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2007年7月13日 (金)

自暴自棄になる

別に、タイトルに「自暴自棄になる」としていても、流風が現在、恋に破れて自暴自棄になっているわけではない(笑)。この自暴自棄という言葉は、広辞苑によると、「ふてくされになること。やけになること」とある。

何を隠そう、流風も若い時、正確には中学生の頃、自暴自棄になったことがある。健康を損なっていたので、将来が全く見えなかったのだ。しっかりした足場がない上に、将来に対する茫漠とした不安。それに第二反抗期が重なって、両親は随分手こずったようだ。

結局、父が正面からぶつかってきて、少しずつ気も落ち着き、理解するようになった。母はおろおろするばかりで、何の役にも立たなかった。最近の少年犯罪も、父親がきちんと子供と向かっていないからではないかと思う。

そして、子供にとっては、両親とは異なり、客観的にアドバイスしてくれる第三者も重要だ。お坊さんなどの宗教関係者、親戚のおじさんやおばさん、時として祖父母の言葉も心に響く。だから、親は日頃から、子供が彼らに相談できるように人間関係を作っておくことが大切だ。

さて、話は変わるが、この自暴自棄、出典は『孟子』だ。「离婁(りろう)篇」に出てくる。念のために記すと次のようだ。

孟子曰く、自ら暴(そこな)う者は、与(とも)に言うあるべからざるなり。自ら棄つる者は、与に為すあるべからざるなり。言、礼儀を非(そし)る、之を自ら暴うと謂い、吾が身仁に居り義に由ること能わずとす、之を自ら棄つると謂う。仁は人の安宅なり、義は人の正路なり。安宅を空しくして居らず、正路を捨てて由らず。哀しいかな。

現代語に訳すると、次のようになる。ただ孟子がどのような背景で、この発言をしたのかは不明のようである。

孟子は言われた。「自分から自ら損なうような人間とは一緒に語り合うことはできない。自棄の者とは、一緒に行動することはできない。口を開くと、礼儀などはと、けなすのを自暴という。礼儀というものを知りながら、自分には無理と言って、やらないのを自棄という。だいたい仁というものは、やすらかな家のようなものであり、義は人の通るべき正しい道である。やすらかな家に住もうとせず、正しい道を捨てるとは嘆かわしい」と。

このように見ていくと、私達が日常使っている「自暴自棄」とは若干意味が異なるようだ。孟子の見解だと、現代人も、随分、“自暴自棄”の人で溢れているのではないか。この言葉は、改めて、現代の日本人に対する警句かもしれない。

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