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2007年2月27日 (火)

モルガンお雪の時代 (下)

お雪がモルガンと結婚した明治37年(1904年)といえば、日本にとって大切な年だった。日露戦争が始まった(明治37年2月10日)のだ。お雪とモルガンは、まさに、その直前に結婚したことになる(明治37年1月20日)。

ところで、日本が帝政ロシアと戦うには、基本的な国力の差に加えて、財政難で、実際は、とても戦える状況ではなかった。そのため日本は、資金調達のため、国債を大量発行し、引き受け先を探すため、日銀副総裁の高橋是清を欧米に派遣する。しかし、米国は、とても日本には勝ち目がないとして、全く相手にしてくれなかった。

そこで、彼は英国に行き、国債引受を要請する。英国は、日英同盟の関係上、やむをえず、必要額1000万ポンドの内、やっとのことで銀行団が500万ポンド引き受けてくれる。だが、それではまったく足りなかった。

彼は、宿泊先で、対応策を考えたが、方策は見つからなかった。その後、しばらくして天佑が訪れた。英国留学時代の学友の紹介で銀行家の晩餐会に招かれたのだ。その時、ある人物と隣り合わせになる。招かれた時点で、誰かが、そのように配慮したのだろう(*注1)。隣に座った人物は米国の銀行家で、日本について、なぜか多くの質問を発する。高橋是清は、誠実に丁寧に答えた。

高橋是清は、言いようのない不安の中で、眠りについた。そうすると、翌日、昨日会った銀行家が高橋を訪ねて来て、残りの500万ポンドを引き受けようと言う。聞くと、周囲の反対はあったという。高橋は狐につままれた気分だった。

実際引き受けたのは、米国の大財閥でニューヨークの銀行家、クーン銀行のヤコブ・ヘンリー・シフ(クーン・ロエブ商会)いう人物である。彼は名前からわかるようにユダヤ人である。もちろんユダヤのモルガン財閥とも関連があるだろう。彼らは当時から世界にネットワークを張っている。高橋のイギリス留学時代の学友がつないでくれたことに感謝した。

実際は、彼が受けて、周囲の反対にもめげず、ニューヨークの銀行家達を説得し、国債を引き受けさせたのだ。当然、ユダヤの連絡網で、モルガンにも依頼があったはずである。お雪との結婚が直接影響していないかもしれないが、微妙な時に結婚していることになる。

後日、高橋是清が、なぜ引き受けてくれたのかをヤコブ・ヘンリー・シフに尋ねた。彼が引き受けに熱心だったのは、背景は、帝政ロシアによるユダヤ人迫害が影響しているのだった。

しかし、彼らが、国債を引き受けてくれても、日本がロシアに勝つ見込みは薄かった。だが、彼は多分いろいろ策を授けたに違いない。帝政ロシア内には、ユダヤ人の連絡網があり、そこから情報が伝えられていたはずだ。日本は、それを確実に活かしたと思う。

彼らの考え方は、中国的に言えば、敵の敵は味方ということだ。理由は、どうであれ、日本にとっては、必要な戦費調達だった。明治天皇は、後、彼に勲章を授与されているが、それは当たり前だろう。国家存亡の危機にあったのだから。

この感謝の気持ちは昭和天皇も強く持たれていたという。結果的に、ヤコブ・ヘンリー・シフは莫大な利益を上げただろうが、単にお金だけで動いていないところに、彼独特の人生観が見える(注2)。

このように日本とユダヤ人は、微妙に絡んでいる歴史がある。お互い助け合った歴史もある。そして日本人は、欧米ほど彼らを差別しなかった。否、そういうことはしない。普通の外人として接していた。言い換えれば、特別視しない。

それにユダヤ人の常識は日本人の常識と似ているところがある。それが、彼らには快いかもしれない。もちろん日本人とユダヤ人は似ているところもあれば、全然違う発想もするだろう。しかし、そういう歴史の積み重ねも踏まえて、世界を見るのも大切と思う。

*注1

セッティングしたのは、英国の銀行家でユダヤ人のシャンドだ。ちなみに、彼は日本銀行設立の影の立役者と言われる。

注2

だが、日露戦争を終結させたのも、実質、ユダヤ人と言える。それは、止めさせるタイミングを計っていた。なぜなら、ユダヤの資金回収を希望したからだ。結果的に、米国の大統領の仲介で、休戦させる。彼らが、絶妙なバランス感覚で、金にシビアなことは確かだ。日本人は、彼らに学ぶことは多いはずだ。

*追記

ちなみに、モルガンお雪は、夫のモルガンの死後、莫大な財産を相続しながらも、その後の生活は質素だったという。彼女は夫から何を学んだのだろうか。また再婚すると、モルガンの親戚に財産を没収されるため、財産の大半を恋人と噂される、ある男爵の研究費に寄付したという話もある(未確認)。

帰国後は、京都(北区紫野門前町)に住み、戦後の1963年5月18日に急性肺炎で、亡くなっている。81歳だった。お墓は京都の東福寺にあるそうだ。なお2年後の1965年5月にフランスから、お墓に白バラが贈られてきたそうである。

*追記

拙ブログ 「須磨の安徳宮について」においても、モルガンお雪について、若干触れた。

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