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2006年7月 1日 (土)

教育パパの限界

流風は、父親に勉強せよと言われたことはない。ただ一度、テストの結果が非常に悪かった時、「勉強は誰のためにもするものではない。自分のためにするものだ」と言われたことがこたえた。時に「ナガラ族」をからかわれたりしたが、後にも先にも、それだけだ。

ところで、奈良の医師の家庭の事件は、いろいろ考えさせるものがある。複雑な家庭環境が事件を発生させるのは、どこも同じであるが、医師を継がせる為、父親の医師が教育パパだったという。

一般に、母親が教育ママになるのは、仕方ないにしても、父親が教育パパになるのは頂けない。それでは、子供の逃げ場がなくなる。中学、高校と、不安な精神状態の年齢時に、あまり、やかましく父親が子供の学習状態について言うものではない。

子供に自分の仕事を継がせたい気持ちはわかるが、子供には子供の人生がある。あまり決め付けるのは、どうしたものか。もし継がせたいのなら、仕事の現場を見せることである。子供は親の背中を見て大きくなる。それで、継ごうとしたら、自ら勉学に励むだろう。

つまり父親の役割は、「人間として、どうあるべきか」ということを身を以て教えることが大切なので、学習は基本的に本人が自覚しない限り、向上しない。気づかせる配慮が大切なのだ。本人がやる気になると、周囲がとやかく言うより、その習熟度が早いことはよく知られている。この父親の、親としての自覚が足りなかったのではと思う。

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