« モルガンお雪の時代 (下) | トップページ | 男の料理のアドバイス? »

2007年2月28日 (水)

須磨の安徳宮について

安徳帝を祀った安徳宮(あんとくぐう)が、須磨の一の谷にある。源平の戦いで、安徳帝は、源氏に追われた平家一門に奉じられ、西走の途中、一の谷に内裏を置かれたと云われている。

その後、安徳帝は、下関の壇ノ浦にて、祖母二位の尼(平清盛の妻で、建礼門院の母)に抱かれ、8歳で海中に身を投じられた。二位の尼は、安徳帝に、「海の下にも都があります」という言葉と共に海に鎮まれたのだ。

海の下の都とは、龍宮のことらしい。龍宮を主宰するのは龍神であり、このことから、安徳帝の守護神とされている。御祭神は真理胡弁財天で龍神である。御神徳は、福徳開運、難病平癒、子授安産、請願成就、芸能上達らしい。

また、なぜか、そばに「皇女 和宮像」がある。有栖川熾仁(たるひと)親王との婚約を無理やり破棄させられて、江戸幕府に降嫁された、あの和宮様である。公武合体論の犠牲者と言われる。ただ、有吉佐和子は、『和宮様御留』で、降嫁されたのは偽者としている。それはともかく、次の歌を残されていると云う。

          惜しまじな 国と民との 為ならば

                 身は武蔵野の 露と消ゆとも

重い物を背負わされた女性の哀しさが感じられる歌だ。その後、有栖川熾仁親王指揮の下、官軍が江戸幕府に総攻撃をかけようとしたが、和宮様は嘆願し、江戸の町を戦火から救ったという。複雑な縁である。もちろん、彼女だけでは江戸は救えなかったと思うが、働きかけの一つとして、なされた可能性はある。

それから、ずっと後、この周辺に、大正時代に活躍した鈴木商店の大番頭、金子直吉の屋敷跡があったらしい。関連企業の社宅があるそうだが、当時の屋敷の面影は跡形もない。まさに、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す」を感じさせる。ただ彼の残した関連企業が生き残っているのが救いだが。

場所は、山陽電鉄須磨浦公園下車。須磨浦公園内を、「みどりの塔」を目指して、東に歩くと、その手前に、南北の細い道路があるので、その勾配の強い坂を上がっていくと、しばらくすると突き当たるので、それを右に曲がると、すぐわかる。流風も、ふうふう言いながら上った。ちょっときついかも。

もう少し、楽をしたいのなら、「みどりの塔」を通り過ぎたところに、歩道があるので、それをつづら折の道を北にしばらく上がってくと、安徳宮らしきものが見える。但し、階段ではないので、滑らないようにする必要がある。距離は、こちらの方があるが、勾配はゆるいだろう。

なお、あのモルガンお雪が灯篭一対を奉納している。彼女は、この地が異人山と言われていた頃、何回目かの里帰りで、この東に1年ほど住んでいたらしい。信仰心の篤いモルガンお雪は安徳宮の社前に灯篭を奉納したことになっている。明治天皇のご病気快癒を願ってのことかもしれない。多分、周囲から母親を通じて奉納を依頼されたのだろう。1基に、加藤コト、モルガンユキと並べて刻み(向かって左側)、もう1基には、明治四十四年九月十日と刻まれている。

|

« モルガンお雪の時代 (下) | トップページ | 男の料理のアドバイス? »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« モルガンお雪の時代 (下) | トップページ | 男の料理のアドバイス? »