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2008年1月20日 (日)

ペット墓から先祖供養を考える

最近、先祖供養しない人たちがいる。毎夏のことだが、盆休暇にでさえ、お墓参りもせず、それ海外だ、レジャーだといっている人たちがいる。そういう人たちの墓は、実際は存在していても、実質、お墓は倒壊しているのと変わりない。魂は浮遊するばかりである。そのような家は栄えないと云われている。

その一方で、最近、ペット用の墓苑がある聞いて、ちょっと違和感を覚える。ひどい人になると、ペットのお墓を造っても、人間の先祖供養しない人たちがいる。ペットに感情移入していた人たちにとって、ペットは家族というが、そうだろうか。

一体、犬や猫に魂があるのだろうか。実は、こうした疑問は、昔からある。『碧厳録』の第六十三則に「南泉斬猫児」とある。禅僧、南泉普願は、犬や猫に仏があるか、論争して、猫を斬ったのだ。

このことは、後世、批判の対象になる。こういう極端なことをしないと、凡夫は気づかないと判断したのかもしれない。やり方はまずかったが、評価できると、評価する向きもあった(*注)。

人間は、動物とどう違うのか。人間が動植物と違うと主張するのであれば、人間は畜生から脱し、それに相応しい行動を取らなければならない。果たして、どれだけの人々が、人間としての行動を取れているのだろうか。

人間は考えるところが、動物と違うと云われる。自分の存在価値を自ら確認できるのが、人間ということか。そういうことで、私達は先祖があって、現在の自分があるという意味において、先祖を崇拝してきた。

ペット墓を造る人たちは、多分自分自身の存在価値を認識していない人たちが多いのではなかろうか。私達は、ペットから生まれたわけでもないし、ペットを産んだわけでもない。自分の存在確認をしておれば、ペットのお墓などは作らないだろう。ペットが祖先ではないのだから。まずは、先祖供養をすべきだろう。

*注

ただ、『碧厳録』は難解なので、流風が必ずしも正確に理解しているわけでもない。

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