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2007年1月16日 (火)

戦後の状況と傷痍軍人の思い出

若い人に、傷痍(しょうい)軍人と言ってもわからないだろうが、先日、新聞を読んでいると、傷痍軍人の家族の方の投書があったので、少し、思い出したことがあるので、記しておく。そこには傷痍軍人になって投げやりになっている、お父様のことが書かれてあった。

戦後生まれの流風も幼い頃は、まだまだ戦争の焼け跡が多く残っていた。皆、貧しかった。時々回ってくる托鉢のお坊さん、虚無僧、ルンペンの人たちがいた。母は、彼らが通られると、明日の米に不自由している~(母が父の給料前に質屋に行っていたの確かだ。それを今言うと、そんなことはしていないと言うが、流風は、はっきりと覚えている。父の給料後、質札のついた着物を取り返していたのを見ている)~のに、米びつの中から一握りの米を取り出して渡していた。

場合によっては、何もなくて、おにぎりだけのこともあった。時には、小銭のこともあった。父が読んだ古新聞等の売却で得た小銭も、流風の了解(古新聞の売買は流風が一応担当)を取って渡していた。

当時は、皆、自分の生活で精一杯だったと思う。しかし、苦しい生活の中から、ほんのわずかではあるが、米などを提供していたのは、子供心にも、何となく、いいことだなと思ったものである。それは母だけの行為ではなかった。皆、苦しい中から、助けあわな、という意識があったのだろう。

そういった中で、腕や足のない傷痍(しょうい)軍人の方々が、町の中にたくさんいた。行き場のない人たちのようであった。両腕のない人、片腕のない人、両足のない人、片足のない人などである。

「何で、あの人は、足や腕がないのか」と母に聞くと、「皆、戦争で失われたんや」と言う (ただ、全ての人が軍人であったかどうかはわからないが、戦争の被害者であることには変わりない)。

いかに戦争が多くの人々を傷つけるかを目の辺りに見せつけられた。そういう方々を見るのは正直辛かった。子供心にかわいそうだな、と思ったものである。戦争はしたら大変なことになるのやな、と思ったものである。

そして、母は、「私たちのために戦って、そうなったんやから、感謝せなあかんのやで」と、涙もろい母は、時々涙を浮かべながら、よく言っていた。それに「戦争で、もっと多くの人が亡くなっているんや」と言い、「そやけど戦争は何一つええことない」とも言っていた。

時々、小銭を恵んでいた。そんなことを言えば、傷痍軍人のプライドを傷つけるかもしれない。ただ大きく違うのは、家の前に来るか、来ないかの違いだった。傷痍軍人のプライドにおいて、家の前に来て、彼らは物乞いするようなことは決してなかった。

そして、身体の不自由な方を、指差したり、軽蔑してはいけません、と厳しく言われたのを思い出す。皆、戦争で傷つかれたのだし、運命でそうなのだし、頑張って生きておられるのだと。皆さんのお陰で、今の苦しいながらも、暮らしていけるのだからと。

戦争は、多くの死者をもたらすが、戦争が終わって生き残っても地獄の人々を生む。戦争で死ぬのも地獄だが、生きるのも地獄なのだ。為政者は、大抵が彼らをほったらかしにする。ああいう状況下では、弱者は放置されるのは、いつの時代も変らない。

こういう辛い思いをさせないためにも、戦争の悲惨さを若い為政者は、歴史からもっと学んで欲しい。若い為政者の軽々しい発言には、苦々しいものを感じる。

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