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2007年12月30日 (日)

子供の遊び

最近、子供さんが外で遊んでいる姿をあまり見受けない。車の移動が激しく、遊び場がないこともあるだろうが、凶悪な犯罪が起こっていることも悪い影響を与えているのかもしれない。

流風の子供時代、一体、何をしていたか、思い出すと、一人でできる木登り、川遊びや泥んこ遊びはもちろん、いろいろな遊びがあったと思う。近所に田んぼがあったので、遊び道具には欠かなかった。それに友達や、近所の年上のお兄さんにいろいろ教えてもらったものだ。

少し人数が揃うと、かくれんぼ、鬼ごっこ、おしくら饅頭、だるまさんが転んだ、カン蹴り、三角ベース、エスけん、ハンカチ落しなどをよくやったものだ。その他にも、馬乗りみたいなものもあったような気がするが、残念ながら、呼び名がわからない遊びもある。

人数が揃わないと、雑草を加工して刀を作り、ちゃんばらごっこをしたり、ビー球、メンコ、面取り(おはじきで領地取り)、草相撲、釘刺し、忍者ごっこなどをしたものだ。市販されている道具としては、紙鉄砲とか、銀球鉄砲、水鉄砲、手裏剣、ぱちんこ、吹き矢などがあった。現代の親が見たら、どきっとして危ない道具を使った遊びも結構やっていたものだ。

しかし、全ての道具は、使い方次第で、世の中に役に立ったり、害を与えたりする。お兄さんや友達から使い方を教わり、間違った使い方をすれば、怒られたものだ。子供は、そういうプロセスを通じて、何がよくて悪いのか学んでいたような気がする。また社会の秩序みたいなものも、身体で経験するのは、学校教育とは異なるいい教育機会だ。

子供時代に、そういう機会を持つことが、現代でも大切と思う。最近の子供たちは、何が正しくて、悪いのか、わからない者も多いようである。そして違った年代の子供たちが遊ぶということは大切なのだが、そういう機会を与えられていないのは残念というしかない。

さて、来年のお正月には、どんな遊びを子供たちはするのだろうか。そういう機会は与えられるのだろうか。流風は、正月には、久しぶりに凧揚げとかしてみますか。近くに場所がないなあ。少し、遠征するか。

*追記

本年も、拙ブログをお読み頂き有難うございました。一応、本日を今年の最終投稿とします。来年は、1月3日、開始予定です。それでは、皆様、よいお年を!

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2007年12月28日 (金)

言葉遣いの違いと男女の関係

現在の日本では、方言によって、苦しむことは減ったかもしれない。テレビ等の普及で、標準語が話されるようになったからと言われる。しかし、方言は、今でもそれなりの価値のあるものだろう。聞いていると、その地域の特性が出て面白く感ずることもある。

また以前は、上流階級には、庶民に理解できない言葉遣いもあった。しかし、最近では、それもあまり聞かない。まあ、流風がそういった人々付き合いがないからかもしれない。

さて、落語にも、お屋敷奉公が長く、言葉遣いの丁寧な女性を娶った長屋暮らしの八五郎が、彼女の言うことが全く理解できず、てんやわんやの騒動を描いている。それにしても、お屋敷奉公の女性が、長屋に嫁ぐとは。特別の事情があるのだろう。

この落語は『たらちね』だ。よく演じられており、楽しいものだ。ちなみに、たらちねは、現代の日本では、ほとんど使わない言葉だ。確か古文で習ったのでは、和歌等に出てくる母に対する枕詞として知られている。「足乳女」又は「垂乳根」と表記され、母を指している。

大家さんの仲介で、長屋での簡単な婚儀らしきものは調うが、後はほったらかし。仕方なく、八五郎が妻となる女性に、名前を問うと、次のような自己紹介が始まる。多くの人は一度は聞かれたことのある口上だ。

「自らことの姓名は、父はもと京都の産にして、姓は安藤、名は敬三、字は五光。母は千代女と申せしが、三十三才の折に、ある夜、丹頂の鶴の夢を見て孕める故に、たらちねの胎内を出でし折は、鶴女と申せしが、成長の後はこれを改めて、清女と申し侍るなり」と。

現代でも自己紹介の長い人はいるが、このような言い方ではないので、まだ耳に入るかもしれない。しかし、言い方が異なると、同じことを言っても、受け取る方は、こうも違うのかと感じる。

ということで、この夫婦のトンチンカンな会話が続いていく。大丈夫かいな。しかし、身分も教養の点でも大きく違うのに、この夫婦はうまく行ったとしている。本当に男女の関係はわからない。

これは清女が、堅苦しい奉公先に疲れて、姑も小姑もいない嫁ぎ先で気楽に暮らせたことが大きく影響しているのかもしれない。奉公先で、いろいろあったのだろう。現代でも、キャリア・ウーマンが仕事の人間関係や男女関係に疲れて、同じ様なことを望む人がいるかもしれない。

更に、考えようによっては、清女にとって、八五郎のように教養が無い者の方が気楽だったのかもしれない。洗練された異性は、恋人としては楽しくても、一緒に暮らすとなると、却って、それは煙たいものかもしれない。結婚の遅れる現代の女性は、意外と、それに気づかず、高望みしているのかもしれない。

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2007年12月26日 (水)

思い過ごしということ

人間、気が弱くなると、何でもないことを怖れたりする。疑心暗鬼というのも、その一種だろう。自意識が強すぎると、他人が悪口を言っているのではないかと気にしたりする。

流風も若い時(学生時代)は、そういう状態に陥ったことがある。ところが、聞いてみると、「お前の話なんかしていない」ということだった。後で、「お前、自意識が強すぎるんだ」と大笑い。

そのことを通じて、人は自分が思っているほど、他人に関心があるわけではない、とわかった。関心があるのは自分自身についてのみか、自分に影響する事柄なのだ。

つまり、気弱になると、他人が自分をどう思っているか、気になるのである。しかし、他人は自分のことでいっぱいで、他人のことをいちいち気にしていないのだ。だから思い過ごしで、心を痛めることは馬鹿げている。だが、そうは簡単にいかないのが人間なのかもしれない。

少し、話は違う(人に対する思い過ごしではない)が、晉の時代の話で、楽広という人が、言ったとされる「杯中の蛇影のみ」というのがある。

彼の友人が訪ねてきて言うには、「この前、伺って、酒を頂戴した時、杯の中に蛇が見えました。気持ち悪いとは思いましたが、失礼ですので、一応飲み干しましたが、それ以来、気分がすぐれません」と。楽広は、友人が帰って後、おかしなことを言うものだと、その時のことを思い廻らすと、ははんと気がついた。

もう一度、友達を呼び、再度かつて飲み明かした場所で、再び杯を上げた。そして、「蛇が見えませんか」と言うと、友人は、あっと言う表情になった。楽広がタネを明かすと、顔色を取り戻し、それ以後、病はなくなった。実は、飲み交わした部屋には、弓が飾ってあり、そこに蛇が描かれており、それが杯に写っていたのだった。

この例は、見えているものに怯えたのだが、見えないものに怯えるということもある。無い物をあるように見せかけるからだ。そういうことに慣れていないと、ベテランでも、騙されることになる。こうなると、単に思い過ごしと言えなくなるところは、人間社会が難しいということかもしれない。しかし、そういうことさえも、人間観や観察力をきっちり養うことで、ある程度、対応は可能だろう。

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2007年12月25日 (火)

礼と文化の継承

「礼」というと、礼儀とか礼節を思い浮かべる人が多いだろう。だが、この「礼」という字は、もともと「禮」という文字で、「らい」とか「れい」と読まれる。だから、『礼記』は、「らいき」と読まれる。この文字の意味は、「示」と「豊」という字からなっており、「示」は神を意味し、「豊」は、履(ふ)み行うという意味がある。よって、神を祀る際に、履み行う儀礼と解釈できる。

これらが時代を経て、人の守るべき秩序として理解されるようになった。それが礼儀であり、礼節であろう。現代の日本では、失われた感がある。それはなぜかというと、海外の低い文化が、日本に流入した結果とも言える。

それは、日本人が、日本の文化より海外の文化が優れていると錯覚したからだ。もちろん、海外にも優れた文化が存在する。全てが全て、日本の文化が優れているとは言わない。

しかし、歴史の浅い国の文化は、やはりレベルが低いことは否めない。時間というプロセスは、文化を成熟させる。歴史が長いことは、短い国より誇れることだ。だから、日本のように、長い歴史を持つ国民は、もっと自信を持ってよいのだ。

それゆえ、文化は正しく継承されなければならない。他国の影響を全て排除することは不可能だが、よい文化は残さなければならない。それは国民国家の使命であり、世界においても、その重要性は指摘できる。もう一度、各自、礼の持つ意味を噛み締めてみる必要はある。

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2007年12月23日 (日)

三食御飯

最近、お米を買う量が増えている。何と言っても、お米は野菜なのだ!それにヘルシーライフを送りたいのなら、噛まざるをえないお米は確かにいい。パンのように流し込む食品は、ボケを増やすとも言われる。

もっと広い意味では、お米を食べることは、世界の飢えを軽減できる。パンのように二次加工すれば、人が食べられる量が減ることは知られている。

と、いきなり大上段に構えてしまったが、一時、健康のためにと思って、パン食を三食に一回程度、摂っていたのだが、どうも菓子パン類が増えて、健康にあまり良くないようなので、買うのを週1,2回に減らしているのだ。それに小麦粉の値段が上がり、パンの価格も上がり気味なのだ。

そういうことで、御飯を食べる回数が、ここんとこ増えている。そうすると、この一年、体重が減り続けていたのが、持ち直して、やや増えつつある。メタボリック症候群が話題になったが、やや太り気味のほうが体調は良さそうだ。

大体、一回に食べる量は、一合ぐらいだが、医者からは、年齢から考えて食べすぎだと注意を受けるが、一合ぐらい食べないと、食べた気がしない。さすがに昼食だけは、軽く摂ることにしている。

そして、お米は、最近、購入するのは、一応、地産地消ということで、ほとんど兵庫県産米である。県内のいろんな地域のものを購入するが、丹波産が多いかもしれない。

ある地域スーパーから購入している。美味しい方だと思う。しかし、同じ丹波産米でも、全国展開しているスーパーで販売されているのは、微妙に味が異なり、そんなに美味しくない。

同じ地域で生産しても、味が異なるのは、作り方が違うのかもしれない。また土壌が違うのかもしれない。農産物は微妙である。

ただ、地域スーパーまでは比較的遠いので、買いに行くのが億劫だ。配達もしてくれないし。近所の米屋では扱っていないという。一番いいのは、近所の米屋が扱ってくれるのがいいのだが、あまりいろいろ扱えないと言う。さて、今後、どうしよう。

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2007年12月22日 (土)

大手スーパーの価格凍結を考える

大手スーパーが、対象品目は限られるが、価格凍結を続行するらしい。さらに商品によっては、更に値下げするらしい。どういう品目かわからないが、基本的にスーパーのプライベート商品だろう。値下げのためには、業者の入れ替えもするらしい。大手メーカーがナショナルブランド商品の価格のアップをスーパーに要請しているのに対抗しての処置らしい。

一般に、消費者には歓迎されるかもしれない。しかし、ちょっと変だ。どこで作ろうと、原材料はアップしているはずだ。それを上げないというのは、どこかに無理がある。そこで、一つ、二つ少し考えてみた。

① 原材料は上がっているはずなのに、製品価格がアップされないということは、どこで、そのコストを吸収しているのか。

そもそも、プライベート商品は、スーパーが、工場を持たないメーカーの位置づけを狙っているのだろう。中間マージンをカットすることで、仕入れコストを下げられると考えているのだろう。流通を整理するのはわかるが、その分、下請工場には、コスト負担が増えてくる。その辺をどう考えているのか。

そして、スーパーのプライベート商品の下請けは、一般に中小企業と考えられる。一般に、中小企業の原材料コストは、ナショナルブランドメーカーより、高くついているはずだ。スーパーが、原材料を斡旋するにしても、若干割高だろう。製造コストについても、ナショナルブランドメーカーより高くついているはずだ。但し、管理コストは、ブランドメーカーより安いかもしれない。

そうなると、コストを削れるのは、人件費か、利益だろう。しかし、トータルでは、そんなに安くはできないだろう。となると、全てとは言わないが、手抜きしなければ、中小業者は生き残れないだろう。そんな状況で、良質な商品が提供できるだろうか。スーパーがものづくりをわかっているとはとても思えない。

② 業者を入れ替えて、利益率をアップするのはいいことか。

また、プライベート商品の価格を更に下げるということも、気にかかる。ただ、それだけでなく、仕入れの価格をカットするため、仕入れ業者も入れ替えるという。しかし、そんなことをすれば、ますます商品品質は劣化していくだろう。

仕入れ業者が疲弊すれば、長期的に見て、プライベート商品は成り立たない。どうも目先だけの営業政策のように見える。

①、②を総合して考えると、スーパーのプライベートブランドを作っている中小業者は、まともに対応しておれば、間違いなく、体力を落としていく。スーパーは、多分、仕入れ業者を共に成長する企業体とは見ていないのだろう。

仕入れ業者や従業員にも家族がある。彼らは消費者でもある。その消費者の所得が落ちれば、国内景気は悪化する。本来、流通業の役割は何なのか。

流通業者の役割は、一般消費者の意向を確認しながら、納入業者の意向も確認して、トータル的に、自社も含めて、全ての人々にメリットがあるように調整していくのが仕事ではないのか。

大手スーパーの価格凍結は、いずれ破綻するだろう。そして、それは大手スーパーさえも蝕み、消費者に見放されるだろう。今一度、共存共栄の精神を取り戻すべきだろう。そして、本来の流通業の役割に徹するべきだろう。

*追記

ちなみに、流風は、スーパーのプライベート商品の位置づけを変えるべきだと思っている。

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2007年12月21日 (金)

ほんまかいな、白熱電球製造中止

報道(共同通信)によると、白熱電球は、蛍光灯に比べ、エネルギー効率が悪いため、数年内に、製造・販売を中止する方針を打ち出すらしい。消費電力の少ない電球型蛍光灯への切り替えを促したいらしい。しかし、どうも情報の出方がおかしい。政府筋と言うが、どこかはっきりしない。

こういう情報は、ビジネスを有利にしようとする人々が流す情報かもしれない。もちろん、国際的な省エネ事情への対応に政府が迫られている事情はあるかもしれない。しかし、それに蛍光灯メーカーが乗った話と勘ぐれないこともない(*注記参照)。

確かに、白熱灯電球は、蛍光灯に比べて効率が悪いことは、以前から指摘されてきた。だから、人々は、その使い方は変えているはずだ。短い時間点灯するトイレとか玄関、風呂場などは、白熱灯でと、メーカーも推奨してきた。蛍光灯は、長時間点灯するオフィスとか、家庭のリビングに適していると言われてきた。

今、多くのオフィスや家庭では、そのようになっているのではないか。そのような状況で、白熱灯を蛍光灯に変えたところで、全体としての効率はあまり変わらないはずだ。むしろ、点灯回路の必要な蛍光灯では、代えることによる資源ロスの方が大きい。あくまで、トータルコストで考えなければならないはずだ。

多分、国内蛍光灯ランプメーカーは、苦境にあるのだろう。しかし、国を動かして、こんな小手先のことをしても、ビジネス環境は改善されないだろう。蛍光ランプ製造から撤退するか、新しい技術を付加して画期的な新製品を作るしかないだろう。問われているのは、ランプメーカーの経営姿勢だ。

*注記

基本的に、省資源・省エネルギーを考えるならば、全ての照明をLEDにする必要がある。もちろん、電球型蛍光灯の方が、白熱電球より、エネルギー効率は高いことは認識している。しかし、真剣に省エネを考えるなら、蛍光灯も、廃止を考えなければ意味はない。海外が、白熱灯から電球型蛍光灯に切り替える動きがあるからという理由で、そうしなければならないというのはおかしい。

そもそも夜間電力が余っており、照明によるエネルギーに及ぼす影響は小さい。環境問題を言うなら、そもそも電力供給自体が問題だということを認識しなければならない。これは原子力発電に誘導しようとする深謀遠慮とも考えられる。使用済み核燃料の問題の解決していない原子力発電の推進は、後世に大きな負荷を残すことを覚悟しなければならない。

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2007年12月20日 (木)

薬害問題を考える

罹った病気からは助かりたい。死から逃れたいが、ある薬を飲めば副作用で将来苦しむことが明らかな時、私達は、どのように判断するのだろうか。そういう立場になった時、あなたは、どのような選択をすべきなのか。

最近、薬害問題で、騒がれている。患者の方たちは、大変なことだろう。いろんな立場で見解が違うのだろうが、何とか国の方で救済してもらいたいものだ。厚生労働省の問題は、他国では使用禁止になっていたのに、承認したことだろう。彼らは患者側に立った発想をしてこなかったことが、大問題になっている原因の可能性が高い。

ただ、この問題は、放置すれば、あらゆる薬害を無制限に救済しなければならないようになる。仮に当局が悪意がなく、承認しても、薬の副作用が絶対にないとは言い切れないだろう。そのようなことに、全て救済するのは、大変なお金がかかる。それを税金を使って賄うとすれば、一般国民の負担は増大する。

この問題の根本は、薬というものを皆(薬品メーカー、国、医療機関、医師、患者)がどう考えるかということである。全ての薬に副作用があると言って言い過ぎではないだろう。もし副作用がないとしたら、それはせいぜい偽薬ぐらいのもだろう。

副作用のない薬はない。特に西洋薬は、特効性が強く、副作用が強い。高齢者に好まれる漢方薬も、効きが緩いから、一気に副作用が出ることはないが、長期服用すれば副作用がないわけではない。漢方薬の素人処方は危険といわれている。

ただ副作用がいつ出るかは、個人差もあり、いつ出てくるかわからない。もちろん、ある人には出て、ある人には出ないということもある。そして、副作用は、すぐに現れるものと、相当の時間を経て現れるものがある。薬が出た頃には、副作用がないものと思っていたのに、後で、副作用が生じることもあるだろう。

それでは、全ての薬に副作用があるものとして、全ての人が薬を服用しているかどうか。薬を簡単に処方してしまう医療サイドの問題もあるが、何の疑問もなく薬を服用してしまう患者側も、薬に関して認識を改める必要がある。

もう一度、薬は薬であると同時に毒であるということを再認識しなければならない、ということを今回の薬害問題は、我々一般人に、薬に対する処し方を迫っているのかもしれない。

*平成19年12月26日追記

福田首相が、薬害問題に関して、国の責任を認めて謝罪されたことは、評価したい。ただ厚生労働省に対する批判は止まないが、難しい問題であることは事実だ。マスコミは、もっと丁寧にこの問題を扱ってもらいたい。薬品会社、新薬、国の承認、副作用、患者の意向などの複雑に絡みあったことをいかに整理し、国民の認識とするか、ということだ。単に国を攻撃しても、何も生まれない。

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2007年12月19日 (水)

男子厨房に入らず

大正生まれの父は、「男子厨房に入らず」の典型の人だった。だから、よく母がぼやいていた。この年代は、誰に聞いても、こうなのよね、と諦め顔だった。父がよく言っていたのは、男は、料理などをやると、器が小さくなる。そんなものは女に任せればいいのだと。

そのくせ、流風が料理をすると、本気か、からかいかわからないが、「お前は偉いなあ」と言っていた。何でも呑み込みの早い父は、料理の研究が足りない母にいらいらし、実際は、自分でやってみたかったに違いない。

だが、聞くところによると、父が料理をしたのは、母が私を身籠って実家に帰っている間さえも、止む無く一日だけ御飯を炊いただけだそうである(*注参照)。結局、後は近所の人にやってもらって、上げ膳据え膳だったらしい。そういう意味では、男子厨房に入らずを徹底していた。

その父が、亡くなる一年前くらいに、牛肉の佃煮が食べたいと言い始めた。昔食べた味を思い出したのだろう。百貨店やいろんな肉屋を探して、買って行ったが、ついに気に入る物がなかった。

そして、ついに父は決断した。厨房に入って、牛肉の佃煮を自ら作ることに。料理は実にシンプルだった。国内高級すき焼用和牛肉を買い求めさせ、生姜を炒め、肉を入れ、酒とみりんと砂糖と醤油で味付けするだけだった。

それを本当に満足そうに食べていたのは、今でも目に浮かぶ。それが文字通り、父の最初で、最後の料理になった。そして、不思議なことに、それ以後、牛肉の佃煮を食べたいとは言わなくなったのだった。

*注

当時、御飯を炊くと言っても、現在のように、電気釜があるわけではない。「おくどさん」に薪をくべて、釜で炊くのである。だから、会社から帰ってきて、御飯の準備をするとなると、大変なことなのだ。

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2007年12月18日 (火)

上意下達

今回は、十七条憲法の第三に触れてみよう。基本的に上意下達(じょういかたつ)について述べている。一旦、上が決めたことには、従えとしている。ただ、その決め方は、第十七に記すように、独断で決めてはならないとしている。この辺は、当時の聖徳太子の苦労が偲ばれる。現代でも、組織を動かすには、一定のルールを守らなければ、うまくいかない。

三に曰く、

詔を承りては、必ず謹め。

君はすなわち天なり、臣はすなわち地なり。

天覆い地載せて、四時順(めぐ)り行き、万気通ずるを得。

地、天を覆わむと欲するときは、すなわち壊を致さむのみ。

是を以て、君言えば、臣承り、上行えば下靡く。

故に詔を承りては、必ず慎め。

慎まずんば、自ら敗れむ。

それでは、流風なりに、現代風に解釈してみよう。

まず、「詔を承りては、必ず謹め」は、トップの裁可の下ったものに対しては、いかなる理由があろうとも、従わなければならない。トップの決めたことを十分理解し、それに基づいて実行しなければならない。

「君はすなわち天なり、臣はすなわち地なり」とは、例えると、立場的に、トップは天で、部下は地である。

「天覆い地載せて、四時順(めぐ)り行き、万気通ずるを得。地、天を覆わむと欲するときは、すなわち壊を致さむのみ」は、天は、上から覆い、地は万物を載せて、万物は、自然の法則にのっとり、全てのものが、正しく巡っていく。天は天の立場と役割があり、地には、地の立場と役割がある。それぞれの立場と役割を尊重しなければならない。その法則を破って、地が天を覆おうとすれば、全てが壊れてしまう。

「是を以て、君言えば、臣承り、上行えば下靡く。故に詔を承りては、必ず慎め。慎まずんば、自ら敗れむ」は、結論として、トップの命令には、部下は素直に従い、その意向に沿って、行動しなければならない。トップが実行すれば、部下の者も、これに従わなければならない。トップの命令に叛けば、結局、自らを滅ぼすことになるだろう、と。

結局、ここで述べられていることは、最初に述べたように、トップの決裁に至るまでのプロセスは、部下との十分な協議やコミュニケーションが必要であるが、決定したことには、部下は従わなければならない。そうしないと、組織が保たれない。

こういったことは、組織人としては、当たり前のことだが、現在でも、決定したことに、色々言う人はどこにでもいる。もちろん、状況の変化対応は大切だが、それに対応するにしても、きちんとプロセスを経由して、皆が納得するようにしなければ、部下が独断専行すれば、組織の絆が崩れ、無用な混乱を引き起こすことを、理解しておかなければならない。

このように、十七条憲法は、現代人にも、大切なことを示唆してくれる。

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2007年12月17日 (月)

牡蠣の季節

牡蠣が美味しい季節になってきた。生も美味しいが、土手鍋か、牡蠣御飯、牡蠣フライにして食べる。昔は、こんな簡単な料理でも、なかなかうまく行かなかったが、最近は、いろいろなネットレシピを参考にしているので、美味しくできるようになった。

日頃、ネットの恩恵は、そんなに感じないが、ネットレシピは、わからなくなったら、すぐ調べられるので便利だ。料理本から、探すのは結構手間だからだ。

さて、今年は、いつもの広島産と違って、相生産(兵庫県)を初めて購入してみた。粒の大きさも同じ様なものだ。それを使って、今回は、牡蠣御飯を作ってみた。

牡蠣に塩を振り、軽く洗って、水切りする。後は、少し酒としょうゆで軽く煮て、米を洗って、だしと煮汁を入れて、牡蠣を乗せ炊くだけの簡単なものだが、美味しくできた。後は、大根と人参と揚げの味噌汁に、漬物少し。

牡蠣御飯は、子供からの大好物だが、父は軍隊で牡蠣を食べて、お腹を壊し、もともと胃腸の強くない父は一生苦しんだ。多分、古い牡蠣だったのだろう。それゆえ、牡蠣御飯は、子供時代は、そんなに度々は食べられなかった。父が食べないものを、母がそんなに料理できなかったわけだ。

貝類は、牡蠣に限らず、古くなるとこわい物だが、最近は新鮮なものが市場に出ており、そんな心配もなさそうだ。でも、偽装の心配もあるか。最近の風潮、いやだなあ。ただし、今回は、美味しく頂き、胃腸の方も大丈夫。これが当たり前であって欲しい。

少し食べ過ぎたが、また作ってみよう。次回は、レシピを研究して、違う味わいのものを作ってみるか。

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2007年12月16日 (日)

睡眠と健康

先日、市役所で何となく手にした、あるパンフレット(*参照)を読んでいると、「7,8時間眠る人が一番長生きし、がん・心臓病・脳梗塞などの病気が少ない」と記されていた。

ありゃりゃ、流風は、ここ十年位前から、そんなに睡眠を取っていない。そういうと、確かに、その頃から、体調の変動が激しいかもしれない。いい時と悪い時が交互に出る。しかし、健康診断だけでは、そんなに異常は出ない。

だが病というものは、ある日、突然出てくるのだろう。睡眠時間をもう少し取るべきなのかな。熟睡すれば、それでいいと思っていたので、認識を新たにさせられた。もちろん、体質差はあり、5,6時間の短眠型、9,10時間の長眠型もあるので、一概に言えないのだが。

その他の記事も若干転記しておこう。

ⅰ 睡眠医学の研究で、寝不足は子供でも肥満、集中困難(学力低下)、切れやすさなどをもたらす。

子供の夜更かしが問題になっているが、確かに近所の小さい子供さんの声が深夜まで聞こえることがある。これは、将来、不登校や引きこもりを引き起こす。子供に躾できない親の責任は重い。

流風の子供の頃は、学校に上がる前は、7時に就寝、学校に上がってからも、8時に就寝だった。高校に入ってからも、9時くらいに寝ていたように思う。ただ、社会人になって、友人と夜更かしするのが非常に辛かったことを覚えている(笑)。

ⅱ 寝不足は、大人では、心筋梗塞(2倍)、頭痛(3倍)、うつ病(4倍)、アルコール・薬物依存症(数倍)、生活習慣病(肥満、高血圧、糖尿病など)を増やす。

う~ん、ちょっと、流風も危険性があるかもしれない。もう少し、睡眠を取るよう心掛けよう。ただ寝すぎるのも悪いというし。目が覚めれば、起きよという先人の教えも無視できないし、選択に迷うところだ。

*参照

『どんまい 第12号』 (神戸市こころの健康センター)

                              「寝不足すると病気になる!」(大西道生)

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2007年12月15日 (土)

錦を巡る人間観

年末も押し迫った今頃では、錦といえば、京都の錦市場が有名かもしれない。京都は絹織物で有名だ。錦市場の謂われは知らないけど、そういうことも関係しているのだろう。

京都の土産物店に行くと、錦の端切れのようなものが売られている。きれいなので、若い時、どこかに飾っておこうと、何回も買おう思ったが、この歳になるまで、結局買わずじまいだ。別に特別高いわけでもないのに。

また、もうかなり前に、「ボロは着てても、心は錦」という歌詞の歌があったが、いつもそうありたいと思う。また、都市へ出た人々が成功して、田舎に帰り凱旋して、「錦を衣(き)て夜行くが如し」という思いから、「故郷に錦を飾る」などと表現される。

しかし、逆に失敗した場合は、帰りにくい。また帰っても、風当たりは、他所よりきつい。例えば、「あんた、何しに帰って来たん」と関西では言われるだろう。もちろん、逆に頑張れよ、と支援をもらう場合もあるかもしれない。しかし、地元の人々は、そうは言いつつ、半分見放している。そう、世間は冷たい。

あの項羽も、漢楚の争いに敗れ、かつて挙兵した江東の地へ帰って、機会を待つべきだという部下もいたが、そんな恥ずかしいことはできないといって、彼は拒否したという。多くの人を戦争で失った人間が、おめおめと一人で帰れるものか。そういう気概だったのだろう。

やっぱり、失敗した場合は、故郷は捨てる覚悟が求められる。どこかの前首相のように、おめおめと故郷に帰って悦に入っている場合ではなかろう。政治家を辞める場合はともかく。ここにも、項羽と人間観の差が明らかだ。あれ、また脱線してしまった(笑)。

お正月の用意に、さすがに錦市場までは買いに行けないが、近くに正月の買い物に行くとするか。今年も、後二週間。ちょっと、何かそわそわ。えっ、クリスマス?流風には関係ない、関係ない(笑)。

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2007年12月14日 (金)

よき理解者とは

世の中に、自分のよき理解者がいるだろうかと悩む人は多いだろう。流風自身についても、両親でさえ、私を本当に理解していたかと考えると、どうも理解されていなかったような気がする。

もちろん、親としての愛情は感じていたが、理解となると、なかなか難しいのではないか。愛情ゆえに、子供の心を読み違えることが多かったように思う。

これが他人だと、もっと難しいかもしれない。長い間、連れ添った夫婦であっても、隙間風の吹いている多くの夫婦を見た。他人を真に理解することはなかなか大変だ。

しかし、よき理解者を得ると、水を得た魚のように、心が自由になり、晴れやかになるのも事実だろう。かつて、音を通じて、交情を結んだ伯牙(はくが)と鍾子期(しょうしき)の話(*注 参照)は聞いたことがあるが、彼らのような例は稀だろう。

彼らの例は、おおいに理想とするところかもしれない。だが、なるほど鍾子期は伯牙のことを理解していたと思うが、伯牙が真に鍾子期を理解していたかどうかはわからない。理解してもらえても、相手を理解しているとは限らない。単に熱烈な賞賛と評価に対して、気持ちが嬉しかっただけなのかもしれない。そう考えると、理解するとは、一方的な思いなのだろう。

となると、理解するとはどういうことなのか。熱烈なファンの透徹した心の読み取りと言えないこともない。そうなると、一面、嬉しいようで、別の面では怖いものだ。こう考えると、理解してくれるのも、程々がよいと思えてくる。しかしながら、人は、時として孤独に陥り、理解者が欲しくなるのかもしれない。

*注

いつも伯牙の弾く琴の音を、鍾子期は、伯牙の思いを正確に聴き分け評価し、賞賛してくれたという。そして、鍾子期が病を得て、亡くなると、伯牙は二度と琴を弾かなかったらしい。

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2007年12月13日 (木)

情報判断力と伴食宰相

“伴食宰相”という有難くない言葉がある。現在の日本はどうだろう。大臣の中には、伴食宰相はいなくても、伴食大臣はいるかもしれない。本来の意味とは異なるが、官僚の言いなりの大臣は多そうである。

この伴食宰相の言葉の由来は、唐の玄宗皇帝の前期の話である。よく知られているように、彼の前半は、善政だったが、後半は、楊貴妃に溺れて悪政になっている。

前半は、賢臣を登用し、唐の最盛期「開元の治」を成している。その基礎を作ったのが、宰相姚崇(ようしゅう)だ。喜怒哀楽を示さず、政治決済が早かったという。極めて論理的に物事が整理されていたのだろう。

彼は、民に尽くすことが、国を発展させると考え、さまざまな建言をした。皇帝の奢侈禁止、罰則の適正化、賦役軽減、租税軽減、募兵制度の確立など、全てそうだ。

さて、伴食宰相という言葉がなぜできたかというと、彼がたまたま所要で留守の間、彼のお気に入りで真面目な部下の大臣に、職務代行をさせたが、どのように勤めても、はかが行かなかった。わずか十日ばかりだが、政治は滞り、姚崇の偉大さを再確認させられた。

それ以後は、必ず、姚崇に相談し、物事を運ぶようにすると、嘘のように、うまく行ったそうである。そのため、この大臣は、自分で何も決められない“伴食宰相”と民衆から、からかわれるようになる。

確かに、姚崇のような人は、現代でもいる。肝心なことは、人間哲学が確立されていたからだろうと推定できる。判断基準が明確なのだ。すなわち判断が早いということは、判断の仕組みが確立されていて、それに情報が的確に入ってくるからだ。

そういう人物であれば、自然と情報を提供しようとする人が増える。それで更に情報力が増すのだ。そして、それは若い時から、ネットワークを張ることに努めてきたからだろう。

基本的に、いろんな所から情報が入るようにしている。一部の専門領域だけでなく、自分の仕事とは全く関係ない情報も、報告が入るようにしている。もちろん、下部組織の人々の情報も、いつの間にか、耳に入っている。

このように考えると、権力が情報を吸い上げるのは事実だが、それだけでは限界があることを意外とご存じない方が多いように感じられる今日この頃である。これからの大臣は、自らの見識と情報力を高め、決して伴食宰相にならないようにしてもらいたいものだ。

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2007年12月12日 (水)

在日外国人向け放送 FM COCOLO

関西には、外国人向け放送 FM COCOLOがある。あの阪神・淡路大震災が起こった時、在日外国人の方々が、右往左往して、どのような対応をすればいいのか、わからなかった。そのことを踏まえて、各種情報を、それぞれの言語で提供できるように、1995年に開設された。もちろん、日本人が聞いても面白い内容だ。

最近の海外の音楽は、米国音楽に席巻されて、昔ほど、いろんな国々の最近の曲をラジオから流れなくなった。子供の頃は、色々な国の音楽が流れていたのに。確かに昔の懐かしの洋曲は、最近、いろんな放送局が扱うようになったが、新曲はほとんど、FMも含めて、大半が米国の音楽だ。

ところが、このFM COCOLOは、様々な国の音楽が流れる。先日も、ショッピングセンターで休んでいると、高齢のお婆さんがラジオをイヤホンで、楽しそうに聞いておられる。何を聞かれているのですかと尋ねると、FM COCOLOだった。

へぇー、お婆さんも聞くのだと少し感心していると、この放送局はいろんな国の曲が流れるので、楽しいとのことだった。各国の曲は、曲調も独特で、異国を連想させて面白い。しかし、意外なところにファンがいるもんだと少し驚いた。まあ、最近の米国の曲は、若者には受け入れられても、高齢者にはちと無理なので、頷ける話だけれど。

確かに、言語はわからないから、詞の内容は理解できないが、音楽から、何となくその国の雰囲気はわかる。音楽は国境を越えるとは言うが、まさにこのことを指すのだろう。それは、米国の英語の曲も意味はほとんど理解していないのだし、同じことだ。

ただ、広域放送とはいえ、少し離れると、聞こえない所も多い。でも、ホームページも楽しいので、聞くことが不可能な方は、下記のホームページで雰囲気を味わってください。

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2007年12月11日 (火)

もう英会話学習はいらない?

ついに待望の携帯で、日本語から英語に翻訳される機種が出るようだ。そうなれば、もう英会話の学習など不要になる。長年、流風が主張したことが、現実になるようで、正直嬉しい。

学校での英語の学習も最低限にして、他の授業に時間を使えることになるだろう。受験科目からもなくなるかもしれない。大体、高校や大学の受験科目に、なぜ英語があるのか、未だに不明だ。

戦後の英語の必要性を感じた当時のトップたちが、要請して、必須科目になったのだろうが、最早、惰性で英語教育をしても仕方ない。まして正しい日本語が話せない小学生たちに、英語を教えるのはまったくナンセンスだ。

このような翻訳機器が出たのを機会に、学校のカリキュラムの見直しが要請される。基本的には、国際社会の中で、日本人としての考え方をどのように思うかを個々に考えさせる授業が求められる。

もちろん、英会話を楽しみたい方は、英会話の学習をすればいいわけで、せいぜい旅行ぐらいしか使わない大半の日本人には、携帯翻訳機は朗報ということになる。

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2007年12月 9日 (日)

患者が増えすぎる?

自覚症状を感じない病気があるそうだが、大半は、本人が少し変と感じた時点で、異常があるのだろう。それを見過ごすことで、大事に至ることはある。そこで、普段の生活改善として、習慣を改めようと様々な対策がなされている。そして、個人レベルでの健康診断がまず求められる。

そのような状況下、日本人間ドック学会が、国が定めた特定検診・保健指導制度(40歳から74歳対象)で、医療機関の受診を勧める「受診勧奨判定値」に異論を唱えたそうだ。確かに、最近の基準は、年々厳しくなっており、患者を増やす方便に使われているのではないか、という疑いは常々持たれていた。

人々の体調は、判定値だけで決められるものではない。当然の如く、個人差はある。確かに傾向値としては、確認できても、全ての人に適用できるわけでもない。むしろ、検査データを見て、悲観的になる高齢者も多いことだろう。検査データを気にしすぎて、病気になっては、元も子もない。

大体、歳を重ねれば、身体機能が劣化するのは仕方ない。そのことを悲観的に考えても、どうしようもない。だから、高齢者は、健康診断を受けるのも、良し悪しであるという人もいる。まあ、これは言いすぎだと思うが、基本的な検査に留めるべきとは思う。血液検査とかはともかく、バリウムなどを飲むのは、逆にリスクが高いといわれる。

そして、高齢者は、データの結果に、あまり左右されず、自分自身の行き方を貫くべきだろう。このように厳しい受診勧奨判定値は、高齢者には、あまり望ましくないものだ。そういう意味では、日本人間ドック学会の指摘は、問題点を突いている(もっとも、彼らの本音は医療の需給バランスの崩れを心配してのことだろうが)。

ただ、若い人たちには、判定基準を緩めるのが、いいのかどうかわからない。できれば、年代ごとの判定基準を示してもらいたいものだ。また高齢者予備軍の流風として、個々の基準もよいが、総合判定をどのようにするのか少し興味がある。

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2007年12月 8日 (土)

今年のりんご

比較的、果物が好きな流風は、バナナを除けば、国内産を購入する。その中で、りんごは、よく食べる果物だ。特に、長野のりんごは絶品だ。長野のりんごの食感は特別だ。

かつて、子供の頃、りんご好きの伯母から、長野のりんごを頂いたのが、最初だが、なんと美味しいりんごがあるものだと感心したものだ。それから、長野のりんごのファンになった。

ただ、毎年、入手には苦労している。あまり流通していないのだ。生産量が少ないのかもしれない。今年は、長野のりんごを、まだ味わっていない。理由は、たまたま店頭で見つけても価格が高いからだ。

今年は、例年より、長野のりんごが市場に出るのが遅い上に、非常に高額だから、正直驚いている。どうしてか考えてみたが、やはり原油高騰の影響があるのかもしれない。

やむなく、青森やその他のりんごを購入している。もちろん、それらが美味しくないという事ではない。こういうことなら、伯母がやっていたように、いずれ長野の生産農家と直接コンタクトを持つようにすべきかもしれない。来年、長野に旅行がてら探してみるとするか。

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2007年12月 7日 (金)

『四耐』ということ

曽国藩といえば、清代末期の軍人、政治家で、太平天国の乱を平定したことで有名だ。彼の部下には、あの李鴻章がいる。

その彼が言ったと伝えられる言葉に、四耐、というのがある。彼一流の処世術かもしれない。それに流風なりの解釈を付け加えておこう。

 一、冷ややかなることに耐える

周囲の冷たさに耐えることは、辛いものだ。しかし、辛いと思えば、余計に辛さが増す。そういうものに耐えるには、自己の背骨がしっかりしている必要がある。そのためには、何か理想のようなものを持つ必要がある。

 二、苦しいことに耐える

苦しさには、身体上の苦しさと心の苦しさとがあろう。彼は、主として、心の苦しさを指しているのだろう。この世は、矛盾だらけだ。その中で、生き抜くには、苦しさに耐える精神力が求められる。そのためには、一、と同様、社会に尽くす大望がなければならない。

 三、煩わしいことに耐える

理想を達成するには、理解者を増やさなければならない。しかし、一人一人に、それぞれに説明するのは、大変煩わしいことである。何でわかってくれないのかと、悩むこともある。しかし、人々を取り巻く状況は、それぞれ異なり、理解の仕方は異なる。そういうことを達観して、煩わしさを避けてはならない。不思議なもので、人の理解は、ある限界点を超えると急速に理解が進む。そこまで辛抱強く待つ姿勢が問われている。

 四、閑に耐える

物事を進めていく上で、必ず、「待ち」の時間が必要だ。それは、性格にもよるが、辛いことだ。ついつい、心が急いて、あせってしまうこともある。しかし、物事には、チャンス・タイミングがある。その時期まで、待つことに耐えることがリーダーには求められる。急いては事を仕損じる、と古語(ことわざ)にもある。

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2007年12月 6日 (木)

自己評価の難しさ

自分自身を知ることは、なかなか難しい。だから自己評価というのは、なかなかできない。企業においても、自己評価制度なるものを主たる評価制度としている所もあるが、その運用は難がある。

流風の経験でも、会社員時代、自己評価制度があった。ほとんどの人間は、自己を控えめに評価して、厳しい評価を下していたが、明らかに能力の劣る人間が、高い評価をして、それが自動的に認められた時は、多くのブーイングがあった。

もちろん、一部の過大評価した人たちに問題があることは事実だが、自己を過小評価した多くの人間にも問題はある。基本的に、自己評価制度自体を過大評価した会社自体に問題があったという皮肉な結果になった。

自分自身については、よくわかっているようで、その実、わからない。本来、評価というものは、相対的なものだ。それを自分自身で評価すると、どうしても、正確さが欠ける。比較対象が異なれば、その評価は異なってくる。自分より高い人と比べれば、低くなるし、自分より低い人と比較すれば高くなる。

そういうことで、結局、会社では、自己評価も取り入れながら、第三者評価、関連部署評価、結果評価などの総合評価に落ち着いた。だが、これも曲者で、これだと、皆、同じ様な評価になり、区別できなくなる。そういうことで、成果配分も曖昧になった。

ただ、はっきりしたことがある。会社は儲からないと、誰も、たくさん分け前をもらえないということだ。これは自然界と同じことだろう。もし会社が、そういうことを知らしめることを狙っていたとすれば、深謀遠慮だが。

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2007年12月 5日 (水)

事象の大局観

政治献金は、選挙があるから必要になるものだろう。選挙に金がかかりすぎることに問題があるのだろう。防衛省の問題も、日米共同汚職の色合いが強い。双方の、それぞれの政治が思惑が絡んでいる。お互いの国内問題の共通の利益を狙ってのことだろう。

そして政治家も、最近は、悪賢くなって、証拠を残さない。政治献金を直接受け取る仕組みから、間接的に受け取る仕組みにしているのだろう。かつては、フィクサーなどの存在もあったが、現在は、もっと複雑化している。

そういう意味では、民主党の追及は、未熟さを感じる。細々とした現象から、真実をさぐることも大切だが、大局観を失うと、全体像が見えなくなる。民主党は、攻め込むのが下手な政党だ。例えば、限りなく犯人と思っても、証拠がなければ、容疑者を逮捕できない。

状況証拠には限界がある。そこで証拠品、証人の重要性が指摘できる。証拠品、証人は多い方がいい。そして、後は、容疑者に対する多面的な質問の仕方で、相手がボロを出さないか読み取る。民主党は、そういう手法に慣れていないということだろう。

もちろん、国民の前に、細かい現象を捉えて、いろんな疑惑を明らかにすることは、それなりに意味がある。自民党の不透明な体質は更に明らかになった。自民党の某代議士は、限りなく黒に近いだろう。

そして、それを明らかにした時点で、ある程度の目的は達成できているとも言える。証人喚問は、最終的な詰めに過ぎないことを民主党は、やっと理解したようだ。政治家には、現象に捉われず、大局観を失わないことが求められる。

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2007年12月 4日 (火)

ユズ風呂

この時期になると、比較的多くのユズを分けてもらえる。ユズを色々加工して、飲用にするのもいいが、流風は、それを風呂に浮かべて、楽しむ。だから、しばらくは、入浴剤は不要だ。

ユズを熱湯で柔らかくして、風呂を沸かして、ユズを手で潰すと、中の果汁が出てくるので、お湯に混ぜる。そして、残りの皮全体も、風呂に浮かべる。もちろん、果汁を出した時にできる隙間から、お湯が染み込むので、沈んでしまう場合もあるが。

この風呂に入ると、入浴剤を使う場合より、肌がすべすべになる。美容に熱心な女性が好きなはずだ。男としては、老人性のかゆみを防ぐ効果もあるので、高齢者の方は、是非試してもらいたい。

関西は、急に寒くなったので、早くユズ風呂に入りたいものだ。入った後は、ぽっかぽか。ユズを督促してみよう(笑)。

*追記

一般的には、ユズ湯と言っているが、敢えて、ここでは、ユズ風呂と表記してみた。ただユズ湯としたほうが品があるのは、確かだ。

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2007年12月 3日 (月)

男女関係の不思議さ

同じ事をある人が苦言を言っても、笑って済ませるのに、別の人が言うと腹が立つことがある。どこで、こんなに差がつくのかはわからない。

また、男女の人間関係では更に微妙だ。男女の仲には、必ず相性というものがある。このことは昔から言われてきた。ただ自ら相性のよい相手を見つけるのは至難の業である。結局、天の配剤に任せるしかないようだ。

だから、男は度胸、女は愛嬌が必要になる。男は気に入った女性にぐずぐずしていると、他の男に取られてしまう。女は、気に入った男性には、愛嬌を振りまって関心を引かねばならない。

つまり、男は自分に自信があってもなくても、相手にぶつかる勇気が必要だ。所詮、男には、女性の本質を見抜く力を備えていない。男の直感は、余程の修行者でない限り、はずれるものだ。それなら、気に入った相手には、とにかくぶつかっていくしかない。

だから、特定の相手にこだわるのは、ナンセンスだ。ダメモトが正解なのだ。若い時は、ちょっとした思い込みで、特定の対象を、この女性しかいないと錯覚しがちだが、実際は、多くの女性がいると考えた方がいい。

これに対して、女性は一般に直感力が優れているという(但し、恋愛状態にないことが前提だ。女性も、恋は盲目だ)。そこで、賢い女性は、新しい異性が迫ってきた場合、受ける場合、断る場合、いずれの場合も、とりあえず愛嬌でかわす。

そして、相手の様子を伺って観察する。そうすると、断ったとしても相手に恨まれることもない。こう考えると、選択権は男にありそうで、実質、女性が握っているのかもしれない。

しかし、恋愛関係に関しては、結果という意味においては、必ずしもそうでないかもしれない。すなわち、冷静さを失うと、恋というものに誤魔化され、女性も最初の直感力が鈍るのだ。

恋情が邪魔をして、直感力が麻痺して鈍るのかもしれない。平常心で判断できなくなるからだろう。だから恋愛関係は結べても、パートナーとしては相応しくない相手を選択することがよくある。

このようなことを避けるには、日頃から第三者的に見てくれる人を確保しておくことだろう。第三者から見て、おかしなカップルは必ずある。当人にはわからないが、第三者から見るとどうも合わないと感じるのだ。そういう意見は、尊重しなければならない。暴走しても、必ず、後で苦しむのは当事者だ。

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2007年12月 2日 (日)

呼び方を考える

ある大学で、教授が、女子学生に、「ちゃん」付けをしたところ、女子学生は不愉快に感じ、パワーハラスメントで、訴えられたようだ。ちょっと行き過ぎのような感じもするが、状況がわからないので、これ以上のコメントはできない。

確かに、企業においても、男性社員が、女子社員の後輩に、「ちゃん」付けしている例は今でも散見される。また女子社員の先輩も、年下の女子社員に対して、「ちゃん」付けしている場合も多い。外部から見ると、異様な感じがするが、それが親しみの表現だと彼らは言う。

もちろん、企業によっては、先輩・後輩にかかわらず、「さん」付けを強制しているところもある。しかし、「さん」付けは、「ちゃん」付けよりいいが、全てに適用するのは奇妙なことだ。全ての人に対して、そう呼ぶのは少し欺瞞を感じる。呼び捨てが問題なら、上司は、部下に対して、男女を問わず、「君」づけでいいではないか。仮に年上の部下だった場合のみ、「さん」付けで呼べばいいのだ。

また後輩は、上司に対しては、「役職」で呼ぶのが常識だろう。上司に対して、「さん」付けは異様だ。もちろん、こういう問題が起こるのは、年功序列は、ある程度の年齢に達すれば、公務員を除けば、完全に崩れているからだろう。しかし、年功序列が崩れても、若い上司に対しても「役職」で呼べば済むことだ。どうもそこら辺は、嫉妬が作用しているように感じるのは、穿ちすぎかな。

ところで、話は少し変わるが、テレビなどを見ていると、最近、若い人が、第三者に、「私のお父さん」とか「私のお母さん」と言っている。非常に耳障りが悪い。ああ、この人は、家庭できちんと教育を受けていないのだなあ、と思ってしまうのは、残念なことだ。

もちろん、親しい仲間同士とかであれば、そのように言っても、差し支えはないだろう。しかし、初めて会った人に、そのように言うのはおかしい。テレビ等は、不特定多数を相手にしているのだから、「私の父」とか「私の母」とか言うのが常識だろう。最近は、家庭で、そういうことも教えないのだろうか。

もっとひどいのは、関西限定の話だが、いい大人が、親のことを「おとん」とか「おかん」と言っている。全く情けない。これは「おとうちゃん」とか「おかあちゃん」と同様、子供言葉である。それをいい歳をしたものが、話している。お笑い芸人には、許されても、普通の人が言えば、結局、お里が知れてしまう。

変な言葉をしゃべって、何も自らを貶めるようなことはする必要がないだろう。本人にとっても、損なことと思う。美しい言葉を話せば、人間を実質以上に見てもらえる。昔は、芸人にも、品があったものだ。まして、一般人なら、なおさらのことだ。そして、これらのことに配慮されなくなったのは、人々が、現象に捉われて、人間社会を深く考えなくなった結果とも言えるかもしれない。

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2007年12月 1日 (土)

お茶と急須

幼い頃、外出する時、母が、夏は麦必ず茶を水筒に入れて持たされ、冬は、ほうじ茶を同じく水筒に入れて持たされた。肩にかけていて、咽喉が渇いたら、いつも飲んでいた。時々、飲み干すと、近所のおばさんに頼んで、入れてもらっていたこともある。

それほどに、家庭でいれるお茶は身近なものだった。だから、大きくなっても、若い時から、お茶は好きで、わざわざ京都には、観光がてら、よく買いに行った。主に一保堂とか、辻利だったと思う。その他にも、いろんな茶店に行き、試飲もさせてもらった。そして、比較的安いものを買い求め、自宅で急須で、お茶を入れて、頂いた。すると、気分が爽快になったものだ。

ところが、最近、急須のない家庭が増えているらしい。急須でお茶をいれる精神的ゆとりも失われているのだろうか。それとも、ペットボトルの「お茶まがい」のものを飲むことで済まして満足しているのだろうか。

流風は、ペットボトルのお茶は苦手だ。全く飲まないということではない。外出した時、止む無く、ペットボトルのお茶で済ますこともある。しかし、本当のお茶と違って妙な味がする。積極的に飲みたい代物ではない。あれは、お茶以外の成分が含まれており、「お茶まがい」というのは、そのことを指している。

やはり、お茶は、自分で急須でいれるほうが、美味しく頂ける。さすがに、最近は、近所の茶店から購入している。わざわざ京都まで買い求めに行かなくても、どれもいい味だ。農薬を減らし、生産にも、工夫しているようだ。

これを急須で、熱いお茶をゆっくり飲むと、やはり本当にほっとする。また茶葉の量と湯温のバランスで、色々な味が楽しめる。マニュアルには、一番美味しい方法が記されているが、自分の好きな味を探すのも面白い。

別に、茶道を習う気はないが、お茶の時間を味わう精神性は、自分ひとりでも、味わうことができる。そのために、家庭で急須ぐらいは持って欲しい。そして、できれば、各個人が、マイ急須を持つようにしたらどうだろう。

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