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2007年12月28日 (金)

言葉遣いの違いと男女の関係

現在の日本では、方言によって、苦しむことは減ったかもしれない。テレビ等の普及で、標準語が話されるようになったからと言われる。しかし、方言は、今でもそれなりの価値のあるものだろう。聞いていると、その地域の特性が出て面白く感ずることもある。

また以前は、上流階級には、庶民に理解できない言葉遣いもあった。しかし、最近では、それもあまり聞かない。まあ、流風がそういった人々付き合いがないからかもしれない。

さて、落語にも、お屋敷奉公が長く、言葉遣いの丁寧な女性を娶った長屋暮らしの八五郎が、彼女の言うことが全く理解できず、てんやわんやの騒動を描いている。それにしても、お屋敷奉公の女性が、長屋に嫁ぐとは。特別の事情があるのだろう。

この落語は『たらちね』だ。よく演じられており、楽しいものだ。ちなみに、たらちねは、現代の日本では、ほとんど使わない言葉だ。確か古文で習ったのでは、和歌等に出てくる母に対する枕詞として知られている。「足乳女」又は「垂乳根」と表記され、母を指している。

大家さんの仲介で、長屋での簡単な婚儀らしきものは調うが、後はほったらかし。仕方なく、八五郎が妻となる女性に、名前を問うと、次のような自己紹介が始まる。多くの人は一度は聞かれたことのある口上だ。

「自らことの姓名は、父はもと京都の産にして、姓は安藤、名は敬三、字は五光。母は千代女と申せしが、三十三才の折に、ある夜、丹頂の鶴の夢を見て孕める故に、たらちねの胎内を出でし折は、鶴女と申せしが、成長の後はこれを改めて、清女と申し侍るなり」と。

現代でも自己紹介の長い人はいるが、このような言い方ではないので、まだ耳に入るかもしれない。しかし、言い方が異なると、同じことを言っても、受け取る方は、こうも違うのかと感じる。

ということで、この夫婦のトンチンカンな会話が続いていく。大丈夫かいな。しかし、身分も教養の点でも大きく違うのに、この夫婦はうまく行ったとしている。本当に男女の関係はわからない。

これは清女が、堅苦しい奉公先に疲れて、姑も小姑もいない嫁ぎ先で気楽に暮らせたことが大きく影響しているのかもしれない。奉公先で、いろいろあったのだろう。現代でも、キャリア・ウーマンが仕事の人間関係や男女関係に疲れて、同じ様なことを望む人がいるかもしれない。

更に、考えようによっては、清女にとって、八五郎のように教養が無い者の方が気楽だったのかもしれない。洗練された異性は、恋人としては楽しくても、一緒に暮らすとなると、却って、それは煙たいものかもしれない。結婚の遅れる現代の女性は、意外と、それに気づかず、高望みしているのかもしれない。

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