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2008年2月29日 (金)

休日思考が価値を生む

以前、確か、谷口正和氏が、「個人の需要や地球の需要は、休日から生じる」と語っておられた。どういう論理で、そういうことを言われたのかはうろ覚えだが、彼が言う、この休日が、私達が普通に考えている休日とは違っていたように思う。

彼の指摘していることは、私達は、普通働いていると、一般的に土日祝日(あるいは別途、日にちをずらして獲得した休日)を休日と考え、仕事日と分離して考えているが、これからの時代は、そういう区別は無駄と考えることかもしれない。

すなわち、仕事と休日の区別がつかなくなり、仕事日も、ある意味、休日であり、休日も、ある意味仕事日であるということだろうか。ただ、この考え方は、自営業であれば当たり前のことである。彼は、サラリーマンに対して警告を発していたのかもしれない。サラリーマンも、自営業の感覚を持てということだったのかもしれない。

仮に、組織の歯車であるとしても、常に仕事と一体化して考える。そうかと言って、かつて言われた猛烈サラリーマンとも異なる。仕事時間も自分の持ち時間と考え、その他の睡眠時間や自由時間と一緒にトータルで、時間設計をしていくのがいいのかもしれない。

もちろん、組織に所属すれば、実質、時間が拘束されるわけだが、それさえも楽しんでしまう考え方が求められている。そういう発想を許す企業からは、いろいろなアイデアが生み出され、組織が活性化され、事業に伸びていく。

人間の脳は、拘束すれば退化していく。分かり易く言えば、公務員・官僚の脳と同じ様になる。しかし、税金で生きている公務員・官僚はともかく、民間企業は、それでは存続できない。脳の不活性をなくし、企業価値を高めていくには、組織に所属する人々の休日の考え方を改めていくことが求められるかもしれない。

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2008年2月28日 (木)

『四不』ということ

最近の色々な事件を見ていると、リーダーに心得がないのではないかと思われるフシがある。リーダーの選び方に問題があるのかもしれない。大事に臨んだ場合、どういう心がけをしなければならないのか、少し考えてみたい。

以前、曽国藩の『四耐』を取り上げたが、今回は、同じく彼の『四不』を取り上げてみる。四不とは、不激、不躁、不競、不随のことである。

一応解説すると、不激とは、大事を前にして、やたらと皆の前で興奮してはならないということ。人間、大事を前にすると、緊張も高まり、少しのことに反応して興奮しやすくなるが、それでは、正しい判断はできなくなる。

そうでなくても、あらゆる環境が心を乱すように仕向けるのだから、それに乗らないことが肝要である。周囲が興奮していても、どっしりと構えて、泰然としていることが大事である。それには、日常の鍛錬が必要だ。

不躁も同様だが、大事を前にすると、興奮して、ちょっとした変化にも、じたばたしがちである。しかし、そんなことでは成功は覚束ない。当初の志に基づき、冷静に対応することが求められる。まさに、こういった時こそ、平常心が求められるのだ。

不競とは、大事の前に、わずかな功名心に誘われて、徒につまらぬ競争をしてはならない。そんなことをして、組織を乱せば、大望が達成できなくなる。大事は何なのか、もう一度原点に戻って、功は他に進呈するぐらいの度量を以て、臨むのが宜しい。

不随とは、全てが決定していて、大事に臨む時は、率先垂範が望ましく、他の人の後からついていくというような無様なことは避けなければならない。最近は、リスク管理と喧しいが、勢いよく打ち込めば、意外と死なないものだ。

こわがって何もしなければ、道は開かれない。最初に打ち込んで、そうして初めて目的が達成される。もちろん、ある程度の見通しは必要だが。

彼の考え方は、人間というものをよく知っているということを示すものだろう。最近の指導者には、こういう心がけが足りないと思う。もちろんリーダーには、若干芝居がかったところも要求されることも含めて。心の鍛錬の仕方は色々あるだろうが、人間学をもっと極める必要があるのではないか。

*追記

ちなみに、故佐藤栄作元首相の墓碑銘は、「不拒、不追、不競、不随」だそうだ。トカゲの尻尾切りで、長期政権を保った人らしい言らしい。しかし、曽国藩の『四不』と、言葉の深みがまったく違う。

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2008年2月27日 (水)

ニーズの発掘とは

マーケティングには、ニーズの発掘が必要だが、サービス化社会では、顧客との接触での顕在的ニーズが重視される。顧客がして欲しいことを企業に明確に表すことによって、それを事業化することによって、ニーズを吸収することができる。

しかしながら、これで満足してしまうと、企業の更なる発展性は乏しい。顧客の表面的な要望に対応しているだけでは、企業業績をアップすることが難しい。しかしながら、最近の流通産業や食品産業の対応を見ていると、これはかなり遅れていると言わざるを得ない。

すなわち、教科書的に言えば、顧客の潜在ニーズの発掘が全くできていないのだ。いや、無視されていると言うべきか。顧客の感情的・表面的ニーズに誤魔化されると、その心の奥底に眠る潜在的ニーズに気づかない。

もちろん、顕在的ニーズに対応することが大事ではないとは言っていない。すなわち、顕在的ニーズを把握しながらも、潜在的ニーズを読み込む努力が必要と言っているのだ。確かに、顕在的ニーズに対応している方が楽で、確実だ。

だが、それだけでは、一歩先を行くことはできない。何も十歩先を行けとは言わない。それは少しの努力の追加で可能ではないか。それは確かに難しいと思われるかもしれない。

しかし、ある流通経営者は、潜在ニーズは仮説の検証によってなされると言っている。つまり、自分自身が顧客の立場になって、何を望んでいるか確認し、それを市場に試験的にあたって見るというのも一つの方法かもしれない。今一度、消費者の立場になって考えれば、案外、少しのリスクだけで、簡単かもしれない。

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2008年2月26日 (火)

患者自らが“医師”

医師不足とか医療費の問題があるが、本来、病は、自ら治すものだ。医師の手を借りなくても済むような状態を保ちたいものだ。もちろん、それが過ぎて、手遅れになったら元も子もないが。以下のことは、流風の実体験の反省から、まとめてみた。

医療貧乏という言葉がある。病気になって、医療機関の面倒になれば、日本のような保険体制の充実した国でも、薬とかも含めて無駄なお金がかかる。それに、病気の間は、それだけ時間を浪費することになる。時間とお金をケチるためにも、病気にならないようにするため、予防にお金をかけることは、むしろ理に適っている。

そして、大事なことは、前にも触れたが、心を正すことだ。心の状態に応じて、常に真中に持ってこれる方法も知っておく必要がある。すなわち、世間で生きていれば、色々なことが起こり、心が偏った状態になる。それを元に戻す方法を知っておけば楽だ。つまり起き上がりこぼしのような状態にできることが大切だ。

例えば、心がハイの時は、一人静かに心を鎮める必要があるだろう。それは熱いお茶をゆっくりと飲んだり、読書をすることかもしれない。憂鬱な時は、交友を通じて憂さを晴らすことも大切だ。但し、酒の飲みすぎは、よくないが。

病気にならないようにするには、自らが自らの“医師”と思って、自己をコントロールすることが肝要ということだろう。

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2008年2月25日 (月)

狂言『花子』から見る男と女

狂言『花子』を先日、NHKで放映していた。実際、舞台で鑑賞したことはない。また、念のために記すと、「はなこ」ではなく、「はなご」と読む。「花子」とは遊女の名前だ。ご覧になった方はわかるたろうが、例によって、嫉妬深い妻の話である。

一応、あらすじを記すと、ある男が、以前、東国に下った時に、花子という遊女となじみになる。まあ、昔から、単身赴任の浮気は、あっただろう。男は間もなく都に帰るのだが、その花子が都に上ってきたことを知る。男は是非会いたいが、嫉妬深い妻から抜け出すことは難しい。

そういうと、父も母の嫉妬には手を焼いていた。父は真面目な人だから、女性問題はなかったはずだが、二人で歩いていて、父がちょっと他の女性の方向を見ただけで、母は焼餅を焼いて、後で必ず揉めていた。母は、流風から見ても、ちょっと大変な女性だったようだ。

女性が嫉妬深いということは、それだけ男に対して、妻の愛情が深いということかもしれないが、夫は、束縛されるようで、却って辛い。妻は、そういう男心は察せず、ますます縛ろうとする。そうすれば、男の心が離れることをお分かりではない。

そこで、夫が抜け出すために考え出したのが、持仏堂で座禅をするということで、妻を寄せ付けないことができると判断。妻を説得して、その間は、持仏堂に来てはならないということにする。そして渋々何とか了解を得る。

彼は、持仏堂を抜け出すため、太郎冠者に身代わりを頼み、衣を被らせ待たせる。夫は、意気揚々と出かけて行き、花子との逢瀬を楽しみ、帰途に着く。

しかし、妻は持仏堂を覗いてはいけないと言われたものの、心配になって、持仏堂に行き、ついには太郎冠者が被っている衣を剥ぎ取ってしまう。そうすると、夫ではなく、太郎冠者ということにびっくり。鶴の恩返しじゃないが、人間、見てはならないと言われれば、見たくなる。夫は、そこまで考えが及ばなかったのだろう。

妻は怒り、衣を代わりに纏って、夫の帰りを待つ。そこに夫が帰ってきて、楽しかった逢瀬のことをうれしそうに話す。さらに妻の悪口まで。窮屈だろう、いつまでそうしているのだと言って、衣を剥ぎ取ると、アレッー、妻だ。怒った妻に追いかけられて、終演となる。

まあ、こういう話は現代でもある。以前にも記したが、単身赴任というのは、男には危険な香り(笑)。妻は、単身赴任させたら、ある程度は覚悟せねばならない。しかし、それを引き摺られると、ややこしくなる。

なお、狂言では、妻は、最終的に怒ったフリをしながらも、許しているという解説があった。この妻は、優しいね。まあ本気でなく遊びである限り、妻も許せるかもしれない。だが、ちょっと作者の男の願望が入っているのかもしれない(笑)。

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2008年2月24日 (日)

忘己利他

忘己利他という言葉がある。普通は、自利他利というのが商売と考えられがちだが、まず自分のことは忘れて、他を利することを優先する考え方。これは、大丸の経営理念の「先義後利」(*注)と似ているかもしれない。

企業も自分中心主義に陥ると、顧客のことなど忘れ、自己の都合で、勝手に事業を営みやすい。各種偽装が起こった要因はそういうことだ。顧客のことを全面的に考えておれば、そういう発想は出てこない。安易に儲けようとするから、おかしくなる。

商売は、顧客をじっと見つめておれば、ヒントはいくらでもある。それを顧客とコミュニケーションしながら、ビジネス化していくのが、筋だ。もちろん、簡単に儲かるビジネスなど、一つも無い。だが顧客のことを考えて、事業を進めていけば、自然と食べる分ぐらいは稼げるものである。後は、どのように始末するかしないかの差で、大成するかどうかが決まる。

*注 先義後利とは

この言葉は、大丸の創業者が、『荀子』の「義を先にして、利を後にする者は栄える」から、取ったとされる。社会や顧客に貢献して、初めて信用が得られ、少しの利が残ると言う考え方。最近の企業は、利益幅を喧しく言うが、本来は、牛のよだれほどに利が薄く、長く継続する事業がよしとされた。問題を起こした企業は、この精神を見習って欲しいものだ。

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2008年2月23日 (土)

隣の芝生は青い

隣の芝生は青いと言うが、経営者が自社の経営に自信を持てなくなって、他業種に進出しようとすることがある。もちろん他業種は、自社より儲かると思うからだろう。しかし、自社内に専門家がいない限り、成功することは適わない。それぞれの分野で、専門的な知識なくして、その分野での成功は難しいのだ。

最近のM&Aの動きを見ても、自社の分野とかけ離れた分野で成功することは稀だ。あのタバコ会社にしてもそうだろう。買収すれば、数字上では成功すると錯覚するらしい。しかし、それぞれの分野で、それぞれの難しさはある。

もちろん、専門分野だから、成功するとも言えない。専門分野に捉われて、視野が狭くなれば、人はどうしても悲観的になりがちだ。大きく世界を見れば、自社の仕事は、いろいろな可能性があるはずだ。それを切り口を変えて、見直せば、新しいビジネスも可能だ。

しかし、経営者も当座の仕事に追われたり、資金が窮屈だと、考える余裕をなくし、そういう考え方への展開を考えられなくなるようだ。ということは、新しい分野への進出は、既存分野での展開が比較的うまく行っている間に、用意しておく必要があるということになる。経営とは、つくづく大変なものだ。

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2008年2月22日 (金)

どこか変、二酸化炭素排出権取引

二酸化炭素排出権取引が、環境問題がらみで行われているようだが、どこか変だ。要するに、排出権の権利を売買しているだけのことだ。これだと、実際の二酸化炭素の減少には、直接的には役に立たない。むしろ、安易な二酸化炭素取引は、環境問題の先延ばしと捉えられる。いや、むしろ、その間に、環境は悪化すると考えられる。

これらは机上の考え方で、実効性の乏しいものであるのに、なぜ一部の企業や国は、排出権取引に熱心になるのか理解に苦しむ。そんなことより、企業活動の見直しや、国民生活の見直しによって、二酸化炭素の排出を減らす努力を促すのが重要ではないか。

名目的なしがらみに捉われて、このような表面的な繕いをするだけでは、環境悪化を止めることはできないことは小学生でもわかることだろう。危機感を国民に持たせるためには、国民的行事として、電気の来ない日とか、ガスが止まる人か、ガソリンの販売が停止する日とかを作って、国民が、皆、危機感を持つようにしないといけない。

*追記

国際的な排出権取引については、日本は参加すべきではないだろう。これは合法的な国際詐欺に近いことを忘れてはならない。世界が日本に強要するなら、その仕組みから脱退すればいいことだ。この仕組みは悪魔の仕組みであることを再認識する必要がある。

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2008年2月21日 (木)

女性の四つの徳

最近の関西の女性(*注)の言葉を聞いていると、残念ながら、全般的に非常に汚い。それは単に方言として捉えるからではない。地方の方言でも、それなりに品のある言葉はある。大阪にも、かつて品のある言葉があった。

なぜ、関西の言葉が汚くなったかといえば、女性が男言葉を発するようになったからだろう。テレビに出演する程度の低い関西の女芸人たちの影響もあるかもしれない。また学生時代から、そのような環境で育つと、それが当たり前になるらしい。家庭でも、そんなに言葉遣いに、うるさく言わないのも影響しているのかもしれない。

もちろん、そうだからと言って、今更、慇懃無礼な言葉遣いに改めよとは言わない。もう少し、落ち着きのある話し方をしてもらいたいのだ。関西には、「いっちょかみ」という言葉がある。知らないことでも、何でも、言葉をさしはさみ、自分が関心があることを示そうとする態度を指す。

そういうことが、言葉を軽くし、騒々しくなる。すべてにおいて、それが悪いとは言えないが、それも程度問題。だが、女性の社会進出に伴い、相手の話を遮り、自分の意見を通そうとする女性も多く見られる。それが女性の品を落としているのだ。

かつて、女性には四つの徳があるとされた。それは『周礼』にあり、婦言、婦徳、婦功、婦容である。この一つでも、欠ければ、女性としての価値を損じることになる。

まず、婦言とは、婦人の言葉遣いの心得として、その言は鮮やかであるけれども、慎み深く、汚い言葉遣いを使わない。女性の言葉の影響力は大きい。一つ一つ言葉を選びながら、今発する言葉が、どのような影響を及ぼすかを見極めながら、発言していく。

次に、婦徳とは、婦人の守るべき徳義のことで、才能を表立って見せることはせず、立居美しく、静かであり、どこから見ても、恥をかかないように振舞うことをいう。身の回りを美しく保ち、それを人知れず、広めていくこと。あるいは実行していくこと。

次に、婦功とは、人と比較して優れる必要はないが、家内のことは一応何でもこなし、状況状況に応じて、来客者にも適宜対応できることを指す。言い換えれば、いつも臨戦態勢にあるということ。

次に、婦容とは、容色を美しく保つということではなく、いつも身だしなみを美しく保ち、いかなる事態にも冷静に対応できる心構えを持つこと。

これらを完璧にこなすことが、女性の基本姿勢とされた。そして、遍く広く行われれば、修身齊家ということにつながるとされた。すなわち身を修めることは、家を齊(ととの)えることになる。そして、そういうことが国家を治めることにつながる。昔の人は、いかに家庭の重要さを認識していたかがわかる。そして、女性の役割を重視していた。

そう考えると、現代の関西の女性の言葉遣いの荒さは、自ら自分の地位を貶めているのかもしれない。

*注

どこまでを関西の女性とするかは難しいが、大阪を中心とした女性を想定している。もちろん、対象の女性が、全て上記ブログのような女性ばかりではないことは間違いない。

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2008年2月20日 (水)

日本の農作物

石油価格の上昇と、その対策として考えられたバイオ燃料が、食糧価格を上げているとなると、輸入食糧価格は、更にひどくなるかもしれない。例えば、日本の小麦粉の大半は輸入品だ。その小麦粉の値上げが続いている。小麦粉を使った食品関係はいずれ大幅な値上げをするだろう。

その結果、パン屋も値上げしている。価格が変わっていない所も、パンの大きさが小さくなっている。おいおい、こんなに小さくするなよ、という感じ。その他の食品は、よくわからないが、上がっているのかもしれない。

以前のブログでも記したように、流風は、パン食を減らしている。ただ価格が上がる前からだ。ご飯の方が体調がいい。確かに、パン食を増やした頃は、体重は落ちた。その結果、理想体重にはなった。だが、それと共に体力も落ちた。夏場は非常に苦しかった。そういうことで、ご飯中心の生活に戻したところ、体重も徐々に戻り、快適だ。寒い日が続くが、風邪もひかない。

だが、パンを全く食べないわけでもない。最近は、くるみ入り食パンに少し凝っている。普通の食パンより高いが、何とも言えない食感だ。しかし、価格は10%程度上がっている。それでも、人気があるのか、すぐ売切れるようだ。ただ、どこまで値上げに耐えられるか。

まあ、この程度の購入頻度からすれば、現在のところ、あまり家計にはあまり影響がない。しかし、これから様々な食品が更に上がっていくとなると、家計にボディーブローのように利いて来るのだろうか。

だが、これは逆に国内農業にとってはチャンスかもしれない。餃子騒動のように、海外の農作物の安全性には依然疑問が残る。国内で、消費者が望む農作物を提供すれば、需要は拡大する可能性がある。日本の農作物が、安全の世界標準になればいい。

農作物が安全であれば、その加工物も安全に作ることができる。消費者は、やっと、そのことに気づき始めた。そういうと、最近、スーパーのレジに並んでいると、気づくのだが、加工品が減って、野菜を購入する人が多い。いつまで続くか知らないが、よい傾向ではないか。自給率を高めて、国産消費を増やすべきだろう。結局、それが消費者を守ることになる。

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2008年2月19日 (火)

外見と中身~但し、落語のことです

掛軸というのは、和室には欠かせないもので、それで部屋の雰囲気が違ってくる。洋室の絵画に匹敵するものかもしれないが、掛軸は、もっと深い意味がある。そこに住む人間の精神性の反映と言えるかもしれない。それは茶室の掛軸も同様だ。

その掛軸を題材にした品のよい落語に『一目上がり』というものがある。今回は、好きな落語のあらすじを覚えとして記していく。ご存知の方は、少し長いので、読み飛ばしてください。

例によって、長屋の八さんが、横町の隠居の所に遊びに行く。そこには、床の間に掛け軸に狩野探幽の雪折笹の画がかかって、その上に「しなわるるだけは堪えよ雪の竹」(*注1)とある。八さんには何のことかわからず、誉めようと「これはまた結構な都都逸で」と適当なことを言う。

そうすると、隠居から、「そんな誉めようはありゃしない。これはいい賛(*注2)ですなあ、と言うべきだ」とたしなめられる。賛とは、画賛のことを教えられる。これはいいことを聞いたと、早速、知り合いの家に寄って、試してみようとするが、トンチンカンなことになって、大騒ぎすることになる。それが次ぎの展開だ。

家主の所へ行くと、同じく掛軸を見せてもらう。それを読んでもらい、「近郊の鷺は見難し、遠樹の烏は見易し」(*注3)ということだった。これを、意味も当然わからず、前回、隠居の所で間違ったので、早速教えられたとおり、「結構な賛ですな」と言うと、「いや、これは賛ではない。根岸の蓬斎の詩だ」と言われて、笑われる(*注4)。

八さんは、これに懲りずに、次に医者の先生のところに行く。床の間を見せてもらうと、掛軸が掛かっており、遊女の立ち姿の図に、「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は経を売る。汝五尺の身体を売って、一切衆生の煩悩を安んず、柳は緑、花は紅のいろいろか、池の面に月は夜な夜な通えども、水も濁さず、影もとどめず」と書いてあるという。これを見て、八さん、「いい詩ですね」というと、「いや、これは一休禅師の悟だ」(*注5)という。

これで、八さん、何が何やらわからなくなった。それでも、気を取り直して、そういうと、音で言うと、三、四、五と続いているから、次は、六ではないかと思って、町内の鳶頭の家に行き、掛軸を見せてくれと頼み込む。「八さん、掛軸などわかるのかい」「いやいや、こう見えても、掛軸の誉めかた日本一だ」。

そこで、掛かっている宝船の絵に「なかきよの遠乗り船のみなめさめ 波乗り船の音のよきかな」(回文になっている)とあるのを見て、「いい六ですな」と言うと、「馬鹿言え、これは七福神だよ」というオチ。

基本的に、この落語は、外見は、褒める技術をからかっているが、それだけでなく落語全体を通して意味する所は大きい。こういう落語によって、人がどうあらねばならないかを庶民に諭している。単に、落語だと、侮ってはいけないと痛切に感じる。

*注1

「しなわるるだけは堪えよ雪の竹」は芭蕉の句。竹に雪が重くのしかかって大変だが、雪が溶ければ、楽になる。それまで耐えよという意。人間、辛抱が大切が本意。

*注2 賛とは

描かれた東洋画に対して、鑑賞者の賛辞として書き入れる。

*注3

「近郊の鷺は見難し、遠樹の烏は見易し」とは、雪にまぎれた近くの白い鷺は見つけることが難しいが、黒い烏は、遠い所にいても、すぐわかるという意。裏には、悪事はすぐ露見するという意味が含まれている。

*注4

根岸の蓬斎は不明。別の儒学者のことを間違えたものとされている。また、ここの部分は、演者により、次の場合もある。

易者の先生の所に行く。そこで掛軸を見せてもらうと、「遠仁者疎道、不苦者干知」とある。読んでもらうと、「仁に遠きものは道に疎し、苦しまざる者は知に干し」という。先生は、更に解説してくれて、ここに書かれていることを棒読みすると、「おにはそとふくはうち」となるとのこと。後は先ほどと同じで、「結構な賛ですな」と言うと、「いや、これは賛ではない。詩だ」と言われて、笑われる。

「遠仁者疎道、不苦者干知」は作者不詳。いずれにしろ、儒学者が作ったものだろう。人への思いやりのない者は、人の行くべき道がわからない。苦労しないものは、学問の真髄を極めることができないという意だろう。

*注5

悟とは、禅悟のことで禅僧の偈のようなもので、禅僧が極めた言葉を表したもの。一休は、当時の腐敗した仏教界を皮肉り、形だけの仏法僧を痛烈に批判している。仏は、民衆一人一人に備わっており、そのことを自覚すべきだとしている。

ただ、この言葉は、多くの書籍は、一休のものだとするが、沢庵和尚のものだとするものもある。賛にしたのは同様で、多少、文が異なる。いずれにせよ、蘇東坡の禅詩を意識したものだろう。沢庵和尚の賛は次のようになっているという(未確認)。

「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。汝五尺の身を売って、一切衆生の煩悩を安んず。色即是空、空即是色。柳は緑、花は紅、水の面に、夜な夜な月は、通えども、心もとどめず、影も残さず」

*2016年8月13日追記

コメントで、うめさんに指摘され、*注4に記した「根岸蓬斎」は、「根岸の蓬斎」に改めました。うめさんによると、これは亀田蓬斎のことであろうとのこと。不明な情報による記事に対して、正しい情報が得られ嬉しいです。

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2008年2月17日 (日)

郵便がよくなった?

今年の年賀状は遅配がなかったと聞いている。流風は年賀状を出さないので、知らなかったのだが、いろんな関係者に聞くと、ここ最近、遅配があったのに、今年は正月の朝にきちんと着いていたのだという。そういうと、最近は、郵便物が、きちんと相手方に早く着く。そして、流風の方にも早く着く。

郵政民営化は、いろいろあったが、今の所、流風の目からすると、うまく行っているのかもしれない。もちろん、その一方で地方では、問題も多いと聞く。民営化は、全ての人にいいとは限らないだろう。

しかし、郵便物が早く着くことは有り難い。以前は、雨の日は配達がなかったのに、最近は、そういうことは関係なしに、早く着く。そうであれば、郵便の活用をもう一度、見直してみようかと考える日々である。

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老舗で買う

若い頃は、安物買いの銭失い、と両親にからかわれたものだが、さすがに、中年になってからは老舗で買い求めることが多くなった。先日も、腕時計が壊れたので、新しいものを買った。もちろん、地域の有名な老舗の店でである。

壊れた時計は、以前老舗の百貨店で買い求めたものだが、17年使うことができたので、十分満足である。さすがに終わりごろには、防水機能に問題が出ていたが、長い間お世話になった。若い頃に、量販店で買った時計は、そんなにもたなかった。価格は、確かに百貨店で買い求めたものが、やや高かったが、そんなに価格差があったわけでもない。

そして最近、老舗に拘るのは、商品の選択に迷わないからだ。やはり店員の質が違うと言うか、顧客に合ったものを選んで見せてくるから、意思決定に時間がかからない。商品を店頭で、あれこれ選ぶのも、確かに楽しい時もあるが、さっさと決定したい時もある。そういう時、老舗は手間がかからないし、間違いもない。それに後々のことを考えれば安心だ。今回は、地域の老舗で買ったが、やはり的確な商品を推奨してくれた。

昨年末に、家具を買った時も、そうだった。地域の老舗の家具店で、相談すると、正確にアドバイスしてくれる。実際、家に設置しても、雰囲気も機能も、いい具合だ。そういうと、昨年処分した自転車も老舗で購入したものだ。当時でも、割と値段は張ったが、店主が熱心に薦めるので購入したが、大当たりだった。最近の安い自転車とは大違いだ。荒っぽい使い方でも、約20年使って、一応満足だ。老舗の扱う商品は、やはりいいようだ。

まあ、一部の例外をを除けば、老舗の薦めるものは、はずれが少ない。時間を大切にして、買い物に時間をかけたくないのなら、老舗での買い物に限ると思う。

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2008年2月16日 (土)

二世議員の不見識

二世議員の法務大臣の軽率な発言が問題になっている。彼は、多分にお坊ちゃま体質を持っている。また実際、お坊ちゃまだ。そのため、状況判断も的確性に欠けるし、人の痛みもわからない。こういう人を法務大臣にした首相の責任も問われる。

その他にも、日本の二世議員は問題が多すぎる。首相も、民主党のトップも二世議員だ。前首相も、その前の首相もだ。もちろん、彼らは彼らなりに一生懸命やっているかもしれない。しかし、その行動に深さが感じられない。言葉も、どこか軽い。正しいことを言っても、心に響かないのだ。彼らは政治屋はできても、政治家はできない。一見、きれいそうに見えた小泉元首相も同様だ。

同様に、海外にも二世議員はいる。米国のブッシュ大統領もそうだろう。彼も日本の二世議員同様、ぼんくらだ。ただ、米国大統領は、本来ぼんくらで済まされないのに、米国の大統領の選択には、重大な欠陥を感じる。彼らの選挙制度自体にやはり問題があるのだろう。

それはそれとして、英国のあのウインストン・チャーチルも二世議員だ。しかし、彼と日本の二世議員との違いは、彼は親の選挙地盤を引き継いでいないことだろう。そして落選経験もしている。

本来、選挙地盤は本人が落選の経験もしながら築いていくものだ。それができない二世議員は、一般国民から遠い所にある。だから、どんなに偉そうなことを言っても、国民には心に響かない。日本の選挙制度も、そういう意味では、早く改革する必要がある。

人は壁にぶち当たって、深くなり、心栄えもよくなる。ウインストン・チャーチルは、そういう苦い経験も踏まえて、読書をして見識を深めたようだ。品のない浮ついた日本の二世議員を見ていると、ちょっと見習えとも言いたくなる。

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2008年2月15日 (金)

一休禅師の恋

一休禅師は、マンガになったりして、国民的に知られていることだろう。後小松天皇の落胤と言われているが、周囲の接し方からして、多分そうなのだろう。マンガのようなことは事実だったかどうかわからないが、頓智が巧みで、考え方が自由自在であったことは、彼の残した書物からも明らかだ。

基本的には、彼は断片的に、いろんなことを言うので、周囲は混乱するかもしれない。そういう人は、現代でもいる。無意識に周囲を煙に巻くが、本人は、背骨のしっかりした考え方を持っており、意識は続いており、その思考には一貫性がある。そして、それは少々のことでは、それが崩れない。周囲は、変人と見る向きもあるが、本人にすれば、それが普通の思考方法なのだろう。

そして、結果的に、周囲には、彼の本質をすぐに悟られない。彼と長く付き合えば、その考えていることは、わかるかもしれないが、短い付き合いでは、多分理解することは難しいだろう。もちろん、一休禅師は、禅道を極められた結果、そうなったとも言えるが、もともと、思考プロセスに、そういう資質を持っておられたと考えた方がわかりやすい。

ところで、そのように周囲になかなか理解してもらえない一休禅師が、晩年、すなわち、77歳になった時、不幸な生い立ちで目の不自由な女性と知り合い、恋をして、そのことを綴っている(『狂雲集』)。一部、引用すると、次のようだ。

盲女森侍者、情愛甚だ厚し。将に食を絶って命を落とさんす。愁苦の余り、偈を作って之を言う。百丈の鋤頭、信施消ず、飯銭、閻老、曾て饒さず。盲女が艶歌、楼子を咲(わら)う、黄泉の涙雨、滴蕭々。

以下、延々と続くので、ここでは省略するが、上の一文だけではわからないが、随分と直接的表現で、何のわだかまりも衒(てら)いもない。恋とは、そういうものとはいえ、悟った禅師の恋としては、少し違和感を覚えるくらいだ。そうかといって、破戒僧とも思われない。

それとも、若い時から、異性には関心があったが、修業のため、それを避けた結果なのだろうか。しかし、子供のような一休の恋は、ある意味、可愛く見える。恋は純粋な方が、第三者には美しく見えるものかもしれない。

いや、一休禅師は恋をすることによって、最終的に真の悟りを会得したのではないのだろうか。そう考えると、恋の力は魔力だ。もちろん、それだけの修業をした純粋な禅師だからこそ恋によって完成し到達したとも言えるのだが。

*追記

一休禅師は、森侍者と知り合う前から、女色にふけっていたという話もあるが、事実かどうかわからないので、ここでは一応無視して話を記している。ただ女性には、老若を問わず人気があったということははっきりしている。女性にとって、魅力的な男性であったのでしょう。まあ、天皇の落胤というブランドに、女性が飛びついているとも言えるが。

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2008年2月14日 (木)

プレゼントされた記憶

人間というものは、食欲や性欲についで、人からプレゼントされることは好きなようである。人間には物欲があるということだろう。そして、プレゼントされるということは、相手が自分を認めているということになる。そういう心理を突いて、プレゼントされた方は嬉しくなるのかもしれない。

そういえば、金額的には小さな贈り物でも、受けた人間は、よく覚えているものだ。そういうことを度を超して悪用するのが、贈賄だろう。ただ、人間社会において、贈答は人間関係の潤滑油であることも否定できない。問題は度を超すか超さないかということだろう。

もちろん、モノに限らず、「言葉」の贈答も無視できない。特に女性は、日々、言葉のプレゼントを喜ぶ。そういうことがわかっているのか、西欧人は、常々、パートナーに対して、アイラブユーを言うようだ。日本人の男は、そんな照れくさいことは、なかなか言えないが、努力が足りないのだろうか。

そういうことの逆バージョンが、本日2月14日のバレンタインデーということだろう。流風には、しばらく縁のないことだが、若い時、いろんなチョコレートをもらったことがあるが、誰にもらったかは記憶している。たとえそれが、別に関心のない女性からの物であったり、義理チョコで安物のチョコレートであっても。余計なことだが、生命保険のおばちゃんに頂いたチョコレートさえ、記憶にある。もちろん、それはもらう数が少ないから、覚えているのだと指摘する向きもあろう。そうかもしれない。

しかし、こまめなプレゼントでさえ、相手の記憶に残ることを言いたいのだ。営業に出た時も、お茶菓子は欠かさなかった。お茶菓子だから、せいぜい500円程度のものである。そうすると、話下手の流風のつたない営業でも、話の糸口ができ、営業には、結構役立った。次回、訪問すると、担当者以外の人からも好意的で、不思議なくらいだった。

プレゼントは、人々の記憶に残る。そして食べ物が特に有効だ。口に入れることで、本能的に改めて記憶されるのかもしれない。最近は、チョコの負担が大変だから、バレンタインデーには、プレゼントしないという女性たちもいる。だが、安いチョコレートで、人間関係がよくなるなら、こんな安いことはない。ただ、多くのプレゼントを受け取る男にプレゼントしても、費用対効果は薄いかもしれない。本日、多くの女性は、記憶に残るプレゼントをしてもらいたいものである。

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2008年2月13日 (水)

引き立て役

絵にしろ、書にしろ、額縁に入れたり、表装すると、見違えるように映える。絵だけや書だけでは、頼りなかったのに、額縁に入れた絵や表装された書は、どこか堂々としている。よく馬子にも衣装とは言うけれど、それと同じ感覚だ。

それは人間世界でも、そういうことが言えるかもしれない。周囲との対比で、本人が引き立つことがある。ところが、額縁や表装を変えると、イメージが変わるように、人間も付き合う人間が変わると、雰囲気が違ってくる。

そういう意味では、自分が引き立つ人々と付き合いたいものである。そして、同時に、自分自身は、よい意味での、他人の引き立て役になりたいものである。

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2008年2月12日 (火)

枕に左右される

枕と言えば、「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く」、で始まる『枕草子』の枕は、後書きに「枕にこそは侍らめ」と清少納言が言ったことからと自ら匂わしている。自分の書いた物は、せいぜい仕える宮の枕になる程度のものですよ、と謙遜して言ったのだろう。

そのほかには、男女の仲になれば、枕を交わすとも言う。最近は、あまり使われないようだ。恋愛小説でも、あまり直截な言葉を使わずに、このような表現も使われていいのではないか。文学でも、女性と同じで、見えそうで見えない魅力は増すはずである。

さて、少し寒さが和らいできたが、寒い間はなかなか眠られず、枕を替えてみたのだが、余り効果はなかった。結局、電気敷き毛布を利用して、それは解決した。そして、枕は元の物に戻した。

そば殻の割とぎっしり詰まった枕を使っていたのだが、それを柔らかい枕にした所、どうも違和感があり寝にくい。よく枕で安眠とはよく聞くが、確かにそうかもしれない。自分に合う枕はあるのだろう。

旅行でホテル等に泊まって枕が替わっても、寝つきのよい流風は確かに眠れるのだが、どうも睡眠が浅いようである。旅行に行ってリフレッシュしたつもりが、かえって疲れるのは、そういうことが影響しているのかもしれない。最近は、マイ枕を持参して旅行される女性もあるようだ。

真にリフレッシュしたいのなら、それは正解かもしれない。旅行疲れで、帰宅後、睡眠し直すというのは、どこかおかしい。今の枕の予備を作って、これからは旅行するとしますか。そうすれば、枕を高くして眠れる(笑)。

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2008年2月11日 (月)

息抜きしたつもりが

企業で、営業の仕事というのは、どうしても顧客の動きに合わせる必要がある。顧客がいない所に行っても、結局、無駄足になる。しかし、社内にいると、サボっていると見られてしまう。仕方なく、出かけるのだが、どんなに準備しても、空き時間が出る。

そういった時、営業マンは、息抜きをする。一番多いのは、喫茶店だろうか。癒しのサウナという人もいる。車の中で一眠りという人もいるだろう。パチンコ屋という不良営業マンもいるらしい。そんなでは、息抜きにならないだろう。気分転換で真剣なってしまったらどうするのかな。

まあ、こんな営業マンも過去のことになりつつあるかもしれない。GPSを持たされて、位置確認までされては、変なところをうろつけない。ただ営業マンは、活動時間が不定期になりがちだ。あまりフルに働くと、身体がもたない事を管理者はご存じないのだろう。管理者の立場からすると、時間効率が優先するが、フルに働いたから成果が出るとは限らないのが営業だ。

基本的には顧客ターゲットを絞り、独特の切り口で市場を切り開いた者が成果を上げる。そういうことからすると、一見、無駄な会話や行動が、プラスになることもある。もちろん、ある程度、体系的な情報の収集の仕方が求められるのは言うまでもないが。いろんな情報の積み重ねと新鮮な切り口で、どう料理するかが成果に大きく影響する。

だから、GPSで、単に行動管理をしたところで、成果が保証されているわけでもない。かえって逆の結果が待っているかもしれない。それゆえ、営業現場を知らない管理者による営業管理の仕事は難しいと言われる所以だ。

さて、落語にも、『百年目』というものがある。大きな商家の番頭が内緒で、花見に出かけ、ドンちゃん騒ぎしているところで、主人に出くわし、青くなって家に戻る話だ。まあ、落語に限らず、ありうることだ。ちょっと休憩したつもりが、上司に見つかり気まずい雰囲気になることもある。

ただ、この落語の題名は、番頭が現地で主人に会い、言い訳するのに「どうも久しくご無沙汰を」を言ったのを、家に帰って主人に咎められ、「実は、お目にかかったのは百年目に存じましたので」とオチ。すなわち、「見つけられたが百年目」という言葉をもじっているのだ。

流風に、せいぜい車の中で、居眠りぐらいで、あまり、そのような経験はないが、先輩豪傑営業マンは、いろいろあったようだ。でも、成果を上げられていると、管理者も文句の言いようがない。営業は数字だ。しかし、レベルの低い営業マンが、そういう風聞を聞いて真似して失敗したのも聞いたことがある。息抜きも、営業レベルに合わせて、ほどぼどにということだろう。

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2008年2月10日 (日)

雛祭りの町

節分が終われば、次は雛祭りだ。ただ女の節句のため、あまり関わりはない。子供の頃、近所の女の子の家に寄ると、大きな雛飾り段があった。しかし、あの人形はきれいなのだが、子供心に、どこか怖かった記憶がある。それに甘酒などを頂いたが、どうも好きな味ではなかった。

また、こんな怖い人形はない方がいいとは思いつつ、なぜ家にはないのか、不思議に思ったものだ。母から、男の子は、五月五日に、こどもの日として祝うのだから、それでいいの、と言われて、そんなものかと思ったことがある。ところが、雛祭りの三月三日は、なぜか、国民の祝日ではない。また、そのことで日頃、男女同権とうるさい女性も、特に文句はつけないないようだ。まあ、別にどちらでもいいけど。

さて、各地で、「雛祭り展」が開かれるだろう。すでにヨドコウ記念館では、開催されている(4月6日まで)ようだが、今回は、先日、「お夏清十郎」を取り上げた、清十郎の出身地の、たつの市で、「龍野ひなまつり」が3月15日より3月23日(10:00より16:00)まで催されるので、そちらの方を紹介しよう。

たつの市と言えば、脇坂藩の龍野城があり、城下町らしく、播磨の小京都と呼ばれてきた。落ち着く町だ。今がシーズンの御津町の綾部山梅林が有名だ。寒い中、甘酒などを頂いたこともある。それに龍野公園は、桜の名所としても有名だ。大体毎年4月ごろが見頃だ。桜の木がこんなにたくさんあるところも県下では少ないだろう。そして、関西では、醤油や素麺の町としても有名。また「赤とんぼ」の作詞で有名な、三木露風や哲学者三木清の出身地でもある。

さて、雛祭りが終わってから、これらの行事が、なぜ催されるかと思われる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、これは旧雛祭りに合わせているのだ。旧暦で言えば、3月3日は、今年の西暦で4月8日なのだ。そういうことで旧雛祭りの前の催しということになる。

内容としては、城下町のたつの市の町屋に残された雛人形を、各お宅で公開される。今回で二回目だ。龍野城下町一帯の、「うすくち醤油資料館」から「霞城館」の周辺で展示されるらしい。この辺一帯は、いつ行っても、どこかほっとする空間だ。散策しながら、いろんな施設と共に、雛人形を鑑賞してみるのもいいかもしれない。

市内の「資料館めぐり共通券」(うすくち龍野醤油資料館、霞城館、たつの市立龍野歴史文化資料館)があり、大人400円。3月16日には、円光寺本堂で、先着150名のみ、「人形浄瑠璃公演」を鑑賞できる。その他の催しについては、龍野文化伝承会(0791-63-4573)へ。

それにしても、雛祭りが終われば、早くしまわないと、その家の娘が行き遅れると言われたものだが、最近は、行き遅れの娘で溢れているようだ。勿体無い。まあ、もともと女の子の躾のために言われたものだろうが、雛祭りなど、ない方がいいのかな。

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2008年2月 9日 (土)

官僚の残業について

国の官僚の残業は、異常だと聞いたことがある。最近のことは、よくわからないが、それは政治家の都合で、引き摺られるのかもしれない。しかし、いかに国に貢献するという意識の高い官僚でも、残業が多いことは望ましくない。

しかし、この官僚の残業の原因を作ったのは、十七条の憲法の第八、ではないかと思われる。その内容は、次の通りだ。

八に曰く、

群卿百僚、早く朝して晏(おそ)く退(ひ)け。

公事おろそかにすることなかれ。終日にても尽くしがたし。

是を以て、遅く朝すれば、急なるにおよばず、早く退けば、必ず事尽くさず。

いつものように見ていくと、まず「群卿百僚、早く朝して晏(おそ)く退(ひ)け」は、大臣・官僚は、朝早く出勤して、日が暮れても遅く退出すべきだ、ということだろう。

「公事おろそかにすることなかれ。終日にても尽くしがたし。」は、官庁の仕事は、全て大事なことばかりで、疎かにはできない。一日かかっても、なかなか思うようには完了できないものだ、と指摘する。

「是を以て、遅く朝すれば、急なるにおよばず、早く退けば、必ず事尽くさず」は、だから、遅く出勤し、早く退庁するようでは、仕事を終わらすことができない。それでは、大臣・官僚の仕事放棄と言って差し支えないと、厳しく指弾している。

聖徳太子の当時の大臣や官僚がどのようであったのかわからないが、現在の日本のほとんどの真面目な官僚とは、似ても似つかなかったのではないかと推定される。現在の日本人の気質とは、どうも違うような気がする。私達は、長い年月をかけて、現在のような日本人気質を作ってきたのであろう。

そうであれば、この十七条の憲法の第八の通り、現在の官僚が働くのは問題があるかもしれない。公務員とは、国民のスタッフであり、サービス担当と考えれば、フル対応するには、むしろ、交代制が望ましい。つまり二交代とか、部署によっては三交代が望まれる。そうすれば、残業は制限できる。

すなわち、国際化時代にも対応できる24時間体制での組織的対応が望まれる。一人の担当が、残業する仕組みは変えた方がいいかもしれない。それが真に国民に奉仕することにつながるのではないか。

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2008年2月 8日 (金)

センシィブな社会

某有名女性歌手の舌禍事件が話題になっている。彼女はラジオで、「35歳を過ぎると羊水が腐る」と言ってしまったようだ。どういう前後関係で、この発言がなされたのかわからないが、これは残念ながら、軽率な発言と言えよう。

飲み屋で、OLがなかなか結婚しない先輩の悪口をこのように言うのは許されるが、彼女のように有名な歌手が、ラジオという公共の媒体で話したのはまずかった。もちろん、関西だけの放送だったら、こんなにも大事にならなかったかもしれない。まさか額面通り受け取る人がいる人はいないだろう。

多くの関西人は、この発言を、普通の感覚のユーモアと捉えるかもしれない。それに彼女のキャラだから許せるという人も多いはずだ。実際、関西では、結婚しない女性に対して、最近のことはわからないが、冷やかして、下町では、よく言われていたことなのだ。彼女も関西出身だそうだ。

そして、それに対して、まともに応える女性はいない。そんな神経では、関西では、生き抜けない(笑)。なお独身男に対しても、「結婚せえへんと、あそこ(性器のこと。もっと、はっきりした言い方だが、ここでは控える)が腐るで」とか言ったりする。

また、女性に対しては、現実的な話として、医療関係者も、女性は35歳以上の妊娠はリスクが大きいことを踏まえて、こういう表現ではないが、同様のことを言われる。実際、35歳以上の始めての妊娠の場合、いろんな障害もあるし、子供もまた障害を抱えて生まれてくることも多いデータをと見せられたこともある。

しかし、放送というマスコミ媒体を通じてということなると、たとえ事実がそうであっても、受け止め方は様々であろう。現在のように超ナイーブ社会では、人の言うことを気にしすぎて、社会の許容度が低下している時代とも言える。

その問題に対しては、ナイーブな人々も多くいることだろう。軽口は、それさえも許されないという人もいるだろう。すなわち、本人が、洒落と思っても、洒落が通用しない人々が多くいるのだ。

それに、今はネットで発言情報が倍加する。有名な人々は発言がより難しくなっている。どういった状況で発言されたかは無視されて、ピンポイントの言動が、物凄いスピードて伝達される時代だ。もちろん、細かいニュアンスは正確には伝わらない。

それが余計にセンシィブな受け手を刺激する。受け手は自分が一番気にしていることに言葉が錐揉みのように刺さって苦痛になってくるのだろう。もちろん、有名タレントに対する嫉妬も、ない交ぜになり、悪い感情が高揚するのかもしれない。やはり有名な人は、発言を慎重にしなければならない。

だが、全ての有名人に言葉狩りしていたら、社会は窒息死してしまう。情報発信者に対して、軽くジャブをすることは必要としても、ストレート、パンチは控えめにした方がいいかもしれない。彼女が正しいとは言わないが、受け手も、軽く受け流す度量も求められる。すなわち、今後も、感受性と鈍感の間で、どう対応するか、受け手の多くの人々にとって、悩ましいことになるであろう。

*追記

言葉狩りの問題は、言論の自由の統制問題につながりかねない。逆に言えば、言葉狩りは、言論統制のためのいい手段になりうる。

だから、マスコミに出る人々は、発言に神経質ぐらいに注意しなければならない。そうしないと、自分の活動だけでなく、もっと大きな問題で、皆に迷惑をかけることになるのだ。

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2008年2月 7日 (木)

昭和15年頃を描いた映画

昭和15年頃と言えば、流風は、陰も形もない。両親は青少年であったろうが、まだ出会っていない。この時期は、世間が騒がしくなっていたであろう。大戦直前だ。両親も、当時いろいろ大変だったことを時々話していた。

工場は、軍需産業に無理やり転換させられ、生産には、両親の親たちは、慣れない仕事に辛いこともあったようだ。しかし、生きていくには仕方ない。選択できる時代ではなかったのだ。また学校では、軍事教練が行われた。学校の勉強など、まともにできる状況ではなかったという。

学生も、戦争の終わりごろには、男は学徒動員として、軍に徴用され、厳しい軍隊生活を送っている。軍隊は、力のある者と要領のいい者がいい目をする。そういう社会だ。一方、男がいなくなった家は、女ばかりで守ることになるということで、工場の生産にも狩り出される。生活と共にいろんな苦労が絶えない。結局、戦争で、いい目をした者は少ない。

この頃の時代の雰囲気を描いた映画が、今、注目されている『母(かあ)べえ』(山田洋次監督)だ。流風より上の世代のマドンナ吉永小百合さんが主演で、現在、公開されている。原作は、野上照代氏の『父へのレクイエム』。彼女は黒澤明監督のスクリプターだったそうだ。

「母べえ」は家族間の愛称で、母・佳代のことをそう呼び、同じく、文学者の父のことを「父べえ」と呼んでいる。二人の姉妹、初子と照美は、それぞれ「初べえ」「照べえ」と呼び交わしている。文学者という知的な家庭で、親子が、そういう呼び方をするのは、どこか和やかな家庭が想像される。

しかし、時代は暗く、父親は治安維持法で検挙され、投獄される。その不安な日々を送る家族に、色々な人々が絡んで、物語は展開する。母は父を信じ続けている。父とは、子供たちも手紙でやり取りし、家族をつないでいく。そういう家族の絆。監督が描きたかったのは、現在失われている、そういうことかもしれない。

これ以降の説明は、まだ映画を観ていないので省くが、現在、明石市立文化博物館で、「母べえとその時代」ということで、当時の昭和の暮らしを紹介している(~3月23日まで)。戦前から戦後の生活・風俗の変化を展示しているらしい。

らしいというのは、実は、ついでに見に行ったが、平日は、小学生でいっぱい。とても、入れる状況ではなかったので、入場は諦めた。次の機会にしよう。当日は、止む無く、いつものように、明石公園を散歩して、帰ることにした。寒いながらも、木々を見れば、春の芽吹きを感じる。春は、そこまで来ているのだろう。

次回、この博物館に行くのは、休日にしよう。いやいや、時代考証もしっかりしているということだから、なかなかよさそうな映画のようだし、まず、映画を先に観に行くとしよう。

* 平成20年2月18日映画鑑賞追記

当日、映画館は、高齢者が多かった。帰りも、多くの高齢者が並んでおられた。当時のことを、懐かしむ気持ちがあるのかもしれない。

実際、映画を鑑賞したところ、大体予想通りの展開。これは女性の映画だ。流風は、知らないこともあったが、両親から大体聞いていたので、そんなに違和感はなかった。

この映画は、戦争で残された女性の視点で見ており、いつの時代も、女性は争いを好まず平和を望むということを表している。

そして、言論の自由がいかに大切かを示し、それが無くなると、人間は不幸になると断じている。それを“母べえ”家族の持つ自由な雰囲気と対比させているのが印象的だ。

また戦後、周囲の方々は戦争で失くしたものの、長生きされた“母べえ”の亡くなる直前の言葉も印象的だ。ここでは、これからご覧になる方のために、記さないが、これは父が言っていたことと同じ。人は、死に臨んで、同じ様なことを考えるのかもしれない。

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2008年2月 6日 (水)

縁は異なもの

大体、独身男が、お茶碗などを揃えるようになると、結婚できないという。そう言われれば、そんな気がする。そういうものがあると、使いたくなるし、料理もしたくなる。そうなると、掃除も洗濯も、ということになる。それなら、嫁さんは要らない。まあ、別のことで欲しくなることもあるだろうが(笑)。

話は変わるが、一般に、禍福は糾える縄の如し、というように、福と禍は交互にやってくる。しかし、時として、福が連続したりするようだ。なぜ、そのようなことが起こるのか。そういうことを扱った人気人情落語として、『茶碗屋敷』というものがある。時々、ラジオなどで演じられているのを聞くと、楽しい気分にさせてくれる落語だ。あらすじは、ほとんどの方がご存知だろうが、若干、流風的解釈を含めて記しておく。

貧乏長屋にいる、千代田卜斎という浪人者がいた。暮らしは厳しく、日々の生活にも困る有様で、米さえ、まともに買えない。仕方なく、先祖代々大事にしていた仏像を、米代にするため、屑屋に売る。屑屋は、こんなものは売れないと思いながら、可哀想に思って、僅かなお金で引き取る。

そういうと、最近は、リヤカーの屑屋さんは、来ないなあ。子供の頃は、新聞、ダンボールだけでなく、いろんな物をなどを回収しに来ていた。流風は、それがお小遣いになっていたものだ。今でも、時々車で回収に来ているが、お金はもらえなくなった。

さて、話を戻すと、世の中は広い。帰り道、その仏像を見かけた、お武家さんが買い求めたいと言う。信心深い人だったのだろう。それとも、何かオーラのようなものを感じたのか。屑屋は、その汚い仏像を別にどうでもいいと思っていたので、買値はこれこれと正直に言い、その値で売り渡した。

その、お武家は、細川家の家臣で、高木佐太夫という人で、独身だった。彼は家に持ち帰って、この仏像をきれいに洗ったところ、台座がはずれて、中から紙包みが出てきた。開けて見ると、小判五十両が出てきたから、これには、びっくり。普通、仏像の中から、仏像が出てきたり、お経が出てくるものだが、昔、卜斎か家族の者が隠していたのだろうか。

正直な彼は、さっそく返そうと、屑屋を待ち受けて、返そうとするが、なかなか現れない。やっとのことで、つかまえて、その金を、元の仏像の持ち主に返してこいと言う。屑屋も、正直者で、千代田卜斎のところに、返しにいくと、「一旦、売り渡したものは、自分のものではない。何といわれようと受け取ることはできない。それは買主に返して来い」と、言い、受け取ろうとしない。お互いの、いい意味でのプライドのぶつかり合い。

屑屋は、止む無く、今度は、高木佐太夫のところに引き返し、これこれこういうことで受け取りになりません、と伝える。ところが、高木佐太夫は、「私は、仏像は買ったが、小判は買っていない。それは持ち主のものだ。早く返して来い」と、たたき出された。屑屋は、折角、労をとったのに、やれやれという気持ちだ。いくら侍さんの願いとはいえ、こう、ただ働きさせられてはかなわない。

しかし、こういうことが、何度もあり、お互いの人柄が周囲にも伝わり、ついに、長屋の家主が仲裁に乗り出すことになる。そうですね。実際、このようになってくると、第三者が仲裁に入るのが一番。問題は、落しどころをどうするかということ。

そういうことで、やっとの事で、卜斎は、お金を受け取った。しかし、つけた条件が、先祖伝来の茶碗を与えるという。ところが、引き取った、この茶碗の噂が、今度は、たまたま、高木佐太夫の仕える細川の殿様の耳に伝わり、すぐに持参いたせとの思し召し。早速、持参すると、この茶碗は、天下の名器であるとこが判明し、二百両で買い上げられた。

それで、また屑屋は、頼まれて、卜斎のところに、恐る恐る返しにいく。そうすると、卜斎の美しい娘が応対し、もう、お二人の橋渡しはこりごりなので、いつでも退散できるような段取りで取次ぎを頼み込む。

ところが、卜斎に二百両を渡すと、難しいことを言わずに、「今度、帰参できることになった。承れば、佐太夫殿はひとり身とのこと。不束な娘だが、その方が間に入って、取り持ってもらえないか」と言って頼む。それにしても、この急な帰参は、落語とはいえ、ちょっと不自然。細川家が手を回したものだろうか。

それはともかく、今度は、茶碗が娘に変わった。屑屋も、そういうことならと喜んで、「結構なお話です。ただ、お嬢様はあまりに美しすぎます」「なぜそのようなことを言うか」「お磨きなさいますと、また、一騒動起こりましょう」とオチとなる。

現実には、こういうことは珍しいと思われがちだが、縁というものは異なもので、正しくあれば、良い縁が導かれるということもある。ひとつひとつの言動や行動を、いつも正しくするのは難しいことだが、信念に基づき、当たり前のことを当たり前にするという意識を持てば、案外、別に男女の縁に関わらず、よい縁が結ばれるのだろう。日々反省。

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2008年2月 5日 (火)

名前が左右する

親は子供が生まれてくると、その名前に苦労するが、姓名判断も、その一つだろう。だが、姓名判断も大切だが、実際は、文字バランスと共に、名前の持つ音が重要だとされる。生まれて親に命名されて、一生呼び続けられると、その人格になっていくということを聞いたことがある。

例えば、女性の場合、頭に「ア行」がつくと、明るい感じがし、「カ行」がつくと、気が強く育ち、「サ行」は芯が強くて、しっかりしている等々。そういうと、流風の経験でも、そんな感じがする。そんなにいろいろな女性と付き合ったというわけでもないが。

さて、子供の名前に苦労する落語に、あの有名な『寿限無』がある。多くの方がご存知であろう。最近は、小学生も演じている。タレント活動に忙しい、某落語家は、未だに覚えられないそうだが、小学生は、覚えるのも早い。この落語を覚えるのがいいか、もっと高尚な詩などを覚えるのかは、意見もあるだろうが、この時期は、頭の吸収力も速い。

生まれた男の子の幸せを願って、長生きで達者に育つようにと、お寺の住職に命名を頼むところから、この落語は始まる。このお坊さんは、学があるようで、寿限無に始まり、色々な、いい名前を列挙する。しかし、どれが一番いいか、わからなくなる。こういうことは、店で、色々な品物を見せられて迷うのと全く同じだ。

それで、邪魔くさいから、全部つけてやれということになった。しかし、長い名前をつけられて、迷惑なのは、当の本人。親の思いは有り難いが、それも行き過ぎると、子供に負担が重くのしかかるという教訓話。そういうと、名前負けなんて言葉もありますね。

このような例は、現実にはないとしても、親の気持ちはわかる。しかし、名前の文字に捉われないで、名前の音にも配慮したいものである。人間とは、音に大きく左右されていることを忘れてはならないだろう。

*追記

でも、企業の名前も、もう少し真剣につけてもらいたいものだ。社員は、他企業の人々から、常に呼ばれ続ける。そういうことが、子供同様、影響を受けているはずだ。経営者に、親のような気持ちが欲しいものである。

*参考 『寿限無』の名前

一応、この落語で紹介されている男の子の名前を記すと、「寿限無、寿限無、五劫の摺切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝るところ住むところ、やぶら柑子にぶら柑子、パイポパイポ、パイポのシューリンガイ、シューリンガイのグーリン台、グーリン台のポンポコナア、ポンポコナアの長久命、長久命の長助」ということだ。

落語で、その意味を説明される場合もあるが、省略される場合も多い。一応、その意味を記しておこう。

まず、寿限無は、文字通り、すこやかに寿命が長くあるように、ということだろう。

五劫の摺切れの五劫は仏教用語だ。四劫は、成劫、住劫、壊劫、空劫のことで、世界の時間的経過による変化を意味している。五劫は四劫の更に上の段階をさす。すなわち破滅した後も、擦り切れた後まで生きる、という意味だ。

次の「海砂利水魚」は、文字通り、掬いきれない砂の多さと、水にすむ魚はとり切れないという多さを示している。「水行末、雲来末、風来末」は、無数の水や雲や風のように、無限に流れ続ける。そのような命が備わるように。

「やぶら柑子にぶら柑子」は、春夏秋冬のそれぞれの季節に若葉・花・実・赤き色で巡るめでたく強い木を示している。

「パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコナア、ポンポコピー長久命、長久命の長助」は、古代インドの北の方にあったとされる仮想国パイポの国王、王妃、そして、その子供たちが長寿であったという。

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2008年2月 4日 (月)

小野小町考

      花の色は うつりにけりな いたづらに

        我身世にふる ながめせしまに

          小野小町(古今和歌集、113、百人一首第九)

美人の喩えに、「織姫か、衣通姫(そとおりひめ)か、小野小町か、楊貴妃か」と云われて来た。しかし、小野小町は、古今和歌集に十八首も掲載されており、六歌仙の一人でありながら、こんなに有名なのに、その素性は未だ不明である。多くの研究者が追求してきたにもかかわらず、不思議な女性だ。だから、流風が、調べても、わからないことだらけだ。結局、ここに記すことは、推定の話にならざるを得ない。

まず、小野小町が生きた当時の美人感は、歌が上手であれば、美人とされたようだ。だから現代的には、不美人であっても、歌がうまければ、美人とされたようなのだ。そのため、小野小町はブスだったという研究者もいる。本当の顔は見せず、バックシャンだったという人もいる。長い黒髪がきれいだったのだろうか。

しかしながら、小野小町は、実際、容姿も美人だったという人もいる。それは上記の歌からも感じられないこともない。自らの容姿がよく、自信がなければ、この歌は歌わないと言うのだ。その他にも、そういう歌を歌っている。だが、代作だったとしたら、そういう判断は間違っている可能性もある。

ところが、古今和歌集の仮名序には、彼女が次のように紹介されている。「小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の悩めるところにあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし」として、次の歌を掲げる。

      思ひつつ ぬればや人の 見えつらん

       夢と知りせば さめざらましを  (古今和歌集、552)

      色みえで うつろふものは 夜の中の

        人の心の 花にぞありける (古今和歌集、797)

      わびぬれば 身をうき草の ねをたえて 

         さそふ水あらば いなんとぞ思ふ (古今和歌集、938)

       衣通姫の歌として

        わがせこが 来べきよひなり ささがにの

         くものふるまひ かねてしるしも (古今和歌集、1110)

ここまで、衣通姫と対照させている意味は大きい。衣通姫の流れとしたら、やはり美人であったと考えられる。しかし、その性格は、いつの時代の美人もそうだが、問題があったかもしれない。周囲から、子供の頃から、もてはやされると、そうなるのだろうか。

例えば、深草少将(*注)は、彼女に言い寄り、それに対して、彼女は、それなら百夜通いしなさいよ、と迫り、少将は、九十九夜目に亡くなった(謡曲『通小町』)。現代で言えば、飲み屋で一目惚れした女性に、通いつめ、全てをなくす男に似ている。相手は、商売で、心地よい言葉をかけるのを真に受けた悲劇だ。もちろん、事実かどうかはわからない。後世の創作とも考えられる。

その他の謡曲にも、小町物として、『鸚鵡小町』『草小洗小町』『関寺小町』『卒塔婆小町』『清水小町』『雨乞小町』があるが、彼女に対する恨みが感じられるものが多いのは、彼女が実際、美人で高慢ちきであったと伝えられたことから、後世の者が脚色したのかもしれない。

このように見ていくと、小野小町は現代風に言うと、芸能人っぽい。それに水商売が加わっているニュアンスだ。そして、歌を通じて、割と自由に、階級の違う人々が交流したのかもしれない。それは柴を売る大原女と変わらない。ただ小野小町は、春を告げる椿を売るのに、歌を付けて売り物にした可能性が高いと指摘する人もいる。その歌が、貴族に高く評価されて、多くの人が知ることになったということかもしれない。

それに、“小野小町”は、当時各地に、たくさんいたに違いないと云われている。各地に銀座商店街があるようなものかもしれない。各地で、歌をよくする女性は、そのように名乗ったかもしれない。その中で、特に歌に優れる人物がいて、彼女を「小野小町」の頂点として代表的に称したのだろう。

以上の様に見ていくと、小野小町は、多くの人によって、人間の表裏を明確にされた人物とも言える。そして、このようにどろどろした世界の彼女は、人間世界の表象とも言える。美人で目立つと、かえって衆目の的になって、後世までも生きにくいようだ。

*注

「深草少将」の「深草」は京都の地名にもあり、かつて「ふこうさ」と呼ばれていたらしい。「不幸草」という連想から、「深草少将」と名づけたのかもしれない。実名は不明だ。

*追記

小野小町は、後に疱瘡にかかり、その容姿の変化のため、人前で顔をさらすことは避けるようになったという説もある。そうであれば、華やかな時を経験しているだけに、それゆえ、性格が歪んだとも考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

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2008年2月 3日 (日)

食品産業・飲食産業の経営のあり方

食品産業や食業がいろいろ問題を起こしていて、またかという感じを通り越して、あきれ返る。同じ様なテーマで、以前にも記しているので、流風も、重ねて書き込みたくないのだが、やはり生命に関わることは無視できない。以下、ぐだぐだともう一度書いてみる。

まず、その一

ずっと前の報道では、ミートホープの従業員は、自社の生産現場を見ているので、自社商品を食べないと言っていた。正直こんな情けない企業はない。いくら生き残るためとはいえ、度を越している。倫理のかけらもない経営者だったのだろう。

いくら流通業者から要望されたとはいえ、おかしな物を作るのに、抵抗はなかったのだろうか。この経営者に、経営倫理というものはなかったのだろうか。

その二

船場吉兆に見られるように、ワンマン体質の経営は、うまく行っている時はいいが、歯車が狂うと、破綻しやすい。経営者が従業員の言うことに耳を貸さなくなる時は、その会社が危機に直面しているということ。サービス業同様、顧客をトップに見立てる組織経営をしないと、食品産業の経営は難しい。

その三

その経営体質は、国で決められたことを守っていないようだ。例えば、マクド(マック)の店長に残業代が払われていないらしい。見せ掛けの管理職で扱いで、残業代を支払わないというのは、悪い。

大体、従業員の給与を削って、利益を上げようという魂胆が、情けない。それにマクドは上場企業だ。社会的責任は重い。ついに裁判所から、不法を指摘されている。しかし、全国展開している飲食チェーン店は、似たり寄ったりの経営をしているのではないか。マクドは氷山の一角だろう。ビジネス・モデルそのものを見直す必要があるだろう。

これらの店を利用している方も多いとは思うが、このような会社は、結局、所得の低い人たちを生み出し、社会不安の要因になりうる。一生懸命に働いた人が報われる社会にしないといけない。そのために消費者は何をなすべきか。

その四

売れ残りの餡を再利用した赤福餅や消費期限切れの商品を売った船場吉兆。しかし、現実は、事件になっていないだけで、この業界は、不正で覆われているように感じる。そういう業界体質と言って差し支えないだろう。それは中小の業者が多く、生ものを扱うということで、行政が甘かったからだ。

生鮮食料品を材料として扱う業界は、経営が大変なことはわかる。特に飲食業は、誰でもできそうで、これほど難しい経営はない。経営に芸術的センスが求められる。さらに、生ものを扱うということで、品質管理は、大変だ。だが、単価が比較的小さく、品質管理費用を賄うことがやりにくい。それで、ファストフードのような量産思考になるのだろうが、今回のような事件があると、限界があることがわかる。

一体、これらの業界はどうすればいいのだろうか。

それなら、結局、それに合致した経営をする必要がある。それでは、これらのビジネスがどのようにあるべきかというと、基本的に、ビジネスモデルをスモール・ビジネスにして、作りたてを、「売り切れ御免」という営業方針にするのが望ましい。

確かに、そのようにすると、「売り逃がす」ということが生じるが、なま物を扱う限り、止むを得ない。機会損失は、仕方ないのだ。だから、今のままでは、ファストフードのような西洋風の経営は馴染まない。利益の極大を求めるのは無理があるのだ。つまり、ベストよりベターが、求められる経営姿勢だろう。

もちろん、経営管理専門の持株会社を作って、全国の様々な業態の地域飲食店を経営統括する方法はあるかもしれない。つまり、「地域飲食店経営自治」というべきものを認め、持株会社は、地域に不足しがちな情報やネット構築でバックアップするというものである。

しかし、これさえも、行き過ぎた管理は、地域飲食店の経営を歪めることになる。あくまで持株会社は後方部隊という認識が必要だ。基本はスモール・ビジネスに徹することが望まれる。

以上のことから、全国画一的展開の店の食べ物を食べるなとは言わないが、このような現在の経営システムのまま放置すれば、いずれ、消費者自らの身に降りかかることでもある。

今も問題になっている中国産の冷凍食品を使っている外食産業や中食産業も、品質よりコストにのみ関心があるのだろう。安すぎる食べ物を供給する事業者に対しては、その経営姿勢に対しても、一応疑念を持つ必要がある。

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2008年2月 2日 (土)

美味しい山の芋

手頃な価格で丹波産の山の芋が入手できたので、料理して頂いた。ただ料理と言っても、下ろし金で摺って、その上に、山葵と鰹節を乗せて、ポン酢しょうゆをかけてみただけだが、非常に美味しい。

また、山の芋は長いもと違い、粘りが物凄くある。摺るのは、長いもと比べて少し大変だが、この粘っこい食感は何とも言えない。それに、小芋、大根、金時人参、揚げを出汁と酒と醤油で煮た物と、豆腐の味噌汁、御飯二膳と大満足。

山の芋は、昔から、精をつけるので喜ばれる。冬は、牡蠣と共に精をつけるのによい。同じく精をつけるものとして代表的なニンニクやニラなどのように匂わないのが助かる。人に会う場合は、これらはどうしても憚られる。ニンニクには、匂わないものもあるようだが、あの匂いこそ、ニンニクの特徴だろう。臭いがないのは、種無しの果物同様、少し無理がある。

更に、この山の芋は、肌にもいいらしい。カサついた肌の女性や高齢者には、是非食べてもらいたいものだ。もう一つのメリットは、夕食に食べれば、よく眠れることだろう。こんなにいい食べ物は、あまりないが、ただ、若い人は、精がつきすぎて困るかもしれない(笑)。まあ、普通の家庭では、家族円満、間違いなし(笑)。

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2008年2月 1日 (金)

やっぱり国産

中国産餃子に農薬が含まれていたことで、大騒ぎになっている。流風は、あまり冷凍品は買わないから、現在、冷蔵庫には、買った冷凍品は入っていない。自分で調理した物を入れておく程度だ。

しかし、時々、お惣菜の冷凍加工品を買うことはある。昨年末、これでえらい目にあったことがある。ある大手スーパーの冷凍加工商品(プライベート商品、原産地不明)を食べた後、具合が悪くなったのだ。何とも形容しがたい感じだった。頭がボっーとして、このままあの世に行ってしまうのでは、という感じで、当日は風呂にも入らなかった。

数日して、やっと、回復したが、あの感じは忘れられない。その後、念のため、通院したが、異常は特に見つけられなかった。実は、この経験は、半年前にも、同様の経験をしている。やはり、あのスーパーの加工食品だった。そのことを忘れて、また買ってしまった失敗だった。最近は、このスーパーに不信感を持って、あまり買い物もしない。

実は、冷凍加工品のみならず、輸入食材についての危険性は十分知っていた。さらに昨年の経済誌『エコノミスト』にも、多くの輸入食材危険リストが掲載されていたので、確証を持った。それによると、今、問題になっている中国製が一番多いが、その他の東南アジアも多い。その他、世界から輸入している食材も危険食材で溢れているのだ。

母は、なぜ皆さん、どんな土壌かわからないところで作物を作り、日本の品質管理していない工場で加工している食材などを調理して食べるのか、いつも不思議そうに言っていた。確かに母の作るものは、国産の野菜や肉、魚がほとんどだった。いつも、そういうものの安全性については、若い頃から、十分配慮していたようだ。

中食産業も、外食産業も、大手は、こういう冷凍加工食材を使っていることだろう。しかし、早く日本産に切り替えないと、ビジネス的には難しくなっていくように思う。すでに、国内でも偽装の問題があり、外食産業や食品産業には不信感が募っている。業界は、ビジネスのやり方の変革を求められていると言って過言ではないだろう。

そして、消費者は、あまりにも手抜きな簡便な料理をするのではなくて、自分で調理することをもっと心掛けるべきだろう。あるいは、それなりのコストを負担して国産の食材で加工している業者を選択すべきだろう。

また、国は、いつまでも業者の方向で行政をするのではなくて、消費者の方に顔を向けて行政をするべきだ。すなわち食品製造責任法(PL法)を制定すべきだ。基本的に国内の製造業者及び海外産の輸入業者に厳しく責任を負わせるべきだ。そうしないと、今後も、同様な事件は十分起こりうる。今までは表面化しなかっただけのことだ。

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