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2008年1月 3日 (木)

潤滑油としての“礼”

礼については、昨年のブログに記したが、聖徳太子はどのように考えられたのだろう。それが、十七条の憲法の第四である。新年にあたって、改めて確認してみたい。

  四に曰く

  群卿百僚、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるの本は、要 礼にあり。

  上 礼なきときは、下 斉(ととのわず)。下 礼なきときは、以て必ず罪あり。

  是を以て、君臣礼あれば、位次乱れず。百姓礼あれば、国家自ら治まる。

例によって現代的に流風的に解釈すると、次のようになるかもしれない。

まず「群卿百僚、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるの本は、要 礼にあり」は、役人達は、礼を基本にしなさい。本来、国民を治める根本は、基本的に国民に対する礼にある。そのことを忘れて、自己の立場が偉いなどと思ってはいけない。自分の立場は、国民あってのものと思わなければならない。

次に、「上 礼なきときは、下 斉(ととのわず)。下 礼なきときは、以て必ず罪あり」は、役所の上司が礼を失っせば、部下はこれにならい、必ず、組織秩序は乱れるだろう。組織というものは、そういうものだ。広く、役人と国民の関係もそのようである。また同様に、国民の間同士でも、同様に、礼を欠けば、人間関係がぎすぎすして犯罪を犯すものも現れよう。すなわち、あらゆる社会において、礼のもつ意味は大きい。

「 是を以て、君臣礼あれば、位次乱れず。百姓礼あれば、国家自ら治まる」は、よって、あらゆる上司と部下の間に、礼が行われると、人間関係がスムーズに行き、序列も乱れず、組織風土もよくなる。それは一般国民の間でも、同じことで、礼が行われると、究極的に国家が治まるのだ。

戦後、戦前の儒教教育を受けた世代が残っているうちは、そういう雰囲気もあったが、それ以後は、新しい欧米型教育のためか、礼が失われている。それを如実に現しているのが、教育現場であろう。

教師と生徒の間に、そういうものが失われている。それは教師と親の関係もそうだ。教師に対して、生徒や親に尊敬する心がなければ、教育は「知」を教えるだけの機関になってしまう。今は、そんなものは、ネット学習で十分だ。これを糾さない限り、日本の将来は危いことになる。

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