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2006年12月15日 (金)

楠公さんと徳川光圀

楠公さん入り口の前を通ると、毎日のように観光バスが停まっている。時々、前を通るのだが、ちらっと見ると、観光客の大半が高齢者である。戦前の教育を受けた人々には、懐かしいものがあるのだろう。

若い人は知らないかもしれないので、念のために記すと、「楠公さん」とは神戸「湊川神社」のことである。人々は、「楠公(なんこう)さん」と呼んで親しんでいる。延元元年(1336年)、湊川の戦いで戦死した楠木正成一族の霊を祀っている。

楠木正成の評価は戦前と戦後では分かれるが、戦前教育では、天皇に対して忠誠を貫いた武将として高く評価されていた。これに対して、足利尊氏は賊軍と言われていた。彼に対しては、戦後の評価は逆転している。こういう評価は、見方で大きく変る。それが人の世かもしれない。

本殿の西側奥に、「史跡楠木正成戦没地」の碑がある。この地は、後醍醐天皇方の楠木正成が足利尊氏と戦った湊川の戦いの中心地である。そして楠木正成が、最早これまでと思って湊川北の民家で自刃した場所でもある。

表門を入った東手前には、楠木正成の墓と、それを建立した徳川光圀公の像がある。水戸藩主であった徳川光圀は、『大日本史』を自ら編纂するなかで、南朝正統理論を展開し、後醍醐天皇を正統の天皇として認めたことから発している。そこで彼は、後醍醐天皇についた楠木正成を高く評価し、大楠公建碑の着手にかかった。

しかし、これには裏がある。徳川家の祖とされる新田氏の正当性を示すために、『大日本史』を書いたとも言われている。新田氏はもちろん後醍醐天皇についているからだ。光圀も所詮徳川家の一族に過ぎない。徳川家の正当性を主張しようとしたのかもしれない。しかし、戦国時代、多くの武将が、家系図を買取したように、本当の家系なんてものは怪しいものだ。徳川家の祖が新田氏であるかどうかはわからない。

話が少し違う方向に行ったが、話を戻そう。ただ、こういう流れは、彼だけでなく、それ以前に、他の人々も感じていたようだ。貝原益軒が京都遊学の帰りに、湊川に立ち寄り、楠木正成の墓に詣でたが、草茫々の中にあって、あまりの荒れように驚き、嘆いた。彼自身、自ら建碑を思いつくが、自分の身分では僭越と感じ、辞退している。そして、彼は光圀に伝えた可能性は高い。彼と親交があったと推定されるからだ。

また尼崎藩主の青山幸利は自領内に、大楠公の塚があると聞き、五輪塔を建立し、墓標にしている。さらに、その後、これを管理していた広厳寺の干巖は、これ以上の墓を建てられないかと思っていたところ、光圀公が、その意思ありということで、建碑の請願をしている。

そのような流れで、光圀公の建碑は実現する。元禄5年、光圀公65歳の時、臣下の佐々宗淳(ささむねきよ、介三郎)を湊川に派遣し、建碑の工事を指揮させている。なお念のために記せば、水戸光圀公は、来ていない。テレビドラマの『水戸黄門』は、多く方がご存知なように作り話で、彼は水戸藩から一歩も足を出ていない。そのかわり、彼の部下にいろいろ見聞させて報告させていた可能性はある。

碑の表には、光圀公の自筆による「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字が記されている。墓の形式は、朱子学の墓の形式と云われる(亀の胴体から竜の首が出ているものの上に墓がある)。

なお、横にある、光圀像は、昭和30年の平櫛田中の作である。最近まで、じっくり見ることもなかったので、彼の作品とは知らなかった。

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