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2007年6月28日 (木)

歴史小説の捉え方の違い

以前にも若干触れたが、歴史小説と題材になった史実との間には、明確な差異が認められることが多い。ところが、時を経るにつれて、小説が史実と錯覚する場合がある。

母方の祖父が好きだった浪曲などの題材は、かなり脚色されているので、事実とは程遠いことも多い。祖父は、浪曲を聞いて涙を流し、うんうんと頷きながら聞いていたものだ。

それに対して、父は、浪曲などは史実と違い、嫌いだとよく言っていた。父は、浪曲を聞いている姿を見たことがない。血がつながっていないので、当然そういうことはあろうかと思うが、あまりの感じ方の違いに、流風は子供の頃、戸惑ったものだ。

祖父の場合は、歴史的事実は別にして、その人情物に感動して涙を流していたのだろうが、それは彼の人間観を育てていたように思う。この世の中の不条理を理解して、それでも人々には温かく接していたように思う。

父の場合は、どちらかというと、合理的な発想をして、やや冷たい印象が強かった。頭がよいのが災いしたのかもしれない。小説はもちろん、史実も、勝ち残った者が書いたのだから、真実はわからないという考え方だった。現在でも、同様なタイプはいるだろう。

しかし、創作された小説であっても、感動し、心を動かすことは大切と思う。そこには、作者の気持ちがこもっている。史実を客観視することは大切だが、そこに投影する考え方を評価するのは間違いではないと思う。

あまりにも全てを合理的に判断すると、世の中が見えなくなるかもしれない。流風も、そういう部分を引き継いでいる部分もあり、注意せねばならないと自戒する。

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