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2008年1月17日 (木)

勧善懲悪について

最近、『鞍馬天狗』など時代劇が見直しされているように感じるが、流風が子供の頃は、テレビや映画では、勧善懲悪を題材にした時代劇が多かったように思う。

古くは、『南総里見八犬伝』などから、隠密や忍者物の『隠密剣士』など。それに、『銭形平次』などの各種捕物帳。『大岡越前』のような奉行物。少し傾向は違うが、『鬼平犯科帳』のような不法取締りもの。現在でも放送している松下幸之助が好きだったと云われる『水戸黄門』等々。

そういうことを通じて、子供時代は、何が善で、何が悪なのか学んだように思う。もちろん、これらは一面的で、見方が偏っているとも言えるが、子供にはわかりやすい。こういう時代劇を見ていると、法治国家とは、いかなるものか、自然に学べるものだ。

しかし、世の中は、完全に勧善懲悪かというと、そうであって欲しいが、必ずしもそうでないだろう。だが、始めから、それを諦めてしまっては、どうしようもない。いろんな立場で、取り締まる立場にある人たちは、勧善懲悪という精神を失ってはいけないだろう。

十七条の憲法の第六では、そのことが指摘されているので、取り上げてみよう。基本的には、役人に対する戒めである。

六に曰く

悪を懲らし、善を勧むるは、古の良典なり。

是を以て、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては、必ず匡(ただ)せ。

其れ諂(へつら)い詐(いつわ)るものは、則(すなわ)ち、国家を覆すの利器たり。人民を絶つの鋒剣たり。

また佞媚(ねいび)する者は、上に対しては、則ち好みて下の過を説き、下に逢いては、則ち上の失を誹謗す。

其れかくの如き人は、みな君に忠なく、民に仁なし。是れ大乱の本なり。

いつものように、解釈すると、まず、「悪を懲らし、善を勧むるは、古の良典なり」とは、善をなすように勧め、悪を懲らしめるということは、昔からの国家を治める基本的な原則である。こういうことを中途半端にすると、人心が乱れ、落ち着きがなくなり、ひいては、国家を乱すことになる。

次の「是を以て、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては、必ず匡(ただ)せ」とは、これから言えることは、人が善い事をした場合は、オープンに、正しく評価しなければならない。他の人は、それを見て、自らの行動を正すことができるのだ。逆に、人が悪いことをしている場合には、徹底的に、これを糾し、こういう行いが二度と起させないようにしなければならない(単に罰するだけではいけない)。そうすれば、他の人も真似ることをしない。

「其れ諂(へつら)い詐(いつわ)るものは、則(すなわ)ち、国家を覆すの利器たり。人民を絶つの鋒剣たり。」は、上に対して、真実を告げず、上の顔色を見ながら、諂いや嘘偽りを言うようなことではいけない。そのようなことをすれば、国家転覆に役立つだけなのだ。それは、結局、一般人民を苦しめる鋒(ほこ)や剣になってしまう。そういうことのないように、役人は勤めなければならない。

「また佞媚(ねいび)する者は、上に対しては、則ち好みて下の過を説き、下に逢いては、則ち上の失を誹謗す」は、また諂い媚びる者には、最大限、注意しなければならぬ。彼らは、上に向かって、下の過ちの悪口を言い、下に向かっては、上の失敗を誹謗中傷するものである。

「其れかくの如き人は、みな君に忠なく、民に仁なし。是れ大乱の本なり」は、結論として、これらの諂詐や佞媚する者は、トップに対して、忠誠心はこれっぽちも持ち合わせていないし、民衆に対しては、慈愛も、持ち合わせていない。彼らの本心は覆い隠されており、わかりにくいが、注意深く日常の行動をつぶさに観察し、放置してはいけない。なぜなら、彼らは国家大乱の基となる可能性が高いからだ。

聖徳太子は、人間というものをよく見ておられる。人間とは、誰もが善悪両方持っており、そのどちらを優先するかは、考え方次第で決まる。つまり社会に対して正しいことをしようとすれば、善を行うしかない。善を行えば、悪は減る。悪は完全にはなくならないが、減らすことはできる。

すなわち、善を行うことを優先し、悪をコントロールできれることが望ましい。そして、人間社会では、個人の行いが、多くの人々に影響を与える。特に高い地位にいる方は、十分気をつけなければならない。自分を律する人が増えれば、結果的に社会・国家は安定することになる。法律だけでは限界があることを知らねばならない。

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