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2006年8月24日 (木)

『桃太郎』に思う

今年は雨が多くて、果物の甘さが足りないと言われている。桃もそうだろうなと思って、食したところ、そういうことはなくて、本来の美味しさだった。

子供の頃の絵本に、大抵『桃太郎』があった。例の、お爺さんは芝刈りに、お婆さんは谷川に洗濯に行く。そこで、大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこ、流れてくる。持ち帰って、割ってみると、大きな子供が出てきたという話は、誰でも聞かされたことであろう。

この童話は、性教育だと言う人もいる。話の底には儒教精神を植えつけようとするものだと言う人もいる。或いは神話であると言う人もいる。それぞれに理由があるのだろう。

流風は、芥川龍之介の『桃太郎』に注目する。この作品は、大正13年に発表されたものだが、当時の雰囲気を痛烈に批判しているように読み取れる。

彼が指摘していることは色々あるが、その中で、万年に一度という割合で現れた桃太郎がなぜ、鬼が島征伐に行くことになったか、ということである。お爺さんやお婆さんを助けることなく、征伐に行くと言う。それは芝刈りや洗濯が嫌だったからだろうという指摘をしている。

そして、征伐に行く途中、犬、猿、雉を、黍団子で誘い、欲を刺激し、同行させる。この辺も、当時の政界や軍部、経済界を暗喩しているのかもしれない。

鬼が島に着き、鬼を征伐して、捕えた鬼に、「なぜ征伐したのか」と聞かれて、その返答が、どこかの政治家のように、次のような詭弁である。

すなわち、答えて言うには、「日本一の桃太郎は、犬猿雉の三匹の忠義者を召抱えたゆえ、鬼が島の征伐に来たのだ」。

「では、そのお三方をお召抱えなすったのはどういうわけですか」と鬼に問われ、答えて言うには、

「それはもとより鬼が島を征伐したいと志したゆえ、黍団子をやって召抱えたのだ。これでも、まだわからないと言えば、貴様たちを皆殺してしまうぞ」。

理由が堂々巡りして、さっぱりわからん。およそ、征伐というものは、論理的には説明できず、みんな、そういうものかもしれない。

芥川のこの作品はもう少し続いて、その後、鬼の復讐が執拗に続き、桃太郎はうんざりするとある。もし、芥川の指摘通りとすると、万年とは言わないが、百年に一度現れる天才という人たちが、新しい構想力がある故に、時代をかき回すのか。それとも、人間の悲しい性(さが)は、どうしようもないのか。世界のあらゆる戦争に、そういう空しい思いを致す。

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