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2007年9月 7日 (金)

敬遠ということ

プロ野球の行方が混沌としてきた。特にセ・リーグ。残りの試合数はもう僅かだから、今月中に結論は出るのだろう(*注)。こういうせめぎ合いの時は、かならず主要選手が四球で一塁に歩かされ、敬遠されることが増える。野球では勝負を避ける手段として、この言葉が使われている。

しかし、この「敬して遠ざく」という言葉、実は、本当の意味は違う。これは儒教が生まれた契機とされるものだ。すなわち、孔子があのような考え方に至った背景が、この敬遠にある。

というのは、孔子は以前にも若干触れたが、その出生を恥じていたと云われる。すなわち、両親がきちんと当時の結婚のための天への祭りもせずに、動物のような野合で生まれたからだ。現代の言葉で言えば、「できちゃった結婚」ということになるかもしれない。人間と動物の差は何か。そういうことに孔子は非常に恥じたのだ。

そういう関係から生まれた彼としては、普通に生まれた子供より、それを超越する絶対的な人間を目指したのが、儒教と言えるかもしれない。しかし、孔子自体は、いかに努力しようと、出生の秘密を変える事はできない。父母を認めれば、社会の不道徳を容認することになり、父母を認めないと、親不孝というということになる。

そこに孔子のジレンマがあったとされる。彼は、これらを避けて考えようとした。すなわち、「敬遠」である。ここに儒教の限界が見え隠れする。あらゆる宗教・哲学は、特殊な環境において芽生えるものかもしれない。だから、それらをそのまま受け入れるのは、極めて危いということになる。

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