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2006年5月15日 (月)

母の愛と謡曲『海人』

ここしばらく、よく謡曲を取り上げているが、流風が別に謡曲に目覚めたわけではない。実は、長い間、積読状態だった、ある書籍を読むのに必要な知識だったため、ブログにして整理しているだけなのだ。その書籍が何であるかは、後日明らかにしたい (わかる方にはわかるだろうが)。

さて、そういうことで、今回は『海人(あま)』を取り上げてみる。母の子供への愛情というものは深い。母親は子供のことを考えて一生を終えるのかもしれない。しかし、少し間違えると、近視眼になりがちだ。それが母の愛といえばそういうことになるのだが。今回取り上げる、『海人』はそういう意味も含んでいる。

これを説明する前に、まず藤原不比等について説明しておこう。藤原不比等は一応中臣鎌足の子供である。「一応」というのは訳がある。中臣鎌足は美人の誉れ高い額田王の姉と言われる鏡王女が好きだった(*注)。しかし、彼女は天智天皇に召されてしまった。

しかし、その後も、その恋心は忘れがたく、どういった理由か知らないが、天智天皇から下げ渡しがあり、彼女は彼の妻になる。だが、事の真偽は不明だが、噂に拠ると、その時、彼女は天智天皇の子供を身ごもっており、生まれた子供、すなわち藤原不比等は天智後落胤だと言われている。

彼は11歳の時、鎌足が死ぬが、その後壬申の乱が起こる。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にあり、不利な立場になった。一族は処罰され、朝廷の中枢から一掃されるが、彼は年齢も13歳と若く、関係者から距離があったことが後に幸いする。しかし、当面は後ろ盾もなく、冷や飯を食いそうになったが、鎌足を評価していた天武天皇に庇護され、やがて表舞台に登場する。

彼は四人の妻がいたが、その内の後室の犬養三千代(橘三千代)の力添えにより、皇室との関係を深め、文武天皇に娘の宮子(妻 賀茂比売との間の子供)を夫人(ぶじん)として嫁がせ、後の聖武天皇を産ませている。

さらに犬養三千代との間の娘である光明子を後に聖武天皇皇后に入れている。ただ彼は皇室との外戚関係だけでなく、実務もよくできた人物としても知られている。そして、これらのことによって、藤原氏繁栄の基礎がその息子と共に築かれることになる。

また、彼は平城遷都を主導し、四大寺に、氏寺であった山階寺を奈良に移し、興福寺と改め、組み込んでいる。なお、藤原姓を名乗れるのは、彼の子孫だけで、官職に就くことができた。同族の中臣姓は神祇官として祭祀のみを担当した。

さて、以上のことを踏まえて、『海人』を見ていく。基本的なテーマは、自分の命を犠牲にしてまで、子供の出世を願う母の行動と、子供による親の供養という親孝行、法華経による女人成仏ということらしい。あらすじは次の通り (実際の謡曲の内容より若干説明を付加的にしています)。

一 13歳の房前大臣(藤原房前、不比等の子供)は、讃岐国志度津の人で、そこで母が亡くなっていたことを知り、志度の浦に追善に赴く。

二 そして、彼の従者がこの地で出会った海人に海松布(みるめ。海底の藻)を刈るように命じますが、海人は「空腹でいらっしゃるなら、ここにある藻をおあがりください」と言う。従者は「いやいや、そうではない。海に映る月をご覧になるのに、藻が邪魔になるのだ」と言うと、海人は「昔もそのようなことがあった。海底の珠を取って来いとのことだった」という。海人の一言を聞きとがめ、その故事を尋ねる。

三 今は大臣になられている淡海公(藤原不比等)の妹君公伯女は大変な美人で、そのことは内外に知られることになった。そのことを知った唐の高宗皇帝は、大変熱心に執心され、迎えとることを親書で送ってくる。淡海公は一度は辞退するが、ついに断りきれなくなって、了承し、彼女は唐に送られる。それに対する礼として、高宗皇帝より、三宝が藤原氏の氏寺である興福寺(現在の奈良市にある)に贈られる。その贈られた宝の一つである『面向不背の珠』(釈迦の像が必ず正面に見える不思議な珠)をこの沖で“龍宮”に奪われる。

四 それを聞いた淡海公が身をやつして、珠を取り戻そうと、この浦に訪れて、世話をしてくれる浦の海人と契り、子供ができる。海人は、子供を大臣にする約束があれば、命をかけて珠を取り戻すという。淡海公が約すと、海人は言葉どおり、珠を取り戻す。その方法は自分の乳を掻き切って、血を流すことにより、“龍宮”が近寄ってこないので、切った乳の中に珠を守り、命綱をひいて、船から引き揚げてもらうやり方だった。だが、珠は取り戻したものの、海人の命と引き換えということになった。淡海公は嘆き悲しむ。

五 これを聞き、房前大臣は、それは淡海公の子供である自身だと名乗りをあげる。海人は約束が果たされたことを知り、自分こそ、海人の幽霊だと明かし、弔いを頼む手紙を残し、朝の海中に消える。

六 房前大臣は、浦人から、当時の珠取りの次第を聞き、亡き母の手紙を読み、妙法蓮華経で追善供養を行う。すると、読経のうちに亡き母が龍女として現われ、法華経の功徳によって成仏できたことを喜ぶ。

以上が、『海人』のあらすじだ。母親というのは子供のためには命がけになれるということだろうか。ただ別の見方をすると、戦国大名や徳川時代に、大名や将軍家で、世継ぎ問題で、母親達が争った姿と重複するのだが。穿ちすぎか。

現在の母親は、そこまでしていないと思う。確かに、子供の将来を考えることは事実だろうが、彼女等の考えることは、せいぜい塾に行かせて、よい学校に行かせることぐらいだろう。そして、それが子供の出世につながるという不確かな期待と子供の教育を深く考えない短絡思考が続いていることぐらいだろう。そこには、命がけという感じはしない。彼女達の多くが、現役時代に、そんなに勉強したとも思えないし(笑)。

それに、現在の日本は当時の海人のように貧しくはないし、そこまでしないでも、皆そこそこに生活できたらよいと考えている母親グループも存在する。この海人のような時代でないことを喜ぶべきかもしれない。

*注

諸説あり、鏡王女と額田王は姉妹であるいう説と、親子であるという説がある。それ以外にも、いろいろ言われていて、ある意味、謎の女性たちだ。

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