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2006年12月12日 (火)

漢詩『偶成』について その一

『偶成』という漢詩は、色々な人が、この題で作っている。一番有名なのが、以前にも参考として、取り上げた朱熹の作とされる(実際は日本の禅僧の作といわれる。それを明治時代に教科書用に改作した)『偶成』だろう。記憶は定かではないが、これは、教科書にもあったような気がする。

  『偶成』    朱熹

少年老い易く学なり難し

一寸の光陰軽んずべからず

未だ覚めず池塘春草の夢

階前の梧葉已に秋声

最初の「少年老い易く学なり難し」は、誰も知っていることだろう。流風も、この歳になって、やっとわかる。学とは、必ずしも学問だけを指さないと思う。人間社会と言った方が適切だろうか。そして、男は一生勉強だ、と子供の頃、教えられたことにつながる。絶え間ない学習が必要だということだろう。

「一寸の光陰軽んずべからず」というのは、若い時は、なかなかわからない。時間は、いっぱいあると思うからだ。流風もそうだった。こういう感慨は、人生の半分以上過ぎた者にしかわからないものかもしれない。そして、後悔した時には、既に遅きに失した感がある。しかし、これは全ての人が、循環するように感じていくのだろう。

「未だ覚めず池塘春草の夢」の「池塘春草の夢」というのは、「池のほとりの春草が萌え出でた夢」という意味だろう。若い時の希望に溢れた夢も醒めきらないうちに人生が終わってしまう。いつまでも、若い時の夢を持っていても、実現することもない。

最後の「階前の梧葉已に秋声」は、門前の青々とした桐の葉も、秋には、秋風で飛ばされてしまう。人生の短さを嘆じている。長いようで短い人生。老若男女皆、残りの人生をしっかり生きたいものである。

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