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2006年6月26日 (月)

水と竜神 (下)

竜神の気性として、「自由を想う。自在を欲する。気ままを望む」とあるが、竜神というのは、人間そのものと鏡花は考えたのかもしれない。つまり竜神は人間の鏡であると。それがため、自制しないと自滅するとわかっているつもりだ。だが、自制するにも限度がある。そのことが人間の哀しさなのかもしれない。そのため、私達は何をしなければいけないのか。

・・・・「萩原晃」は自分を探しに来た親友の文学士である「山沢学円」に次のように説明をつけ加える。

・・・・そのために鋳た鐘なんだよ。だから一度でも忘れると、立処に、大雨、大雷、大風とともに、夜叉ヶ池から津波が起って、村も里も水の底に葬って、竜神は想うままに天地を馳すると・・・・こう、この土地で言い伝える。・・・・そのためには、明六つ、暮六つ、丑満つ鐘を撞く。・・・・・

ところが、平穏無事か続くと、里人はそのことの意味と大事さを忘れてしまう。老鐘守は亡くなり、誰も引き継ごうとしない。そこで「萩原晃」は、一旦立ち去ろうとするが、神主の娘で身寄りのない絶世の美人「百合」に惹かれ、老人の意志を引き継いで鐘楼守として残ることにする。

そして、まさに寺田寅彦が言ったという「天災は忘れた頃にやってくる」。つまり里人は旱魃で大騒ぎ。ご都合主義の里人は、雨乞いのため、犠牲が必要として、「竜神」に「百合」を差し出そうとする。「百合」は自害し、そのことに怒った「萩原晃」は鐘を撞くことを諦め、竜神「白雪」は、これ幸いと、剣が峰千蛇ヶ池の神の公達に会うため、雨どころか、大洪水を起こして、村を沈めてしまう。

昔の人々が理解した「竜神」とは果たして何だったのか、現代人も噛み締める必要がありそうだ。そしてヤシャゲンゴロウは鏡花風に言うと、「竜神の眷属」なのかもしれない。あまり疎かには扱えないはずだ。眷属から自然の全体である「神」を把握することは大切だ。「ヤシャゲンゴロウを育てる会」の人々に敬意を払いたい。

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