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2007年11月27日 (火)

寄付を集める行為を考える

毎年、年末になると、寄付の依頼が各所から来る。基本的に、何に使用されているか不明な場合が多いので、少額であっても、あまり気持ちのよいものではない。付き合いの範囲で、止むを得ないものもあるが、適正に寄付が使われているとも聞かない。

使う目的が明確であれば、寄付もしやすいが、それであっても、寄付を受ける側の考え方一つで、寄付を拒みたくなる場合もある。例えば、交通事故の遺児に対する寄付などでも、本当に向学心のある人なら、自分で働きながら学ぼうとするだろう。そういうことをしないで、寄付にのみ頼る人も最近の若い人は多いという。

もちろん、そういう状態になったことは、同情に値するが、運命は自分自身で切り開くしかない。そういう姿を見れば、逆に寄付したくなるものだ。駅周辺に立って、大きな声で寄付を依頼する姿は、一面、評価できるが、反面、そんなことする暇があるのなら、アルバイトをしたらどうだと言いたい。

そして、その中で、本当に向学心のある人なら、自然と支援しようとする人々は現れるものである。それが世の中だ。若い時から、寄付に甘えるような考えは、持たないで欲しい。そして、そういった寄付を食い物にする諸団体の胡散臭さも、もう少し何とかならないものか。

*追記

本題とは、若干ずれるが、あの安田善次郎は、小心者の朝日平吾に金の無心をされ、それを断り、刺されて死んでいる。当時、社会は失業者が溢れ、社会不安で覆われていた。安田はたしかにえげつない仕事をして、財閥を築き上げるが、必要と感じた慈善事業には匿名で寄付をやっている。それは桁違いの寄付であった。朝日は、そういうことは知らず、ただあくどい人間で、少額の寄付さえ断る悪人だと判断したのだろう。大物と小物では、ものの見方が大きく異なる。そういった悲劇だ。そう考えると、寄付などない社会が一番望ましい。

まあ、流風が寄付するのは、1年で貯めた1円預金だから、大勢に影響はないけれど(笑)。今年は、いくら貯まったかな。歳末助け合いに寄付するとするか。

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