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2007年5月31日 (木)

先入観によるイメージと誤解

人々は、第一印象に左右されやすい。また第三者からもたらされる情報で、頭で判断してしまうこともある。そういう情報が無駄とは言わないが、結局、人は会わないとわからないことも多い。ただ、その場合、先入観で人を判断してしまうと、間違う場合も多い。

例えば、流風も、茶髪は大嫌いだ(実際、茶髪が似合う人は、ほんの一握りの人に過ぎない。ほとんどの人が、自らの品を落としている)が、茶髪の人が人間的に問題があるかといえば、それは間違っているだろう。生理的には受け入れられないが。

このように、私達は、会った瞬間に直感的に判断してしまう。それは過去の人間観がそのようにしてしまうのだろう。ある程度の年齢に達すると、それを修正するのは難しくなる。ある意味、それが老いたということの証左かも知れない。

ただ若い人は、逆に人生経験の浅さから、別の先入観で判断してしまう。それはそれで問題だ。ある程度の人生経験を踏まないと見えない場合もある。経験と未経験をそれぞれベースとしながら、私達はあらゆる世代で迷いの世界にいるのかもしれない。

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2007年5月30日 (水)

健康と美味しさのバランス

美味しいということと健康にいいということというのは、身体・心の受け入れ態勢が重要だと云われる。すなわち、どんな美味しいものでも、受け入れ態勢が整っていなければ、美味しく感じないし、どんなに健康に良いものであっても、同じく受け入れ態勢が整っていなければ、心身によい影響をもたらさない。

そして、それは美味しいということと健康によいということが同時であることが求められる。よく健康情報にこだわって、あれがいい、これがいいと言う人たちがいるが、美味しくないものを無理やり摂取しても、美味しくなければ、心身は多分喜ばないだろう。心身が喜ばないものは、結局、健康によくないだろう。

もちろん、おいしいものばかり食べれば偏食になる。それは健康によくないことは明らかだ。美味しくても、健康によいものとのバランスは常に求められる。そして健康によいものは、各人異なるような気がする。

それぞれの状態に応じて、適切な食物を摂取することが大事だろう。各種健康情報は、各人が自分なりに分析する必要がある。そして、それは美味しく調理する必要がある。このように健康によくて美味しいものを求めるのは、悪いことでないと思う。

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2007年5月29日 (火)

タマネギへのこだわり

学生時代、タマネギと渾名される先生がいた。いわゆるタマネギ禿げだったからだ。その渾名に、うまくつけるなと感心したものだ。先日、電車に乗っていると、まさに同じタイプの人が乗り込んできたので、懐かしさで思わず声をかけそうになった。

それはそれとして、スーパーや八百屋で、少し前から新タマネギが販売されるようになった。新タマネギは大変美味しい。スライスして、サラダとして生でも食べられるし、その他のタマネギを入れる料理に使っても、柔らかく調理される。

ただ欠点は、腐りやすいことだ。だから適量だけ買って調理することにしている。そのタマネギだが、近所では、大体、北海道産と淡路産(兵庫県)が主として販売される。流風は、基本は淡路産(兵庫県)を買って、それがないときだけ、北海道産を購入している。

なぜかというと、それは母の影響だ。子供の頃、最近の人のように贅沢していない彼女は、粗末な物ばかり食べたようだ。ただ、その結果、非常に舌が肥えている。微妙な味に敏感なのだ。その母が、タマネギに関しては、淡路産を絶賛するのだ。

ところが、流風は、残念ながら、それほど明確にはわからない。多分、目隠しして、どちらが淡路産かと尋ねられても、わからないだろう。それにもかかわらず、何となく淡路産を買っている。何という母の影響力。とは言うものの、結構、北海道産も買っているのだけど。

食のこだわりは、子供時代の食生活が強く影響するのかもしれない。流風も、子供時代に食生活が決して豊かだったとは思わないが。

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2007年5月28日 (月)

森林資源国だけが生き残るか

世界で水問題が話題になっている。水を資源として捉えているのだ。日本では、水はただのように思われていたが、最近は水が売られている。それに多くの農畜産物も輸入している。それらを生産するのに、各国で多くの水が使われているから、結局、間接的に水を輸入していると指摘する向きもある。

日本は先進国の中では、比較的森に恵まれているようであるが、都会や海周辺では木が少なくなっている。木はばらぱらで存在しても、それほど意味をなさないが、ある程度、集合的になると、いろいろな効果を生み出す。

最近、魚が取れなくなったと騒いでいるが、湾岸周域を見れば原因はわかる。海辺に木がないのは、何処の海でも同じだろう。防犯上の都合で、見通しが重視され、木々がほとんど植栽されていない。川の傍も同様だ。コンクリートで固められた状態では、魚も寄ってこない。

このことは、人間でも同様のことが言える。人々にとっては、森や林は欠かせないものだ。それを無視して、森林を伐採して食料を作ったり、放牧して、砂漠化を進めた地域に発展性はない。

現在、バイオエネルギーが注目されているが、その是非はともかく、森林資源が豊富な国は世界で生き残るように思う。政府も民間も強い関心を持つべきだろう。

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2007年5月27日 (日)

わかりやすいとは、いいことか

なかなか理解できない時、わかりやすく解説してくれるとありがたい場合がある。しかし、わかりやすいということは、いいことなのだろうか。

どの世界にも、わかりやすく説明や解説してくれる人がいる。しかし、この世の中は、そんなにわかりやすい世の中だろうか。

多分、彼らは、問題を単純化させているに過ぎないのではないか。ミクロ的には正解であっても、マクロでは、必ずしも正しくないのではないか。

わかりやすさには警戒が必要だろう。そして、そのように説明したり解説するマスコミの人たちや彼らの著作に。結局、人々に相談しても、自分で納得するまで考えるしかない。

考えることを放棄した人々が危いのは、いつの時代も同じだろう。わかりやすさで騙されないようにしたいものだ。政治家で言えば、前首相(*注)のようなタイプに騙される可能性が一番高い(笑)。くわばら、くわばら。

*注

この記事も、今では、過去のことになって誤解されてはいけないので、名前を明記しておく。それは小泉元首相のことだ。煽るのがうまい指導者には要注意ということ。

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2007年5月26日 (土)

計画性ということ

先日、テレビを見ていたら、ある今年定年の音楽教師のことを生徒が笑い話として話していた。その先生は、指導が熱心で、生徒からは尊敬されているようであるが、結構、隙がある。そこに生徒としても共感しやすいものがあるのだろう。

一つのエピソードとして、ある生徒が楽器が壊れたので、その先生のところに持ち込むと、先生はしばらくこもって何かをやっていたが、結局、全て分解してしまって、「直らんから、楽器屋で修理しろ」と言ったらしい。

分解はしたが、いざ修理して組み立てるとなると、できない。このことを聞いて笑ってしまった。実は、流風も、そういうことが過去によくあった。その度ごとに、先輩や後輩が、ささっと直してしまう。ふ~む、機械音痴とは、まさに自分のことを指すのかと思ったものだ。

このことを言うと、両親から、お前は計画性が足りないとよく言われたものだ。確かにそういわれると、行き当たりばったりの人生を歩んでしまったかもしれない。でも、父は確かに計画性の塊のような人だったが、母は、結構いい加減。まあ、この親の間に生まれたのだから仕方ない(笑)。このブログでは、偉そうに言っていることは、結構、自分の反省から出た言葉が多いことに気づく。

もちろん、若い時は、それでも、自分なりの夢や計画はあったつもりだ。しかし、ある時点から、そういうものが失せてしまった。どうも、そこら辺に意志薄弱な点があるのかもしれないと反省しつつ、今後も偉そうに記していく(笑)。

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2007年5月25日 (金)

リニューアルした兵庫県立歴史博物館

ラジオで、兵庫県立歴史博物館が4月20日にリニューアルをしたと聞いたので、やっと時間を見つけて行ってきた。かれこれ十数年ぶりのことである。前の印象は、お城に関する展示と、ビデオ鑑賞ルームの印象が強かった。

今回、行って見て、少し驚いた。展示にかなり工夫がされており、面白いのだ。いろんな客層を想定して作ったようだ。カップルでも、親子連れでも楽しめそうだ。もちろん、一人でもそれなりに(笑)。じっくり見ていけば、かなり誰でも楽しめる。解説資料も無料配布しており、それだけでも内容が充実している。それに観覧料金も安いし(大人200円)。

6月3日までは、ひょうご文化ルネサンス「わくワークフェスティバル」として、伝統的な和文化のイベントを行っている。大半はゴールデンウィークに終了しているようなので、残念。まあ、それはなくても、十分楽しめる。

*  兵庫県立歴史博物館

場所は姫路城の東側で、姫路駅から、バスで、博物館前下車。ここを鑑賞してから、歩いて姫路城に行くと、より姫路城のことが理解できそうである。

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2007年5月24日 (木)

15分ということ

人間が集中できるのは、15分程度であるようだ。大学の講義が90分だったり、経営者向けのセミナーが2時間だったりするが、聴取者は本当に理解できているかといえば、疑わしい。これらの催しは、要点をまとめれば、大体15分程度におさまるはずだ。

これらの時間が長いのは、報酬の「支払い」側の事情によるものかもしれない。すなわち、1分間あたりの支払い金額が想定されていて、短ければ支払いが少なくなるのだ。つまり時間の長さと講師の人気度の基準で支払額を決めているのだ。そこでは、コンテンツについては吟味されないのだろう。

もちろん、その辺の事情を知っている講師達は、15分ごとに話題を変え、聴取者が飽きない工夫をしているようだ。しかし、それは結構無駄話が多いのも事実だ。それはハウ・ツー本と同様だ。誰でも、全編にわたって、いつもそんなに有効なネタを持ち合わせているとも思えない。

結局、間延びした講演を聞かされ、時間を奪われる。講演などを聞くのは、結局、確認に過ぎないのだ。それなら、講演録や著作を斜め読みした方がよいと気づき、最近は講演を聴くのも遠のいている。

だからと言って、全ての人に講演を聴くなとは言わない。それはそれなりの楽しみ方がある。それに暇つぶしにはもってこい(笑)。それはいろんな講演やセミナーに行くと、高齢者が多いことからわかる。だが、現役の人々には、講演を聴くだけが目的なら、あまり勧めない。それだけの時間があれば、もっと何かができるはずだ。

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2007年5月23日 (水)

道順の理解の違い

バスに乗っていると、ある男性客とそのお母様と思われる方が、何か言い合いをしている。流風も母親とは、よく言い合いをするので、関心を持って聞いていたら、どうも道順のようである。

延々と続くので、他の客も迷惑そうに聞いている。それで、結局わかったことは、ある地点に行くのに、お互いが自分の理解の方法で、言っており、多分どちらも正しいのだと思った。

すなわち、息子らしき人は、車で移動する場合の道順を言っており、お母様らしき人は、歩いていく場合の道順のようである。でも、なぜ、そのことがお互いわからないのだろう。

でも、流風も、つまらないことで、母親と言いあいをしている。お互いの言い分をよく聞き、確認すれば、争いにならないことも多い。そういうことが案外、身内だと甘えてしまってできていない。他人から見たら、結構滑稽なのだろうなと反省した次第。

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2007年5月22日 (火)

アンフェアとは何か

現在でも、世界の多くの基準は欧米に握られている。多くの国は、欧米の基準を押し付けられている。もちろん、全ての基準が悪いわけではない。しかし、多くは彼らの都合で作られ、変更されている。

かつて、日本は、よく海外の国々から、「アンフェア」という抗議を聞いた。この、「アンフェア」という意味は、どういう意味があるのだろうか。単純に和訳すれば、「不公平」ということのようだが、どうもそのようでない。

どうも、この言葉は、駆け引きの言葉のようである。彼らがうまく行かなかったら発する言葉のようだ。いわゆるボヤキに近いのではないか。

負けるはずのないケースで負けた場合の負け惜しみとも捉えられる。責任回避的な意味合いもあるのかもしれない。

彼らが違う文化を理解できなかった場合に発される言葉かもしれない。彼らは、いつも彼らの文化が正しいとして判断しがちだ。

それを日本の関係者は真面目に受け取って、無理に対応してきたようにも感じられる。しかし、いつも彼らが正しいわけではない。彼らのリアクションに惑わされないようにしたいものだ。

彼らは自己の利益のために主張しているに過ぎない。私達は、もっと我々の基準を世界に発信すべきだろう。そして、我々が彼らにアンフェアを主張すべきかもしれない。そこから、あるべき相互理解が進むはずだ。但し、逆回転すると、各種の戦争という事態に発展するが。

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2007年5月21日 (月)

変な言葉“食育”

いつ頃からか不明だが、よく“食育”という言葉が使われている。多分、意味は食事の教育の略語だと思うが、品のない言葉である。それに、どこか押し付けがましい。

確かに、親は子供に、食事のマナーなどを教える必要がある。そして、この言葉の裏には、食事について、親が子供に与えるべき適切な食事内容やマナーを知っていないことが問題として把握されているのだろう。

ということは、この“食育”という言葉は、子供の親の食事に関する教育という意味に捉えられる。最近、政府関係者もよく言っているが、残念ながら、この言葉は、若干見下げたような、上からの強圧的な感じがする。

もちろん、親は子供の健康に配慮して、食事を与える必要があるが、それを“食育”という言葉で表現するのはおかしいと思う。この言葉の響きには、まるで家畜に餌をやる方法を教えるというニュアンスが感じられる。

正しい食文化を伝えるための空気を作ることは大切だが、この言葉は適切でないような気がする。皆様は、どのように感じられているのだろうか。

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2007年5月18日 (金)

芸術の原則

確か、岡本太郎氏が、「芸術の原則」を次のように説いていた。

  ⅰ きれいでないこと、ⅱ うまくないこと、ⅲ 心地よくないこと

首肯できないという方もいるだろうが、芸術家ではない流風も、なるほどなあ、と感じる部分がある。岡本のように考えると、芸術は、「うんこ」と言えないこともない。

芸術家が、いろいろ考えたプロセスを放り出した結果が芸術とすれば、それは芸術家にとって、どうでもいいものかもしれない。芸術家にとっては、プロセスが大事で、結果は、それほど大事ではないのかもしれない。

同様に、人間は、「うんこ」をしないと、生きていくことができない。「うんこ」を出してしまえば、すっきりするように、人間が生きている限り、芸術は生み出されるのだろう。

流風なんか、美術館や博物館に行って、なるほどというフリをしながら(笑)、鑑賞したりするが、芸術を生んでいる人たちが、全て岡本のような心境で創っていたとしたら、少し芸術を考え直さなければならないのかもしれない。

同様に、人間というものは、そんなに美しい存在でないのかもしれない。美しくない存在が、美しくないものを美しいと思って鑑賞する。この世界は錯覚・思い込みの世界なのかもしれない。まあ、そうは言うものの、あまり難しく考えないで、感性に合うものは、単純に楽しんだ方がいいかもしれない。

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2007年5月17日 (木)

いい人とは

女性の男性の評価の中で、「いい人」というのがある。この言葉は、必ず、「いい人、・・・(だけど、面白くない)」という意味が込められていることが多い。女性のというのは、どうも危険な匂いのする男に惹かれるようである。

確かに、「いい人」と評価される男は、男から見ても、少し面白みが足りない。極めて現実的で堅実だ。基本的に真面目で融通が利かない。だから、自ら、危ないことには決して手を出さない。

だが、女性諸氏よ、そういう男がパートナーとしては、一番安心な結婚生活を送れるはずだ。結婚生活の味付けは、女性がやればいい。そうすれば、案外、彼らも評価されるのだ。

「いい人」の再考が望まれるような気がするが、果たして現代の女性はいかに考えるか。パートナーに対する妄想は捨てた方がいいと思うが。

*注記

本来、女性が言う「いい人」とは、「ちょっと関心はあるのに、男の方から何も仕掛けてこない」ことに、いらいらしている心情を指している。ここでは、別の意味で取り上げた。

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主体性ということ

よく主体性がない、などと言われる。流風も、若い時、上司によく言われたものです。ただ、この主体性、日本ではマイナーな考え方かもしれない。それは、主体と客体が常に移動しているからだろう。

常に自分が主体とは限らない。すなわち、ある時は自分が主体だが、ある時は客体である。そのように主体の移動が適宜なされるところに、組織の強さがあるのかもしれない。

もっとわかりやすい言葉で言えば、リーダーがその専門分野に応じて、柔軟に変更される組織が強い。縦社会と言われる日本の組織において、比較的柔軟性を確保してきた組織が強かったのは事実だろう。

例えば、ある英会話教室の広告を見ていると、会社では上司が部下の失敗を追及しているが、英会話教室では、部下が主導権を握っている。誰が考えた広告か知らないが、ポイントを突いている。

ところが、もちろん、日本の全ての組織がそうでないことは明らかだ。何が何でも、どんな場合も、自分が主体でなくては満足できない人がいる。それは本人も、周囲も不幸だ。そういう人々は、主体性を発揮することと、その機会を混同している。すなわち客観的に判断して相手の能力の見極めることができないのだ。

人生経験では、年長者の意見が重視されるかもしれないが、新しい知識・違う知識に関しては、若い人の意見が度々正しいことがあるだろう。

そういうことを柔軟に対処できる心構えが大切だ。心を妙に固めてしまうと、不自由になる。流風も、年と共に頑固になりつつある。警戒しなければならない。

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2007年5月14日 (月)

親学の誤解

現在、「親学」が議論されている。政府は、「親学」という言葉は適切でないと判断したようだ。しかし、この言葉が適切かどうかは別にして、必要なことだ。親は子供にどう接するべきなのか。昔は、儒教教育が浸透していたので、自然と教えられたが、現代は明確な指針がない。流風も昨年のブログで、その必要性を論じた(2006年4月23日付け『親学の必要性』)。

ただ議論を見ていると、現在の親に対する「親学」のようである。しかし、これは正直言ってなかなか難しい。確かに望まれることではあるが、すでに考えも固まっている現在の親に、或いはもうすぐ子供を持とうとしている人々に親学を強制することは、必要性は感じても、反発も出てこよう。政府の押し付けがましい姿勢に反発するのも仕方ない。

むしろ、親学は、子供の段階で施されるべきものなのだ。子供に親学を学ばせるのも変な感じだが、彼らもいずれ親になる。それに子供たちが、親の立場を理解すれば、子供たちの行動も変わると推定される。

親たちは、子供たちが社会で生きていくのに何を伝えていくべきかを常々考え、そして子供たちは親から何を学ぶべきかを考える必要がある。相互の学習が大切だ。結局、それは日本文化の伝承と継承の問題に突き当たる。

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2007年5月13日 (日)

日本にとって悪いファンド

米国系ファンドが、日本市場を食い荒らしているようだ。全てのファンドという投機が悪いとは言わないが、現状、悪いファンドが席巻している。特に製造業の産業資本を食い荒らしているのは不愉快だ。ファンドが、産業の健全な発展に寄与していない。

そもそもファンドのような商業資本が、製造業の産業資本を食い荒らす姿勢は許されない。政府はいつまで放置するのだろうか。規制緩和が全ていいとは限らない。緩和と共に、新しい規制が必要だ。それは国益を守る上でも重要だ。

それに日本にとって、必要なファンドは、製造業でなくて、サービス業分野での活用が望まれる。日本のサービス業は、全て日本のやり方が悪いわけではないが、効率が劣ることも事実である。そこに彼らがメスを入れて、経営者を発奮させる材料とすることは大切だ。

ファンドの活用は日本にとって、どの分野が国家として適切なのか、十分に考える必要があるだろう。決して、製造業の産業資本の食い荒らしは許してはならない。これはファンドという侵略であると政府は認識すべきだろう。

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2007年5月12日 (土)

似ているものあれこれ

美人の喩えの、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」は、誰でも知っているだろう。しかし、連休の終わりと共に、牡丹の花は散ってしまった。これからは、芍薬が見所だ。そして百合は、夏まで待たねばならない。

ところで、どこかの郵便局が発行した切手が、芍薬と牡丹の写真を間違ったようだが、実際、見た人はわかるだろうが、花は確かによく似ている。ただ全体を見ていれば、わかりそうなものだが、・・・。

また一卵性の双子の兄弟・姉妹は、似ているのは、当然として、他人の空似は確かにある。以前、町で声を掛けたところ、全く別人だった経験はある。じっと観察すれば、明らかに違うのだろうが、雰囲気が似ている人はいる。

モノでは、海外では、著作権を無視して、コピー商品が氾濫している国もある。もちろん著作権の認識がない人々もいるだろう。しかし、あれは、作為的に似させているのだから、不愉快である。

ただ、何でもかんでも、著作権というのも引っかかる。本当にユニークで価値あるものとは何なのか、もう少し考えてみる必要もある。また著作権の有効期間も、短くする必要もあるかもしれない。

芸術の分野でも、絵画の模倣が問題になった画家もいた。問題は、接触していた近い人の作品に似ていたということがあったことだろう。そもそも人間の記憶というものは、曖昧であり、一度インプットしたものが、後日、自分のオリジナルと勘違いすることはよくある。

それに元来、人間の思考は似ているだろうし、身体的限界を考えれば、題材が似て当たり前ということも言える。だから、全く関わりのない遠方同士の人間が全く同じアイデアをすることも現実にある。そう考えると、オリジナルというものは限られる。

そして最近は、特殊メイクで、他人と似させることもできるようだ。ただ冗談でやるのはともかく、悪意だと問題になりそうだ。全てのことは、やる方の考え方で、大きく結果は左右される。そして、相手を深く理解することが、悪意に対する実害を減らしていくのだろう。

ちなみに、芍薬はボタン属で、牡丹と同じ属らしい。そういう紛らわしさが、人々を迷わせるようだ。

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2007年5月 9日 (水)

エリート育成と特待生

高校野球の特待生が問題になっているようだが、高野連も今まで放置しておいて、今更問題化させるのも大人気ない。いろんな問題が絡むので、単純には論じられないが、若干気になったことを記しておこう。

ところで、国としてみた場合、エリート教育は大切である。分野ごとの能力の個人差はいかんともしがたい。だから分野ごとのエリートを作ることは大切だ。エリートが時代をリードすることによって、多くの人々は、ある意味導かれる。かつての官僚というエリート育成もそういう意味があったと思う。

しかし、時代によって、エリートの価値は異なる。エリートを特権としたところから、その価値は薄くなる。エリートは、常に時代をリードしていくことに価値がある。そのことを勘違いした官僚たちが、今崖っぷちにいる。彼らの意識転換が望まれる。そして官僚機構の改革も求められる。

同様に、今回話題になった高校野球特待生問題にしても、これはスポーツエリートの取り扱い問題と捉えることができる。ただ、ここで問題化したということは、プロ野球が今後も栄える保証はないということを宣言しているようなものだ。日本のプロ野球が曲がり角に来ているのだろう。

スポーツの多様化時代には、指導する方々も、学生を正しく導かなければならない。特待生問題は、学生が進むべき進路の多様化に、学校としても対応するべきだと前向きに捉えてもらいたい。

但し、高野連の性急な方向転換は、プロ野球の青田買いの行き過ぎが端を発したのだろうが、たとえ、理屈は通っていても、高校生にとってはいい迷惑であろう。特待生が悪いわけではない。現在の学生にとって迷惑この上ない。きちんと猶予期間を設けるべきだったと思う。特待生のあり方を考えることもなく、高野連の子供ぽい運営に情けないものを感じる。

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2007年5月 7日 (月)

落語の楽しさ

落語が一つのブームになっているようだ。落語の楽しさは、同じネタでも、演者が異なることで、その受ける印象が異なることであろう。落語は、そのネタの筋と演者の創造する空間と時間によって楽しめる。聞き慣れた出し物でも、その感じは、演者で大きく異なる。そこが落語の魅力なのだろう。

また落語を鑑賞する者は、演者により演じられる空間と時間を想像しながら、自分もそこに入り込むことができることが、楽しさを倍増させる。そのためには、演者の工夫が求められる。そこに演者ごとの技量が問われている。

そこで、問題になるのが、ネタの演者による読み込みが大切なのか、演者の創造する雰囲気が大切なのかということになる。ネタを広げるのがいいのか、ネタはあまり広げないのがいいのか。

このことで思い出すのが、プレゼンターのプレゼンテーションが多いと、印象が低くなることだろう。ある程度は、説明するが、説明し過ぎないようにするのが、プレゼンターの要諦だろう。

そういうことを踏まえると、落語も、あまり詳しい説明はせずに、雰囲気で鑑賞者が想像し、話を進めていく方がよさそうである。鑑賞者が知らず知らず、雰囲気にのまれていく感じが望ましいということになる。

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2007年5月 3日 (木)

憲法改正姿勢の危さ

自民党政権は、過去に憲法第九条を拡大解釈し、海外に自衛隊を派遣してきた。これは、米国の都合に合わせて、今まで、憲法を恣意的に解釈して、憲法違反してきたと言える。

もちろん、理由としては、日米安保条約による日米同盟に基づくものと言うかもしれない。日米同盟が大事なことはわかっている。それには武力の裏づけが必要と言うかもしれない。更には、民主主義国家を守るという大義があるかもしれない。

しかし、国家の主体性がなさ過ぎる。憲法を守らなくてもいいという理屈にはならない。憲法解釈を恣意的にして、民主主義の手続きを無視しては、民主国家としての存在価値が疑われる。選挙で選ばれたのだから、今更、国民に説明しないでよいと思っているのだろうか。

米国との関係で、政府の苦しい立場は理解できるが、なし崩し的に憲法改正することは手順的に正しいだろうか。現実と整合性が失われているからといって、憲法改正に進んでいいのだろうか。手順を間違えた自民党の過去の運営方法をまず糾す必要があるのでないか。

過去の自民党のやり方を見れば、憲法を遵守していないことは明らかだ。今のままで、また改正をすれば、また更に拡大解釈しかねない。そういう政治姿勢の危さを持っている。手続きを無視して、憲法を守らなかったことが、政治不信を招いていることがわかっていないのだ。

政府は、そういうことは言わずに、今までのいい加減さをチャラにして、憲法改正に動こうとしているように感じる。そこで、安倍首相は、現状に合致した憲法に改正しようと言っている。特に国連の常任理事国がらみで、彼は拙速に急ごうとしている。しかし憲法解釈の恣意性はチェックされていない。

憲法改正すれば、小泉前首相のように、更に間違った判断でイラクに自衛隊を派遣するような過ちを犯す危険性は高い。今までの政治プロセスからすれば、可能性は高い。つまり日本に主体的判断ができず、英米に引き摺られることだろう。

つまり、自民党政権が、政治姿勢を糾さない限り、憲法改正は非常に危いと言うことができるだろう。果たして、国民は、どのように判断すべきだろうか。

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2007年5月 1日 (火)

今年の神戸まつり

今から言うのも変だけど、ゴールデン・ウイークが終わると、“神戸まつり”が始まる。今年は、2007年5月11日から20日までだが、中心となる全体の祭りは12日~13日で、メイン行事は12日に催される。

“神戸まつり”というと、日本の祭りの感覚から行くと、バタ臭い。歴史的な国際的な港町であるため、異人館や海外的な街並みがあったり、また海外の人々も多く住んでいるからだろう。だから、祭りというより、街の中でする大人と子供の国際色豊かな“学芸会”という感すらある。

流風は、毎年、ちらちら見に行っているが、どういうわけか、当日は雨が多い。毎年、日程を変えるのであるが、雨にやられる(ちなみに昨年は晴れだった)。この時期は、気温も上昇しており、さほど苦痛ではないが、やはり祭りは晴れてほしいものである。今年の天気はどうだろうか。

そうは思いつつ、いずれにせよ、今年も出かけることであろう。ある程度パターンしているが、懲りずに行っている。今年は、連休中は、あまり出かけずに、祭りに期待しよう。

*5月13日追記

神戸まつりのメインの祭りを昨日見てきた。お陰様で天気はよかった。ただこの時期の祭りは限界がある。少し涼しくて、春の暑さが感じられない。熱気に欠けるのだ。かつて6月の初旬や中旬にしていたものをここまで早くするとカンが狂う。

しかしながら、観客もそこそこに集まっていたと思う。ただパレードは例年ほどには盛り上がっていなかったと思う。何か熱気が足りない。やはり連休明けの開催には無理があるのかもしれない。

分散型の催しは、例年通り、それぞれに面白い。サンバストリートの熱狂は少しあきれるが、男性の観客中心に多くの人々を集めている。踊りの参加者も例年より多いと思う。日本はラテンのリズムが好きなのかな。昔なら、少し恥ずかしくてできなかった人々も多いと思うのだが、時代の隔世を感じる。まあ、盆踊りがサンバに転換したというべきか。

こう言いながら、来年も見に行くんだろうな(笑)。結構あちこち歩くことになるので、健康にもいいので。

*5月13日追記

ちなみに5月12日のメインの催しに、観客動員数が約93万人との事だが、どのようにして調査したのだろう。流風の歩いた感じでは、昨年と変わらないと思う。そんなに混んでいなかったし。連休中の神戸も観光客は少なかったと感じたが、新聞報道では、昨年より多かったと発表されている。どうもおかしい。

*5月13日更に追記

本日も神戸市内をうろうろ。今日は神戸まつりのメイン行事がほとんどないのに、人々が多い。昨日以上だろう。祭りを期待しての来神者も多いのではないか。それとも、祭りのピークをはずしたのか。どちらかわからないが、通りは人で溢れている。ただ北野方面は、それほどでもない。いつもの休日と同じ程度。ここでも「地域格差」があるようだ。

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尊徳の教え

二宮尊徳の教えに、『報徳訓』がある。これは人間としての基本原則を述べている。彼の考え方の底辺は、儒教思想が横たわっている。儒教は行き過ぎると、社会を停滞させるが、人々が迷い、道徳が乱れている現在の日本には、求められることだろう。最近は、あまりご存知の方も少ないかもしれないので、念のため、記しておく。

            一、父母の根元は、天地の命令にあり。

            二、身体の根元は、父母の生育にあり。

            三、子孫の相続は、夫婦の丹精にあり。

            四、父母の富貴は、祖先の勤功にあり。

            五、吾身の富貴は、父母の積善にあり。

            六、子孫の富貴は、自己の勤功にあり。

            七、身命の長養は、衣食住の三にあり。

            八、田畑山林は、人民の勤耕にあり。

            九、今年の衣食は、昨年の産業にあり。

            十、来年の衣食は、今年の艱難にあり。

            年々歳々、報徳を忘るべからず。

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