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2007年8月31日 (金)

敬老パスは必要か

地方財政を敬老パスが圧迫しているそうだ。高齢者は増え続けるので、現状の敬老パスの継続が危ぶまれている。ない袖は振れないということだろう。高齢者の状態は様々なので、その有用性には、格差があるだろうが、この制度自体は悪くない。しかし、財政を悪化させる。どうバランスさせるべきなのか。

敬老パスは、高齢者の移動手段として機能している。敬老パスの効用は、何といっても、高齢者が外に出かけやすさであろう。バスの利用が無料であれば、ちょっと出かけてみようかという気分にもなるだろう。買い物や通院などにも助かるだろう。

その一方で、高齢者は、今後もどんどん増えていく。現在でも、乗車時間にもよるが、高齢者の乗車が非常に多い。将来は、もっと多くなるのだろう。そういうことになれば、パスを発行し続けることは困難になるだろうことは誰でもわかる。

だが、一面で、効率的な運用がなされていないような気もする。ある程度の年齢に達すれば(各自治体によって、その年齢は異なる。神戸は70歳)、全員に支給される。けれども、全ての人が必要としていないだろう。

例えば、所得の高い人で、他の移動手段のある人は、あまり使わないだろうし、有料の輸送手段も使える。また介護保険の要介護の人たちは、別の移動手段を使うだろうから、別途の支援は必要としても、敬老パスは必要ないかもしれない。

またパスにする必要があるかどうか。高齢者に聞くと、主として出かけるのは、買い物と通院である。買い物は週2回が多い。そういうことであれば、定額補助でもいいように思う。

それに、先程少し触れたが、自治体で支給年齢が異なる。70歳のところもあれば、75歳のところもある。この仕組みを継続するなら、後期高齢者の75歳からの支給で統一すべきかもしれない。比較的健全な財政状態の自治体は、75歳からの支給が多いことも考慮に入れるべきかもしれない。

やはり、所得制限、年齢制限をする必要に迫られるかもしれない。そのためには、運営の仕組みを公開して、市民の納得を得るしかない。案外、市民からいい知恵が出るかもしれない。

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2007年8月30日 (木)

神戸市でも路上喫煙禁止

神戸市が、やっと路上喫煙禁止にするようだ。市の中心部で、路上喫煙を禁止する条例を制定するらしいのだ。

若い時、歩きながらの路上喫煙で、新調のスーツを台無しにされたことがある。あの時は、本当に腹が立った。安い給料をやりくりして買ったのに、腹が煮えくりかえった。

先日も、若い男性と中年男性が歩きながらの路上喫煙で、かなり険悪な状態だった。吸っていたのは中年男性。若い男性に少し接触したようだった。中年男性は謝ることもなく、若い男性の抗議を聞き流そうとしていた。さっと謝ればいいのに。それに、もともと吸っていなければ、ああいう事態は起こらない。

また人通りの多いところでは、歩きながらの路上喫煙は、子供にとって危険極まりない。しかし、結構、そういうことろに気が回らないのか、傍若無人に煙草を吸っているのがよく見受けられる。特に世代間格差はない。いろんな世代で見られる。もっと江戸しぐさを勉強せい、と言いたい。

神戸市は、来年5月に、サミットの環境相会議が開かれるから、やっと重い腰を上げたようだ。もっと早く実施されても良かったと思う。まあ、何はともあれ、来年4月には施行されるので、よしとするか。

*平成20年2月26日追記

今年の4月から、まず三宮~元町間を路上喫煙禁止にするらしい。過料は千円だ。旅行者の方々は気をつけてください。

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2007年8月29日 (水)

髪から人生を考える?

流風は年の割には髪は黒い方である。時々白髪が混じることもあるが、いつのまにか消えている。だから、歳はいつも若く見られる。ただ、それがよいのかどうかは、わからない(ただ髪の毛は年々細くなっているような気もするが)。

歳相応に顔に責任を持たなければならないように、髪の色もいつまでも黒々としているのは、どうなのだろう。でも、いつも十歳近く若く見られ、本当の歳を聞いてびっくりされる。恥ずかしいような、嬉しいような微妙な感じである。今後は、本当の歳は伏せることにするか(笑)。でも本当は、劉庭芝のような人生の哀歓を詩で詠めたらいいのだが。

*参考 「翁に代わって白頭を悲しむ」 劉庭芝

  洛陽城東 桃李の花 飛び来たり飛び去って誰が家にか落つ

  洛陽の女児 顔色を惜しみ、行くゆく落花に逢うて長歎息す。

  今年 花落ちて顔色改まり、明年 花開くも復た誰か在る。

  已に見る 松柏のくだけて薪と為るを。更に聞く 桑田の変じて海と成るを。

  古人洛城の東に復(かえ)るなく、今人還た対す 落花の風。

  年々歳々 花相似たり、歳々年々 人同じからず。

  言を寄す 全盛の紅顔の子、応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁。

  この翁白頭 真に憐れむべし、これ昔 紅顔の美少年。

  公子王孫 芳樹の下、清歌妙舞 落花の前。

  光禄の池台 錦繍を開き、将軍の楼閣 神仙を画く。

  一朝 病に臥して相識なく、三春の行楽 誰か辺りにか在る。

  宛転たる娥眉 よく幾時ぞ、須臾(しゅゆ)にして鶴髪 乱れて糸の如し。

  ただ看る 古来歌舞の地、ただ黄昏鳥雀の悲しむあるを。

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2007年8月28日 (火)

画竜点睛を欠く

安倍政権の内閣改造の評価は、「画竜点睛を欠く」の一語に尽きる。全体としては、前回よりよくできているが、本当に大事な点が欠けている。すなわち、首相の交替だ。首相を替えなくては、どうしようもない。民意を反映しない、この内閣は今後も苦労するだろう。

*追記

それにしても、御用政治評論家の意見は、民間の意識から離れすぎている。彼らをマスコミから排除することはできないものか。多分、政党から多くの金をもらっているのだろう。しかし、彼らの意見は、ほとんど参考にならないことは一般国民は気づいている。

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2007年8月27日 (月)

多岐亡羊ということ

「多岐亡羊」という言葉がある。出典は『列子』だ。学問の道があまりに多方面に分かれていて真理が得にくいことを指している。彼の弟子が羊の逃げるのを追いかけたが、逃げた方向には分かれ道が多くて、羊を捕まえることができなかったことから、彼が塞ぎ込んだことから、この言葉が出ている。どうも当時の学問の道もそのようだったのだ。

現在の学問も睥睨すると、枝葉末節なものが多いと感じられる。特に社会学においてははなはだしい。本当に大学で研究する必要な学問であろうかというものもある。大学で講座が開かれているのが不思議なものもある。

確かに社会は多様化しており、それに対応するが如く、学問が多様化しているのかもしれない。しかし、現象を追っかけて分析することに、どれだけの学問的価値があるのだろうか。

しかしながら、マスコミなどでは、そういう人たちを囃して、大仰に取り上げている。その結果、彼らは偉そうにぶっている。なぜ彼らが蔓延るのか。結局、人々が内省を怠り、自分で考えることを放棄したからだろう。

学問に限らず、人生道においても右往左往して、人生の本当の意味も知らず、この世を去っていく人も多いかもしれない。現象に惑わされず、生きる意味を再確認したいものです。

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2007年8月26日 (日)

卵の価格が心配

卵の価格が上がるかもしれない。バイオエタノールの需要増で鶏の飼料が高くなって、養鶏業者の経営を圧迫しているようだ。物価の優等生といわれた卵も、現在の価格を維持するのは難しいかもしれない。

流風は、卵アレルギーはないので、結構、卵料理にはお世話になっている。料理ネタに困れば、何かと炒めれば一品出来上がる便利な代物だ。この卵の価格が上がると、家計を圧迫するようになるかもしれない。

石油代替のバイオエタノール燃料の発想も、必要かもしれないが、食糧と直結するのはいただけない。バイオエタノールをさらに推進すれば、もっと大きな問題も起こるだろう。特に世界の貧困問題の拡大は避けられず、世界的に諸問題が発生する。一部の先進国のエゴだけで片付けられる問題でもない。

また日本の食は世界と結びついているが、将来、食材の見直しもされるかもしれない。肉、魚などが問題になっているように、現在食している食材は手に入らず、食生活も大きく変わるかもしれない。日本の食はどのようになるのだろう。また、どのようにしなければならないのだろう。いろんな視点からの考慮が求められる。

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2007年8月25日 (土)

でしゃばり女

色々反対意見もあるだろうが、一般に、でしゃばり女は、男を出世させないと云う。そういうと大阪女は夫を出世させないかもしれない(笑)。まあ、出世の程度をどれくらいにするかで判断は分かれるが。

理由は簡単だ。女性がでしゃばれば、夫の方は萎縮する。夫の方は自分で考えなくなる。考える必要がないからだ。妻の押し付けがましい意見に押し切られる。ただ夫婦間であれば、それでうまく行っておれば問題はない。

ところが、他人からは、でしゃばりを容認している夫には管理能力が疑われることになる。主体性もなく、妻さえコントロールできない者に、会社の管理は任せられない。そこで、出世は沙汰の外となる。

確かにでしゃばれば、その瞬間は愉快かもしれないが、周囲は不愉快なことが多い。相手の話も十分に聞かずに、意見を言うのもその一つだろう。適度なお節介はありがたいこともあるが、それも程度問題。

もちろん性格的にそのような場合、仕方ないかもしれないが、場の雰囲気をもっと読む努力が求められる。早とちりのでしゃばりほど迷惑なものはない。関西芸人の話し振りはいかにもそのようだが、あまり真似をしてよいものではなかろう。芸人だから許されるのだ。

明治女は、男をいかに掌(たなごころ)で遊ばせるかに腐心した。だが最近は、でしゃばり女が増えているような気がする。後ろに控えて肝心なことを握るのも大切と思うのだが。男も女も前に出てしまったら、後はひっくり返るだけだ。パートナーにもよるが、でしゃばり女はあまりよい結果を生まないと思う。

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2007年8月23日 (木)

羽衣伝説私見

『羽衣伝説』というものがある。子供の頃、説話として聞かされた方は多いであろう。謡曲『羽衣』も題材として扱っている。

子供でも知っている話の筋は、駿河の漁師がいつものように三保の松原にでかけると、松の木に美しい衣がかかっていた。すると知らない女性(天女)が返してくれという。しかし、返すには惜しい代物なので、簡単には返そうとはしない。だが、その女性は非常に悲しむので、結局、情にほだされ、天女の舞を舞うという条件を付けつつも、返すことにする。

このような話は、世界にもあるらしいが、似たような話が、中国の『霊怪録』に載っているらしい。実際、まだ読んだことはない。ただ、「天衣無縫」の語源になっているという。天の一角から舞い降りた天女が、それを見た男と会話する形式になっている。

そこで、天には、つなぎ目はないから、天女が着る天衣も、針や糸を使わず縫い目がないということを天女が男に言っている。転じて、自ずから、さらりと自然にできたものを指している。

多分、この『羽衣伝説』の説話の内容は、この中国の書物が大きく影響しているのだろう。ただ日本に来てからの話は、若干現実的である。話のスケールの大きさが小さくなっているのは否めない。

中国では、「天衣無縫」という発想があったが、日本では重視されていない。天女といっても、極めて人間的だ。人間的駆け引きで、衣を取り返そうとするのは、その証左だろう。こういう話が、どういう過程で作られたのかはわからないが、流風の独断で解釈すれば、次のようになる。

昔の日本の人々にとっては、遠くの異邦人~例えば半島や遠くの島々から来た人々~は自分たちと区別していたであろう。風俗も大きく異なる。彼や彼女等が、何らかの事情で流れ着いたこともあっただろう。

知らない異なる風俗の人は天から降り降りたと考えてもおかしくない。特に、それが女性の場合は、土着の女性と違い、見慣れないオシャレな風俗の女性を、天女としてみるのも頷ける。

羽衣伝説も同様だ。ある国から船に乗って夫のいる目的地に行く予定が、急な嵐のため、船は難破してしまった(あるいは同乗していて、難破後、はぐれた)。しかし、彼女は奇跡的に流れ着いて助かった。

とりあえず、着物等を木にかけて干しておいた。そこへ漁師らしき人がやってきて奪ってしまった。途方にくれると、彼は親切に世話をしてくれた。だが、ここは異郷の地。話す言葉もわからない。

しかし、そこは人の情。一緒に暮らすうちに、男の子が生まれた。二人はしばらく安寧に暮らすが、彼女の望郷の念は絶えない。そうこうするうちに、彼女の同郷の船が着き、彼らと再会。そこで、夫が待っている事を告げられる。

彼女は漁師には感謝しつつも、子供を残して帰国することを決心する。子供を私の名残と思ってと、漁師に伝える。漁師は、それを阻止しようとするが、衣と共に彼女を帰す決心をする。

子供は、母親がいないので、近所の子供にいじめられる。そこで、「僕には、なぜお母さんがいないの」と祖母に尋ねる。困った彼女が、物語を作って、子供に話し聞かせたのだろう。こういう解釈はおかしいだろうか。あまり現実的で、夢も希望もないか。

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2007年8月20日 (月)

政治家の強さ

最近の政治家はどこか軽い。ある意味、お坊ちゃま2世議員が跋扈しているからだろう。それでは、政治家の強さはどのようにして磨かれるのだろうか。実は、政治家が本当に人間性を磨くには、金の苦労、病気の苦労、獄中経験の苦労だそうだ。

まず、政治献金として、国民からお金を集めるのは容易ではない。なぜなら、国民の政治意識が高い場合は別にして、一般に見返りを期待するからだ。本来、政治はそうではないことが望ましいが、そういかないのが政治であろう。

だが、その一方で、お金にきれい過ぎると、政治はできない。最近は、お金にうるさく言うようになっているが、あまりにも縛られた状態では、政治家は何もできないだろう。この辺の匙加減は難しい。それは結局、政治家が時代のニーズをよみとれるかどうかにかかっている。

病気の苦労というのは、弱者の気持ちがわかるかどうかということと、精神的に強くなるということを指している。それなりの地位に就けば、人間というのは、意外と脆い。その時、病気を経験しておれば、それなりに柔軟にセーブできるというものである。主治医を持ち、健康管理にも配慮するようになる。それは政治にも活きる。

最後の獄中経験というのは、現代では、なかなか再起が難しいようであるが、汚職程度の豚箱行きであれば(但し、私益のためではない)、それは経験という意味では大切だろう。国の捜査のやり方や責め方を知っておけば、それはその時の為政者の方針に合致するからだ。何が正しくて、何が正しくないというレベルの問題ではない。価値観の問題だ。いずれ為政者の立場になった時、どのような方針を示すか参考になる。そうかといって、積極的に獄中経験をせよとは言わないが。

政治家の強さは、以上のようにして磨かれるのではないか。政治家の評価は案外難しい。結局は、国のために何をやってくれるかだが、あまり大上段に構えた政治家は、国を迷わせている。国民にとって、政治家というのは実に難しい。

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2007年8月19日 (日)

謡曲『船弁慶』の示すもの

謡曲『船弁慶』は、流風のように浅い鑑賞者には、わかりにくい内容だ。登場人物するのは、源義経、武蔵坊弁慶、静御前、平知盛が主たる人物である。前三者は、わかるものの、なぜ後半に平知盛を登場させたのか理解に苦しむ。

平家を滅ぼした源氏に対する恨みを平知盛で代表させているのはなぜか。そして、源氏に対する恨みを彼に代表させるには無理がある。別の視点があったとの分析もあるようだが、やや腑に落ちない。

確かに、源義経も平知盛も追われる立場を経験しているが、同心円状にあるとは言えないだろう。義経は、頼朝に嫌疑をかけられ、尼崎の大物を通じて、西国に脱出しよう(フィクションらしいが)とし、知盛も西国に都落ちする。その脱出地域と方法が海からというのは確かに似ているが。

結局、作者が言いたかったのは、人は、どんなにあがいても、常に死に向かって追われていると、言いたかったのだろうか。人は皆、宿命から逃れられないと言っているのだろうか。いずれにせよ、仏教的死生観がベースにあるのだろう。

*能・謡曲『船弁慶』詞章

http://funabenkei.daa.jp/utai/funabenkei_u.html

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2007年8月17日 (金)

今年のお盆

お盆のため、投稿を少し休んでいました。それにこの連日の暑さ。書く気も萎えます。外に出ても大変だけど、家にいても汗がにじみ出てくる。クーラー嫌いの流風も、止む無くクーラーをつけています。いつになったら、暑さが収まるのか。

それはともかく。もちろん墓参りには行って来ました。いつものようにお墓を洗うと、お墓から蒸気が噴出しそう。ご先祖様も暑いことであろう。少しの間だけど、涼しくなったかな。花を供えて、合掌、礼拝。お墓の線香も独特の匂いだ。これはお盆の匂い。

終わって、他の家の墓などを見てみると、立派な墓も多い。しかし、無縁仏になっているのも多い。参られる墓があるうちは良いが、参られなくなると、少し無惨な感じ。

だが、立派な墓にもかかわらず、貧相な花が供えられているところもあった。バランスが悪い。お墓を造られた時は家勢があったのかもしれないが、今は逼塞されたのかもしれない。人の世は厳しい。

亡き父は、先々のことを考えて、仮に隆盛になっても、お墓は大きくするなと言っていた。そういう杞憂は必要がなかった。お父さんの忠告は否応なく守り続けますよ(笑)。

でも、供花に関しては、近所にいい花屋さんがあるので、若干値は張るが、お盆の供花は比較的立派なものにしている。これくらいの贅沢は、ご先祖様も許してくれるだろう。何と言っても、お墓が生き返ったようになり、自分の先祖に誇りをもって、参る気持ちが晴れやかになる。

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2007年8月12日 (日)

政治の行方 その2

昨日にアップした拙ブログ「政治の行方」について、若干説明追加しておく。

海外経済誌が、日本の政局について、的外れな論評を繰り返している。いずれも大手の経済誌だから、目を覆いたくなる。多分、日本に駐在している記者のレベルが低いのだろう。それともヒアリングする先を間違えているのだろう。国民の民意を把握していない。彼らは、彼らにとって都合のよい政権が続くことを望んでいるのだろう。

海外の経済誌が、政治状況においても、日本の民主主義を誤解するのは致し方ないが、それを正統な意見として日本のマスコミが取り上げるのはいかがかと思う。これからの日本の政局は、たしかに混乱する要素もあるが、日本的に落ち着いていくだろう。自民党が政権を失っても、別に問題はない。二大政党が切磋琢磨する態勢になれば、国民にとっても望ましいことだ。

国民が恐れるのは、彼らが談合することで、対立することではない。それぞれの党が自分の主張を貫けばよい。そうすれば、国民としても判断しやすい。そして、ある時は自民党が支持され、ある時は民主党が支持されるだろう。国民は、常にバランス感覚で、各政党をチェックしていくだろう。

*参考 日本の民主主義の流れ

外国人は、日本は戦後、民主主義を取り入れたと思っているが、それは大きな誤解である。日本の民主主義は、世界でも独特といわれるが、これは何も戦後に始まったわけではない。戦前から、民主主義に似た仕組みは各地であった。

例えば、女性だって、戦後地位が上がったと言われているが、必ずしもそうではない。確かに、戦前は所得も低かったから、現代の生活水準からすれば、想像できないが、各家庭における女性の地位はそれなりに確保されていた。いろんな物事の決定も、意外と女性の意見が取り入れられていた。ただ、建前としては、男はみんなの前では立てられていた。

外国のメディアは、彼らの発想で、我々を観察しているが、それはたびたびおかしな論評になっていることに気づく。彼らの意見が正しいとは限らないということを押さえておきたい。

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2007年8月11日 (土)

政治の行方

日本の政治が混沌としてきたという人がいるが、それは違うと思う。海外の経済誌もトンチンカンな論評をしているが、彼らの日本ウォッチング能力の低下は否めない。日本の政治や民主主義は、新しい段階に入ろうとしている。今までの既存の考え方だと、日本を見誤るだろう。

また自民党・民主党の連立を望む人がいるというのも、まるで政治の方向性を全く理解していない人の考え方であろう。極めて一部の自民党のわが身かわいやの自分勝手の考え方であろう。そんなことをすれば、政治の腐敗を招くのは、間違いない(注 参照)。

基本的には、自民党と民主党は競争することが望まれる。以前のような、自民党内に、対立する政治グループを党内に内包し、政治状況によって、ご都合主義で、政権のたらい回ししてきた時代は終わっている。

国民にとって、望ましいのは、自民党と民主党が、対立政策で切磋琢磨することが大切だ。わが国の政治の方向性は、それしか残されていない。国民としては、この流れを注視したい。

*注

自民党と民主党の連立はあってはならないが、自民党が分裂した場合、民主党と同じ考え方のグループと連立する可能性はある。その可能性は極めて高くなってきた。

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身を守る笑顔

電車に乗っていると、前の赤ちゃんがにこにこして、愛嬌を振りまくっている。可愛いね。赤ちゃんがあやされている時、笑顔になるのは、身を守るための本能と云われる。

しかし、人間、大人になると、どうもそのことを忘れてしまいがちである。でも、大人になっても、人からあやされている時は、自然体で笑っていることが、人間関係をスムーズにする。

いつでも、へらへら笑っているのは気持ち悪いが、相手がそういうことを望んでいる時は、微笑んであげたらいい。そうすると、相手も気持ちがいい。人間関係は、このような方法で案外うまくいく。赤ちゃんだった時を、時々思い出そう。

それにしても、前にお母さんと共に座っている、そこのお坊ちゃん、本当に笑顔よしだねえ。えっ、お嬢ちゃん、これは失礼。

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2007年8月10日 (金)

専門バカ

俗に専門バカという言葉がある。若干ニュアンスは異なるが、同様な言葉として、かっては、土気(つちけ)という言葉もあったようだが、最近はあまり使われない。

一つの事柄には詳しいが、全般的な事柄には疎いことを指す。現代は、仕事の細分化が進み、全体像が見えにくくなっているのは事実だろう。本人が、余程注意しないと、井の中の蛙になってしまう。

しかし、もっと誰でも使う言葉に、「杜撰(ずさん)」という言葉がある。この言葉の「杜」はそういう意味を持っている。実は、杜黙(ともく)という人の名が出所と言われる。彼の作る詩は韻律がでたらめで、詩の格式に合わなかったことから来ているという。ちなみに、「撰」とは、著作することを意味する。

専門バカにしろ、土気にしろ、杜撰にしろ、余りありがたい言葉ではない。ところが、現代人は知らず知らずそのようになっている。特に一定の組織内にいる組織人が嵌りやすい。時には、自分の立ち位置を確認し、仕事の意味を考えたいものだ。

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2007年8月 9日 (木)

二つの美術館訪問

二つの美術館に行って来た。と言っても場所は同じだ。つまり神戸ファッション美術館神戸ゆかりの美術館

まず、神戸ファッション美術館では、常設展示のほかに、特別展示として「18世紀 麗しのロココ衣装展」を開催している(10月9日まで。入場料一般500円)。人はどうして衣装を着るのか。それはどのようにして選ばれるのか。衣装は、気候、風土、地域文化、入手可能な素材、デザイン、流行、体型などに左右されるだろうが、そういうことをテーマに、マリー・アントワネット生誕250年記念として、開かれている。

流風は専門家ではないので、さらっと見ただけだが、それなりに面白かった。衣装のできた背景などを理解すれば、もっと楽しめるかもしれない。

そして、神戸ゆかりの美術館では、神戸の画家、「小松益喜展」が開催されている。神戸を描いているものを展示。ただ展示数は40点と幾分少ない。彼は神戸市に402点寄贈しているので、一割程度が描かれていることになるが、これはむしろ多いのであろうか。意外と神戸の題材が少なかったのだろうか。

さて、それはさて置き、彼はオシャレな神戸をよく描いている。異人館関係が多い。異人館に関しては、今も残っている風景も多いが、昔の神戸の印象がやや強い。神戸は昔の方がもっと風情があったのかもしれない。現在は、ある意味、東京化しているように感じる。懐古趣味に陥る必要はないが、神戸の個性は残したい。

常設展示は、「神戸ゆかりの芸術家たち」と題して、29点が展示してあった。かつて、色々な会館に展示してあったものも含まれ、なかなか内容のある作品ばかりだ。

9月24日まで。入場料:一般200円。神戸ファッション美術館入場者は無料。

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2007年8月 8日 (水)

ほどほど

寿命、富、跡継ぎが多いことは一般には、いいことと考えられているかもしれない。寿命も短く、富もなく、跡継ぎもないのは寂しい人生かもしれない。もちろん、人生の中身が大切なことは否定しないけど。

だが、これらが多いことは同時に心配事が多くなるそうだ。長生きすれば、恥をかくことが多いだろうし、お金を持っていれば、いろいろ言うて来る人があって、煩わしく、跡継ぎがいること望ましいが、皆が皆問題を起こさないとは言えない。

そういうことで、心配の種は尽きないと言うことらしい。流風も、そんな経験してみたいなあ(笑)。実は、この話は、『荘子』の「天地篇」にある。人というのは、どんな状態でも悩むらしい。それだったら、余りない方が楽かも。でも、全くないのも辛い。やはり、ここでも、ほどほどが宜しいようで。

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2007年8月 7日 (火)

明鏡止水

明鏡止水という禅語がある。本来の意味としては、明るい鏡は、あるがままに映し出すということだろう。美人は美人らしく、ブスはブスらしく(笑)。しかし、それは一時のことであって、ずっと、その状態で留まるわけではない。美人やブスの変化も捉える。次々とあるがままに映し出す。鏡本来の本質は失わない。

あの勝海舟も好んで用いた言葉らしい。彼は、人と交渉ごとに臨む場合、この言葉を肝に銘じていたらしい。何事にも捉われない。先入観にとらわれないように、雑多な情報は取り入れない。あくまで自己の定見に基づいて、交渉ごとを行うべしとしている。

剣術や禅に通じていたので、そこから得た知恵のようだ。事前の情報や駆け引きなど、心を曇らすようなことをせず、会談して、瞬間的に判断するのだろう。

結局、求められるのは、心の静かさだ。水に自分の姿を映し出すように、その時は、波静かな水面に映し出そうとするだろうのと同様に、不動心を持つ者だけが、他の人にも安らかさを与えて、真実を語ろうとする。

ただ明鏡止水の境地は、誰でもできるものではなくて、ある程度の修業ができたものだけしかできないのも事実だろう。

*参考 拙ブログ 『求道者による予知』(05.11.14)

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2007年8月 6日 (月)

用意と準備

チャンスをものにするには、用意と準備が大切だ。どちらも同じ意味じゃないかという人もいるが、「用意」と「準備」は、よく似た言葉だが、内容は違う。

確かに、辞書を開くと、「用意」については、「準備」という意もあるとなっている。しかし、本来の意味は、読んで字の如しで、「意を用いる」という意味だ。心の意識づけをしておくということだろう。転じて、心遣い、注意、用心とある。

また「準備」は、拠り所となる備えという意味だろう。転じて支度という意味になっている。これはモノなどを事前に備えておくということだろう。

このように、心の用意とモノの準備ができていて、初めてチャンスを捉まえることができる。何も用意も準備もせず、チャンスも捉まえることはできない。幸運を捉まえる人は、そういうことができているのだろう。

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2007年8月 5日 (日)

甘さ控えめ

菓子業界では、甘さ控えめが主流になっていると思う。食材そのものに含まれる甘さで、すでに十分なのに、更に砂糖を追加して、甘すぎる物を作っても、消費者には支持されないことがわかったからだろう。

だが、時々、甘すぎる場面に遭遇する。先日、と言っても少し前だが、ある大手のバーガーショップで、ココアを頼んだのだが、異常に甘すぎた。とても飲める代物ではなかった。このバーガーチェーンの企画担当者はどんな味覚の持ち主なのだろうか。他のメニューも推して知るべしだろう。

常識では考えられない甘さだった。結局、ひと舐めした後、すぐ退散した。画一的な味覚の追求は止むを得ないとしても、味覚も、品質の一つではないか。その後、そのバーガーシッョプは利用していない。利用する気になれないのだ。

また果汁100%のジュース類も、最近はそれをウリにして、多くの企業から出されているが、ジュースとしては甘すぎる。これらは氷か水で薄めて、ちょうどいいくらいだ。あまり濃度の強いジュースは飲みすぎれば、却って健康を害す危険性がある。消費者が皆、水で薄めて飲んでおれば問題はないが、そのことは説明書きも必要だろう。

もう一つは、キャンデー・アイスクリームの類だろう。全体的に甘すぎる。もっと甘さ控えめのものは作れないものか。こんなに甘いのなら、かき氷でも食べた方がずっとましである。あれなら、自分で作ればトッピングするもので、ある程度調整できる。

健康志向と言われて久しいが、味覚の流れも含めて、業界はもっと研究して欲しいものである。また業界の事情なのかしれないが、砂糖を多く利用する菓子・飲料水等は止めてもらいたい。甘さ控えめが、消費者の意識の流れとして定着していると、業界は再認識して欲しい。

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2007年8月 4日 (土)

難破船の宝

少し前の海外の記事に、難破船から金銀財宝を引き揚げたことが掲載されていた。へぇ~、そんな財宝が実際あるのには少しびっくりした。

そうした幻の財宝については、よく報道されるが、大抵ガセネタだったりする。そういうのに引っかかって大金を失った人もいるようだ。まあ、レジャーの一環であれば、それもまたいいかもしれないが。

落語にも、「水中の玉」というのがある。大川のそこに財宝が沈んでいるという情報を聞き込んだ若旦那が、出入りの幇間に話をして、手伝わないかと相談をもちかける。

しかし、川底は危険だ。そこで、若旦那が策を授ける。その策というのが、大きなガラス瓶に幇間を入れて、吊り下げて、財宝を得ようというもの。

嫌がる幇間を説得して、大瓶に彼を入れて沈めるが、彼は財宝を目の前にしても、何もすることができない。オチは、「早く拾えよ」「手が出ません」という間抜けな話だ。

だが、私達も、宝の種類は違いこそすれ、同様なことをしていると思う。遠くて危険な宝を得る努力より、身近な宝を掘り当てる努力をした方がよさそうである。

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2007年8月 3日 (金)

線香の匂い

もうすぐ、お盆だ。そして、特に、この時期は、線香の匂いがあちらこちらで漂う。流風は、最近の色々開発されている線香より、伝統的な線香の匂いが好きだ。確かに、少し高いけど、お盆を除けば、一日に何十本も使うことはないので、いい匂いの伝統的な線香がよいと思っている。

話は脱線するが、京都の花柳界も、花代は線香の本数で決まるという。、そういうと、落語にも『たちきり』というものがある。ある商家の若旦那が、小夏という芸者と深い仲になったが、親父はそのことを怒り、家から遠い支店に出してしまい、会うことができなくなった。

その間に、小夏は病気になり、亡くなる。若旦那が本店に帰ると、小夏が亡くなったと聞く。早速、小夏の家に行き、線香を上げて回向をすると、小夏の三味線がひとりでに鳴り出す。ところが、途中で音が止まってしまう。「どうしたことだい」というと、「はい、それもそのはずです。線香が断ち切りました」というオチだ。

これは、別の角度から見ると、「反魂香」が底辺にあるのだろう。漢の孝武帝(武帝と示すものが多いが)が、李夫人の死後に、お香を薫じて、その面影を見たという故事だ。「反魂香」を薫じれば、その煙の中に死者の姿がうかびあがるという。また、それをお題にした落語もある。

線香というと抹香くさいが、男女のいろんな思いが隠されているのかもしれない。いつも御詠歌をあげている、そこのお婆さん、心の思い出、教えてよ(笑)。もうすぐ、ご先祖様も帰ってみえるわけだし。でも、線香を上げて、姿を見せて、あれこれ説教はいやだよ。匂いだけで十分だよ(笑)。

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2007年8月 2日 (木)

心の中の宝物

学生にとっては、8月に入って、夏休みも本番だ。子供の頃に遊んだ思い出は、ずっと残っている。最近の子供たちは、ゲームや携帯などの遊びが主のようであるが、彼らに思い出が残るのだろうか。

それにもまして塾通いなどで無駄な時間を消費している。勉強などは真にできる者だけがすればよい。子供の頃に、必要以上に受験用に瑣末な知識を詰め込んだところで、将来役に立つとは考えにくい。もっと自分の関心事を広げることが大切だ。

受験用の全ての学問が無駄とは言わないが、瑣末な知識を増やすより、様々な思い出を多く残して欲しい。それが人生を豊かにするだろう。親はそのように配慮した方がいい。それは多くの親が気づいてると思うのだが、心の中の宝物をもっと大切にしよう。

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2007年8月 1日 (水)

世間は生きている

勝海舟が、次のようなことを言っている。

「世間は生きている。理屈は死んでいる。死んでいるものが生きているものに勝つことは到底できることではない」と。

どこかのトップに伝えたいですなあ。屁理屈を言って、出処進退ができない人は少し寂しいですなあ。

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