦王となることを心からねがったという。(『史記』より)

韓非子が唱えた法により国家を管理する方法は、どちらかと言うと西欧的である。一見、為政者からは、楽な方法のように感じるのかもしれないが、真に国民を従わせるものではない。始皇帝は採用して恐怖政治を執り行ったが、長続きはしなかった。

国民は真に心から従わなかったということだろう。法律であまりにも何もかも縛るやり方は、人間の“本質”を知らないやり方だ。こういうやり方は、いずれ国民間の不信感を生み、地域が不安定になり、国家が揺らぐということを歴史は示している。

だから本来は、劉邦の行った法三章が望ましい。だが、現在の日本は国際化しており、他国との協調も求められる。その辺をどうするのがベストなのか、皆が困惑している状況かもしれない。

犯罪の国際化に対応するには、世界犯罪法のようなものを作って、共通適用するしかないのかもしれない。ただ、国内法的には、国民を安寧するためには、無用の法律は作るべきでないだろう。社会の安定には、どうすればいいのか、国民一人一人が考えなくてはならない。

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