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2007年4月18日 (水)

定例記者会見に思う

定例記者会見が有効かどうかが、宮崎県で論争になっているようだ。すでにネット等で情報公開していたり、毎日のようなぶら下がり取材に答えているので、重複する会見は不要ではないかという知事の疑問から発したようである。

定例記者会見は、確かに、権力のチェックとしては有効かもしれない。権力は常に腐敗するリスクを持つ。そういう意味では、定期的な第三者によるチェックは必要かもしれない。ただ、運営が今までのようなままでいいかというと疑問が残る。

それに定例記者会見は、情報化が進展した現在、その見直しは必要だろう。最早、記者が一般人より、情報や見識や知見を持っているとは限らない。もちろん、それは経験度や見識によって大きく異なるだろう。そして記者のレベルは各社で異なるだろうし、記者が全てに通じて優れた見識を持っているとは限らない。

例えば、記者の質問が愚劣である場合もある。彼らの全てが知的レベルが高いわけでもない。彼らは、あまりにも忙しすぎて、知見を高める余裕は与えられていない。そこで愚問が発生する。

そういった中で、全体認識のない者が、ミクロの質問をしても、あまり意味はない。本質的な物事の把握ではなく、枝葉末葉の質問になりがちだ。それでは、何のための定例記者会見がわからない。

特に聞いていて不愉快なのは、定例記者会見の場は、記者が自分や会社を売り込む場としているように感じられることである。例えば、他社が既に質問しているのに、重ねて同様の質問をしたり、既に発表済みのことを、文言の揚げ足を取ったり、「記者会見」のための質問というより、記者の存在を認めてもらいたいが為の質問も目立つ。

そういうことは、明らかに時間の無駄であろう。各社が質問の内容を協議し、重複しないようにすべきだろう。類似の質問に、繰り返し回答することは、無駄な時間を費やすことになる。

各社は、定例記者会見による情報入手より、もっと情報入手に個別性が重視されるべきだろう。同じ情報源で情報が流されても、あまり意味はない。各社の切り口で、情報を集め、分析・整理し、各社のオリジナルを情報として流すべきだろう。

定例記者会見が、全て無駄とは言わないが、それに頼りすぎることを打破しないと、日本のマスコミの後進性は改善されないだろう。定例記者会見の効率化が望まれる。

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