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2007年3月22日 (木)

人間の器と志

世の中には、二種類の人間がいる。すなわち、世の中は、使う人間と使われる人間で成り立っている。そのどちらを選択するかは、個人の考え方による。

明治時代に、雨宮敬次郎という実業家がいた。関西にはなじみの薄い人である。甲州財閥を築いた人だからだ。彼が、説いている人材論に、次のようなことがある。

彼が言っているのは、学問をすべきか、そうでないかということである。一般の人間は、学問をしなければならない。学問をしなければ、能力を伸ばすことが出来ないからだ。そして、少し利口になって、世渡りできるようになっていく。大半の人がそうであろう。

ただ、図抜けている人々で図太い人は、学問はしないほうがいいと言っている。そういう人が、学問をすると、かえって、それがあだで、その人の持っている天分や図太さを失ってしまうと言うのだ。

延いては、角をためて牛を殺すことになってしまうと言うのである。男子、厨房に入らず、という考えに近いかもしれない。細々とした些事に捉われると、大きなことはできないということだろう。

すなわち、雨宮は、スケールの大きいビジネスを志すなら、多少の危険は顧みず、カンと度胸で勇敢に飛び出せと、雨宮は言うのである。ただ、この「学問をするな」という学問の範囲が不明だ。流風が察するに、「専門の学問領域」ということのように思う。

結局、図抜けている人々で図太い人の場合、余計な知識は邪魔になる。それは発想力・構想力を小さくしてしまう。それは人間の器も小さくする。それでは折角の人材が台無しになって、大きいことはできなくなる。

大構想を構築するのに、どうしても知識が必要になったら、知識を持っている奴を使えばいいと言う。その結果、いつの時代も、学問した連中は使われる運命にあると指摘する。

雨宮の世界は、小心者の流風には、程遠い世界だが、これからの人には、若干の励ましになるかもしれない。

ただ、現代のように、当時と違って、羅針盤のない時代では、海外の単なる真似は難しい面もあるが、人間の器量というものを考える時、彼の考え方に首肯できる部分もある。

そして、現代の処世としては、クラーク博士の名言ではないが、大志を抱きつつ、現実的に小さな実績を積み重ねていくことだろう。そうして、段々、器を大きくしていき、そして、大志を持ち続けることが大切なのだろう。果たして、あなたの大志は?

* 追記

人間の器量は、最初から大きい人もいるが、一般的には、段々大きくしているようである。雨宮だって、最初から大きかったとは考えにくい。いろんな人生経験から、そのように思い至ったのであろう。

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