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2006年10月30日 (月)

高校の形骸化

現在、高校で、受験勉強に必要でない必須科目の授業の未履修があったことが問題になっている。でも、今頃になって、こういう問題で騒いでいるのは意外だ。

例えば、高校野球に熱心な高校だって、プロ野球の予備校化している。高校球児だって、野球以外はまともに勉強していない者がほとんどだろう。どういうわけか、彼らはそれでも、卒業証書をもらって、無事卒業して、推薦で進学するか、社会人になっている。

こういった問題は昔から進学校でもあっただろう。進学校と呼ばれる高校が予備校化して久しい。進学校は、公立、私学にかかわらず、ずっとズルをしてきた。ちゃんと文部省の指導どおりやってきた普通の高校の生徒は割りを食っている。文部省は、ずっと見て見ぬ振りしてきたのだ。文部行政の責任は重い。

昔から、進学校と言われた高校は、早くから一学年早く履修し、二年から受験に備えていた。当時、未履修があったかどうかは、流風は進学校にいなかったので知らないが、公立・私学にかかわらず、進学校はそのような傾向があったのではないか。またちゃんと履修したとする学校でも、形式的には、未履修はなくても、受験に必要でない科目は手を抜いていたことが推定される。

いわゆる、「進学校の予備校化」である。有名大学に入れることを最上の目的として、把握し、受験に効率の良い教育を施す。そして、合格率が高まる。まさに高校の「大学予備校化」である。だから、人間教育に必要な科目は削られ、あるいは無視される。教育とは名ばかりで、大学合格製造所になっていたのが、進学校の実態だろう。果たして、こんな高校は必要なのか。

戦前は、本当に優れた人のみが大学に進学したという。現在のように、猫も杓子も大学に行くようなことはなかった。それは、身分社会の名残で、職業が専門分化していたかからかもしれない。しかし、誰の子弟であろうと、その中で能力のある者は、国や周囲が教育費を負担して進学させ、更に能力を開発させ、高等技術の習得に力を入れさせた。そして優秀な大学卒は、社会に感謝しつつ、自分の能力を活かして、いかに社会に貢献するかということに重点が置かれた。

現在は、使命感も目標もなく、社会に貢献する意欲も低く(全ての人がそうではないが)、漫然と大学に進学するものも少なくない。高校生も、ただ将来役に立たない受験テクニックの学習だけに精を出しているのが現実だろう。その結果、人生で一番大切な時間を無駄に過ごしている若い人も多いはずだ。世界観や国家論、人生論を話している高校生がどれくらいいるだろうか。

学校制度の全体的見直しが必要かもしれない。戦後教育制度の制度疲労の典型かもしれないからだ。大学の入試制度も大幅に見直す必要がある。米国のように、入りやすく出にくい大学にする必要があるかもしれない。それに多すぎる大学のリストラも必要だろう。それには、学部ごとの格付けも明確にし、競争させることも必要だ。教育制度の改革が急がれる(ただし、教育基本法の改正は拙速に急ぐべきではない)。

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