« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2007年4月30日 (月)

大学とは何か

駅弁大学といわれて久しいが、今は、大学が多すぎる上に、学生数が減って、大学へ皆入学になって、おかしいことも生じているようである。ある大学は、講義もろくろくせずに、試験だけ受けさせて単位を取得させていたらしい。ここまで来ると、末期的と言わざるを得ない。

もちろん、大学は、他の教育のように(義務教育や高校教育)、講義を受けることに意味があるわけではない。本人の問題意識と必要に応じて講義を受ければいいのはわかっている。しかし、大学側が講義をせずに、試験だけ受けさせて単位を取得できるなら、大学なんて不要だ。

大学のリストラが要請される。人材教育を放棄する大学は整理する必要がある。学生が講義を受けるかどうかは、学生の判断だが、講義を放棄する大学の存在は許されない。当局も「大学」と名乗れる機関に制限を設けるべきだろう。今のままでは、日本の大学が世界の笑いものになりかねない。

このような大学が、優秀な大学と同じように大学と名乗るのは、どうもおかしい気がする。大学の役割は何なのか、問われている。大学が安易に単位を与えて、単なる就職予備校という意識なら、文部科学省は大学を世界に通用する大学に、整理・再編する必要があると思う。

| | コメント (0)

日本スルーは起きるか

日本政府としては、米国の次の政権の方針を睨んで、政策転換が求められる。そのため、米国議会と綿密な連絡を取りながら、方向性を見極める必要がある。

まず一番の関心事である、次の米国の大統領選では、民主党のクリントン元大統領夫人のヒラリー氏が立候補するそうである。一つの問題意識として、米国は戦略的に「日本スルー」を始めるだろうか。一般人の感覚で述べてみたい。

現米国政府は、日本に国際的武力行使を求めるために、国家主義に走らざるを得ない憲法改正を求めておきながら、他方、安倍政権が憲法改正論議も含めて、国家主義に傾いていると感じているようだ。もちろん、これは米国の政治状況の変化もあるが、このように日米同盟は万全ではない。

この点に関しては、海外経済誌は、相当前に、米国の政策が、日本を右傾化させると警告していた。自民党は、実際、全般的に右傾化しているのは確かだろう。民主党だって、前代表は、かなり国家主義的である。

しかし、外部の警告にも無関心で、兵器産業に煽られた安倍政権の無邪気な発言は、結局、国益を害する。この原因は、政治家の哲学の欠如・主体性の欠如と言わざるを得ない。単に世界の情勢に流されて、何の哲学もなく、目先だけを見て何も考えていないのだ。

それがため、朝鮮半島問題も、実質、米中間で処理が進められている。日本は、蚊帳の外である。六カ国協議にしても、単に席を暖めているに過ぎない。まあ、六カ国協議自体、馬鹿げているが。

日本には、東アジアをどうするかとか、朝鮮半島をどうするかというアイデアや提案が全くないのである。拉致問題の解決は大切だが、そのような事件を起こさないようにするためには、どうしなければならないのか。隣国の日本がどうしたいのかの表明がない以上、各国は自分のやりたいように主張するだけである。そういうことでは何も解決しない。

日本は拉致問題に固執しているが、核問題の方がテーマとして大きいのは言うまでもない。ただ北朝鮮だけの問題ではなく、アジア全体・世界全体としての問題意識が重要だ。そして東アジアをどうするかという、もっと大きな視野で、朝鮮半島を見なければならないが、安倍政権は見識が低すぎる。

朝鮮統一問題を解決することが拉致問題を解決することにつながることが、どうもわかっていない。米国が日本に期待していることは、そういうことだったが、日本政府は全く機能しなかった。結果的に、米中で問題を解決するしかないと米国政府は判断したのだろう。

それに小泉-ブッシュは特殊な状況で築かれた戦略的信頼関係であることがわかっていない。お互いメリットの薄い安倍-ブッシュ関係は軟弱と考えていいだろう。そして、その割りに、日本政府は日米同盟を信用しすぎている感じがする。彼らの国益に合わなければ、信頼関係が薄れるのは、至極当然のことでもある。

今後、ヒラリー氏が大統領になれば、日本はクリントン元大統領の時代と同じく、日本は完全にスルーされる可能性が高い。米国は、今後、米中同盟を軸に外交を展開する可能性もある。朝鮮半島問題で両国は急接近した。それを安倍政権は認識しているのだろうか。日本スルー化の時代に、日本はいかなる外交戦略で臨むのだろうか。

*追記

民主党の大統領候補は、流風の予想に反して、オバマ氏に決定している。これは米国の中で、意識の大きな変化があるのかもしれない。共和党との戦いで、どのような結果になるのかわからないが、対日本外交がどのようになるのか興味のあるところである。

| | コメント (0)

2007年4月28日 (土)

幸福な人々の六訓

幸福な人々とは、どういう人を指すのだろう。

一、まず言えるのは、楽天家ということかもしれない。少なくとも、悲観家ではない。悲観では幸福は遠のく。常に楽観的に振舞うことが幸福を招く。

二、次に謙譲の精神だという。人に道を譲れば、人に貶められることもない。無事に過ごせる。人が先に行きたいのなら、行かせればいい。先を越されたなど、焦る必要は何もない。

三、そして、人の悪口は言わない。特に陰口は言わない。陰で話していることは、いつの間にか本人に伝わる。そして、不仲になる。そういう原因となるようなことは蒔かない。

四、逆に、善い事をなした人には、賞賛を送る。褒められて、悪い感じを持つ人はいない。むしろ認められたことを感じ、好意を感じるだろう。

五、仕事を楽しむ。辛いと思った仕事は、うまく行かないが、楽しくやると、うまく行く。仕事時間とうまく付き合う。

六、チャンス・タイミングを逸せぬこと。そのためには、金銭感覚に鋭くある必要がある。鋭くするには、日常の生活を質素・倹約に勤めることが求められる。金銭感覚は、そのようにして、初めて養われる。

| | コメント (0)

2007年4月26日 (木)

人材を釣る

太公望は、釣りに例えて、人を評している。

まず、人を釣るのは、魚を釣るのと同じだと言っている。まず、餌が必要だ。餌の多寡で釣れる魚も違う。それは人間も同様だ。

次に、餌がたくさんもらえると期待すると、魚は集まってくる。そして、必死で餌を得ようとする。それも人と同じだ。

そして、それぞれの魚に相応しい餌を与えることが肝要だ。魚には、それぞれ好むものが異なる。それも人間も同じだ。

これらは、人は利で動くとしている。もちろん、利だけでは動かない人もいるだろう。だが、大勢は利で動く。そして、各人に対しても、“相応しい餌”について、考察することが効率的に組織を動かすことになる。

| | コメント (0)

2007年4月24日 (火)

金持ちと貧乏人

現在、格差問題が政治問題になっているが、金持ちと貧乏人には、次のような区別がある。

          Ⅰ 金持ちの金持ち

          Ⅱ 金持ちの貧乏人

          Ⅲ 貧乏人の金持ち

          Ⅳ 貧乏人の貧乏人

格差は考えようで違ってくる。金持ちの全てが幸せではないだろう。エリートが全て幸せでないように。あなたは、どれですか。そして、どれになりたいですか。ちなみに、流風は、真中辺りでいいです。でも、ちと貧乏かも(笑)。

*少し内容について、問い合わせがあったので、付記しておく。

お金の意味を知って、お金を持っている人もいれば、その意味もわからず、お金を持っている人もいる。全てのお金持ちが、心が豊かというわけでもない。単にお金をたくさん持っていても仕方ない。お金は、使うためにあるものだ。お金は死んで持っていけるものではない。

逆に、お金を持っていなくても、心が豊かな人もいる。社会に尽くす意識が高ければ、そうなりがちだ。概して、生活態度が堅実な人々が多い。そういう人たちは、お金の意味を知っている。金銭感覚がある人々とも言える。

しかし、収入とはバランスの取れない分不相応な生活をする人は、必然的に貧乏になるだろう。そういう人たちは心の余裕を失うだろう。しかし、自業自得である。こういう人たちは自ら格差を作り出しているのだ。

また、いろんな環境条件から、貧しさに負けてしまって、心も貧しい人もいる。貧しさの逆境に勝つことは至難の技だ。こういう人たちには、国家的支援が求められる。個人の努力を超えるものだからだ。

結局、お金は持ちすぎる必要もないが、「人生に必要な適度なお金」はあった方がいいかもしれない。しかし、「人生に必要な適度なお金」は、それぞれの理解で異なる。問われているのは、一体、どう稼いで何に使うかが大切だということだ。そして各人の金銭感覚も含めて、人生観や生活態度が問われているのだ。

| | コメント (0)

2007年4月23日 (月)

中小企業の破綻の原因

中小企業の破綻の原因は簡単だ。

まず、銀行から見放されること。そして、経営者に公私混同の動きがあること。次に、特に大事なのは、人材育成を怠ること。この三つは指摘されて、長きにわたるが、なかなか実行されない。

中小企業の場合、どうしても間接金融中心にならざるを得ない。銀行との付き合いは大事だ。そうかといって、銀行の言いなりでもまずい。その辺のリスク回避的なシビアなバランス感覚は求められる。

次に、経営者は、少し儲かると、お金の公私混同が目立ってくる。会社のお金と私のお金の区別ができなくなる。そういったところは、確実に破綻している。基本は、会社を発展させることにより、私の利益も膨らむ仕組みが望ましい。

最後に、あたり前のことだが、人材育成を怠る経営者が多い。自分以外に経営者はいないと思うのは自由だが、いつまでも権限を握ったままでは、後進の人材は育たない。ある程度の失敗は覚悟で、人材の育成に注力するべきだろう。

| | コメント (0)

2007年4月21日 (土)

ありがた迷惑

“ありがた迷惑”という言葉がある。親切でやってくれるのだが、受ける人にとっては、却って迷惑が伴うものである。大体、世話焼きの女性がそういう結果を生むことが多い。そして、この手の女性は押し付けがましい。

世話を焼いてくれる人は、本人は親切心でやってくれるのだろうが、何か裏に思惑があるのではと感じることも多い。そういう人に世話を焼かれると、受ける方は却って心の負担になる、ということをよく聞く。

このような世話焼きの人は、相手の気持ちを汲むことが苦手なようで、自分の考え方がそうだから、相手もそうだろうという考え方をされるようだ。

かく言う流風も、若い頃、あまり付き合いのない人に、世話を焼いて迷惑がられたことがある。当時、なぜなのか、不思議だったが、逆に、世話を焼いてもらうと、なかなかこれが結構辛い時があると分かった。

ところが、最近、若い人は、こういう人たちを歓迎している人もいるらしい。孤独感を持つ都会の若い人たちにとっては、案外、世話焼きは好ましいのかもしれない。流風から見ると、若干危いものを感じる。

しかし、その辺の区別がなかなか難しい。世話をすることも、世話を受けるのも、なかなか大変だ。

| | コメント (0)

2007年4月19日 (木)

道徳教育について

現在、道徳教育について、さかんに論議されているようだ。流風の小学生時代も、道徳の時間があった。副読本があったように思う。ただ、先生方も、そんなに熱心に教えている雰囲気ではなかった。自習も多かった記憶がある。生徒達も、真剣に学んでいるようには思えなかった。

大体、道徳教育というようなものは、小学生に上がるまでに修了していなければならない。家庭で無理なら、そういう塾が求められる。学習塾は、あまり高く評価していないが、地域において、「道徳塾」というものはあっていいと思う。

そこで、社会の仕組みや、挨拶などを徹底することによって、学びの姿勢がはっきりするだろう。そうすれば、彼らは将来悩まなくて済むと思う。

道徳教育は、学校に上がってからでは、やらないよりはいいが、遅すぎる感じである。高校で道徳教育をすると聞いて、思わず笑ってしまった。一体全体、政治家の皆さんは、教育というものが、本当にわかっていらっしゃるのだろうか。

| | コメント (0)

2007年4月18日 (水)

定例記者会見に思う

定例記者会見が有効かどうかが、宮崎県で論争になっているようだ。すでにネット等で情報公開していたり、毎日のようなぶら下がり取材に答えているので、重複する会見は不要ではないかという知事の疑問から発したようである。

定例記者会見は、確かに、権力のチェックとしては有効かもしれない。権力は常に腐敗するリスクを持つ。そういう意味では、定期的な第三者によるチェックは必要かもしれない。ただ、運営が今までのようなままでいいかというと疑問が残る。

それに定例記者会見は、情報化が進展した現在、その見直しは必要だろう。最早、記者が一般人より、情報や見識や知見を持っているとは限らない。もちろん、それは経験度や見識によって大きく異なるだろう。そして記者のレベルは各社で異なるだろうし、記者が全てに通じて優れた見識を持っているとは限らない。

例えば、記者の質問が愚劣である場合もある。彼らの全てが知的レベルが高いわけでもない。彼らは、あまりにも忙しすぎて、知見を高める余裕は与えられていない。そこで愚問が発生する。

そういった中で、全体認識のない者が、ミクロの質問をしても、あまり意味はない。本質的な物事の把握ではなく、枝葉末葉の質問になりがちだ。それでは、何のための定例記者会見がわからない。

特に聞いていて不愉快なのは、定例記者会見の場は、記者が自分や会社を売り込む場としているように感じられることである。例えば、他社が既に質問しているのに、重ねて同様の質問をしたり、既に発表済みのことを、文言の揚げ足を取ったり、「記者会見」のための質問というより、記者の存在を認めてもらいたいが為の質問も目立つ。

そういうことは、明らかに時間の無駄であろう。各社が質問の内容を協議し、重複しないようにすべきだろう。類似の質問に、繰り返し回答することは、無駄な時間を費やすことになる。

各社は、定例記者会見による情報入手より、もっと情報入手に個別性が重視されるべきだろう。同じ情報源で情報が流されても、あまり意味はない。各社の切り口で、情報を集め、分析・整理し、各社のオリジナルを情報として流すべきだろう。

定例記者会見が、全て無駄とは言わないが、それに頼りすぎることを打破しないと、日本のマスコミの後進性は改善されないだろう。定例記者会見の効率化が望まれる。

| | コメント (0)

2007年4月17日 (火)

医療ミスを扱った映画から

医療ミスを扱った映画に『評決』がある。医療ミスで植物人間になってしまった女性を巡る医療機関との法廷闘争を題材にしている。なかなか見ごたえのある映画だ。最近の洋画がつまらないものが多い中、当時(1982年)は、こんな映画を作っていたのかと感心する。

監督はシドニー・ルメット、主演は落ちぶれた弁護士を演じるポール・ニューマンである。対する冷酷な弁護士には、ジェームズ・メイソンが演じている。ポール・ニューマンの親友に、ジャック・ウォーデン、妙に絡んでくる美女にシャーロット・ランプリングだ。

昔は敏腕弁護士のフランク・ギャルビン(ポール・ニューマン)も、どろどろした法曹界の不正行為に巻き込まれて、自分の潔癖さから事務所を首になり、事務所の代表の娘と結婚したのも離婚に追いやられる。

そして、当然の如く、酒びたりで落ちぶれていく。できる人間には、よくあることだ。たまにやる仕事もいかがわしい仕事で、業界からはつまはじきにされている。

親友のミッキー(ジャック・ウォーデン)だけは、何かと気を配ってくれて、仕事を紹介してくれる。その中に、病院の医療ミスで植物人間になった女性のの姉夫婦からの仕事の依頼を回してくれる。

姉夫婦は示談のつもりだったが、フランクは植物人間になった女性の入院現場を見て、怒りを覚え、かつて持っていた正義感が湧き上がる。そして、示談でなく、法廷闘争に持ち込むべきだと主張する。

しかし、病院側の弁護士は大手事務所の正確・冷徹・敏腕で知られる大物弁護士コンキャノンだ。組織的情報収集力を活かして、完全な弁護を計画する。

それ以上のあらすじは控えるが、なかなか面白い映画だ。ナゾの美女ローラ(シャーロット・ランプリング)の役割は特に隠しておこう。1982年の制作だそうだが、なかなかテンポもよく、真に迫るものがある。

この映画を鑑賞して感じることは、医療ミスは、医療者が自覚していないところで、起こるものかもしれない、ということだ。そして、医療は定型業務ではないことだ。絶えず、細かい変化がつきまとう。それを事故なしに対応することは至難の業だ。

やはり定期的な第三者の目によるシステムのチェックが望まれるかもしれない、というのが鑑賞後の印象である。そして完全な医療というものは存在しないかもしれない。それに対して、患者が完全を求めるのは無理があるのだろう。そういうミスに対する保障を明確にした仕組みが求められる。

また忙しい医療者の負担を小さくすることも重要で、医療者個人も自分ひとりで頑張らないで、全体を見る目を養う方がいいかもしれない。結構、業界では常識と思っている無駄な仕組みがあるはずだ。それを洗い出すことも求められる。

| | コメント (0)

2007年4月16日 (月)

鈍感なリーダーは可能か

渡辺淳一氏の『鈍感力』が話題になったようだが、また読んでいないし、これから読む予定もない。だから、彼の考え方にコメントはできない。

ただ、成功したリーダーは歴史的に見て、鈍感な人は一人もいない。リーダーは、皆、小心者で、神経質だ。豊臣秀吉しかり、徳川家康は、もちろんそうだ(織田信長は、一見神経質そうで、外部の敵に対しては行き届いていたが、内部への配慮が行き届かず、意外と抜けていたから、光秀に暗殺されている)。

問題は、彼らは、自らの小心さや神経質さを隠す行動をしている。いかにも大胆で剛毅な感じを演出している。しかし、本質は、側近達に見破られている。特に妻達に。大体が、神経質な彼らの頭を撫でているのは、女性たちである。

現代でも、成功している経営者は、皆、神経質だろう。そして、彼らを支えている妻達が、それを可能にしているのではないか。それは別に大会社でなくても、小さな会社の経営者も同様なようだ。

*追記

別の見方をすると、日露戦争の最終章、奉天大会戦の折、満州軍総司令官、大山巌大将は、大砲の音が響く中、参謀長、児玉源太郎大将に、「何かの音がしますが、何の音ですか」と訊いたという。

児玉は切れる男だが、明敏すぎる。それを大山は、見事にとぼけて、空気を和やかにしている。リーダーとは、そういう人を指すのだろう。児玉は戦後、気が少しおかしくなっていたと云われるから、いかに、この戦争の重みを強く感じていたかがわかる。

そういう雰囲気の中で、彼らを導いた大山巌は、性根が座っていたと言えるだろう。しかし、彼が鈍感であったと言えば、それは失礼だろう。鈍感なリーダーなどあり得ない。

| | コメント (0)

2007年4月14日 (土)

敬語の難しさ

敬語は、なかなか難しい。自分のことは棚に上げても、他人の話す敬語の乱れは感じられることは多い。そうだからと言って、自分が正しい敬語をつかっているかというと、怪しいものだ。

それに放送局の人間でも、必ずしもまともな言葉を話していない。大変、聞き苦しい時もある。民放は、アナウンサーでもひどいものだが、あのNHKでも同様だ。アナウンサーは正確な言葉を話しても、ディレクターあたりになると怪しい。それほどに、敬語が正しく話されていない。

また芸人であっても、言葉遣いが悪いと、芸の品を落としてしまう。関西の芸人は、もはや芸とは言えないように感じる。言葉遣いが出鱈目な若い芸人も多い。それが若い人たちに悪い影響を及ぼしている。

そういった状況下、文部審議会は、2月に敬語の5分類細分化を答申したが、果たして使い分けることができるのだろうか。

かつての敬語は、「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の三つだが、謙譲語を「謙譲語Ⅰ」「謙譲語Ⅱ」の二つに分け、丁寧語を「丁寧語」と「美化語」に分けるという。

「謙譲語Ⅰ」は、自分がへりくだって相手を高く位置づけ~例、伺う、申し上げる、お目にかかるなど~、「謙譲語Ⅱ」は、話し相手に自分側の行為を丁寧に話す~例、参る、申すなど~ことを指すようだ。なんとなく、わかるような気もする。

「美化語」は、「お」をつける言葉のように美化する敬語を指すらしい。現代の風潮に迎合したもののようだ。

このような細分化はともかく、敬語は、基本的に、相手を立てて、人間関係を潤滑にするものだ。しかしながら、形式に嵌ってしまうと、茶道と同様、本来の目的が失われて、元も子もない。つまり慇懃無礼になってしまう。

基本は、いかに相手を立てているかを示せば、それは自然と相手に理解される。若い人でも、そういう気持ちがあれば、敬語の乱れが多少あっても、伝わるかもしれない。敬語を敬遠せずに、まずは丁寧な言葉を使うことから始めれば、意外と敬語は覚えられるかもしれない。

| | コメント (0)

日本のシビリアン・コントロールは大丈夫か

自衛隊を海外に派遣するには、国家を運営する上で、各種のリスクが伴う。その最も大事なことは、シビリアン・コントロールであろう。日本のシビリアン・コントロールは確かに機能するだろうか。日本のシビリアン・コントロールに対しては、欧米諸国も懐疑的である。トップ層が、その重大性を理解していないと。

仮にシビリアン・コントロールは現在はできていても、将来はわからない。日本は、国家の体質として、ゴー・アンド・ストップができない。そういう体質を改善しない限り、憲法第九条の改正は危いことを政治家の皆さんは理解しているだろうか。

日本の政治家は、日本が、平和と安定のために何をするべきかまず考えるべきだろう。それには、まず足腰を鍛えて、外交力をつけることが一番求められることだろう。防衛は、外交の一手段に過ぎない。防衛省はもっと謙虚になるべきだろう。

*追記

防衛庁を防衛省にしたことは、非常に危い。世界と同列の仕組みにしたかったのであろうが、シビリアン・コントロールのことを考えると、防衛庁のままでよかったはずだ。

| | コメント (0)

2007年4月12日 (木)

寵愛された女性の運命

権力者に愛された女性の運命は、どこの国の女性も似ている。人間のやることは、どこも変わらないということだろうか。

中国の前漢時代に、班婕妤(はん・しょうよ、倢伃とも表記)がいた。婕妤とは女官の名称である。よって、名前は不明。また班況の娘と云われるが不明な点も多い。多分、美しい娘を探し出して、自分の娘として献上したのだろう。

彼女は、選抜されて、後宮に入り、成帝から寵愛を受ける。そして「婕妤」になる。子供も生まれるが、しばらくして亡くしている。

その後、寵愛は趙飛燕・趙合徳姉妹に移り、顧みられなくなり、空しさを感じるようになる。

危険を感じた彼女は、自ら身を引き、長信宮で、大后に仕え、成帝が亡くなると、園陵の奉仕にあたったという。

さて、その趙飛燕・趙合徳姉妹は、姉の趙飛燕は皇后になり、妹の趙合徳は昭儀(*注参照)になる。二人は成帝の寵愛を受ける。

彼女等は、非常にスレンダーで、色々食べ物に注意していたようだ。減肥茶などを飲用し、体型を保ち、皇帝の寵愛を維持した。ただ、このことが災いし、子供には恵まれていない。

後、趙飛燕への愛は薄れ、妹の趙合徳へ愛が向けられる。彼女は房中術を以って皇帝に仕えた。すなわち、皇帝に精力剤を飲ませて過剰な性愛を求めた。しかし、それが災いし、彼女も子供に恵まれていない。

そのためもあって、彼女らは、皇帝が他の女性に産ませた子供たちを成帝が殺害するように仕向けたという。そして、その皇帝は、過剰な性行為が負担になって急死する。趙合徳は、その責任を問われ、自殺に追い込まれている。

権力者に寵愛されるのも、良し悪しである。

* 昭儀とは、後宮の女官の位である。

* 減肥茶について

腹部の脂肪蓄積をなくし、皮膚と筋肉の若さを保たれると云われてきた。しかし、近年、このお茶は、視覚障害や心筋梗塞が指摘されており、妊婦は流産を促進するという。あまり女性には、飲用を勧められない代物だ。それに痩せすぎると、難産になりやすいらしい。

| | コメント (0)

2007年4月10日 (火)

終戦前夜のこと

映画で硫黄島の栗林忠道中将が話題になったが、彼の戦いは、米国の日本に対する方針に、大きく影響したことは否めない。しかし、やはり知っておかなければならないのは、あの戦争の成り行きと終戦直前の状況だろう。

実は、米国のルーズベルト大統領は、日本との戦争が始まった段階で、すでに日本の占領案が考えられていたという。それはドイツと同様、4ヶ国で分割する案だった。ソ連には、北海道と東北を与えようと考えていたらしい。

それに対して、知日派の人々~その中心人物はグルー大使だった。グルーは日本が好きで、詳しかった~は抵抗して、絶対に4カ国分割は避けるべきだという主張と、天皇制を残さなければ、日本の占領はうまくいかないという意見を打ち出していた。世界で日本の皇室の評価は高いが、案外、一般国民は、その恩恵を感じていないかもしれない。

しかし、ルーズベルトは強硬で、知日派で影響力があったグルーも手を焼いたようだ。しかし、硫黄島の戦いに手間取り、米国内に厭戦(えんせん)気分が漂い始めたのだ。そして、ルーズベルト大統領が突然死ぬ。これで大統領がトルーマンに代わり、方針が180度転換する。すなわち、1カ国占領案に変わるのだ。

そこからは、当時の内閣、鈴木貫太郎内閣総理大臣が、「日本人は、敵将の死を喜ぶような下劣な民族ではない。謹んで弔意を表する」と、声明を出し、米国は、これを聞いて、日本には講和の意思ありと判断する。トルーマンは、就任演説で、無条件降伏に関する内容を変えたと言われる。すなわち、「日本国の無条件降伏を要求する」から「日本軍隊の無条件降伏を条件とする」に。

これを聞いた日本の首脳は、もしやと期待するが、その後は、以前に書いたようなことで、曖昧な対応が、米国に伝わらず、結局、都市部への無差別空襲と原爆投下によって終戦を迎えた。これらのプロセスを考えた時、人々のいろんな思惑はうろうろしている。しかし、しっかりとした意思を表示しなければ、うまくいかないことを示している。

それは残念ながら、現在の日本の海外とのやり取りにも散見される。相手の発言の十分な読み取りと、すばやい実行。これが大切なのだ。言葉のニュアンスを時系列で正確に読み取らなければ、タイミングをはずして、全ての努力が無駄になるということだ。

| | コメント (0)

2007年4月 7日 (土)

珍味と応接

兵庫県の珍味として、もてはやされた歴史のあるのが、明石の鯛と、播州の野菜だったという。明石の鯛は、今でも有名だが、播州の野菜はそうとは知らなかった。しかし、播州は広い。明石方面から姫路方面一体を指すのであろう。一体、どの辺の野菜が珍味として取り扱われたのであろうか。

それはそれとして、利休に関する話で、次のような話がある。ある金持ちが、利休を招いてもてなそうとした。そこで遠方からの珍味として、明石の鯛や播州の野菜を取り寄せたそうだ。

すると、利休は、それを見て怒り、「そんな心得違いをする人とは、お茶について語れない」と言って、すぐさま帰ったということである。

変人と言えば変人だが、高邁な芸術家や文化人に接する時の心得としては、このエピソードは的確に物語っている。相手の考え方を十分把握せず、相手をもてなすことは、かえって失礼にあたる。

不愉快な思いをさせないような配慮は求められる。それには相手の考え方を知り、適切に対応するのが望ましい。お金をかけたらいいというものではない。しかし、つくづく応接の難しさを感じる。

| | コメント (0)

2007年4月 5日 (木)

同盟の危さ

米国では、ブッシュ政権が、すでにレイム・ダック状態のようだ。それを無理して、イラクに増派するなど、あがいているようだが、もう終わりだろう。北朝鮮との妥協も、それを如実に表している。

日本政府としては、小泉前政権の置き土産が大きくマイナスの影響を残している。しかし、英国もイラクから撤退する今、日本も撤退を急がねばならない。現在の日本政府の判断は、米国政治情勢の流れが読めてないのは、情けない。

英国の判断ミス(米国政府は判断ミスをしたのではなくて、作為的であった)は、日本にも悪い影響を残した。すなわち、日本政府にとって、彼らの判断が常に正しいとは限らないということを再認識しなければならない。主体性がなければ、国を危くする。独自の情報を持たない日本の危さが露呈した。そこに同盟関係の危さが潜む。

| | コメント (0)

2007年4月 3日 (火)

近所の名医の記憶

子供の頃、近所のおばさんたちから評判のいい医師がいた。彼女等が言うには、「あの先生は、ちんくしゃやけど、評判ええで」というのを何回も耳にした。

「ちんくしゃ」というのは余計である。女性というのは、いつも一言多い。男なら、「名医らしい」で終わる所が、いろいろな形容詞がつく。イメージはわかりやすいが(笑)。

確か内科だったが、子供も診ておられた。流風も何回か母親に連れられて診てもらったことがある。たくさんの患者さんが待たれており、初診を除けば、なかなか順番が回ってこなかった。

診察室に入ると、消毒液の臭いが蔓延していた。そして先生は確かに男前ではなかったが、やさしそうな先生だった。その先生は、現在の病院のように検査するわけではないが、とにかく口頭で尋ねたり、触診が多かった。思い出せる限り、その診察風景を記しておこう。

 ①まず、患者に状態を聞く。子供であっても同じ。付き添いには、後で聞く。

 ②患者を歩かせて、身体全体の動きを見る。ふらふらしないか見る。

 ③顔全体をじっと見て観察する。

 ④脈拍を取る。

 ⑤目の状態を見る。前や左右に手をかざしながら、「何本に見える」か、患者に確認する。

 ⑥耳が聞こえにくいか聞く。

 ⑦口をあけさせ、咽喉の状態、舌の状態を見る。

 ⑧体温を測るように看護師に指示する。

 ⑨触診をする

    ・ 頭と首の状態を触診する

    ・ 肩が凝っていないか見る。

    ・ 手の裏表を触る。

    ・ 聴診器で、胸と背中の音を聴く。

    ・ 手を胸と背中にあてて、指でとんとんと叩く。

    ・ 身体を寝台に横たえさせて、腹を押さえて、腹圧を見て、痛くないかと尋ねる。

    ・ すねを叩いて反応を見る。

    ・ 足裏を見る。 

 ⑩触診でかなり問題があるという場合だけ、レントゲン写真などの検査を行う。

以上のように、検査はあまりなかった。また最近のように、患者に診察前に症状を書かせる様なことはなく、必ず本人の口から直接聞いていた。

そして大体、⑨の診察で終了し、消毒液で手を洗い、病名を告げ、今後の生活について諸注意を与え、必要な場合は薬を出すという手順だった。それで、ほとんど治っていた。名医という評判は高く、遠くからも患者がやって来ている様だった。

現代の診察とは時代も違うので、比べられないが、触診をされると、何か信頼感が増していたような気がする。それが現代の言葉に直せば、触診によるコミュニケーションが十分であったと言えるのかもしれない。患者と医師の信頼感は、案外、こういうところから生まれるのかもしれない。

   

| | コメント (0)

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »