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2007年1月15日 (月)

日本三大嫉妬婦人 その二

日本の歴史上で、三大嫉妬婦人(略して、三妬婦)のうち、前回は、大国主命の須勢理比売を取り上げた。今回は、同じく嫉視深かったと云われるのが仁徳天皇の皇后の磐媛(磐之媛命、石之日売命)を取り上げてみる。

彼女の場合、須勢理比売と違って、仁徳天皇の間に、四人の子供に恵まれている。そして、磐媛皇后の産んだ皇子から3人も天皇を出していることは特筆すべきだろう。しかし、仁徳天皇は英雄、色を好む、その人であったようだ。そこから、磐媛の嫉妬が生まれる。

さて、その磐媛皇后のことは、『万葉集』や『古事記』に詳しい。まず『万葉集』巻二・八十五~八十八の四首の歌が彼女のものと伝えられる。

八十五では、出かけている彼を迎えに行くか、待つか迷っている気持ちを詠っている。

  君が行き 日(け)長くなりぬ 山たずね 迎へか行かむ 待ちに待たなん

八十六では、待つことの辛さより死んだ方がましだと、若干錯乱気味?

 かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 磐根し枕(ま)きて 死なましものを

八十七では、気分の高揚を抑制的に詠っている。

 ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまで

八十八では、朝霧はいつか晴れるのに、自分の気持ちは、鬱々として一向に晴れない気持ちを詠っている。

 秋の田の 穂の上(へ)に霧(き)らふ 朝霞 何処辺(いずへ)の方に わが恋ひ止まむ

以上を見ていくと、特に嫉妬深いというより、標準的女性かなと思う。気持ちの揺れが激しいので、幾分情緒不安定と見る向きもあろうが、当時は、現在の時代の浮気とは異なり、一夫多妻制の時代であったことを考えれば、待つことの辛さを納得できなかった女性の気持ちがうかがえる。

正妻なのに、常に不安定な状態をよく表している。それを表現することは、当時としては、進んでいたのかもしれない。だから、磐媛皇后は、後世、辛抱の利かない嫉妬深い女性と評価されたのかもしれない。

仁徳天皇は、皇后のほかに、三人の妃を持ったが、彼女達は、磐媛皇后の嫉妬を怖れたという。彼女等以外でも、侍女たちでも、振る舞いが少しおかしければ、疑ったという。それでも、仁徳天皇は、彼女の目を潜り抜けて、いろんな女性を招きいれている。

特に美貌の評判が高かった黒日売の場合は、ちょっとした事件になっている。それは、『古事記』で確認して欲しい。黒日売も最初は逃げ気味だったが、最終的には仁徳天皇の愛を受け入れているのだが、それはかなり遠慮・警戒しながらである。それほど、磐媛皇后の嫉妬が恐ろしかったと見える。でも、相聞歌の内容を見ると、女性特有の、愛を受け入れた後は厚かましくなっていると思うのだが(笑)。

さらに、その後、八田若郎女(異母妹)を磐媛皇后がいない間に宮中に入れて(異母妹との結婚は、当時は認められていた。同母の場合は不可)、磐媛皇后に、注進する者がおり~いつの時代でもいますよね、こういう輩~、すったもんだして、磐媛皇后は彼女の実家方面に籠り、天皇からの愛の歌も頑なに拒んで、そこで亡くなったようだ(ただし、『古事記』では、そこまで描いていない)。

これは、愛に疲れたのだろうな。仁徳天皇よ、もういい加減にしなさいと。私はあなたとは一体だとお互い言っても、天皇の歌で詠うことと、することとは違うじゃないの。長い間、辛抱したけど、もういいわと。

時代が違うとはいえ、こういう感情のすれ違いががあったのだろうね。最近の熟年離婚に近い関係に通ずるものがあったのかもしれない。意識の差は時間と共に広がっていく。気づいたときには、既に手遅れなのだろう。夫婦の有り様は今も変らない。今も、どこかで、同様な夫婦が見られるだろう。

それはそれとして、仁徳天皇・磐媛皇后の関係は、犬も食わない夫婦喧嘩でも、丁々発止の駆け引きは、他人事では面白い。でも、最近の若い人は、万葉集も、古事記も読まないか。彼らが、仮に読んだとして、仁徳天皇・磐媛皇后から、何を学ぶだろう。

 

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