« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006年10月31日 (火)

二君に見(まみ)えず

企業に勤めていると、いろんな思いで働いているだろう。自分の思ったとおりにならないことや、理不尽なことも多く感じるだろう。最近は、転職などで、いろんなトップに仕える人が多い。

そうかといって、簡単に他社に移ったところで、事態は変らない。同様に、納得できないことや、理不尽はある。そういうことなら、いろんなことがあっても、同じ企業で勤める方が、楽かもしれない。同じ企業勤めができる人は、ある意味、幸せであろう。

しかし、最近は、買収・提携も多く、否応なしに、違うトップに仕えざるを得ない場合もある。もちろん、勤めている会社が倒産でもすれば、自分の能力を活かしてくれるライバル企業への再就職も一つの選択だ。

さて、ここに節を折らず、ずっと君主への忠義を通した人がいる。今回挙げる、中国南宋末期の政治家・軍人、文天祥は、いろんな誘いが、敵国・モンゴル帝国のフビライからあっても、『零丁洋を過る』という詩を送って、頑として受け付けなかった。節を全うした人と言える。

              『零丁洋を過る』          文天祥

             辛苦 遭逢 一経より起ち

             干戈落落 四周星

             山河 破砕し 風は絮(わた)を飄(ひるが)えし

             身世 浮沈 雨は萍(うきくさ)を打つ

             惶恐灘頭 惶恐を説き

             零丁洋裏 零丁を嘆ず

             人生 古より誰か死無からん

             丹心を留取して 汗青を照らさん

大意は、次のようなものかもしれない。「経典を学んで、科挙の試験を受け、国に起用されて以来、苦難の連続と戦いの日々であり、もう四年が過ぎた。祖国は、破壊されて、軽く吹き飛ばされるような状態である。いろんな所で、敵に打ち負かされ、私も一人ぼっちになってしまった。しかし、人間は誰しも死を迎える。忠誠心をこの世に留め、史書の上で輝きたいものだ」と。

文天祥の例は、企業ではなく、国家に仕えるという点で異なる。ある国が敵国から攻められて危ない状況にある。そこで、敵国から、「あなたは優秀な人だ。殺すには忍びない。統一した暁には、要職を用意するから、私たちのために働いてくれ」と言われたら、あなたは、どうするか。そういう問題である。企業勤めであっても、ヘッドハンティングで同様のことがあるだろう。あなたなら、どうするか。

文天祥のやり方は一つの考え方である。彼は、「二君に見(まみ)えず」、忠義を通した。それは彼の生き方に合致していたのだろう。戦前は、こういう生き方が強く支持され、教科書にもあったようだ。しかし、大東亜戦争で、多くの人が戦争で亡くなっているのは、文天祥のやり方と同様の結果になっている。

しかし、別のやり方では、今回は詳しく述べないが、金に仕えた耶律楚材のように、チンギスハンに請われて、彼の右腕になった例もある。彼は、民が苦難を受けないように、チンギスハンに下ったということだ。彼らが民に危害を加えないように諭したのだ。戦争で、いつも被害を受けるのは、一般の民だからである。耶律楚材は、金一族から裏切り者と罵られたことであろう。だが、結果的に、民を救った。

沈みかけた国を守るのは困難だ。それに抵抗すれば、多くの犠牲者も出る。一生、忠誠を守るやり方は美談にはなるが、人を守るため、一旦スカウトに応じるのも一つのやり方かもしれない。負けるが勝ちということもある。但し、それには、一時的な非難に耐える精神力が必要だ。

文天祥の生き方、耶律楚材の生き方、果たして、どちらの生き方が正しいのだろう。最悪の場合を考えて~そういうことがないことが望ましいが~、自分の立場に置き換えて、考えておくことは必要かもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月30日 (月)

高校の形骸化

現在、高校で、受験勉強に必要でない必須科目の授業の未履修があったことが問題になっている。でも、今頃になって、こういう問題で騒いでいるのは意外だ。

例えば、高校野球に熱心な高校だって、プロ野球の予備校化している。高校球児だって、野球以外はまともに勉強していない者がほとんどだろう。どういうわけか、彼らはそれでも、卒業証書をもらって、無事卒業して、推薦で進学するか、社会人になっている。

こういった問題は昔から進学校でもあっただろう。進学校と呼ばれる高校が予備校化して久しい。進学校は、公立、私学にかかわらず、ずっとズルをしてきた。ちゃんと文部省の指導どおりやってきた普通の高校の生徒は割りを食っている。文部省は、ずっと見て見ぬ振りしてきたのだ。文部行政の責任は重い。

昔から、進学校と言われた高校は、早くから一学年早く履修し、二年から受験に備えていた。当時、未履修があったかどうかは、流風は進学校にいなかったので知らないが、公立・私学にかかわらず、進学校はそのような傾向があったのではないか。またちゃんと履修したとする学校でも、形式的には、未履修はなくても、受験に必要でない科目は手を抜いていたことが推定される。

いわゆる、「進学校の予備校化」である。有名大学に入れることを最上の目的として、把握し、受験に効率の良い教育を施す。そして、合格率が高まる。まさに高校の「大学予備校化」である。だから、人間教育に必要な科目は削られ、あるいは無視される。教育とは名ばかりで、大学合格製造所になっていたのが、進学校の実態だろう。果たして、こんな高校は必要なのか。

戦前は、本当に優れた人のみが大学に進学したという。現在のように、猫も杓子も大学に行くようなことはなかった。それは、身分社会の名残で、職業が専門分化していたかからかもしれない。しかし、誰の子弟であろうと、その中で能力のある者は、国や周囲が教育費を負担して進学させ、更に能力を開発させ、高等技術の習得に力を入れさせた。そして優秀な大学卒は、社会に感謝しつつ、自分の能力を活かして、いかに社会に貢献するかということに重点が置かれた。

現在は、使命感も目標もなく、社会に貢献する意欲も低く(全ての人がそうではないが)、漫然と大学に進学するものも少なくない。高校生も、ただ将来役に立たない受験テクニックの学習だけに精を出しているのが現実だろう。その結果、人生で一番大切な時間を無駄に過ごしている若い人も多いはずだ。世界観や国家論、人生論を話している高校生がどれくらいいるだろうか。

学校制度の全体的見直しが必要かもしれない。戦後教育制度の制度疲労の典型かもしれないからだ。大学の入試制度も大幅に見直す必要がある。米国のように、入りやすく出にくい大学にする必要があるかもしれない。それに多すぎる大学のリストラも必要だろう。それには、学部ごとの格付けも明確にし、競争させることも必要だ。教育制度の改革が急がれる(ただし、教育基本法の改正は拙速に急ぐべきではない)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月28日 (土)

受験と集中力

受験生は、来年の受験に備えて、学生は最後の追い込みかもしれない。当時のことを思い出しながら、今回は集中力について、少し取り上げてみる。

流風のように注意散漫な人間にとっては、集中力を養うことは大切とは思うが、今更、いいかとも思っている。しかし、成功させるには、やはり計画のメリハリと集中力であろう。

特に計画は立てられても、集中力に困っている学生は多いかもしれない。色々な誘惑が多いからね。でも、集中力を養うことは大切だ。

一般に集中力を養うには、算盤がいいとされている。そういうと、算盤のできる人は集中力があるように感じる。大体、一発試験に強い傾向がある。算盤は右脳を開発しているそうだから、集中力と右脳は関係があるのかもしれない。

また運針も集中力を養うそうだ。ああいう地味な作業は、流風はとても苦手だ。運針ではないが、未だにボタンの外れたのをつけるのに四苦八苦している(笑)。こりゃ、ダメだ。そんなのやったら、病気にもなりかねない。

でも、受験に向かって頑張っている学生諸君も、算盤や運針をやっていた方は有利かもしれない。やっていない方は、今更手遅れだと思うかもしれないが、あきらめずに、頑張ってもらいたい。

そこで、算盤や運針のできない方に、実際役立つかどうかは不明だが、一つヒントを差し上げよう。

昔の武士は、学問をする場合に、集中力を持たせるため、狭い部屋に閉じこもったという。イメージとしては、トイレくらいの大きさで、周囲を暗くして、上から光だけを当てる状態だったそうだ。あまり大きな勉強部屋で明るくしていては、かえって注意が散漫になって、集中できないのだ。でも、眼に悪そうだな。

要するに、あまり広い部屋でなくて、狭い部屋で、周囲が暗い方が、集中力がつくということは参考になろう。そういうと、夜や夜明け前のほうが学問をしやすいのは、そういうことかもしれない。

それに朝の脳の働きは夜の3倍とも言われるから、夜は早めに寝て、朝は夜明け前に起きて、勉強するのが良いかもしれない。ただ、そのようにしても、「ながら族」では、学習の効率が悪いのは言うまでもない。

それにしても、記憶力も集中力も減退してきたなあ。若い人がうらやましい。若い時に、もう少し勉強しておけばよかった(笑)。今頃になって、先人の言葉の重みを噛み締めている。後悔先に立たず。若い人は、後悔のないようにしてもらいたいものだ。

受験生の健闘を祈る!!

*追記

山下富美代氏が、仕事における集中力を高める方法を示されている。仕事により、脳の活性化と沈静化が求められる場合があるので、それぞれの環境を整えて、次の8箇条を実行すればよいとする。尤もな内容で、それは受験でも、適用できるだろう。

①達成が可能な目標の自己設定をする。

②集中力の限界である1時間単位に分け、1時間で仕上がる作業を繰り返す。

③結果に対する報奨を自ら与え、その楽しみをイメージして、作業をする。

④慣れを避け、リラックスして作業をする。

⑤自らの集中力のリズムを把握する。そして、そのピークに合わせて、作業をする。

⑥ストレスや疲労をためず、集中できる環境をつくる。

⑦食事は、決まった時間に、決まった量を摂取する。

⑧定時就寝・起床とし、睡眠時間は一定にする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月27日 (金)

結婚考

一見、無関心そうな女性でも、すぐ反応する「結婚」という言葉は、魅力的であるらしい。果たして、その「結婚」という言葉はどう意味があるのだろうか。軽く触れてみたい。

文字の構成から見ると、「結」は男と女を結びつけるということで良いのだろうが、「婚」がわからない。調べてみると、この文字は、「妻の実家」とか「妻の父」という意味がある。

結局、「妻の実家と結びつく」という意味らしい。男の側からの発想ですね。「夫の実家」と結びつく発想はないらしい。そういうと、最近は、妻の実家に引っ張られる夫婦が多そうだ。そういう意味では、言葉と合致しているのかも(苦笑)。

また、「婚」は、「女」と「昏」から成り立っている。「昏」は、「夕暮れ」の意味があるらしい。古代の結婚式は夕暮れから行われた。男女をうまくまとめるには、夕方がいいと判断したのだろう。女性にとっては、特にそうであるかもしれない。そこで、「女」という偏に加えて、「婚」という文字が成立したようだ。

確かに、そう言われてみると、昼間見る女性より、夕方から夜にかけて見る女性の方がきれいに見えるかもしれない。それを男が勘違いして、うまくまとまるということだろうか(笑)。昔は、お見合いなんかだと、朝起きて、びっくりということも多かったのかもしれない(笑)。

その一方で、「昏」には「くらい」という別の意味もある。本来、人の足元に日が落ちることからできた文字で、黄昏時を示し、暗くなる意味を持つ。これは解釈によっては、男と女が結びついて、女を暗くするとも捉えられる。しかし、巷間言われるように、男にとって「結婚は人生の墓場」と言われるように、男にとっても、暗くなるものかもしれない。

すなわち、女性は、一般的に現実的だから、未来に夢を持つより、今を大切にする。そのことが女性を暗くするとも考えられる。女性は全般的に根暗と言われるのはそこにある。現実を見ない男に幻滅して、落ち込むことは考えられる。

逆に、男は、一般的に、夢想志向だから、現実より未来を見がちだ。現実に若干疎いところがある。だから、本質的には、女性よりノー天気で明るい。その結果、よく、けつまずく。一時期反省するが、また同様のことを繰り返す。パートナーの女性に、それを度々、くどく指摘されて暗くなるのかもしれない。

しかし、男女が結びついて、お互いを補えればいいのかもしれない。だが、補っている時はうまくいくが、お互いの欠点が見えてくると、うまく行かなくなる。

世間でよく云われる“結婚前は、両目でしっかり見、結婚後は片目で見よ”、というのは、一つの知恵だろう。お互いの長所・欠点をお互いの知恵で相互理解することで、結婚生活が保たれる。要するに、相手に期待しすぎないことがポイントだろう。陰陽の「易学」は、このようなところから発達したのかもしれない。

*追記 結婚式で、お祝いの言葉にかえて吟ずる詩吟

       『賀結婚(けっこんをがす)』 松口月城

         婦(つま)と為り夫と為る惟(これ)宿縁

         同心一体天に乖(そむ)かず

         人生の行路豈(あに)容易ならんや

         永久(とわ)に違(たが)うこと勿(なか)れ貞と賢と

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月26日 (木)

受動喫煙訴訟

ついにか! 受動喫煙訴訟で、禁煙者の訴状が認められたようだ。ついに、そういう時代か、という印象である。

しかし、健康増進法の不徹底からか、飲食店では、禁煙席と喫煙席の区別が不十分であることには変わりない。喫煙席から、禁煙席へ、紫煙が流れ込んでいる店舗はたくさんある。さあ、飲食店の経営者はどのように対応するのだろうか。

法律が施行された当時は、飲食店も、それなりに配慮している店が一時的に増えた。しかし現在では、禁煙席だと、経営が難しいのか、一部の良心的な店を除けば、禁煙席は縮小されて、奥に追いやられている(あるいは入り口に少しだけ席を設ける)のが実情である。

喫煙者にとっては、辛い時代で、家庭でも職場でも追い出されている。それを飲食店が受け入れているとも言えるが、禁煙者にとっては迷惑なことだ。結局、禁煙者は、分煙の不十分な禁煙席・喫煙席複合の店からは、足が遠のいてしまっている。

健康増進法の徹底は急には難しいことかもしれない。しかし、これは世界的な流れで、フランスのレストランでは全席禁煙の報道が流れていた。飲食経営者も、今後は無視もできないだろう。幸か不幸か、飲食業の業績は、値上げにもかかわらず、現在好転している。だが、これがいつまでも続く保証はない。今後の飲食店経営者の対応を気をつけてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月25日 (水)

トリッキーな政党の行方

核に対する重要閣僚の暴言(非核三原則無視)、拙速な教育基本法改正(議会で十分時間をかければ、それでいいというものでもない)、NHKに対する放送命令(言論の自由侵害)など、次々と安倍政権の問題が表面化している。

それに加えて、安倍首相の指示で、郵政民営化に反対して、追い出した議員の復党を検討しているらしい。まったくおかしいことだ。そして、それは有権者に対する背信行為でもある。小泉前首相の運営方法に問題があったとしても、造反議員のために、あの無駄な選挙で、多くの税が投じられたことは忘れまい。

振り返れば、小泉前政権は、やや拙速すぎた面はあるものの、改革の印象はある。小泉前首相は、自民党を、“新自由改革党”に変えようとした。それは、“民主的”な部分を切り捨てたが、ある程度は止むを得なかった面がある。

しかし、安倍政権は、それを打ち壊すように、郵政民営化に反対した議員を復党させるほど、今の自民党政権は、信念も何もないらしい。自民党は、老人のように、足腰が弱っているのに、ただただ政権(権力)を放り出したくない一念のようである。過去に政権を取られて野党になった苦い思い出が相当強烈だったのだろう。

小泉の“新自由”的な見直しは、ある程度止むを得ないが、それに逆行してどうしようとするのか。そして、補佐官制度を取り入れ、“民主的”な部分も危い。結局、古い体質の自民党へ逆戻りの可能性は高い。いや、それより悪くなるかもしれない。

選挙で、民主党に、追い出した議員を取られると危機意識が出たのであろうが、狭量な話だ。復党させれば、政権を担ってきた自民党を逆戻りさせて、既得権益によって更に腐敗させるだろう。そして小泉改革に期待して投票した多くの支持者を失うだろう。

民主党が、まだまだ足腰の鍛え方が甘いから、何とか政権を維持している(バランス感覚が欠け、大臣病に罹った公明党が自民党を支えていることもあるが)だけのことだ。

しかし、これからは、一つの政党が政権を握り続ける時代ではないのに、時代を読めていないのは本当に困ったことだ。自民党はいずれ政権を手放すのは時間の問題という認識が必要だ。

流風は郵政民営化に賛成であったので、当時自民党を支持した。民主党には、郵政民営化は党内事情で不可能だったからである。しかし、その問題を除けば、政権は、どちらが握ってもよいと考えている。

政党の暴走を止めるには、お互い牽制しあう勢力があったほうが国民にとっても望ましい。最終的には、有権者の判断だが、現在は自民党の勢力が明らかに大きすぎることは明らかだ。国民には、バランス感覚が求められる。

小泉前首相は、危機感から、自民党を改革しようとした。しかし、有権者は皮肉にも、昨年の衆議院選挙で自民党を勝たせ過ぎた。戦争でも、そうだが、勝ちすぎると、次に危機が来る。それは自民党崩壊を期待したわけではないのに、皮肉にも、そのような選択をした。

残念ながら、勝ち過ぎが自民党の驕りを生んでいる。それは小泉首相在任中にも見え隠れしていた。そして小泉氏が去った後に、自民党の危機的状況は、表面化し、安倍政権の重要閣僚の暴言で明らかになった。これは危機の表出だ。同時に、これは国民に対する警告であるかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月24日 (火)

成長と実行行動主体

よく新聞等で「成長率」などをよく目にするが、この「成長」とは何か。その理解に一部、混乱があるように感じられる。

簡単に言えば、この「成長」は、基本的に過去と現在の比較か、現在と未来の比較が多いであろう。そして「比較される」ものが「比較する」ものより良くなっているということだろう。

前者の「成長」は、結果としての「成長認識」と考えられる。また悪くなる場合は、マイナス成長などと言っているが、少しおかしい表現だ。生物等でも、枯れてなくなることはあっても、マイナスはない。プラスだから成長だと思う。マイナスの場合は別の表現が必要だろう。

よって、「成長(成長認識)」と政府や企業がよく言う「来年は何%成長」とは意味が異なる。前者が実績なのに対して、後者は、「そうであって欲しい」という期待が含まれている。

結局、後者は確定した現在と不確かな未来の比較ということだ。現代の言葉で言えば、行動主体の目標設定がもたらすものとも言える。未来は不確かだから、その成果は、不安の代償とも言えるかもしれない。

だから、主体でない研究所や調査会社などが、成長予測するのは本来おかしい。目標設定に伴う、実行意思が伴わないからである。

毎年、年末にかけて、各種研究所から色々な予測が発表されるだろうが、当てにしない方がいい。彼らは「成長認識」をベースにした予測に過ぎないからだ。実行行動主体の意思が含まれない。

そういうことで、私達は、彼らの予測は完全に無視した方がいいと言える。そのことが明らかになり、多くの経済研究所が苦境にあるのは、そういうことが原因かもしれない。

言い換えれば、成長というものは、なるべくしてなるような気がする。それは主体の個性によって左右されるのではないか。成長というものは実行行動主体次第ということかもしれない。組織においては、リーダーの役割が大きいのはそういうことだ。そして、それは個人に置き換えても、同じことが言えるのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月23日 (月)

神戸のケーキ店ギャラリー

子供の頃、父がたまにシュークリームを買ってきてくれるので、待ち遠しかったことを思い出す。それ以来、あまり酒が飲めない甘党だ。先日、久しぶりに、ある店のシュークリームを買い求めたところ、昔の懐かしい味と同じだった。それに今も値段がそんなに高くない。

そういことを思い出しながら、神戸市内を散歩していると、あれっと思われるようなところに、美味しいケーキの店が時々ある。そう、神戸には、ケーキの店が多いのだ(下記参考参照)。

大体が、アンリ・シャルパンティエとかアンテノールのように百貨店に出店されていたり、レストランのデザートとして提供されることが多いのだが、そぞろ歩きをしていると、意外なところにケーキ店を見つけることもある。

だが、商店街や小さな路地裏にある小さなショップだと、女性と違って見過ごすことも多い。それというのも、わさわざ記事を見て行くことはないからだ。また、仮に女性の人だかりで、偶然見つけたとしても、男性が入るには、勇気がいる。また若干敷居の高い店の造りなので、入るのを躊躇う。しかし後で、記事などを見て、有名な店だったんだと再確認して、惜しいことをしたなあと思う時もある。

でも、女性が好むケーキ類があるところは、そういう所なので、時々、プレゼントするために、思い切って入ってみることもある。男から見ると、ケーキなんて、どこも同じじゃないかと思うだが、少しずつ食べ比べをすると、微妙に違う。それはパンと同じだ。ただパンと違うのは、パンが食事用なのに対して、ケーキは嗜好品ということだろうか。

また最近は、イート・インできる店も増えているが、大抵カップルである。あま~いカップルに、甘いケーキか。とても当てられる感じで、流風はとても利用できない。それにカロリーも高そうだしね。いや、それは単なる言い訳。好きな彼女だったら同行しますよ(笑)。でも、ケーキは頼まないかも。

* 参考 「おすすめケーキのお店」のサイト
      http://hello-kobe.com/gourmet/cake.pdf

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月20日 (金)

国民教育方針の原点

教育基本法の改正について、いろいろ論じられている。しかし、基本的精神の原点は日本国憲法にあるから、日本国憲法の改正なくして、教育基本法の改正は若干危い。なぜなら、日本国憲法改正前に、教育基本法を改正すれば、日本国憲法改正後に、再度改正が求められる可能性が高いからである。

さて、今回は、その問題を論ずるのは、ここまでにして、そもそも「国民教育方針」はどうあるべきなのか、考える必要がある。教育学者と言われる方々は、世界の教育をよく研究されているようだが、それは主客転倒している。

なぜなら、まず日本というものを基本的に把握しているかということが問われる。日本の教育は、日本人を創ることにあり、他国人を作る教育であってはならない。

それには、まず、日本国民の特徴を把握しているか。その次に、日本人に相応しい教育を施しているか、更に、日本の伝統を十分に踏まえているか、ということになる。

こういことが、教育現場だけでなく、政府の役人あるいは、その審議会のメンバーにして、理解が薄いように感じられるのはなぜか。外国のやり方が何でも正しいとして、移植してしまうのは、学者の悪い癖である。

また当局も、それを鵜呑みして政策に反映させる危さが潜んでいる。今のままでは、日本精神を理解しない「ぼやけた日本人」を生むことになってしまう。そういうことに強い危惧を感じる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月18日 (水)

個人主義の誤解といじめ問題

いじめ問題が社会に取り上げられるようになって久しい。これからが楽しみな若い人の自殺者が出ているのは大変残念だ。未経験から来る思い込みから心理的に追いつめられたのだろう。

このように、恨みを残してこの世を去っていけば、いじめた方もいずれ、何らかの形で回りまわって復讐を受けることになる。いじめた方は、結局、いじめたことで、自らを傷つけることになり、それを一生背負うことで、いずれ同様に苦しむことになるだろう。それが世の中の習いだ。そういうことがないように、周囲(地域、学校、教師、親)は、もっと配慮する必要がある。

ところで、いじめというものは昔からある。柔道家の山下泰裕氏も、子供の頃は、とても手がつけられない子供で、いじめかどうかはわからないが、クラスメートが登校拒否になったそうだ。いじめにも、いろいろな段階があり、実際、どれくらいをいじめと判定するのかは、時代によっても違うかもしれない。ただ感じるのは、最近のいじめは、やや陰湿さが伴うことだろうか。

なぜ、いじめがなくならないかということについて、子供の精神の成長過程では仕方ないという考え方 ~将来に対する茫漠たる不安によって引き起こされる~もあるが、他者を追いつめてはいけないだろう。

また最近の子供は幼児の頃、歳の違う集団での遊びを知らないことから、グループの年長者に基本を教えてもらっていないため、学校に上がってからも、限度がわからないのかもしれない。昔は、近所で、年長者に揉まれて、その教えが連綿と伝えられて、直接ぶつかり合う喧嘩にも限度を知っていた。どんなひどい喧嘩でも、ある程度になると手加減したものだ。それに、お互い、引き際も心得ていた。

現在は、昔のように直接、手をかけるということではなくて、心理的に疎外させるということで限度がわかりにくいかもしれない。甘やかされて育った子供たちが、他者を心理的に把握することができないのだろう。他人に対して、鈍感になっているとも言える。また、いじめられる子供の方も、精神的に弱くなっていることが悲劇を生んでいるのかもしれない。

そこで、もう少し、そのいじめの根本を考えてみようと思う。いじめ問題の根本には、自分の存在価値に対する考え方に問題が含まれていると言われる。すなわち、自分の存在価値を尊重しない人間がいることが原因であるのだ。自分の存在を尊重しない人間には、他者の存在を尊重できないのは明らかだ。

だが、最近、個人主義の人が多いことがいじめを生んでいるという人々がいる。個人主義=自分勝手主義、という風に捉えている人々がいることに愕然とする。これは誤解だ。

自分勝手主義というのは、わがまま、というものである。真の個人主義とは程遠い。現代で言えば、「ジコチュー」であろう。世の中は一人では生きていけない。自分勝手主義の人というのは、世間知らずの考え方で、未熟な人である。

すなわち、この根本には、社会で生きるための何の家庭教育もなく、わがままに育てられたことが、自分勝手主義になり、自分の感性と異なるものに対して許容できず、いじめをエスカレートさせているのが実情ではなかろうか。

また、いじめられ側にも、そういうタイプが多いのではないかということも、確認しておく必要がある。このように、主体性も無く、お互いの自分勝手主義が、いじめを生んでいる。

しかしながら、個人主義がいじめを生んでいるのではないということを再確認しておきたい。日本には、残念ながら、まだ本当の意味での個人主義の理解の土壌は薄い。よって本当の個人主義の人は少ない。

念のために付け加えると、個人主義とは、自分のために、してはならないと信じることをしないことと言える。それは日本的に解釈すれば、武士道に近い。いかに自己の主体性を確立し、いかに自己を律するかにある。そういう信念があれば、いじめる側には決して回らない。いじめは、自分自身を貶めるものだからである。

以上を総合して考えると、いじめは、子供時代は、未成熟である上に、家庭教育が不十分なため自分勝手主義が横行し、個人主義が徹底していないから起こる現象とも言える。だが、個人主義の確立を、未熟な学生にそれをいきなり求めるのは少々無理がある。つまり、成長の過程では、自己の確立が不確かなことは仕方ない。

だから、それを補うためには、家庭・地域社会・学校教育において、各人の特性を見出し、何かに集中できる場を与え、人間としてあるべき道徳心・躾教育をすることが求められる。ちなみに柔道家の山下泰裕氏は柔道を通じて、優れた指導者に巡りあい、人間としてのあり方、心構えの指導を受けたことが、彼を更正させて正しい道を歩ませている。

だが、もっと大きく見れば、社会として真の個人主義が確立される必要がある。社会において、個人主義が確立されずに、子供の世界だけが改善されることはありえない。まず社会から雰囲気を改めていかなければならない。日本に真の個人主義が根づく時、いじめの問題は解消されるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月17日 (火)

ロシアとのビジネスの限界

ロシア国境警備隊が、日本の漁船に銃撃して拿捕した事件や、サハリン2の一方的間中止は衝撃的だったが、日本企業は、基本的に彼らとは組めないことがよくわかった事件だ。北方領土界隈は、灰色のビジネスが蠢いてることは理解するが、彼らとの付き合いは難しい。

そこで、今回は、ロシアビジネスについて、主として話題になったエネルギー問題を中心に、例によって、一般人の感覚で、整理してみよう。とりあえず、若干箇条書きにして、列挙してみる。

①結論的に言えば、ロシアとのビジネスは、古い体質で、政経一体のため、難しい。それに地下経済が力を持っており、それが政界と癒着している。

ここでは、前近代的手法を取らないと、ビジネスに取り込めない。日本がまともに取り組むには、他のアジア諸国以上に、あまりにも法律的限界がある。それは、結局正規ルートではビジネスが不可能ということを示唆している。現在話題になっているロシアのエネルギービジネスに関しても同様のようである。

②それに彼らの思考は複雑だ。政治において、その“詐欺的外交”は、日本がまともに組める相手ではないことはよく知られている。北朝鮮にその手法を教えたのはロシアと言われる。それは政経一体となっているビジネスでも、遺憾なく発揮される。

すなわち自己都合による独善的ルール変更、自己中心的基準設定による議論のすり替え(多面的、多段階的、歴史的時間差など)、対立論法変幻自在、仮定に不当性が含まれる論法などにより、議論の舞台を変える巧妙な手口で、相手を撹乱させて本心を隠す。彼らとは、親族にでもならない限り?まともな前向きな話はできない。

③今回話題になっているロシアとのエネルギービジネスを考える場合、このエネルギー問題に関しては米国のエネルギー戦略が絡んで、余計に複雑である。

米国は世界の石油を押さえることによって、覇権を目指している。フセインをそそのかしたクウェート侵攻、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争は全て、米国の仕組んだシナリオ通りだろう。それはまさに世界覇権のための石油戦略とつながっている。それらのことを考慮せずに、単独でロシア・エネルギービジネスを考えても、あまり意味はなさそうである。

それらを踏まえた上でエネルギー戦略を考えなければならない。ロシアだけ見ていると勘違いする。政治の視点と企業の視点は異なる。日本の政治は民間企業の視点に引き摺られている。

④エネルギー戦略がらみで、ロシア連邦の再編阻止をもくろむ米国の意向を汲んだ小泉前首相が、辞める直前になって、中央アジアへのエネルギー外交したことが、いたくロシアを刺激したようである。

日米は一体でロシア連邦の再編を阻止しようと狙っていると判断し、先手を打って、サハリン2の一方的な中止命令を出したのかもしれない。日本の外交も、何を意図しているのか不明なほどバラバラである。八方美人外交の限界ともいえる。日本外交にも問題はある。

⑤そもそも、サハリン2プロジェクトは、一部の日本の自民党の政治家が、ロシアの政治家とつるんで、国内の電力会社・ガス会社を説得し、ユダヤ石油資本から働きかけがあった日本の商社を巻き込み、大プロジェクトとして推進したと言われている。

これも複雑だ。はるかに大きな多面的仕掛けが日本になされたのだろう。日本の資金を引き出すために、黒幕によって多くのシナリオが描かれているのだろう。日本は単にビジネスとして乗ったのかもしれないが、そこに甘さがあるように感じられる。

⑥ロシアにとって、現在は、その過渡期で、ソ連邦が解体され、民主化時、アングロサクソンにやりたい放題されたこともあり、資源ナショナリズムが沸き立って、保守的になっているとも言える。

その結果、資源は戦略的外交手段となっている。日本にとって安定的な供給先としてはロシアは適切ではない。あくまでスポット的な取引と考えるべきだろう。

⑦本質的には、日本が、ロシアとビジネスで組むには、半世紀早いように思う。いくら民主化の方向にあるとしても、その進捗状況は行きつ戻りつで、その歩みは遅いし、民主化するには実際、時間もかかるだろう。特に女性記者アンナ・ポリトコフスカヤの暗殺は衝撃的で、当面ロシアは民主化は期待できない。もう一度、革命を要する。

結局、ロシアの民主化が確立されるまでは、日本ビジネスは静観すればよい。日本が、まだ方向感の定まらない現在のロシアと組むには、余程度胸の据わった民間の人間でないと、処理できないだろう。凡庸な政治家や平凡なサラリーマン経営者にできることは限られる。

確かに、欧米諸国の進出が気になるだろうが、ロシアと交渉慣れしている彼らにしたいようにさせればいい。我々が進出するのは、その後で十分だ。どうしてもと言うなら、せいぜいリスク管理できる範囲内で、彼らのお手伝いを、すればいい。それでも、持ち込まれた案件を十分にあまり期待せず、裏を取ることが大切だ。

⑧エネルギー問題とは直接関係がないが、ロシアが政経一体である以上、日本としては、未だに北方領土を返還しないロシアなどとは適当に付き合っておけばよい。

政治家は国連の常任理事国がちらつくのであろうが、資源価格が暴落し、ロシア経済が傾けば、最終的には北方領土は金で買ってもいいのだ。彼らの面子が立つように配慮できるかが鍵だ。

それには基本的に、返還交渉を粘り強く続ける共に、当面は、突き放して、そのタイミングをじっくり観察して、その時が来るまで待つことだ。日本としては、ありきたりの外交ではなくて、そのような泥臭い戦略が求められる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月16日 (月)

話の長い人々

昔は長々と一席をぶつのは、講釈師や売卜(ぼく)屋や神道者と云われていたそうだ。最近では、コンサルタントとか経営コンサルタント関係がそうであろう。実務を経験しない机上の話を延々と話されるのは、経営者にとって苦痛であろう。

その他にも、世の中には、要領を得ない長い話をする人々がいる。周辺の空気が無視されている。そういうことがわからない人は、案外地位の高い人に多い。だが、結局、周囲をしらけさせるだけであった様に思う。

例えば、結婚式とか式典で延々とスピーチをする人はよくいる。彼らは、また決められた時間を律儀に守りすぎる。別にそういう場合のスピーチは短くても何の支障もないことを知るべきだ。

また女性の話は、あちらこちらに話を飛ばしながら、会話が続く。雑談であれば、それは問題はないが、そうでない時は、男にとっては大変苦痛であることが多い。女性同士の場合は、それは何とか理解できるのであろうが、男は要領を得ない話し方には、いらいらする。

すなわち、それは、情報が整理されていない状況で、得た全ての話をするからであろう。それと、話の優先順序をつけられない彼女達の致命的欠陥があるのかもしれない。

だが、最近の若い男も、おしゃべり好きで、取り留めのない話しをする者がいるのには辟易とする。しかし、昔を振り返れば、流風もあまり偉そうなことは言えない。若い頃、説明が長すぎると叱られた。A-4一枚にまとめられるような話し方をしなければ駄目だ、と厳しく言われたものだ。

そのためには、事前に論点を整理しておく必要がある。それは簡単なようで簡単でない。始めは時間がかかる。慣れるとある程度の時間ですむ。基本はテーマを決め、あまり話を広げないようにすることらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月15日 (日)

鈍感な政治家

自民党の中川昭一政調会長は、「欧米の核保有と違って、どうみても頭の回路が理解できない国が核をもったと発表したことに対し、どうしても撲滅しないといけないのだから、その選択肢として核という議論はありうる」と語ったそうだ。

自民党の政治家は、ここまで低レベルで鈍感になったのか。日本は世界で唯一の被爆国である。その悲惨さを本当にわかっての発言か。議論など、基本的に何も必要はない。日本は核を持たないから評価されているのだ。

日本が核を持ったところで、国を守れないのは、北朝鮮同様なのだ。そんなことは論議するまでもない。安倍首相も「非核三原則は、国是としてしっかり守っていく」と言われているが、あれは嘘だったのか。

流風は典型的な「無党派層」に属するが、こんな政治家のいる自民党であれば、今後支持できない。政府・自民党は、早急に彼を更迭すべきだろう。全ての言い訳は無用である。

*10月30日追記

自民党の中川秀直幹事長は、次のように語ったようだ。
「政府も与党も、核論議はしないとの見解で一致している。ただし、より中長期の話を党が真剣に考えることは必要。中長期の意見を自ら研鑽していくのを封殺してはならない」と。

これも問題の多い発言だ。それなりの立場にある人は、もっと発言を慎重にしなければならない。それは言論の封殺にはあたるものではない。立場の重要性を理解しない政治家がいることに不安を覚えざるを得ない。

核論議を是認することは、核開発を容認することにつながる。党のトップが、そういう話をしてならない。自民党は核開発を容認する方向にあると捉えられても仕方ない。そして極めて危険な発想だ。それは常任理事国を目指すが故の、何の哲学もない短絡発想とも言える。それは確実に日本を危機に陥れるだろう。

*11月5日追記

中川氏や麻生外相の発言が、結果的に、米国を警戒させて、“米中同盟”を促してしまった。“右”と言われる方々は、あまり国粋的に考えると、判断を間違うことになる。国家主義と世界主義のバランスが必要で、その中で、日本をどう位置づけるかということが大切だ。いずれにせよ、これから外交が非常に難しくなる。また仮に、拉致問題が解決しても、それは安倍政権の成果ではなくて、米中同盟の成果とは皮肉なものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月13日 (金)

雨宿りによる男女の縁

秋の天候は変りやすい。朝晴れているかと思えば、昼前に雲行きが怪しくなって、雨になる。そういうことはわかっていながら、傘を持たずに出かけて、散々な目にあったことは何回もある。ああ、この学習能力のなさ、どうしようもないね。でも、そういう時に、雨宿りできる場所に助けられる。

さて、雨宿りといえば、急な雨にあって災難のはずであるが、雨宿りした結果、いいことがあったという話は意外と多い。それは急な雨に遭って大変だなと思ったところに、雨宿りできる場所が見つかり、ほっとする。そういう心理状況のエアポケットに、ちょっとした人の優しさに触れると、反応しやすいのかもしれない。

例えば、大抵の人が知っていると思われる、さだまさしの 『雨やどり』がある。「それはまだ私が神様を信じなかった頃」というフレーズで始まる例の奴である。

9月の木曜日に雨に逢った男女が雨宿りで出会う縁の不思議さをあらわした“さだまさしワールド”の歌だ。いや、歌というより朗読に近い。

女性側からの視点で詞が書かれているが、流風も好きなタイプの作品だ。詞の内容が、彼の落研の経験を活かして、なかなかユーモアがある。笑いのツボを押さえていると思う。

そして、雨宿りで出合った二人が、翌年、初詣で偶然、再会したことで交際が始まり、ママや兄貴にからかわれながらも、5月の水曜日に自宅に連れてくることになる。彼の靴下に穴が開いていたので、それを隠そうとするが、皆にばれてしまったりする。

ところが、いろんなやり取りをしながら、彼の突然の結婚の申し込みという急展開に驚き、卒倒。「気がついたら あなたの腕に 雨やどり」というオチがついてめでたし、めでたしとなる。

靴下に穴の段は、場面は異なるが、かつてブログにアップした『靴下の思い出』と重ね合わせたくなる。靴下の穴は、男なら誰でも経験のあることかもしれない。だが、彼らはうまくいき、流風の方はうまくいかなかったところが大きく異なる。やはり雨宿りを機縁とすると、人々を結びつけることが多いのだろうか。

その他にも、男女の縁では、『今昔物語』にも「雨宿りの宿に一夜を契る話」という話がある。これは現代と習慣が異なり、若い人には若干理解しがたいかもしれない。それでも、若い男女の愛には違いない。

若干ニュアンスは異なるが、戦前でも、大学生が、下宿屋の娘と一緒になる例はよく見られたという。要するに身近になった人とつながりやすいということだろうか。だが、この雨宿りの例は急な出来事に近い。時間をかけて愛を紡ぐということではない。若者の恋に近い。それでも、それを機縁とすれば縁につながるとは言える。さて、そのあらすじは次の通り。

左大臣良相(よしすけ)の御子に高藤という人がいた。その人は親の影響で、鷹狩好きであった。その人が15,6歳の頃、鷹狩に行き、雷鳴と共に激しい雨が降ってきた。

雨宿りしようと馬の進むままに走り去ると、人家が見つかり、馬は廊下の端につないで、小さな廊下に腰を下ろして雨宿りした。

しかし、雨は止む様子もない。やがて、人家の40歳くらいの男の人がやってきて、「雨の止むまではお休みになってください」と言い、お付きの従者にどういう方ですかと問うと、「身分の高い方です」と言うので、それなりの手配をしてもてなす。そこに現れた13,4歳くらい若い女が給仕をしてくれる。

その夜、彼女と一夜の契りを結ぶが、やがて夜が明けたので、「誰とも契るな」と言って、身に帯びていた太刀を渡して、後ろ髪惹かれる思いで帰る。その後、彼の父が亡くなったりして、6年の歳月が経つ。従者が田舎に帰ってしまったので、彼女の居場所もわからなかったのだ。

従者が久しぶりに帰ってきたので場所を尋ね、再訪して、待っていた彼女と最初契ったことで生まれていた子供を、彼女の母親と共に引き取り、めでたし、めでたしとなる。

でも、相手が身分の高い人とはいえ、よく6年間も待ったものだ。その辺は感心するが、当時の女性にとっては、現実的だったのだろう。それにしても、昔の人は早いなあ。現在の日本が少子化で悩んでいることを知ればびっくりするだろう。現在の日本も結婚年齢を引き下げるか。

このように、雨宿りは、最初に指摘したように、心理的なものが男女を引き合わせるのかもしれない。そして、雨の日には、異性が美しく見えるのかもしれない。そうなると、雨の日に出かけるのも、あながち無駄なことではないということになる。

いろんな縁はどこにあるかもしれない。身近に縁はあるのだろう。しかし、どこかで共鳴しあうものがなければ、縁にはつながらない。感じ取る力が大切だ。それが難しいところかもしれない。

雨の日には、スーパーの安売りを期待するそこの奥さん、もう少し、若い頃を思い出して、ロマンを思い出しましょうね(笑)。

*参考

男女の縁ではないが、雨宿りのの縁で、学縁になるという誰でも知っている有名な話がある。流風は、子供の頃、母から何回も聞かされた。戦前は教科書にあったらしい。多くの方がご存知であろうが、念のため、記しておく。

  七重八重 花は咲けども 山吹の

   実の一つだに なきぞ悲しき

若き大田道潅が、鷹狩に出て、雨に遭い、あるあばら家に立ち寄ると、そこの土間には一輪の花が咲いていた。蓑を貸して欲しいと言われて、そこの娘が、何も言わずに山吹の花一枝を差し出した。

道潅は憮然として、館に帰るのであるが、老臣にその本意を教えられる。これは古歌にあったことを踏まえての振る舞いであると。そういう教養があったからできた行い。現代で言えば、知的な洒落。

それを理解できなかった道潅は深く恥じ、武道だけではなく、学問にも励むようになる。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月12日 (木)

神戸・豚饅店行脚の楽しみ

関西で豚饅と言えば、大阪の「551蓬莱」が代表的に有名だ(ちなみに、関西では、「肉まん」とは呼ばない)。最近では、たこ焼きやお好み焼きと違い、土産物としても、よく取り上げられているようだ。それにあのシューシーな味はどこでも支持されるのだろう。大阪ぽい宣伝も寄与していることだろう。

豚饅は、スーパーなどでも見受けられる。昔は、それほど味は良くなかったが、最近は味も向上している。しかし、手作りの出来立てのほかほかの豚饅には及ぶまい。皮に具を詰めている姿を見ながら、買うのも楽しい。あの湯気も食をそそる。流風は作っているのに釣られて、よく衝動買いしてしまう。あの手作り感が頭に残って、美味しさが増す。

また阪神間も豚饅の店はたくさんあるが、神戸も豚饅の店は多い。神戸で、豚饅と言えば、元町南京町にある老祥記が有名であろう。いつも大変な行列ができている。流風は並んでまでして食べようとは思わないが、並ぶことによって期待感が高まることもわかるような気がする。

その他にも、神戸はあまり知られていない豚饅の店が多い。それだけ神戸には中華料理店が多いということだろう。残念ながら、豚饅に関しては、あまり浮気しないせいか、流風はそれほど知っているわけではない。

それでも、個性的な豚饅店をいくつか知っている。これらの店は具が個性的で、ありふれた豚饅と少し異なる。もちろん、伝統的な豚饅の具でもいいのだが、家庭のオリジナルの感じがする豚饅もなかなかいいものである。

もう少し、豚饅店探検をしようとするか。カロリーが高いような気もするので、その点だけが心配だが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月11日 (水)

消費税増税は是か非か

政府は、財政再建という課題は放置できないのなら、消費税増税を、国民に納得させるべきだろう。IMFも日本は高齢化が進むので、財政再建に向けて消費税の引き上げを求めている。

しかし、消費税は上げるタイミングは非常に難しい税だ。景気を冷やすことは間違いないからだ。結局、景気過熱感がある時が、消費税増税が一番良いと感じる。インフレを抑制するために、日銀の基準貸付利率のアップと共に必要な政策になるだろう。基本的には、短期金融市場の金利の動向が目安になる。

ところで、流風は、国や地方の無駄遣い体質の改革前に、消費税の安易な引き上げは反対だ。しかし、それが改革できれば、財政再建の名目で、他の税とのバランスにおいて、国民が納得すれば、一定期間の定率増税は可能と思う。

さらに消費税増税の反対のもう一つの本意は、消費税が今まで硬直的な引き上げであったことだ。つまり政府は、消費税は一旦上げたら、下げる政策を取ったことが一度もないからだ。

他の税は、比較的見直しされるのに、消費税は、今のところ、一度も下げたことがない。そういう意味では、消費税の増税はあまりにも硬直的で安易すぎる発想なのだ。徴税コストが安くつくという考え方に重きが置かれすぎている。

すなわち、他の税同様、消費税の上げ下げの弾力的運用があれば、国民にそれもある程度、認められるかもしれないということだ。

他方、安倍政権は、成長戦略によるインフレ志向である。インフレが国家の負債を軽減してくれるという考え方のようだ。

そうすれば、消費税を上げ幅を小さくできるか、あるいは上げないでやっていけると踏んでいる。ただ加速化したインフレのコントロールは非常に難しい。その場合のシナリオが描けているのか、不明である。

しかし、世界デフレの可能性を考慮すれば、インフレ政策はあながち誤りではないかもしれない。その辺の判断はなかなか難しい。どちらの可能性もあるからだ。

結局、財政再建には、消費税を上げるのがいいのか、あるいは成長戦略でインフレを起こす方がいいのか、という価値判断になる。

いずれにせよ、将来、消費税は、何らかの形で、増税される可能性があることを頭に入れておいた方がいいかもしれない。すなわち、一つは、再度デフレになれば、財政再建目的、もう一つは、高いインフレになれば、インフレ抑制のための税としてである。それはその時の財政状況や経済状況によって判断されるだろう。

そして、与党のみならず、全ての政党は、来年の参院選挙前に消費税制についての姿勢を明確にするべきだ。政府みたいに、選挙後に、消費税について検討するなんて、あまり宜しくない。

選挙後に、消費税を上げる論議をすることは、選挙民を愚弄することに他ならない。選挙前に、いろんなシナリオにおける経済運営の手段と方法を明らかにして、国民に選択させるべきだ。

それに国民も、選挙には、もっと真剣にならなければならない。政党の主張と実践との差異を常に頭に入れて、国の将来を考えつつ、その政党が将来どのような行動を起こすかも予測して、投票行動をしなければならない。そういう意味では、投票活動は自分の未来を決めるもので、大変重要なことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月10日 (火)

核兵器で国は守れない

北朝鮮が規模は不明だが、核実験をやったようだ。中国やロシアや韓国の外交の失敗と言える。今後は日米の影響力が強くなるだろう。

そもそも、北朝鮮のような小さな国家が核兵器を持ったところで、基本的に使えない兵器である。それでは国は守れないことがわかっているはずだ。管理も大変だし、コストもかかる。持ったところで、価値はない。

むしろ核兵器は、国を守るどころか、お荷物になるだろう。基本的に指導者のおもちゃに過ぎない。何が目的か知らないが、何か意地になっているように受け取られる。それで、自国を取り巻く環境が良くなるどころか、自ら危機的状況を作り出している。もしそれがわかっているとすれば、それは何らかのシグナルなのだろうか。

さて、北朝鮮のような資源ない国は、国を開放し、平和的な貿易を盛んにすることで栄える可能性が出てくる。現在の指導者は戦略を間違え、保身に汲々としているのだろうが、国を世界の中で発展させる方策を考えるべきだ。

戦前、日本が併合していた時、かなりの学者を入れて、北朝鮮地域に関しても、開発研究したはずだが、戦後、新しい体制になって、それが全く進んでいないと聞く。

それを軍事優先で、時代錯誤の国の運営をしても限界がある。ますます貧しくなっていくだけだろう。それでは、国民を養うことはできない。国家は国民があって始めて成り立つことがわかっていない。

日本ではかつて江戸幕府の時代は、藩の運営をできない殿様のいる所は、取り潰して、廃藩にし、違う殿様を入れて、やり直しさせた。北朝鮮の状況はまさにそれに近いと言えるのではないか。

もちろん、あの指導者も馬鹿ではないから、ロシア仕込みの外交的駆け引きだけでやり過ごすことができる時期はもう過ぎたと感じているだろう。指導者は適当にところで、亡命を望んでいるのかもしれない。そのため、核実験で気を引きたいのかもしれない。

そして、これは中国ではなくて、米国へのメッセージだろう。巷間言われているような中国への亡命ではなくて、米国への亡命を期待しているのだろう。指導部は関係が強いといわれる中国をそれほど信頼していないように感じられる。むしろ敵対のポーズをとっている米国にこそ期待しているのだろう。まさに、ヘルプ・ミーということではないか。

しかし、臨時政府ができても、取り残された国民は、新しい苦難を抱えることになるかもしれない。それは、太陽政策など安易な政策をしてきた韓国や甘やかしてきた中国をも苦難に陥れるだろう。結局、日本や米国の支援抜きでは復興は不可能だろう。

最終的には、統一朝鮮の形を世界に明確に示すこと(例えば、永世中立国宣言、非核宣言等)での了解を前提に、臨時政府は、新しい指導者の下で、周辺国家の協力を得ながら、血のにじむような国の建て直しが求められるだろう。新しい指導者は己を空しくして、国や国民を守る気概がなければならないだろう。

朝鮮半島が今後どのようになっていくのか、隣国の国民としても大変心配だ。だが、賢明な朝鮮半島の人々が新しい国づくりに取り組むことを期待したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月 9日 (月)

女性の色香に迷う若い男への警告歌

最近の若い女性は、流風の同世代より美人が多いと思う。そんなことを言うと同世代の女性から叱られるかな。しかし、栄養状態がいいためか、スタイルも良いし、顔も、ふくよかで、きれいな女性が多い。番茶も出花とか、化ける技術が向上しただけではあるまい。

もっとも、“色は年増に止めさす”という言葉もあるけどね。ちなみによく言われる“年増”とは、20歳以上40歳未満の女性のことだ(もっとも、これは昔の感覚。今は寿命が延びているから、30歳から50歳未満ぐらい)

さて、いつの時代でも、男は女性の色香に迷わせられることに変りはない。最近の若い男たちも、異性絡みで、いろいろ事件を起こしているが、大変残念だ。それは世間を知らない迷いから起こしている。

昔から、戒める歌として有名なものがある。“美人 笑いを含めば 一城を傾く” も、その類だろうが、下記に示すのは、歌形式になっている。

   咲く花の 色香にまして 恋しきは

    人の心の 誠なりけり

   気も知らで 顔に化かされ 嫁とりて

    あとで後悔 すれどかえらず

   色という うわべの皮に はまりては

    世を渡らずに 身を沈みける

   老いたるも 若きも同じ 上皮の

    色にわが身を 出し抜かれつつ

   迷うなよ 美人というも 皮一重 

    醜婦も同じ 皮のひとえに

   女郎花 匂うあたりは 心せよ

    色香に道を 忘れもぞする

とは言いつつ、全時代を通じて、女性に全く迷わない男はいないと思う。だけど、迷いそうになったとき、これらの警句を思い出して欲しい。

失恋した、そこの男性、嘆くではない。異性は一人だけではない。思い込むと見えなくなるのだが、そこで踏みとどまるか否かで、人生が決まる。一休禅師も次のように詠っている。

    花を見よ 色香も共に ちりはてて

     こころなくても 春は来にけり

*平成21年8月5日追記

最近も、色香に狂った男たちが事件を起こしている。この警告歌を知って欲しいものだ。男の思い込みが、迷いを生む。思い込みは男の専売特許かもしれないが、異性には、熱くならずに、もっと冷静に付き合って欲しいものだ。冷静になれば、相手のいろんな所が見えてくる。それに異性は、腐るほどたくさんいるよ(笑)。もてる、もてないは別問題。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月 7日 (土)

梨の美味しさ

秋といえば、果物の豊富な季節である。今年もいろいろ楽しめそうだ。梨、栗、りんご、ぶどうなど好きなものばかりだ。

今年も、梨をたくさん食べた。何というか、あの舌触りのざらざら感が好きである。他の果物にない感触である。

梨には、赤梨系と青梨系があるが、流風は「幸水」や「豊水」などの赤梨系が好きである。子供時代は、「20世紀」などの青梨系をよく食べた気がするが、現在では、甘みの強い赤梨系をよく買う。ただ以前たくさんもらったのだが、保管が大変だった。買い求める場合は、傷みやすいことを考慮して、少しずつにしている。

食べ方としては、大体が、剥いてそのまま食べている。料理にも使えるそうで、スライスしたものを豚肉と炒めたものや、フライなど揚げ物が紹介されているが、未だ試したことはない。少し度胸がいる食感になるような気がして、挑戦できないのだ。いずれ料理の食材としても挑戦してみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

原油価格の動向と為替危機

現在(2006年10月7日現在)、原油価格は、だらだらと下落を続けている。今後も下がり続けるだろうか。原油価格の動向は非常に気になる。従来、原油価格が世界を動かしてきた事実があるからだ。それは国民経済一般にも深く関与している。

また、それが為替の動向にどのような影響を与えるのかも注視する必要がある。このことに関しては、今までも何回も、同じような内容でブログにアップしているので、内容は重複するが、どうしても気になる。まず原油価格を取り巻く動向を見てみよう。

基本は米国の動きだ。米国は世界覇権のための石油戦略はあるものの、中東への米国の介入は、事態を複雑にするだけかもしれない。つまり彼らの行動は深く事態を読みきれていないように思う。

大体いつも米国の野望は割りと単純で、行動の先にあるものを読みこなしていない。シンクタンクは多様なシナリオを想定するが、実行部隊の米国政府は都合のいいように単純化させて、暴走しがちなのが気になる。

それぞれの民族には、それぞれのやり方がある。それを急激に変更させようとする単純細胞では、人々を納得させることはできない。現在のやり方では、中東への介入の継続は、結局9.11のように米国へ跳ね返ってくるだろう。

もちろん中東にも問題はある。かつての石油危機の時に儲けた莫大なお金を有効に活用できていない。欧米の金融グループにむしりとられたのが事実だろう。

そういう点で、成金体質で危機管理も甘い。また人口増に加えて、貧富の差も拡大している。まさに、そういう環境に米国戦略が “火に油を注いでいる” のだ。

米国が戦略を変更し、基本的に、中東のことは中東に任せるような世界の雰囲気に落ち着けば、原油価格は下落の方に向かうだろう。だが、その可能性は低い。

米国の覇権意識がなくなるということは、政権が変わっても、ないだろう。自国の体力を無視してでも、突き進む可能性が高い。米国は、どうしても世界の石油を押さえて、覇権を狙いたいようだ。

そうだとすれば、石油価格は、結局、1バレル、50ドル~60ドル内をうろうろする高値安定となる可能性が高い。しかし、そのことが米国経済の足元が揺らがせていることは、日本にとっても懸念材料だ。

そして米国が、中東への関与を強めれば強めるほど、財政状況は悪化する。現在は破綻寸前であることはよく言われる。そして、プラザ合意のような借金棒引きを要請する可能性も高い。

それに伴い、為替も急激に円高に進行するだろう(現在の円安はトリッキーだ)。そうなると、米国市場に依存度の高い国は、困難に陥る。米国へ投資している国も被害を受けるだろう。

もちろん日本も、政府が投資している米国債はパーになる(実際は、リスク管理しているだろうが、間接的には、被害を受けることでは同じ)だろうし、輸出企業は困難に陥る可能性は高い。

そして、これは遠い将来ではない。もちろん現実的には、恐慌のシナリオは避けられるかもしれない。しかし、今から国内経済に刺激を与えうる政策がどれくらい取れるか、国は研究をしても遅いぐらいだ。

大量の国債残高のある現在、果たして、内需拡大の方策はあるのか。日本は国内的には、デフレを脱したが、国際的に、デフレに巻き込まれる可能性がある。

民間企業もいかに生き残るかが正念場になるかもしれない。政府としては、インフレ政策を取らざるを得ないかもしれない。しかし、運営を間違えば、ハイパー・インフレになるリスクを抱えている。

残念ながら、一般国民としては、デフレ・インフレ両睨みで、リスクの分散をこまめに図るぐらいしか方策はない。一般国民の立場からすれば、何もできないが、原油動向を把握するだけで、明日の生活設計に若干役にたつかもしれない。

*追記

米国の戦略もあるだろうが、ヘッジファンドが原油価格を乱高下させており、今回はヘッジファンドの崩壊が原油価格を下落させている、との意見を頂いた。確かにそういう面はあるだろう。だが、根本には、米国の戦略が底辺にあると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月 6日 (金)

女性からの告白

          瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の

                  われても末に 逢わむとぞ思ふ

                                   崇徳院 (百人一首)

さて、最近は、女性から男性への愛の告白により、お付き合いが始まるというのも多いらしい。表現の仕方は様々だ。ずばり交際を申し込む猛者もいれば、直接・間接にシグナルを送るタイプもいる。

流風の若い頃は、女性から言い寄ってきた場合は、避けるべし、といったような先輩からの忠告があった。女性から言い寄るなんて、プレイガールか、何か問題を抱えた奴に違いないという判断だ。

それが、今はそういうことは、あまりこだわりがなく、女性の方からアプローチして、普通に交際が始まるらしい。女性の方が稼ぐこともあるだろうが、異性の選択権が女性に移っているらしい。もちろん、男性からの愛の告白を待っている女性も多いのは、現在でも変らないようだが。

一般に女性が男性に気になる人へシグナルを送るのは、食事に誘うことが一番多いらしい。流風は若い頃、あまりそういう誘いを受けることはなかったが、宴会で、私の席の横に座って、アピールする女性は何人かいた。あまり好きなタイプは寄って来なかったが(笑)。

それに仕事中に、関係ないのにやたら話しかけてきたり、視線を送ってきたりして困ったことがある。公私混同するタイプは苦手だったので、迷惑に感じたものだ。そのようにして、男性へアプローチしているのだろう。女性にとって、職場は、仕事より、異性の見定め場所のようだった。それは今も変らないような気がする。

ところで、流風の好きな落語の一つである『崇徳院』(東京では、『皿屋』らしい)でも、さる大家のお嬢さんが、花見で出会った男性(実は皿屋という大店の息子)に、女持ちの扇子に書いてある「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の」という上の句だけを示して、自分の意を表している。当然、相手が、下の句がわからなければ、意思は伝わらない。

こういう“謎を掛ける”奥ゆかしさは、現在の女性に期待はできないだろうか。電話やメールで、万葉の時代のように、直截的に愛の告白をするのもいいが、何とも味気ない。もう少し、何かに意味を持たせて、相手に投げかけるのも面白いと思うのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月 5日 (木)

中秋の名月と月見団子

明日10月6日は、今年の中秋の名月だ。すなわち、明日は旧暦8月15日だ。その中秋の名月の謂れは、旧暦で8月は秋だから、その真ん中の日が15日にあたることは、小学校の時代に学んだ。

流風は、農家でもないのに、旧暦のカレンダーは持っているのだが、現在のところ、あまり役に立ってはいない。しかし、昔の風情を時々感じて、振り返ってみるのもいい。

子供の頃、母が月見団子を作ってくれて、ススキと共に備えるのだが、ススキを探してこいと言われるのだが、子供の行動範囲では、なかなかなくて困ったことがある。それでも、団子が気になって、いろいろ探し回り手に入れていた(本当は友達の親や近所の人に分けてもらった)。

お供えは程ほどにして、早く団子が食べられないものか、首を長くして、母に催促していた頃を思い出す。そんなに美味しいものではなかったが、子供の頃は、間食を禁止されて、常にお腹を空かしていたから、食べ物には強い執着心があったのだ。

ところで、明日は満月ではない(満月は明後日の7日)が、お月さんは見えるのだろうか。天気予報によると、曇りのち雨らしい。仏滅だから仕方ないか(毎年仏滅だそうだが)。晴れてくれたらいいが。因みに、すぐ忘れるだろうけど、来年の中秋の名月は9月25日だそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

臓器移植と代理出産

最近、医療について若干ショッキングなことが報道されている。その中で、流風の関心事は、臓器移植と代理出産であろうか。

まず、臓器移植に伴う臓器販売は、臓器移植が始まった頃から問題になっていた。東南アジアでは、現実にそれが横行していたし、規制もするようになってきているが、臓器移植という需要があれば、起こる問題でもある。流風は日本でも起こると思っていたので、正直に言えば、それほどショックではなかった。

本来臓器移植は元の臓器の持ち主の人格まで移植されるという話もあるくらい不自然ではあるが、臓器移植しても生きたいという人間の欲望は限りない。それは始皇帝が不老不死を求めて、徐福に蓬莱の国を探索させた時代から何も変っていない。病気を治すため赤ん坊の肝を欲しがった説話もある。

それほどに人間の生への執着は強いのだろう。そして、現代の医療技術の進歩で成功例も、かなりあり、生き延びている人も多い現実がある。

でも、お金がなければ手術もできない。命はお金で買えるのかという道義的問題が横たわっている。運命論者は、命は天から与えられていると言うだろう。でも、宗教観のない現実主義者は生命は科学で延ばすことができると考え、生き延びることを選択する。

果たして、何が正しいのか。人間は、神聖なものなのか、単なる機械的に機能的なモノの集まりなのか。そこには、考え方が対立し、この問いは、答えが収斂することもなく、どこまでも果てしない。

もう一方の騒がしているのは、代理出産であろう(生まれたのは、ずっと前で、今は国が夫妻と親子関係を認めるかどうかという問題で話題になっている)。他人の腹で、子供を生んでもらう。そこまでしても子供が欲しい人々がいる。かつては子供は天からの授かりものと言ったものだ。

生まれればよし、生まれなくてもよし、というわけにはいかないのだろうか。生命の神秘はそこにあると思う。周囲がいろいろ言うから、プレッシャーを感じる女性も多いかもしれないが、子供ができなくても、周囲も暖かく見守ることが必要だ。彼女等に大きなプレッシャーかけているのなら、それは誤りだ。

しかし、子供を機械的に生産しようとして、モノ扱いする人々の出現に、社会はどのように対応したらいいのだろう。機械的に産んでも、人間の子供だ。子供が将来、悩むことはないだろうか。親のエゴで、子供を生産するのなら、流風は反対だ。子供ができないなら、できないでいいではないか。それも人生だ。

そして、もっと大切なことは、女性は子供が授かる可能性の高いもっと若い時に結婚するべきだろう。高齢出産は、いろいろな面でリスクが大きい。高齢になってから、子どもを欲しいとあせっても仕方ない。女性は晩婚リスクを真剣に考える必要がある。つまり基本的な生命の摂理に従う方が賢明なようである。

臓器移植と代理出産という問題は、私達に、人間としてどうあるべきかを問いかけている。一部の当事者だけの問題ではない。各人が、問い続けていかなければならない問題だと思う。

*平成26年8月17日追記

日本の若い男が、タイで多数の子どもを代理出産させたことが明るみに出ている。その目的は不明だが、常識では考えられない。代理出産ビジネスへの関与なのか、あるいは特別な宗教的背景があるのか、あるいは長期の税金対策など色々言われているが、未だ真実は分っていない。いずれにせよ、妙な感じだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月 4日 (水)

スケジュール管理

電車の中で、若い女性が、手帳を広げて、スケジュールのチェックをしているのを見かける。ちらちら覗き見すると、「飲み会」「デート」「買い物」「スクール」などが書き込まれているようだ。大体、空きのスペースがいっぱいあるケースが多い。スケジュールをいかに埋めるか、手帳とにらめっこしている様子が、微笑ましい。

一般に、地位が上がれば上がるほど、スケジュールは、ゆったりと取れと言われる。ところが、政治家の方々の場合は、スケジュールでいっぱいらしい。あれじゃ、心身ともに大変だろうなと思う。実際、首相になって、命を落とした人もいる。

小泉前首相は、夜の宴会は出ないということで、調整されたらしい。健康管理をきちんとされたから、長期政権が可能になったのだろう。トップには、ある程度、要領が求められるということかもしれない。

安倍首相も、民主党の小沢代表も、健康には不安があるそうだが、健康管理はしっかりやってもらいたいものである。トップは、健康でなければ、的確な判断ができない。

また、日本の経営者も、余裕のあるスケジュールの人は少ないかもしれない。分、秒刻みのスケジュールだという話もよく聞く。これでは、まさに身を削って仕事をしているようなものである。

それがその人の人生観と言ってしまえばそうだが、何か侘しい。それにスーパーマンでない限り、大局的判断を正確に下せるとも思えない。経営者にスーパーマン幻想があるなら、それは止めて欲しい。

身体にしろ、精神力にしろ、走り放しでは、どこかで落とし穴に嵌る。スケジュールに余裕を持つことなど、無理だと仰るかもしれないが、組織の見直しをして、仕事の整理をすれば、案外可能と思う。忙しいということが仕事でないはずだ。今一度、スケジュール管理を見直して欲しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月 3日 (火)

経済見通しと改革スピードの緩和

少し古い話題で恐縮だが、IMFの「世界経済見通し」報告では、日本はデフレから最終的に脱却してきたことが明確になってきたとしている。政府は慎重な判断をしているようだが、デフレ自身は脱却できたと判断してよいのではないか。

ただ、同じく、IMFの「世界経済見通し」報告では、日本の2006年の国内総生産(GDP)の実質成長率は0.1ポイント引き下げ、2.7%と予測し、来年は、2.1%と下落を予測している。

また世界経済の減速により、物価がデフレ局面に戻る懸念をしている。よって慎重な金融政策が期待されている。流風は、デフレ局面に陥る可能性は低いと思うが、成長率は改革を推し進めないと下落する可能性は高いというのは、IMFの指摘通りだろう。

安倍政権は、改革継続による成長路線重視、歳出削減優先、消費税検討は後回しで、流風には異論はない(但し、消費税が上がる場合のシナリオは、参議院選挙前に国民に公開してもらいたい)。

だが、説明不足の前政権は、理屈が先行し、国内にいくらかの混乱を招いた。改革のスピードは国民のコンセンサスを確実なものにするために、緩めざるを得ないだろう。

それに、いろんな方法を駆使しても、説明が国民に行き届くには時間がかかる。海外からは失望の声が出てくるかもしれないが、時間をかけても、将来には無駄にはならないだろう。納得は力になるからだ。そうすることによって、力強い成長が将来可能になるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月 2日 (月)

掛かり付け医の大切さ

最近は、大病院では、紹介状がないと、お金が余分にかかるシステムになっているから、掛かり付け医に世話になっている人が多いと思う。若い頃は、病気になる頻度が低いので、関心は低いかもしれないが、掛かり付け医は大切である。

企業が行う健康診断に満足してはいけない。企業勤めであっても、自分の掛かり付け医を持つことが望ましい。同じ健康診断をしても、掛かり付け医は、自分の患者として捉えるので、真剣である。もちろん、企業の健康担当医師が真剣でないとは言わないが、どこか機械的に処理しているように感じるのである。

掛かり付け医(主として内科)として、お願いする場合は、最初に「掛かり付け医としてお願いします」と申し入れることだ。それが曖昧だと、効果は薄い。医師は患者により区別してはいけないが、医師も人間だ。

そして健康診断も定期的にお願いする。そうすると、掛かり付け医も、心得ていて、それなりに配慮してくれる。各種病気になっても、担当外のことも相談に乗ってもらえるし、紹介もしてもらえる。

これは、企業に働く人ばかりでなく、現役を引退された方も、必ず実行してもらいたいものである。高齢者は健康診断をしない人も多い。そして、気づいたときは手遅れということもある。しっかり、掛かり付け医を持ちたいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ファンになれなかったモーツァルト

今年は、モーツァルトの生誕250年で沸いた年だが、流風は、限られた従来耳にしていた楽曲を除いては、どうもファンになれなかった。CDも買ったし、それなりに聞いてみたが、好きになれない。

モーツァルトは、癒し効果があるそうだが、流風には、そういう感じに受け取れない。だるくて疲れるだけだ。残念だが、モーツァルトは、もういいやと思う。やはり、へそ曲がりで、流行には乗れない流風体質がお気の召さないらしい。ブームが去った頃に、また関心を持つかもしれないが、CDは当面お蔵入りだ。

無理をする必要もない。好きな作曲家の楽曲が最もよい癒しの曲だ。ロドリゴが良いのか、チャイコフスキー、ドボルザークが良いのか、はたまたショパンか、ビバルディか。

しかし、今日は、好きでないベートーベンの「ムーンライト ソナタ」で眠ることにしようか。多分眠る時には、変るだろうけど(笑)。モーツァルトよ、しばらく、さらば。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »