暴虎馮河と戦々兢々
「暴虎馮河(ぼうこひょうが)」と「戦々兢々(せんせんきょうきょう)」という言葉は、共に、『詩経』の「小雅」の「小旻(しょうびん)」という詩から出ている。その詩の部分を引用すると、次のようである。
敢て虎を暴にせず 敢て河を馮せず
人その一を知って その他を知るなし
戦々兢々として 深き淵に臨むが如く 薄冰を履むが如し
まず、「敢て虎を暴にせず 敢て河を馮せず」とは、誰でも、危険だとわかっている虎に素手で生け捕りにしようとしたり、敢えて大河を歩いて渉ろうとはしないだろうという意。「暴虎馮河」という熟語の語源だ。
次に、「人その一を知って その他を知るなし」は、ところが、現前の危険には、わかりえても、遠く先の見えない危機に対しては、人は疎い傾向にある。指導者たる者、そのようではいけない。遠くの危機を心で見通しながら、近くの危険に対応しなければならない。
「戦々兢々として 深き淵に臨むが如く 薄冰を履むが如し」は、心を謙虚にして、慎み恐れ、まさに深淵に臨んだ場合のように。薄氷をふむが如くに、という意であろう。
以前、莅戸善政(のぞき よしまさ)の『政語』を紹介したが、その中に、「戦々兢々」という言葉が出てくる。彼が、『詩経』を参考にして、一文を認めたのは間違いあるまい。かの政治家にも捧げたいですな。
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