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2007年7月31日 (火)

急ぎすぎる人々へ

急ぎすぎる人々はいる。実は、若い時、流風もその通りだったかもしれない。若い時から何かに突き動かされるように急いできた。

身体が弱く、生命に対する危機感があったからかもしれない。しかし、それが果たしてよかったのかというと疑問が残る。今更、どうしようもないが。

やはり人は、その各年代に相応しい生き方が望まれるようである。ただ、急ぎすぎるのも問題だが、あまりにもゆっくりした足取りも問題がある。

もちろん、人々の生き様は様々であり、個人差は認められるが、その世代に必要なことはやっておく必要がある。後で悔やんでも、時間は取り戻せない。

しかし、急ぎすぎるより、時間を大事にして、じっくり進むのならば、ゆっくりした足取りの方が望まれる。無意味な時間を過ごすことを避ければいいのだ。

桂太郎も言っている。「一日に十里の道を行くよりも、十日に十里行くぞ楽しき」(1里は約4km)と。この歳になって、やっとそのことがわかるような気がする。

若い人には、人生設計した上で、その年代に相応しい生き方をして欲しい。

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2007年7月28日 (土)

常識訓

常識というのは、わかりやすいようでわかりにくい。ある人が常識であると思っても、違う人には常識が通用しない場合もある。地域や国が違えば、よりその度合いは強い。

そして現代のように社会規範が揺れている時代には、世代が違うと、その常識はなかなか理解されない場合もある。

それでも、ある程度の共通する常識が存在するだろう。特に、その中で、金がなるようにする常識は世界で共通するものかもしれない。

例えば、次のようなものがある。

 * よろず程よき *   正直 *   慈悲深き *   朝起き *   潔き *   辛抱強き *   油断なき *   稼ぎ *   費えなき *   養生よき *   家内睦まじき

前の三つは徳川家康が、その後の残りは細川幽斎が言ったものとされる。事実かどうかわからない。多分、彼らの生き方から、後世の者が、そのように例えたのだろう。

これらの末尾の「き」を「木」に喩え、絵にしたものもあるらしい。徳川家康の言を幹に、細川幽斎の言を枝にしているようだ。なるほど、そのように見ると、現代の経営に通ずるものがある。

このような言葉遊びにして、子供たちに伝えていくのも、一つの方法かもしれない。でも、それ以上に、経営者には、結構、警句にはなっている。目の見えるところに飾っておくのもいいかもしれない。

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2007年7月27日 (金)

薬用入浴剤の効用

今年の冬になって、入浴剤や薬用入浴剤を使い始めた。理由は痒み退治だった。冬場に老人性掻痒に悩まされる年齢になったのだ(苦笑)。あ~あ、嫌だねえ。ところが、ところが、風呂に入浴剤を入れて入浴すると、あの痒みは、嘘のようになくなった。よかった。

それだけではない。実は、数年前から、足の裏に疣ができて、いろんな薬を試したり、皮膚科で診てもらったりしたが、一向に良くなる気配はなく、むしろ悪化していた。一時は治療して、ますます悪化する皮膚科の医師を恨んだりしたもんだ。

色々考えた挙句、いろんな入浴剤を試すことにした。そうすると足の裏の疣もいつのまにか完治したのだ。あれだけ悩んだ疣がなくなっている。多分、普通の入浴剤から薬用入浴剤に変えてからだと思うが、いろいろ試しすぎて、どの薬用入浴剤が効いたのかがわからないのが少し残念。多分、あれだと目星はつけているが。

数年悩んだ疣が治って、薬用入浴剤、恐るべしという印象だ。皮膚病で悩んでいる方は、効用に個人差はあるだろうが、案外、薬用入浴剤に解決の糸口が見つかるかもしれない。検討してみてはいかが。

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2007年7月26日 (木)

折檻と改革

折檻というと、児童虐待の代名詞のように使われるが、これほど違う意味に使われる日本語も少ない。ご存知の方はご存知だろうが、一般には知られていないように感じる。

この言葉の出典は、『十八史略』とか『漢書』であるが、その意味は次のようである。時は、前漢、成帝の頃、外戚が勢力を得て、蔓延った。外戚関係が専横するのは、歴史的に日本も中国も変わらない。そこで、いろんな所から彼らの専横を批判する上申書が提出される。

帝の師である張禹という学者がいた。彼はいい加減な御用学者だった。御用学者という者はいつの時代もいい加減だ。帝が彼に相談すると、「そんなもの、ほっておけば宜しいのです」と答える。そこで、彼の言う通り放置した。

しかし、知事の朱雲という骨のある人物が、王に思い切って諫言する。かの不埒な学者を見せしめに殺たいと言う。王は、知事の分際でと、怒り、朱雲の首を刎ねよと命じる。命令を受けた御史は御殿から彼を引き摺り下ろそうとするが、檻(手すりのこと)に必死につかまり、なおも叫び続ける。

御史も必死だが、朱雲も必死。ついに檻が壊れ、二人とも地に落ちる。それを見ていた、ある将軍が朱雲の態度に感銘を覚え、朱雲を誅することを頭を地に叩きつけるほどにして、王に諌める。

そこで、やっと王も二人の心に正気に戻り、機嫌を直して反省する。その後、その檻は直諌のしるしとして、直されることはなく、王の在任中はそのままにされたという。しかし、そんなことは何の効果もなく、その後、外戚の専横はなくなるどころか、ますますひどくなり、前漢は滅びていく。

このように組織が腐ってしまえば、手の打ちようがない。腐った組織を一旦潰して、新しい組織を作り直した方がロスが少ない。つまり、ある段階まで組織が腐ってしまうと、改革は難しい。

果たして、トップも含めて、折檻が必要なほどの組織になっていないか、経営者はチェックして欲しい。危機は日常の中に発見される。日々の改革意識の継続しか、危機を避ける方法はない。

そういうと、テレビドラマ『どんど晴れ』でも、伝統格式を重んじる旅館の経営改革が難しいことを描いていますね。常に環境変化に組織全体が危機意識を持ち続けることが、危機を防ぐことです。

そこでは、リーダーの重要性が大切なのは言うまでもありません。正しい改革理念と共に、前例主義と激しくぶつかっていく気構えと率先垂範の行動が求められます。

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2007年7月25日 (水)

ゴミの分別収集

ゴミの分別収集は各地で当たり前のように展開されている。しかし、ルールを守らない人たちは未だいる。残念なことだ。

ところが、ゴミを捨てる段になって、ゴミの分類が不明なことがある。はて、どうしたものか迷ってしまうほど現代のゴミは多様化している。

神戸市では、6分別だが、以前『ゴミと資源 ワケトンBOOK(ごみと資源の出し方ルールブック)』という小冊子(26ページ)が配布されている。迷った時は、それを見ればゴミの区分が網羅されており、判断ができるようになっている。これは非常に助かる。

神戸市以外では、そういうものがないとも聞く。確かにこういう冊子を作るには予算が必要だろうが、市民がルールを守れば、全体としては効率が上がることになる。

未実施の自治体でも是非検討してもらいたいものだ。

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2007年7月23日 (月)

女性の美はいかにして養われるか

男にとって女性が美しいことが望ましいが、単に化粧や体型維持など外面だけをよくしたところで、女性の美の価値は上がらない。

日本の男にとって魅力的な女性とは、基本的にアンバランスの中のバランス感覚なものではないかと思う。妙に西欧的にバランスが取れていると、あまりそそられることはない。

それは日本的な芸術の根本にあるものに通ずると思う。ただ現代女性は日本的なものを失いつつある。それは過剰な期待かもしれないが、日本的な教養の欠如かもしれない。

確かに頭のよい女性は巷に溢れているし、男性を凌ぐ女性も多い。知的プライドは大切だが、彼女等に欠けるのは、基本的な情緒であったり、人間としての教養であったりする。

女性は、恋人になり、妻になり、親になる。本来、男を強く誘導する立場にあることは歴史的事実だ。それを現代の女性はその影響力の結果を軽く見ているような気がする。

女性に求められるのは、人間としての美の追求だろう。それは人間性、教養、情緒性、個性、芸術性、柔軟な自己表現、日々の美の練磨によってもたらされるのだろう。

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2007年7月22日 (日)

成功体験をなくす

どの企業においても、成功した者は表彰したり地位を上げたりする。しかし、彼ら成功者の扱いは意外と難しい。

なぜなら、彼らは成功のために、どこかに集中しているからだ。ビジネス理論からすれば、当然のことだ。ただ企業において、その後も、彼らの主張を通すことは簡単だが、リスクも背負うことになる。

つまり、成功は、ある程度ターゲットを絞ることによって生まれるから、企業環境の変化対応と言う意味ではリスクを伴う。成功者は成功経験に酔いがちだから、その他のビジネスについても、成功手法を持ち込もうとするが、成功の保証はない。

成功者が成功の記憶を捨て去ることができればベストだが、残念ながら、それはなかなか難しい。企業は常に、「集中と分散」に配慮が求められる。

ということで、企業内の成功者には、それなりの地位と成功報酬は保証して、一旦ラインからはずした職場に就けることが望ましい。その目的は、すなわち、彼らの狭くなった視野をもう一度拡げる機会を与え、更にもう一段上の能力アップを目指させるのだ。

彼らを適当な上位の地位に就けさせることほど、企業においてロスの大きいものはないと経営者は認識すべきだろう。大きく成長させたいのなら、成功体験を捨て去ることへの配慮が求められる。

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2007年7月19日 (木)

禁煙飲食店

健康増進法により、禁煙席をきちんと設けている飲食店は増えているものの、まだまだ不十分である。先日も、ある店に入ったところ、禁煙席・喫煙席の区分けもしていない。幸い、煙草を吸う人がいなかったので、難は逃れたが、ひやひやものである。

初めて行く外食店では、なかなかその運営が見えてこない。結局、入ってみないと、禁煙席・喫煙席の区分分けがきちんとできているかわからない。それで、嫌な経験をしたことが何度もある。いかに美味しい店でも、隣で煙草をぷかぷかされると、美味しい料理も台無しだ。

そういう気持ちの人のために、「禁煙スタイル」というサイトでは、禁煙飲食店の紹介をしている。このサイトは実際、まだ具体的に活用したことはないが、ありがたい。今後の参考にしたいと思う。そして禁煙飲食店が更に増えることを期待したい。

* 「禁煙スタイル」のサイト

   http://www.kinen-style.com/

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2007年7月18日 (水)

欲しいモノがわかる

プレゼントなどで、相手の欲しい物がわかるには、相当観察しないとわからないことが多い。そんなこともせずに、いきなりプレゼントして、顰蹙を買うのは、プレゼント初心者だろう。

また、こういう能力を一番望むのは、物販店の店員だろうな。いろいろ工夫して接客して顧客の本音を聞きだそうとするが、大変だと思う。

ところが、性空(しょうくう)というお坊さんは、一瞬にして、人の欲しい物がわかる人だったらしい。プレゼントも、性空のような能力があれば、異性との付き合いに骨を折らずに済む。接客も楽だろうな。結果のクロージングを想定して会話を楽しめるし。羨ましいなあ(笑)。

しかし、一番困るのは、自分自身が本当に欲しいモノがわからないことだろう。先日もブログで取り上げたが、モノを追えば、心が変化していく。その結果、心が不安定になる。

ということは、自分の心を整えれば、相手の欲するものが理解できるのかもしれない。性空はその域に達していたのだろう。

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2007年7月17日 (火)

桑の木の物語

桑の葉のお茶が健康によいというのを知ったのは最近だが、蚕の食む桑の葉は何かしら不思議な効用があるのかもしれない。

ところで、その桑の木は、色々な伝説を生んでいる。あの孔子も桑の木の中で生まれたというし、殷の湯王を補佐した名宰相、伊尹(いいん)も桑畑で生まれたという。

まあ、これは捨て子というか、出生不明ということだろう。それぞれが出世して後、出生の秘密を謎のように脚色したのだろう。ただ孔子の場合は、実際の出生の秘密を一生恥じたというが、ここでは詳しく記さない。

さて、今回は、桑の木について、園客の話を記してみよう。『列仙伝』にあるものだ。もちろん、その内容は事実と言うより、多分に空想的だ。あらすじは次のようなものだ(若干、流風が脚色しています)。

現在の中国山東省に、園客という、容姿美しく、人柄も素直だった男がいた。まるで流風みたい(嘘だよ。笑)。そのためか、彼に妻として娘をやろうという人は多かった。

しかし、彼はどうしても受けようとしなかった。そうすると、人々は疑問に感じて、彼はどこか身体が悪いのかと思われたのか、誰も声をかけなくなった。

彼は、常々、「五色の香草」を栽培して、何十年も、その実を食べていた。五色の色はどんな色か記していないが、五行説にあたるものだろうか。そして、それはどうも桑の実らしい。桑の葉で作ったお茶が健康にいいが、その実も健康にいいのだろうか。

そこに、ある日、畑に五色の蛾が飛んできて、その五色の香草の枝にとまった。彼は、珍しいことだと思い、そこで、その枝を切り込んで、布に包んでおいたところ、見事な蚕が生まれた。流風は、子供の頃、夕方、おたまじゃくしを持ち帰り、バケツに入れていたところ、朝には、蛙になって、家の中を飛び回っていたことはあるが、蚕になった経験はない。えらい違いだ(笑)。

そうすると、その夜、一人の美女がやってきて、自らは、園客の妻だと称する。まるで押しかけ女房だね。結局、彼は彼女受け入れる。どんな男も美人にゃ弱い(笑)。彼女は蚕のことを説明し、彼と共に蚕を飼う。

そうすると、120個の繭を得た。その繭は異常に巨大で、甕ほどの大きさだったという。繭1個を紡ぐのに、60日もかかったという。それでも、全てを紡ぐと、二人はどこかに姿を消してしまったという。

まあ、出典が出典だけに、空想話と捉えられるかもしれないが、最初に蚕から繭を取り出し絹にした人々がいることは紛れもない事実。私達は皆、その恩恵を受けている。こういう空想話もあっていいと思う。

そして、先人の発見した絹は、最初は権力者の物だっただろうが、現在は人類の宝だ。絹の手触りは最高である。大事にしたいものである。

*参考 五行説による色

      木(青)、火(赤)、土(黄)、金(白)、水(黒)

*この話の流風的推定

この話は、流風が思うに、雷が落ちないという桑畑にたまたま雷が落ちて、たまたまそこにいた園客が被害を受け、気絶しているうちに見た夢ではないか。何かのショックを受けて、何らかの啓示を受けることがある。そういう発想から、この物語は作られているのではないか。

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2007年7月15日 (日)

外食は大丈夫か

外食には、日々お世話になっているが、最近の偽装食品の事件を見ると、外食や中食はちょっと心配になってくる。だいたい食品業界は、産業の中で品質管理が遅れているのは事実だろう。

問題になるのは、次のことだろうか。

 一、農漁畜産物の問題

 二、食材加工の問題

 三、流通業者の問題

 四、最終提供のための加工品保存の問題

外食(中食含む)の問題は、このように幅広く、業界が一体となって品質管理しないと、安全な物は提供できない。そこに、この業界の難しさがある。

ということは、農漁畜産物を自家生産し、自社で加工し、自社倉庫で安全管理し、顧客に提供することが求められる。しかしながら、すべて、そのようにすることは不可能であろう。

そうであれば、私達はどのように対応したらよいのだろうか。よい農漁畜産物等を入手し、自分で調理するしかないのだろうか。

しかし、それも現実には難しいだろう。あの社長が言っていたように、消費者が安い物を求めすぎなのかもしれない。いい物を生産しようとしたら、ある程度のコストはかかる。

そういうことであれば、生産者の適正なコスト、適正な利益を消費者も知る必要がある。そうすれば、課題が明確になってくるはずだ。

消費者も農漁畜産物の生産(加工も含む)に間接的に関与することが求められるのかもしれない。

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2007年7月14日 (土)

魚の消費

漁業関係者によると、年々漁獲量が各地で減っているらしい。さらに消費が減っていることもあり、比較的魚を食する者としては少し寂しい。

刺身、にぎり、煮魚、焼き魚、皆、美味しい。ところが、最近の主婦は魚料理をあまりしないらしい。肉の方が安くて料理が簡便だということだ。

確かに、魚の価格は肉に比べて高いかもしれない。だが、いつも肉というのはいただけない。料理の多様性を目指すべきだろう。雑食が健康にいいのはわかっている。バランスが大事だ。

また、魚も魚屋でさばいてもらえば、後は煮たり焼いたりするだけだ。そんなに手間がかかるとは思えない。手間がかかるというのは嘘にしか聞こえない。別の理由があるのだろう。

更に、肉を大量に摂取するより、魚の摂取の方が健康的だ。健康を考えれば、価格や料理の簡便さで決めてよいものか。

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2007年7月13日 (金)

自暴自棄になる

別に、タイトルに「自暴自棄になる」としていても、流風が現在、恋に破れて自暴自棄になっているわけではない(笑)。この自暴自棄という言葉は、広辞苑によると、「ふてくされになること。やけになること」とある。

何を隠そう、流風も若い時、正確には中学生の頃、自暴自棄になったことがある。健康を損なっていたので、将来が全く見えなかったのだ。しっかりした足場がない上に、将来に対する茫漠とした不安。それに第二反抗期が重なって、両親は随分手こずったようだ。

結局、父が正面からぶつかってきて、少しずつ気も落ち着き、理解するようになった。母はおろおろするばかりで、何の役にも立たなかった。最近の少年犯罪も、父親がきちんと子供と向かっていないからではないかと思う。

そして、子供にとっては、両親とは異なり、客観的にアドバイスしてくれる第三者も重要だ。お坊さんなどの宗教関係者、親戚のおじさんやおばさん、時として祖父母の言葉も心に響く。だから、親は日頃から、子供が彼らに相談できるように人間関係を作っておくことが大切だ。

さて、話は変わるが、この自暴自棄、出典は『孟子』だ。「离婁(りろう)篇」に出てくる。念のために記すと次のようだ。

孟子曰く、自ら暴(そこな)う者は、与(とも)に言うあるべからざるなり。自ら棄つる者は、与に為すあるべからざるなり。言、礼儀を非(そし)る、之を自ら暴うと謂い、吾が身仁に居り義に由ること能わずとす、之を自ら棄つると謂う。仁は人の安宅なり、義は人の正路なり。安宅を空しくして居らず、正路を捨てて由らず。哀しいかな。

現代語に訳すると、次のようになる。ただ孟子がどのような背景で、この発言をしたのかは不明のようである。

孟子は言われた。「自分から自ら損なうような人間とは一緒に語り合うことはできない。自棄の者とは、一緒に行動することはできない。口を開くと、礼儀などはと、けなすのを自暴という。礼儀というものを知りながら、自分には無理と言って、やらないのを自棄という。だいたい仁というものは、やすらかな家のようなものであり、義は人の通るべき正しい道である。やすらかな家に住もうとせず、正しい道を捨てるとは嘆かわしい」と。

このように見ていくと、私達が日常使っている「自暴自棄」とは若干意味が異なるようだ。孟子の見解だと、現代人も、随分、“自暴自棄”の人で溢れているのではないか。この言葉は、改めて、現代の日本人に対する警句かもしれない。

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2007年7月12日 (木)

何を宝とするか

よく子は宝、と言われますが、果たして現代の親はどのように思っているのでしょうか。そして、子供はどのように感じているのだろうか。但し、親が子を宝と思っても、子供を甘やかすことはよくない。あくまで、子供という原石を磨くことが大切と云われる。

さて、話は変わるが、宝物をプレゼントされたら、あなたはどのように振舞うだろうか。中国の宋の時代の話に次のようなものがある。

ある人が珍しい玉を手に入れた。それをある身分の高い人に献上しようとした。「この玉は宝玉である鑑定が出ていますし、是非にと献上しようと思います」と言って玉を差し出した。

そうすると、その身分の高い人は「私の方針として貪らないことを宝としている。お前は玉に宝としての価値を見出しているようだ。ところが、それを私に提供すれば、二人とも宝を失うことになる。それでは何の意味もない」と。

トップになる人が、「宝を持つ」とは、価値観として、「道」を重視しなければならないことを示している。そして国家としては、このような賢人を、宝として蓄えることが大切だ。

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2007年7月10日 (火)

物質主義の限界

         『千字文』は次のように云う。

             真を守れば、志満つ

             物を遂えば、意移る

小川環樹・木田章義氏による注解(『千字文』岩波文庫)によれば、

             自然の道を守れば、志は満たされ

             物を追い求めれば、心もそれにつれて変わっていく

*追記

 『千字文』は、私のプロフィールの欄でも紹介している。短い言葉で、人の有りようを説いている。子供の道徳教育に役立つ。小さい子供は内容が理解できなくともよい。読んで聞かせることだ。

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2007年7月 9日 (月)

権力者の妻

社長夫人や社会のトップ層の御夫人は様々だ。もちろん社長と共に創業から歩んできた社長夫人の場合は、大体苦労しているので、人の痛みもわかる人が多い。

ところが、サラリーマン社長とか、公務員のトップ層の夫人というのは、どうも、その感性を疑いたくなるような方々も多い。よく彼女等が威張っている様子を見る。結構、陰では悪口を言われている。

夫が高い地位に就いたというだけで、夫人が偉いわけでもない。確かに内助の功はあるかもしれない。しかし、仕事面では、そういうことはないだろう。

板倉勝重は、家康から重要な職を打診されると、必ず妻と相談するとして、即答しなかったという。それは妻に覚悟をさせるためだった。公私混同をしないこと、差し出がましい発言をしないことなどを、まず妻を戒めてから、妻が了解・納得して初めて、仕事を受けたのだ。

要職に就く人たちは、周辺を整理しなければならないと言うが、彼の考えはもっと深い。権力者は周辺から身を誤まりやすい。お上手を言って、巧みに付け入ろうとする人々もいる。そのためには、まず家庭から固めなければならない。夫が高い地位の妻は、容易ではない。

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2007年7月 8日 (日)

曲学阿世と頑固爺

「曲学阿世」とは、その文字通り、「自分の学説を曲げ、世の俗に阿(おもね)る」ことを意味する。最近は、御用学者が幅を利かせる時代のようだが、大半が曲学阿世の輩と見て間違いなかろう。

学者というものは、本来、政治とは距離を置くものだ。彼らの研究したものを政治家が参考にするのは許されるが、曲学阿世となってしまっては、学者の本分が失われる。

ところで、出典の『史記』によると、この言葉を発したのは、90歳という高齢になって詩人として前漢の武帝に召された轅固生(えんこせい)という老人だった。

この人は、剛直で頑固。まあ、90歳にもなれば当然だけど。多くの中傷にも負けず、権力も恐れず、諫言をする。どちらかというと、言いたい放題。

彼が若い少壮の学者、公孫弘に、学問が乱れ、俗説の流行を憂い、「曲学阿世」の輩にならないように戒める。彼は、最初は変な爺さんと思っていたようだが、その人柄に触れ、弟子入りした。その他にも、有名な詩人は皆、彼に詩を学んだという。

皇帝の信任は、一生続いたようで、彼が病気になるまで、出仕を求められたという。彼のように生きることは難しいけど、先が見えている老人こそ可能かもしれない。

日本においても、もっと多くの高齢者が、後世のことを考えて、彼らの得た知恵に基づき、発言し行動するべきだろう。そのためには、彼らの活躍の場を積極的に提供する必要があるだろう。

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2007年7月 7日 (土)

もういい加減に止めよ、ルミナリエ

神戸では、今年もルミナリエを開催するようである。但し、資金不足から、例年より2日間短くするようだ。それにしても、いつまでルミナリエをするのだろうか。最早、阪神淡路大震災で暗くなった市街地を明るくする目的は達している。確かに毎年の鎮魂の意味はあるかもしれないが、あんなに派手にやることもなかろう。

現在の開催の目的は、観光客を呼び込むことが主たる目的になっているように思う。それに一部の交通機関だけが異常に潤うだけである。観光によって地方が潤うのは、基本的にコンスタントに観光客が訪れる場合のみである。限られた期間に人が集中すれば、却って観光地の負担も大きい。

思い切って、ルミナリエの開催は中止すべきではないか。そういうことを言うと、鎮魂の意味では重要だという声が聞こえてきそうである。しかし、鎮魂は、別に大きな催しである必要はない。人々が静かに祈ればいいのである。むしろ商売中心思考になって、止められない発想こそ問題である。

それに現在では、阪神淡路大震災程ではないものの、各地で震災や大きな災害が起こっている。それらの地域でこそ、これらの催しは大切であろう。惰性で、本来目的を逸脱して、いつまでも、この催しを神戸で行うべきではないだろう。

*2015年12月6日追記

今年のルミナリエから、鎮魂という名目は外したようだ。やっとという感じ。かなり前から観光のための手段になっている。それを楽しむかどうかは個人の判断。私は、この開催時期、神戸には決して行かない。

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2007年7月 6日 (金)

おばさんの笑顔不足

あるスーパーを利用するのだが、そこの女性店員の笑顔が少ない。ある大手のスーパーの系列の会社である。真面目な会社として有名だ。

そして、働いている、ほとんどの人が中年の女性だ。ところが、一生懸命働いているのはわかるのだが、どこか余裕がない。お客様に対する挨拶も御座なりだ。どちらを向いて挨拶してるのかな、と感じられるのはいつもだ。

日本人ほど、商売で笑顔を重視する国民はいないと言われるが、やはり気持ちのよい笑顔は消費を促進する。作り笑顔をせよとは言わないが、社内の雰囲気は変える必要があるのではないか。

最近問題になっている、非正規社員の働き方は企業方針で変わる。この企業のトップは現場を歩いていないのだろう。スーパーのような前売り業は、現場で働く人々の気持ちがお客にすぐ伝わってしまう。

経営者の方々は、利益を生むのは現場だと言われるだろうが、この売り場に関しては問題がある。経営者が現場から遠くなれば、事業に黄色信号が灯り始める。このスーパーの行く末が心配である。

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2007年7月 5日 (木)

人の評判

私達は、人の評判で無意識に正しいと判断したりする。しかし、その評判は、いつも正しいとは限らない。完全な人はいない。

例えば、こういう話がある。ある浪人が食うに困って、一休禅師に相談した。そこで、何かできる芸はないのかと尋ねると、その浪人は何もないという。

そこで、一休が『竹に雀』という歌を教える。その浪人に何回教えても、なかなか上達しない。それでも、ようやく覚えると、一休は、高札を次のように出す。

         「このたび、上方より太夫まかり下る

           勧進元 日本老和尚 一休」

そうすると、一休さんが勧進元だということで、評判が評判を呼び多くの人が集まった。しかし、歌うのは、『竹に雀』ばかり。ところが周囲はやんやの喝采。

実は、一休が「さくら」も雇っていたのだ。その結果、多くの人が集まり、そこそこのお金が集まった。不思議と、一休が勧進元とということで、苦情もなかったそうだ。その浪人は、そのお金で無事、故郷に帰ったという。

時々、有名人が担ぎ出されて、詐欺まがいのことが起こっているが、評判というものには気をつけなければならない。一休の機知は、その浪人を助けたが、多くの人を騙したことになる。

一休といえども、あまり感心のできない話だ。利休の信用で人を騙したことは疑う余地がない。私達は、有名人という広告塔に気をつけなければならない。その人の行動の裏にあるものを常に読み取ることが求められる。

*『竹に雀』

          竹に雀は、しなよくとまる

              ちゅうちゅうぱっぱ ちゅうぱっぱ

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2007年7月 3日 (火)

上場という危機

企業が上場しておかしくなるところがたくさんある。理由はなんだろうか。多分考えられることは、上場して、一つの目的が達成されたと思うからであろう。その心理的油断が、次の経営危機を招いているようだ。それに企業の上場は全てにメリットがあるわけではない。

最近のように、株主重視の世論がまかり通れば、それを無視できない。利益など、当面期待できないのに、無理して利益を捻出しようとすれば、どこかに無理が来る。当たり前のことを当たり前にやるだけでは、企業を回せなくなる。

本当を言えば、顧客満足を重視するならば、上場などはできないはずだ。周囲に煽られて、調子に乗って、無闇に上場することは、上場に関連する企業は儲かっても、当の上場した会社には、次の試練が待ち受けている。

そのことを理解して上場している企業のみが生き残る。だから上場を目指す企業は、上場は、新たな創業と考え、全社一丸となって危機感を持たなければならない。上場とは一つの危機だと理解してもらいたい。

*追記

顧客満足を掲げる企業は、基本的に上場企業に馴染まない。特に人的サービスを主体とする企業は、上場は避けるべきだろう。

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2007年7月 2日 (月)

雷雑記

子供の頃、屋外に遊びに出ていて、急に雲行きが怪しくなり、ピカッー、ゴロゴロ、ゴロゴロと雷鳴が響き渡り、逃げ惑ったことがよくある。続いて雨が降るので、雨宿りに、大きな木の下で小さくなって震えていた。

今考えると、最も危険な場所にいたことになる。大きな木は雨宿りにはなるが、雷の落下の可能性も高い。よく落ちなかったものだ。母親も金属製のものは持つなとか、傘には安心するなとは言っても、大きな木が危ないとは言わなかった記憶がある。

最近でも、この雷で災難に合っておられたのは非常に残念である。しかし、家に雷が落ちて、焼け出された家族がいたのには驚かされた。これはどうすることもできない。

そういうと、子供の頃、家に凄い轟音と共に雷が落ちて、家族皆が死んだ思いをしたことがある。幸い、ラジオの真空管が飛んだだけで、それ以外の被害はなかった。

あの時、母や兄弟は小さくなって驚愕の様子だったと思うが、父だけは落ち着いて、雷が落ち着いてから、真空管の焼けたものを取り出して、明日にでも新しいのを取り寄せて修理すると言っていたのには、少し尊敬の念を持ったものだ。日頃、雷親父だったから、雷に驚かなかったのだろうか。そういうと、最近は、雷親爺なんていうのは死語に近いかな。

また農家にとっては、雷は豊作を占うものとして、大事にしたようだ。農家は、晴ればっかりでも困る。適切な雨も必要だ。梅雨時は雨は降っても、梅雨が明けると、雨も思うように降らない。それでは、作物が育たない。狂言でも、『雷(神鳴)』では、藪医者が雷の腰痛をハリで治して、そのお礼に雷に五穀豊穣を頼むという話がある。

現代では、都会では、雷は災害の原因と思われることも、当時は、それほどに人間と雷の付き合いは深かったようだ。

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2007年7月 1日 (日)

日本の道

日本は平和主義を保持する必要がある。平和は長い時間をかけて作られるものだ。日本国憲法の精神は、人類の理想だと言われるが、日本国憲法の前文の精神の正しさは現在でも通用する。この憲法は世界遺産にも匹敵する。

一応その部分を取り上げると、“日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した”とある。

これは、自国の安全と平和を保持するために、軍事的手段以外で目指すと決意している。このことは、侵略戦争のための戦力は不保持で、そのような戦争は放棄すると宣言している。

戦後、この精神に基づき、空襲を受けた都市を中心に、『平和都市宣言』や『非核平和都市宣言』を制定した。基本的に、日本国憲法を貫く平和精神を重視している。

そのような素晴らしい表明を変更することは、流風は望まない。現実主義者が現実との乖離を指摘するが、日本の目標が理想郷であってどんな問題があるだろうか。

*追記

目先の目標に捉われることほど愚かなことはない。現在の日本の政治家の質が問われていると共に、国民の歴史観と哲学が問われている。

*追記

ちなみに、流風は、自衛隊の存在は認めている。日本単独での自衛の軍隊を持つことは、憲法以前の問題だからである。だから、国力とのバランスで、自衛隊を充実させることには反対しない。

問題は、同盟国がいつも正しいとは言えない、集団的自衛権に反対なのだ。そこには、日本の主体的判断は否定されるのは必定だからだ。

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