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2007年10月31日 (水)

米国は今、何をすべきなのか

現米国政権は、一体何がしたいのか見えない。中東政策では相変わらず、トンチンカンなことをやっているし、米国の評判を落とし、財政を更に悪化させている。かつてのようにドルを刷れば解決できると思っているのだろうか。まさに脳の小さい恐竜になっている感じだ。今のままでは、米国は崩壊せざるをえない。恐竜が滅んだように。

そんな米国に相変わらず、ご機嫌取りをしている自民党政権は、現米国政権を悪化させるだけだ。イエスマンは、皮肉にも、米国に、じわじわと毒を利かせている。米国を弱めるのが、日本の政治目的だろうか。きちんと諫言できない日本政府は、真の米国の同盟国ではないのだろう。

9.11の真実は未だ不明だが、仮にアルカイダがやったものとしても、米国はもっと大人の対応をすべきだったのだ。それは、すなわち、アラブの一般民衆を見方につけることだ。それは軍隊で、彼の地を荒らすことではない。

つまり、彼らの生活を安定させるための援助をするだけでいいのだ。それだけでアルカイダは崩壊する。かつて蒋介石は戦後、日本に対して、「以徳報怨」の精神で、「恨みに報いるに恨みをもってせず」と対日賠償請求放棄を宣言した。この時、日本人は、中国人の奥深さと、その遠慮(遠く慮ること)に驚いたものだ(*注)。しかし、残念ながら、米国政権には、その思考は見られない。

単純に仕返しだといって、戦争を仕掛けて、民衆を敵にまわして、テロ集団を増やしていくだけだ。そんなことでは、いつになっても収拾がつかない。また無智な日本政府は、テロ特措法だ、新法だと騒いで、無理やり自衛隊を派遣して、米国に加担しようとする。物事の本質を理解せず、米国のケツの後を追いかけるだけでは能はないだろう。

米国にプラスになるように提言するのが友人ではないか。中東から軍を撤退し、彼らの民生の安定のための方策を練ればいい。その方がローコストで、米国も尊敬を集められるのだ。なぜ、そのことに、いつまでも両国は気づかないのだろう。

*注

蒋介石の評価は様々である。「以徳報怨」は、精神的に中国人の方が日本人より上位であるという宣言と捉えることもできる。ただ、彼は極めて大陸的発想の持ち主であったことは間違いない。

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2007年10月30日 (火)

サスペンス・ドラマは必要か

テレビで、毎日のように、サスペンス・ドラマが放送されている。再放送も多い。放送局はコストをかけずに、それなりの視聴率が稼げるのだろう。しかし、このサスペンス・ドラマの放送は必要だろうか。社会に害悪を流していないか。非常に気になる。

毎日のように人が殺される場面を見せられれば、人間の脳は麻痺してしまうだろう。それは殺人が当たり前のように捉えられないか心配だ。それに、いろんな犯罪手法を画面で見せていいものか疑問に感じる。

放送局や撮影に協力している当局は、「いかなる犯罪を犯しても、当局によって必ず捕らえる」ということを主張したいのかもしれない。そうしたことが犯罪の予防になると考えているのかもしれない。だが、その手法もオープンにしてしまっては、効果も半減するだろう。

放送局は、視聴率に惑わされて、感覚が麻痺しているのかもしれない。もう一度、放送コンテンツが社会に与える影響を再吟味すべきではないか。そして放送局の社会的意義は何なのか、自問すべきではないか。

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2007年10月29日 (月)

夢の建材なのか?

今回は、気になった新聞記事をもとに、備忘録的に。

耐震性が強く、火災にも強い夢の建材が注目されている。それは、『クロスラミナパネル』といい、独立行政法人防災科学技術研究所とイタリア国立樹木・木材研究所との共同研究の結果のようだ。

その『クロスラミナパネル』は、2センチ程度の木材を隙間なく密に張り合わせた、厚さ7センチから20センチの合板らしい。イタリア・トレンティーノ地方の木材をドイツで合板加工し、イタリアで建物用に裁断されている。

低層の住宅では、このパネルでなくても、阪神・淡路大震災でも、倒壊しなかった木造建築例は、多く示されているが、高層建物では、未だ示されていなかった。今回、兵庫県の三木市にある実大破壊実験施設で、七階建て、高さ23メートルの木造建築物で、振動台の上で、あの大震災規模の地振動を再現した耐震性実験が行われた結果、損傷がなかったそうだ。

これより以前に、火災実験も行っており、一つの部屋から他の部屋への延焼がなかったと聞いている。となると、夢の建材になる可能性が高い。課題は、価格ということになるかもしれないが、地震の多いわが国では、実用化の早期推進が望まれる。

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2007年10月28日 (日)

食品ビジネスの課題

多くの食素材にしろ、それらを加工した中間物にしろ、それを最終加工して消費者に提供するにしろ、その扱うものからして、規模の経済が働きにくいということが言える。

食品業界の多くの不正が明らかになっているが、これは単に経営倫理だけの問題ではない。そもそも生鮮食品を材料にした商材に限界があることを、経営者がわかっていないことからくる不正だといえる。

もちろん、戦後のモノのない時代であれば、問題にならなかったことが、現在では問題になるのは、モノが有り余っていることもあるし、人々の安全・安心志向が強くなっていることもある。そういうことが、更に経営の圧迫要因になっているのは事実だ。

その一方で、冷凍技術が格段に進歩している。すなわち、冷凍技術が、食品業界の規模の経済を可能にしている。現実、外食産業では、セントラルキッチンで加工したものを冷凍して、店に配達して、それを解凍して、使っている店も多いことだろう。

ただ、業界は冷凍が常識であっても、消費者は、そういうことを知らされていなくて、知っていないということだろう。しかし、冷凍が一概に悪いとも言えない。それは消費者が何を優先しているかによって決められる。安さと提供スピードなのか、高くても新鮮な材料を加工した出来立ての商品なのか。どちらがよいとも悪いも言えない。

ところが、食品産業や外食産業が使っている素材や品質は、消費者はチェックできない。そういう意味では、消費者は味と価格だけしか判断材料がない。食品産業、外食産業(中食産業)の素材も含めた品質基準を明確にする時期に来ているのだろう。いろんなことを不明にするから、不信感が高まるのだ。

それであれば、情報をオープンにすればいいのだ。後の価値判断は消費者がする。経営者は、それに対応する経営をすればいいのだ。よって関係官庁は、消費者保護のために、新しい時代に相応しい品質技術基準や法律を整備して、経営者をバックアップすべきだろう。そして、経営者は、現在の市場に相応しい経営形態を検討すべきだろう。

* 追記

なお食品業界の不正については、この業界の品質に対する甘い体質に加えて、指導官庁が、時代に変化対応できない時代遅れの指導方法にも問題がある。例えば、経済産業省が指導官庁であれば、こんなに大きく問題にならなかったと想像できる。

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2007年10月27日 (土)

和が大切

父は、時々『十七条憲法』について、話したいようだった。特に、その一の「和を以て貴しとなす」については、大変大切な考え方だと強調していた。父は十七条は、全て、そらで言えたが、流風は学生時代に軽く学んだだけで、その一の「和を以て貴しとなす」の一文を除けば、ほとんど知らないと言って間違いはないだろう。

だから詳しい内容については、最近まで吟味したことはなかった。こういうものは、相当意識しないと読み込めないものだ。ここへ来て、改めて、『十七条憲法』を読み直してみると、よく出来ているなあと思う。

時代が変わっても、聖徳太子の考え方は脈々と生きているということだろう。当時、実際、太子が作られたかどうかはわからないが、周辺には、このような知恵者がいたのだろう。

ここでは、一応、流風なりの解釈を記しておく。解釈が、当時の事情とは違うかもしれないが、現代的に考えてみた。

その一

 和を以て貴しとなす。

 さからうことなきを宗とせよ。

 人みな党ありて、またさとれるもの少なし。

 是を以て、或いは君父にしたがわずして、また隣里に違う。

 しかれども、上和らぎ、下睦びて、事を論ずるにかなえば、すなわち事理おのずから通じ、何事か成らざらむ。

まず、「和を以て貴しとなす」については、特に解説はいらないと思うが、人間社会においては、和が大切で、尊重しなければならない、という意味だろう。

次の、「さからうことなきを宗とせよ」は、素直に人の話は聞け、ということだろう。「聞き届けよ」という意味だろう。そういう姿勢でおれば、間違いが少ない。内容は後で吟味しなければならないが、一旦は受け取るということだ。

「人みな党ありて、またさとれるもの少なし」は、多くの人は皆、徒党を組んで、自らの主張を強く打ち出し、他の言う人の言うことを聞かず、我田引水的に物事を処理しようとする。しかし、それでは、不同意の人々を増やすばかりだ。そのことがわかっている人々は残念ながら、ほとんどいない。

「是を以て、或いは君父にしたがわずして、また隣里に違う」は、そうであるから、責任者や親に従順でなかったり、また近所の人々と協調して物事を執り行えないで喧嘩したりする。

「しかれども、上和らぎ、下睦びて、事を論ずるにかなえば、すなわち事理おのずから通じ、何事か成らざらむ」は、しかしながら、上に立つ者が、和やかな気持ちで下の者に接し、下の者も、上位者に対して、和らいだ目つきで、恭しく接し、気持ちを一つにすれば、どんな物事も成就するものだ。

*注記

読み下し文については、現代用語にない文字については、当字を使わず、平仮名で表記しています。

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2007年10月25日 (木)

防衛官僚の不正

防衛官僚の不正が明らかになっているようだが、防衛省は問題の多い省のようである。だいたい、日本の特殊事情を考えれば、防衛省にするのには無理があった。こういう諸問題とシビリアン・コントロールの関係をどうするのか明確にせずに、拙速に省に格上げしてしまった安倍前政権の罪は大きい。

さて、それでは今回の事件を報道で見える範囲で整理してみよう。

一、シビリアンコントロールの問題

業者と癒着していたことや、大臣を無視して艦船の油供給量の嘘の報告をしていたことは、重大な作為的意図が感じられる。個人の利権と官庁の利権。シビリアン・コントロールの危機だ。防衛省の幹部達は、国家における防衛省の位置づけ、世界における防衛省の位置づけをわかっているのだろうか。役割の重大性に気づいていないのではないか。

軍事オタクと省の利権優先主義者の組み合わせ。軍事をゲームのように考える人々と軍事などどうでもよく、省の利権拡大や私服を肥やすことに熱心な上層部だけのように見える。大変嘆かわしい。文民統制について、国家と防衛省の関係を再度細部にわたって検証すべきだろう。

二、軍需利権とシビリアンコントロール

シビリアン・コントロールを乱す軍需利権。テロ特措法は、軍需利権が絡んでいることは間違いない。厳しい運営の仕組みを作らないと今後も問題は起こりうる。そして国家を危くする腐敗に対しては厳罰で処するべし。これは他の官庁とは別体系で処断する仕組みが必要だ。昔で言う軍法裁判も検討の余地あり。死刑も検討すべきだろう。

三、自衛隊が動くことは公共投資

国土防衛には、他国からの侵略に備える意味と、自然災害の援助活動がある。これは両方とも必要だ。自衛隊の存在価値はそこにある。まず自国と自国民を守ることに最大限努力して欲しい。自衛隊の活動は、公共投資と見てよいだろう。ただ他国にいる自国民の保護に、自衛隊を使うというのは早計に過ぎる。それは外交問題だ。

四、自衛隊が海外に展開することは、国際的公共投資である。

海外への展開は、武器・弾薬・燃料の消費という隠れ国際的公共投資である。そして、これは海外消費であり、経済効果はあまり期待できない。せいぜい軍需産業及び燃料・食糧関係が潤う。しかし、これは、深く考えれば、むしろ財政を悪化させる要因になりうる。日本全体にとって、何のメリットもない。こういうものは、一旦、手をつけると拡大する傾向があるのだ。但し、国際的な自然災害に対する支援は人道的見地から引き続き求められる。

五、海外軍需産業との癒着

海外の死の商人は巧みに取り込んでくる。今回の汚職の元となっている企業は彼らの代理店。脇の甘い官僚たちの悲劇だ。一人で行動することがいかに危いことか。公務員の行動原理を忘れた情けなさ。もちろん、営々と続いてきた防衛省(防衛庁)の体質に問題がある。政治家が関与してきたことも疑いのないことだ。

六、予算確保のためのテロ特措法

テロ特措法は、純粋に海外に貢献しようとするものではないだろう。表向きは米国支援だが、結局、防衛省の予算枠確保のために使われているに過ぎない。財政厳しい折に、予算を獲得しようとする官僚的発想だったようだ。自民党は政治献金の多さから、この法律にこだわっている(*注)。防衛省に無駄が多いのが、今回判明した。

七、トップダウン組織の悲劇

官僚制度はトップダウン組織の典型といえる。しかし、そのトップをチェックする機関が実質存在しない。よって、自省(自制も含めて)するしかないが、周囲は持ち上げて甘やかす。まるで田舎出身の若い芸能人が周囲からおだてられ、傲慢になり自らを失うのと似ている。学校エリートの陥りやすい罠に嵌るということが延々と続いているということだろう。

*注

なお、民主党の小沢代表も、かの企業から政治献金を受け取っていたようだ。彼は多分に自民党的体質を残している。彼は政権を獲得するかもしれないが、真の民主党は、それ以後の人々に委ねられることになるだろう。

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2007年10月24日 (水)

簡明ということ

父に、「お前は、いらんことを言う」と、よく叱られた。すなわち、思ったことをすぐに口に出すからだ。しかし、その父も、祖父には、同様のことを言われたらしい。どうも、そういう家系らしい。

ただ、父の発言はいつも簡明であった。生涯に2、3通の手紙しか受け取っていないが、その内容は、手紙にしろ、葉書にしろ、要件だけで、2、3行だった。仕方なく、こちらから連絡を取ると、詳しく教えてくれる。いつもそうだった。

これは、どうことだったのかと後日考えたが、結局、それは軍隊仕込みなのだろう。結論を明確に連絡しておいて、後は本人と直接会って詳しく説明する。そういう点では、母や伯母の長たらしい脈絡のない手紙と大きく異なる。

自分の考え方を整理してから発言する。意外とそれができない人が多い。凡人は、頭の中で整理できないから、文書にして、整理してから、発言すれば間違いが少なくなる。推敲は何も作家だけの専売特許ではない。

しかし、流風がブログで書き込んでいる内容を、父が知ったら、多分、赤ボールペンでいっぱいチェックが入るのだろうな。まあ、あの世からはできないだろうから、一安心して、これからも書き続けよう(笑)。

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2007年10月23日 (火)

防犯灯の大切さ

小学校に上がる子供の頃、遊んでいると、母が必ず帰るように呼びに来た。見つからないと、近所のおばさんなどに聞いて、探し当て、連れて帰った。それは大体、5時か6時の間だったと思う。

小学校に上がっても、帰るのは早かった。それは夕食は家族全員で頂くのがルールだったからだ。父も、残業などはあまりせずに、早く帰ってきていた。その代わり、父は早朝、早く出て行き、仕事をこなしていたようだ。

そして両親は、子供の様子をつぶさに観察し、僅かな変化でも感じ取っているようだった。それは子供からすると、恐ろしいくらいだったが、子供心に安心感はあった。実際、両親には、いろんな場面で助けられたことも事実だ。

最近、子供に対する凶悪な犯罪が起こっているが、原因は色々あるだろう。学校が終わってからの塾通いや両親の共働き、個食などに見られる家族の崩壊、核家族化の進行による地域の崩壊、他の子供への無関心・非関与、助け合いの精神の劣化などが挙げられるかもしれない。

しかし、これらのことは一朝一夕には片がつかない。ここでは、物理的な配慮を考えてみよう。それは防犯灯だ。犯罪は、夜、暗いところで起こるといわれる。それを防ぐには、地域を明るくする努力が求められる。確かに、地域には、防犯灯は設置されているが、連続性がなく、光が弱く明るさが欠けて、なおざりになっている場合も散見される。

そういった箇所を丁寧に見直しして、再設置することが求められる。ここでのポイントで、一番いいのは、4メートル先の相手の顔が識別できるのがよいとされることだ。そして、それは均一な光を配置することによって、見えやすくなることを忘れてはならないだろう。

もちろん、設置に関しては、自治体の補助が受けられるかもしれないが、ランプ交換のためのランプ代や交換費の負担は地域で考える必要がある。しかし、そんなに高いところに設置しない限り、地域の人々が協力し合えば、ランプ代だけで済む。

皆で、少しばかりのお金を出し合っていけば、それ自体が、防犯活動になる。そのようなことで、防犯に役立つのであれば、安いものだ。もう一度防犯灯を地域で見直してはどうだろうか。

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2007年10月21日 (日)

教師の採用基準とランク付け

学校の教師に、大学を出て、すぐなれるのは不思議だ。教師には、ある程度の社会経験や実績が必要だ。社会経験もない未熟な若い人が、教員になっても、教え方も、生徒指導もうまく行くとは限らない。

それに現実には、現場で、若い教師を指導する人もおらず、結局、ほっておかれ、指導に迷うだけだろう。そういう教師では、生徒も困るだろう。教師の採用基準の見直しが急がれる。

また、大学では、ある程度の教授以下ランク付けがあるのに、高校以下ではそれがないようだ。小学校、中学校、高等学校の教員も、正教員、准教員、助手、補助教員とランク付けすればいい。

教員の採用基準の見直しとキャリア・プランを作り直す必要に迫られていると感じる。政府は、これからでも、至急対策を練るべきだろう。

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2007年10月19日 (金)

正しい心と健康

子供の頃、小さい嘘をつくが、だんだん矛盾が生じて、嘘に嘘の上塗りしたことは、誰でも経験のあることだろう。当時を振り返れば、小さい胸を痛めたのを思い出す。結局、本当のことを言っていれば、一番楽だったと後悔する。

このように心を痛めることは、健康に影響する。病は気からとはよく言ったもので、心と身体は一体だ。このことは、谷秦山(たに しんざん)も次のように言っているらしい。

 人不善を摘むこと多くして心神鬱悸す。

 医家知らずして却って草根樹皮を以て之を治せんと欲するも難い哉。

彼の言っていることは、「人々は正しいことをせず、自ら心身を病む」ということだろうか。「医師は、そういう患者の状態を把握せずして、いろんな治療を試みて、投薬しても、治すことは難しい」と言っているのだ。

病気を治すには、確かに医師の手を借りなければならないかもしれないが、そのまえに患者自身が心を正さなければ、その回復も難しいということだろう。実際、不治の病の患者が、心を解放して、自由になると、回復することもあるようだ。

実に、人間の身体は不思議だ。健康を保つためには、まず正しい心をもつことが求められるようだ。自ら、病を抱え込むことになるような考えは慎みたいものだ。

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2007年10月18日 (木)

大臣の俸給

総理大臣の俸給はいくらかご存知だろうか。人事院のホームページを見ると、月額約207万円らしい。これが高いか低いかは、人によって見解が違うだろうが、大臣の俸給が150万円程度だとすると、総理大臣の責任の重さからすると、安すぎることになる。大臣の俸給は、総理大臣の半分ぐらいが適正だろう。

更に、このサイトを見て、驚くのが、副大臣の俸給が、大臣とあまり変わらないことも驚きだ。一体、副大臣がどんな仕事をしているのだろう。陰で大臣を支えているのだろうが、俸給差はもっとあってしかるべきだろう。大臣の半分以下が望ましい。

責任の重いトップ層は、もっと報いられてしかるべきだろう。このようなトップに薄い日本の年功序列社会の名残の俸給体系は、時代遅れのような気もする。

その他にも、いろんな疑問がわいてくる。例えば、政治家の俸給は、法律で官僚の俸給と連動する形になっているが、政治家と官僚の俸給は別体系でもいいのではないか。

また大臣は年俸制で実績評価にすべきだろう。短期間で実績のない大臣に高い俸給を約束するのもおかしい気がする。だから3ヶ月ほどで辞めた大臣を、元大臣というのも、おかしい気がする。1年以上の実績のない大臣は、辞めても元大臣と言わないようにできないものか。

いずれにせよ、政治家トップ層の報酬体系と高すぎる官僚の報酬体系を見直す時期に来ているのではないか。

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2007年10月17日 (水)

サツマイモの収穫

この夏に、スーパーで買ったサツマイモを放置していたら、芽が出てきたので、庭に植えておいたら、葉が繁茂し、ついに収穫した。といっても、元の芋が1本なので、5~6個の収穫であった。

早速、料理しようと思ったが、焼き芋は時間がかかるし、道具もない。そこで、子供時代のおやつとして、母親が作ってくれたやり方で試してみた。

すなわち、輪切りにして、フライパンで焼く方法である。これなら簡単。両面をほどよく焼くと出来上がり。ちょっと甘みは足りないが、サツマイモの味だ。

このやり方だけでは、物足りないので、次に蒸してみた。塩を少し振って、15分ほど蒸すと出来上がり。これは塩が利いてなかなか美味しい。

残りは、ピーマンと揚げを入れて、味噌汁にでもしますか。ビタミンCが豊富で健康にもよいといわれる。しかし、戦後の食糧難を経験している方々は、芋のつるも食べたとかで、あまり好きでない人もいるらしい。

健康どころではない時代に生きた人々と比べて、私達は、もっと食べ物を大事にしなければ、と思いつつ、屁の方がが心配。

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2007年10月14日 (日)

進学教育だけでいいのか

若い人の犯罪を聞くと悲しくなる。彼らは、事件を起して、人生を駄目にしてしまう。事件を起せば、いかに再起が難しいかを理解していない。弁護士の先生辺りは、更生が可能だというが、そんなに世の中は甘くないだろう。それに戦前の儒教教育を受けた世代でないので、更生は実質難しい。

しかし、私達は、彼らのような悲しい事態にならないように、対策を考える必要がある。それは学校教育のあり方だ。現在の学校教育は、進学者のための機関に成り下がっている。しかし、生徒の大半は、進学に向かないといって過言ではないだろう。

現在、学校がたくさんあるから、進学できているが、向学心に燃えて学んでいる人がどれくらいいるだろう。もちろん、エリート教育は必要だ。しかし、その人たちだけでは国家は成り立たないのも事実だ。

小学校、中学校の役割は、本来、その生徒の持つ特性を理解し、彼らの将来を方向付けていくことに意味がある。それが偏差値の高い人たちだけが評価される所になってしまうと、偏差値の低い人たちは、学校に行くことに楽しみを見出せなくなる。

流風は、かねがね高校教育を廃止し、一部を大学予備校にし、大半を専門学校にすべきだといっている。時間つぶしに高校に行っても、無駄が多い。

本当に学問の好きな人達だけが進学すればいい。もちろん偏差値の高い人たちは、そういう所に行けばよい。しかし、高校というスタイルではなくて、大学予備校にすればいいのだ。

そして、学問があまり好きでない人は、実学の専門的領域の職人を目指せばいいのだ。大半をそういう学校にすべきだろう。現在、専門学校は、2年の所が多いが、前期2年→実地研修2年→後期2年という仕組みを作り、多方面の職人養成努めるべきだろう。

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2007年10月12日 (金)

予習の大切さ

子供の頃、予習と復習が大切だと、学校の教師からも親から言われたが、当時なかなか十分に意味が理解できなかった。復習は理解の再確認ということで、わかりやすいが、予習の意味がよくわからなかった。

しかし、後年、『中庸』に「およそ、事、予めすれば、則ち立ち、予めせざれば、則ち廃す」とあり、やっと、その意味の重要性に気づいた。

そして、予習は独習である必要があることもわかった。独習して、わからない点を明確にしておいて、授業に参加すれば、不明な点が明らかになって、理解が更に進む。

これは他人、すなわち塾の先生などに問題点を明らかにされてしまうと、本来の予習はできなくなる。そう考えると、塾はやはり不要と考えられる。そのためにも受験テストの内容はもっと基礎学力を試すものに限定すべきだろう。

話が逸れたが、社会人なってからは、比較的そのようにして、できるだけ準備したつもりだが、なかなか十分でなかったきらいはある。社会人の場合は、自分で課題を設定して、自ら解決しなければならないからだ。そう考えると、答えが決まっている学生時代がいかに楽であったかと思い知らされたものだ。

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2007年10月11日 (木)

見ざる、言わざる、聞かざる

若い時に、日光東照宮に行ったことがある。例の「見ざる、言わざる、聞かざる」の彫刻を見に行くのが主目的だった。しかし、当時は、この彫刻が八面あり、それが猿の人生を語っているとは知らなかった。その時は、「見ざる、言わざる、聞かざる」の彫刻だけ見て満足してしまったのだ。

また後年、この「見ざる、言わざる、聞かざる」が、子供に悪いことをさせないための教訓と知った。ということは、現代の子供は、あまりにも周囲に悪いものが揃っていることになる。そして、なかなか、「見ざる、言わざる、聞かざる」とはいかない。ある意味、現代の子供は不幸だ。

そして、更に、後でわかったことが、これが論語の顔淵第12が出典と知った。すなわち、

 礼に非ざれば、視ることなかれ

 礼に非ざれば、聴くことなかれ

 礼に非ざれば、言うことなかれ

 礼に非ざれば、動くことなかれ

すなわち、礼を守った上で、視たり、聴いたり、言ったり、動いてもよいとしている。つまり社会の秩序を保つ生活規範を守って、初めて、社会参加できるということだ。現在、しつけの問題が話題になるが、家庭教育というのは、まさにその部分と言えよう。

それにしても、人生、勉強ですな。知らないことが多すぎる。しかし、知識豊富の父でさえも、「一生をかけても真砂の砂は掬い取れない」と言っていたのを思い出す。人間にとって、知の限界はあるのだろう。いっそ、「見ざる、言わざる、聞かざる」の方が案外、幸せかもしれない。

*猿の一生

日光東照宮の説明によれば、境内の神厩舎彫刻について、次のようにある。

 一、手をかざした母猿が子猿の将来を見ている。子猿は信頼して母猿の顔を覗き込んでいる。

 二、子供の時(純粋な時)には、悪いことを「見ざる、言わざる、聞かざる」がよい。

 三、ひとり立ち直前の猿。まだ座っている。

 四、大きな志を抱いて天を仰いでいる。

 五、人生のがけっぷちに立っている仲間を励ましている。

 六、恋に悩み、物思いにふける男女の猿を描いている。

 七、結婚した二匹の猿で、「人生の荒波」が彫られ、力を合わせて乗り越えようとしている。

 八、妊娠した猿。子供も大きくなり、やがて親になっていく。

結局、子供はいずれ親の後を追うという輪廻を描いている。

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2007年10月10日 (水)

県民性ということ

地域によって、その風土の持つ特性というものがあるかもしれない。しかし、県民性となると、若干疑わしい。昔なら、確かに傾向値というものがあったかもしれない。もちろん、現在でも、地域の文化・風土を引き継いで、県民性に影響を与えているだろう。だが、その県民性で県を特徴づけることはだんだん難しくなっているのではないか。

例えば、ある調査による(*参照)と、流風の属する兵庫県は、「融通性があり、控えめで、人当たりがよい」とある。う~ん、そうかなあ。県土も広いし、その地域によって、その特性は違うだろう。はっきりしているのは、都市部と地域では、大きく異なるだろうということ。

となると、県レベルでの「県民性」というのは、あまり信用できなくなる。こういう調査は、遊びとしては面白いが、現在のように情報が行き渡った日本では、志向が同質化しやすい。世代間で、若干その受け止め方が違うかもしれないが、かつてのような明確な地域差を見つけることは段々難しくなると思われる。

*参照 ある調査とは、『県民性の日本地図』(武光誠著)

ちなみに、拙ブログのアクセスの多い県ベスト10(兵庫県はブログに挙げているので除く)を取り上げてみると、東京都「社交的で好奇心と出世欲が強い」、大阪府「陽気で実利、個性を重んじる」、千葉県「明るく楽天的で熱しやすい」、神奈川県「現実主義的で新しいもの好き」、三重県「穏和で柔軟な考えを持つ」、愛知県「保守的だが情況に敏感」、埼玉県「堅実で穏やか」、京都府「保守的だが勉強熱心で情が細やか」、福島県「頑固で探究心が旺盛」とある。

ふむ、こういう人たちがアクセスしているのか。随分といろんな層がアクセスされているようだ。傾向値は、まったくわからん(笑)ということになる。

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2007年10月 9日 (火)

軍事力というもの

軍事力というのは外交の一手段に過ぎない。日本の自衛隊だけでは、日本を守れないから、米国の核の傘下にいるしかないという選択は外交の一つの選択肢に過ぎない。

米国から見れば、日本をそのように洗脳した方が、彼らにとって都合がよかっただけのことだ。ただ、それだけのことだ。

それを日本の一部政治家は、都合よく考えすぎだ。もちろん、戦後の復興との微妙なバランスは、敗戦時にはあった。当時の吉田首相の選択が間違っていたとは言わない。

しかし、現在の政治家は、単に、楽だから、日本はそれに乗っかっているだけのことだ。そこには、独立国家としての政治家の見識もない。

そして、軍事力というものが、常に当てにできるかというと、それは疑問に残る。それは常に経済力とのバランスが求められる。

更に、軍事力という意味においては、軍備と軍人のバランスが必要だ。そして、仮に両方揃っても、それを長期間維持することは、いかなる国でも難しい。

戦時中に、戦争体験者の話によると、どんなに優れた軍備を持っていても勝てる保証はないという。それを使う人がいなければどうしようもない。軍備だけが立派でも、戦略と戦術のすりあわせがよくて、使いこなさなければ、猫に小判である。

そういう意味では、米軍も軍備が優れていても、軍隊は強いかどうか不明だ。軍備を使うのは人間であることを忘れてはならない。

もちろん、あらゆる戦争は、経済力がものを言う。そういう意味では、過去に米国との経済関係は緊密さが求められたのは事実だ。

だが、米国経済も永遠ではない。21世紀は、あらゆる大国が漂う時代だ。その流れを読み取ることが大切だ。軍備を拡大(あるいは妄想に近い軍事同盟も)しただけで国が守れるものでもない。外交手段として、ある程度の軍事力は必要だが、外交を軽視してはならない。

現在の日本の政治家の中には、戦争を知らなくて、歴史を学んでいない若い人たちの中には単純発想・思考で、外交軽視の人々も多く存在する。

彼らのことを、真に「平和ボケ」という。彼らが増え続けると、日本は危機に陥る。戦争は、人の質が落ちた時に起こることを考えなければならない。

ある程度の軍事力は必要だが、それだけでは、どうしようもないのも歴史的事実なのだ。外交力や経済力を維持発展させる努力が求められる。

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2007年10月 7日 (日)

活き金・死に金

母がよく、「活き金・死に金」と言っていた。同じ金でも、使い方で、活き金になったり、死に金になったりするということである。

例えば、旅館に宿泊して、最初に案内に来た仲居さんに、チップを渡す(最近は、受け取らない所も多いが)と、後の扱いが全く違うということなど、それを的確に表している。

それが帰り際に渡しても、お金の効果は、その時、現れない。もちろん、すぐまた利用する場合は、次の時に、よい待遇を受けるかもしれないが、時間を措くのであれば、そのお金は無駄になってしまう。それは、死に金と言える。

このように、お金は使い方で、その効果は大きく違ってくる。別の言葉で言えば、費用対効果が違ってくる。これは、家計だけでなく、企業活動でも言える。他人の金を扱いをする場合、どうしても甘くなりがちだが、自分に置き換えて、どうするべきか考えるべきだろう。そういう意識を持つだけで、行動が変わってくるはずだ。

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2007年10月 6日 (土)

祭りの日々

秋祭り本番だ。あちらこちらで祭りの声が聞かれるようになった。そういうと父は祭りが好きだった。華奢な身体なのに、若い時は、神輿を担ぐのに参加していたらしい。まあ、あの身体では、手を添えていただけだろうなとは思うけど。

子供の頃から、職人だった父親に連れられて祭りに行ったらしい。神社の境内や神輿を担いで練り歩くのを見に行っていた。父親に連れて行ってもらった娯楽は祭りだけだったようだ。そして、あちこちの祭りに連れて行ってもらうので、自然と祭りが好きになったということだ。

流風も子供の頃は、父が仕事が忙しくても、祭りだけは連れて行ってくれたのを覚えている。今から思うと、父は、子供を連れて行く口実で、実は自分が楽しんでいたのに違いない。でも、日頃はケチの父が、いろいろ買ってくれるので、それなりに満足はしていたが。

流風も、父の影響で、情報を得ると、時間が許す限り、近くの祭りには行っている。大体、男は、皆、祭りが好きだ。この時期になると血が騒ぐと言う人も多いかもしれない。

もちろん、昔は、本音として男女が知り合いになれるというものも色濃くあったようだ。そういうと納得がいく。盆踊りだってそうだろう。老若男女の集まる場というものは、昔は、そんなになかっただろう。秋の場合は、収穫を祝って、男女の実りも兼ねて、祭りを催したのだろう。

そういう色恋は別にして、流風は、今年も祭りを見に行く。あっ、近くで、鐘と太鼓の音が。ちょっくら見てくるとしますか。

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2007年10月 5日 (金)

下情に通ずる

政治家には、下々の思いに十分気を配ると共に、細かい現象から真理を探り出す思考も求められる。残念ながら、現在の政治家には、それが欠けている。下情に通ずる、という言葉があるが、要するに下々の様子を熟知しているということだ。

前政権やその前の政権は、そういうことが欠けていた。本当の政治というものが分かっていない人がトップに立った。国民にとっては、不幸な時代であったと言える(*注)。政治家は、下情に通ずる事が大切だと、武田信玄も北条早雲も言っている。

要するに二代目のお坊ちゃまでは、世間の悲哀もわからず、政治など行えないのだ。国民にとっての「メシの種」は一体何なのかを常々考えて、行動しなければならないが、現実にそぐわない机上での理屈を振り回す人間に、泥臭い人間社会を仕切ることはできない。

また二代目、三代目のお坊ちゃん政治家も困るが、海外仕込みの理論を振り回す学者政治家にも困ったものだ。理論と現実がかけ離れていては、どうしようもない。そんなことを実施すれば、国民は戸惑い迷惑するだけだ。

政治は国民のためにするものであって、国家だけにするものではない。それを勘違いしている政治家が多すぎる。どちらに向いて政治を行うか、再度確認してもらいたい。そして今一度、下情に通ずる、という言葉を噛み締めてもらいたい。

*注

彼らは、退陣後も、政治家として居座って、いろいろ発言するが、迷惑極まりない。さっさと引退すべきなのだ。彼らができることは、議員を辞職して引退し、せいぜい後継者の相談にのるぐらいのことだろう。

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2007年10月 3日 (水)

トリック・アートと落語『抜け雀』

時々、トリック・アートというものを見るが、あまりにも立体的で、うまく騙される。持っている先入観と目の錯覚が、間違った理解を引き起こす。それも大きな被害がなければいいが、そうでないと、怖いものだ。それは宗教にも言えることだ。まあ、それも、宗教は個人のもので、団体のものではないという知恵があれば問題ないのだが。

さて、落語にも、『抜け雀』というものがある。あらすじは次のようだ。旅籠屋立花屋に、みすぼらしい旅人がやってくる。しばらく逗留しているが、宿賃を全く支払ってくれない。外見で客を判断してはいけないと言うが、この客は、初めから文無しだったようだ。

困った亭主が、仕事を尋ねると、画工だと言う。そこで、人の良い亭主は、宿賃の代わりに絵を画いてくれと言うと、彼は亭主に墨を摺らせ、新しい屏風に雀の絵を描く。そして、ぷいと出たきりになった。

ところが、その晩になると、絵から雀が抜け出し飛び交っている。これが評判となって、お客は連日連夜、絶えなくなった。まあ、人は物珍しいものが好きということだろう。これは現在も変わることはない。

そこへ、画工の父らしき老人が泊まりに来た。我が子の絵の出来を当初褒めていたが、「これでは、いずれ雀が死んでしまう」というと、亭主はびっくり。「なんとかなりませんか」と相談すると、その老人は、篭を画き添えると、雀は一斉に、そこで羽を休めた。

雀に篭か。昔、子供の頃、竹で編んだ丸い篭に、割り箸を立てて、中に米粒を置いて、雀を呼び寄せたものだが、雀は篭には入りたくないだろうな。しかし、何羽かは罠に引っかかる。小さな欲望に誘われて、自由を失う。だが彼らは自由に飛びたっているのが幸せだろう。そのためには何をすべきなのか。

それはさておき、そうすると、さらに評判を呼び、大名から所望されるまでになった。大名とか金持ちは、評判が立つと欲しくなる人種らしい。まあ、そういう人がいるから、経済がまわるんだろうけど。でも、今の日本は、別に金持ちでない人がブランド物を買い漁ったりするのは、いかがなものか。それに買い漁るのなら、内需拡大のため、日本製のもっと価値あるものにして欲しいね。

さて、そうこうするうち、数年後、あの画工が江戸で名高い画家になって、立花屋にたずねてきた。亭主たちは歓待し、あの絵を見せると、鳥篭が画き添えてある。落款を見ると、我が父。彼は、しみじみと感嘆して、自分の親不孝を恥じて、むせび泣き。

亭主が理由を聞くと、「されば、親にカゴをカカセタ」のオチ。今だったら、親の運転するタクシーに子供が乗っても不思議はないけどね。タクシーを駕籠屋なんて言えば、叱られるけど。ここはお話、許してちょんまげ。

話がいろんな方に脱線して長くなったが、結論としては、以上の落語の例も、トリック・アートに皆がうまく騙されたということだろう。人々は、一種の熱情に冷静な判断を遮られる。冷静に見ればわかることも、カッとなってしまうと、見えるものも見えなくなる。

このように、世の中にも、多くのトリック・アートが組み込まれている。このようなトリックは、多分、世の中で、あちらこちらで散見されるものだろう。それが作為か非作為かの問題ではない。時に熱くなって楽しむことも必要だが、熱に浮かされないようにする必要はある。

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2007年10月 2日 (火)

あるドラマの視聴率

あるドラマの視聴率が比較的高かったらしい。それは先日終了したNHK放送の『どんど晴れ』だ。関東で19.4%、関西で15.7%だったらしい。NHKに対して比較的批判的な流風も、実家で度々目にした。

地方の老舗旅館の話で、若女将になるヒロインを中心とした話である。若干漫画的だが、最近のいろいろな問題も含まれていて、考えさせられる内容だった。

取り上げられた内容を流風の独断で見ると、次のようになる。

  一、地域の課題

  二、地方の老舗旅館の多くの課題

  三、旅館経営とホテル経営の違い

  四、サービスとおもてなしの違い

  五、国際化競争の中での日本旅館の位置づけ

  六、忍び寄る国際資本によるM&A

  七、地域に根ざす経営と経営改革

  八、家族経営と家族の葛藤

  九、人の和の大切さ

  十、顧客満足経営と従業員満足

  十一、笑顔がつなぐ人間関係

  十二、リーダーの人間力とプラス思考

  十三、リーダーとマネジメント

以上のように思われた。しかし、このドラマの終わり方は、やや漫画的。現実には、ありえないと感じられた。まあ、そこはドラマだから許されるか。全体としては、いろいろな問題提起が含まれており、なかなか面白かったドラマと言える。45分単位で編集した再放送を期待したい。

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2007年10月 1日 (月)

足袋と羽織

昔は、女遊びをするのに、羽織を羽織って出かけたようだが、誰でも羽織を持っていたわけではない。若旦那と一緒に遊びに行くため、羽織を借りるのに、親方のところに行って、色々言い訳をする落語が、『羽織の遊び』だ。

そういうと、父は、会社から帰ってくると、必ず、靴下を脱いで足袋に履き替え、服を脱いで、羽織(*注 参照)に着替えていた。もちろん、靴の代わりに下駄で移動していた。別に遊びに行く目的ではなそうだったが。

子供の頃、理由を聞くと、「洋服や靴は締め付けられるようで辛い。しかし、足袋を履いたり、羽織を羽織ると、気分が不思議と落ち着く」と言っていた。

当時は、そんなものかなと思っていて、今、振り返ると、確かにそんな気がする。ステテコいっちょうで家の中をうろうろしていると、母からお小言を頂戴していたようだが、この気楽なスタイルは、心地よい。足袋や羽織も同じ事のなのだろう。

服装も、心身に影響を与える。すなわち、身体と心の自由度が保たれる、これらの服装こそ、男のファッションの理想かもしれないと思う今日この頃である。

*注

正確には、羽織ではなくて、丹前だったと思う。

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