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2008年3月31日 (月)

閉鎖的な公共の文化施設

公共の美術館や博物館に行くと、ありきたりの喫茶店は付属施設としてあるが、レストランや食堂はない場合が多い。そして、喫茶店は、美術館や博物館に来た以外の人も、一応利用できるらしいのだが、どうも利用しにくい造りになっている。極めて閉鎖的だ。

これらの施設は、公共施設だから、遊びの要素もなく、商売気がないのかもしれない。地域の一員という自覚が薄いのだろう。やはり公共サービスということで、ビジネス感覚が抜けている。単独で存在し、周辺には、関連施設もない場合が多い。

地域創造の感覚が少ないのだろう。本格的な飲食施設もないし、真面目な施設過ぎるのだ。博物館や美術館の鑑賞というと、高尚でなければならないと思っているのだろう。しかし、それは思い込みというものだ。

こういった施設に望まれるのは、もっと気楽な施設であるべきだろうし、地域の人々が誰でも利用できる施設が周辺に、もっとあっていいと思う。もちろん、一定限度の文化イメージの確保は必要だが、周辺に、地域の人を巻き込み、もっといろんな施設を集めて、レジャー空間にすればいいと思う。

地域の人がもっと利用していれば、飲食のついでに、博物館や美術館の利用があるかもしれないし、相互に協力すれば、その運営ももっと楽になるだろう。更に特色を持たせるとしたら、その地域の娯楽施設でもいいはずだ。他の施設を見下す公共施設から、気楽な公共施設への脱皮を望みたい。

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2008年3月30日 (日)

尾生の信

人間社会では、約束を守るということは大切なことだ。信用を築くには、約束を守ることが意味を持つ。しかし、それも行き過ぎると、見方によって、おかしなことになる。

魯の国に、尾生(びせい)という正直者がおり、彼は、どんな約束も守った。ある時、彼女と日にちを決めて、デートの約束をした。彼は約束どおりの時間に、指定の場所で待っていた。しかし、彼女は待てど暮らせどやってくる気配がない。

こういう経験は、流風もある。デートをすっぽかされたのだ。逆に、デートの時間を忘れ、彼女から激怒の電話を受けたこともある。こういうことは、相手に対する関心度で決まるものかもしれない。

尾生の場合も、彼女の方は、約束したつもりではなかったのかもしれない。ちょっと遊び心で言ったのに、尾生はまともに受けてしまったのかもしれない。それに当時は、携帯電話などといった文明の機器はもちろんないから、連絡も取れない。

それにしても、最近は、携帯電話があるためか、時間にルーズになったように感じる。すぐに連絡が取れるから、どうにかなるさという態度には、困ったものだ。

連絡のしようはないから、尾生はひたすら待った。しかし、その場所は川縁であったため、時間が経つにつれて、上げ潮で水がどんどん増えてきて、彼の身体を浸し始めた。しかし、それでも、彼は諦めずに待った。

中国の河は、日本の川とは基本的に異なり、日本人の感覚では海に近い。つまり河だ。逆に、中国人にとっては、日本の川は、とても川とは思えないようだ。

しかし、ついに、水かさが頭の所にまできたので、やっと橋脚に抱きついたが、時既に遅しで、溺れてしまったという話である。これを「尾生の信」といって、後世、論議がある。

一つは、命をかけて、約束を守ったという評価。もう一つは、つまらぬ約束に拘って、命を落とすとは、何という馬鹿か、というものである。後者の判断は、確かに、約束を守ることは大事だが、命までかけて待つべきものか、ということだろう。約束を守るのは、いいとしても、それにも限度があるということかもしれない。

しかし、男女関係では、その関係の強弱で、そういうことは起こりうる。命を落とすことまではしないまでも、誰が、尾生を笑うことができようか。

*注記

ただし、この話の裏には、作者の別の意図が隠されているという。ここでは、そのことは無視している。

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2008年3月29日 (土)

思い込みと外見で判断すると・・・

        葛城山に咲く花候よ 

           あれをよと 

              余所に思うた念ばかり

                                   (閑吟集)

新入社員時代、社長付け秘書などは高嶺の花と思ったものだが、後日、会ってみれば、普通の女性だったということはよくある。上に示した、閑吟集の句は、そのことを詠っている。

このように、当方で、相手の立場を勝手に想像して、高嶺の花と思い込むことは誰でもあるかもしれない。この例以外では、有名な人に初めて会う場合は、誰でも緊張するだろう。しかし、会ってみれば、案外、ざっくばらんな人だったりする。立派な人ほど、そのようだ(*注)。

同様な例が、同じく閑吟集にある。上記の男性の句に対する女性の対句かもしれない。

        人の姿は花靭優し

            差して負うたりゃ

                うその皮靭

これは女性が男性の外見で、すばらしいと判断して、実際会ってみたが、嘘つき野郎で大いに幻滅したという意だろう。

そのように考えると、一方的な思い込みや外見にのみの判断が、いかに危険かということを感じる。それで失敗した方が、如何に多いことか。自分で実際に会って、五感で感じないことには、正しい判断はできないのに、ついつい自己で独断判断してしまうとこともある。結局、それが迷いを生む要因なのだろう。人間とは、つくづく因果なものだ。

そう考えれば、男にとっても、女にとっても、本当は、高嶺の花はどこにもないということになる。全ては自分次第だということかもしれない。

*注

ただし、このような先生方に、若い方が、タメ口で話しかけている場合があるが、あれは見苦しい。先生方は、若い人が緊張しないように配慮して、ざっくばらんな話しかけをされているのであって、礼を失しない様にしてもらいたいものである。

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2008年3月28日 (金)

「信」ということ

五常の徳というものがあるが、若い方はご存知だろうか。すなわち、仁義礼智信の事を指す。わかりやすく説明すれば、「仁」は、深く思いやりの心を持つこと、「義」は世の中に正しくて善い事をすること、「礼」は謙虚な心を持ち、感謝の心を忘れないこと、「智」は、何が正しくて、何が悪いのか正しく判断すること、「信」は約束したことは守ること、を意味する。

十七条の憲法の第九条では、その中の「信」の大切さが語られている。内容は、比較的短くて、次のような内容だ。

「「信」は、「義」の根本である。だから、いつも「信」を心掛けよ。ことの善悪とか、物事の成功・失敗は、悉く「信」にかかっているといって間違いなかろう。大臣・官僚は、お互いに「信」があれば、全てのことが成就しないことがあろうか。大臣・官僚に「信」がなければ、全て失敗するのである。」

「信」は、その文字の成り立ちから、「人が発する言葉」とわかる。人は言葉を発した以上、守らなければならない。それが、すなわち約束を守ると理解されている。

この簡単なことを、できない人がいるのは、子供時代に、躾けられていないからだと云われる。子供の時に、どんな小さいことでも、約束を守ることを教えることは、嘘をつかないということと共に、大切な躾だ。

しかし、それには、まず親が、そのことを実行しなければならない。親がそれをできないことによって、子供に不信感を与え、「信」の重要性をわからなくしてしまう要因だ。親や指導者は、どんな小さなことでも、まず約束を守ることが大切だ。

*参考 十七条の憲法の第九条

九に曰く

信はこれ義の本なり。事毎に信あれ。

其れ善悪成敗は、要、信にあり。

群臣共に信あれば、何事か成らざらむ。

群臣信なくんば、万事悉く敗れむ。

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2008年3月27日 (木)

グルメの味がわかる人

テレビを視ると、グルメ番組が多いのには、辟易とする。レポーターが、取材して、大体、限られた言葉で料理の味を表現するが、これが仮に、巧みな表現でも、視聴者は実際食べてみないと、その味はわからない。このようなつまらない番組が、続いてることに不思議な感覚がある。

またレポーターがどれくらいグルメの味を判断できるかも不明だ。随分といい加減なことを言っているような気もする。訪問先で、まさか、まずいとは言えないだろうし。

ところで、歴史的にも面白い話がある。田舎者の織田信長は、グルメ音痴だったと伝えられる。それは、彼が滅ぼした三好の残党を捕まえたとき、その中に京の料理に通じた者がいた。そこで、彼が作る京料理が美味しければ、助けてやろうということになった。

そこで料理をつくり、信長に食べさすが、彼はまずいと激怒した。それを何とかとりなし、再度料理を作る機会を与えられた彼は、今度は京料理ではなくて、少し味の落ちる田舎料理に近い物を出すと、信長は満足そうに食べ、彼は命を永らえ、信長の料理人として全うしたということである。しかし、その料理人は、信長を腹の中で田舎者め、と思いながら、仕えたらしい。

このように、グルメのわかる人は限られる。もちろん、グルメというのは地域性や嗜好の問題もある。グルメが全ての人に受け入れられることはないだろう。

それに日本人の言うグルメは、あくまで日本人的味覚での解釈の結果だ。多くの海外料理も、日本人の口に合うように、ほとんどが作り直されているではないか。

こう考えると、信長も、グルメ音痴と決め付けるのも、可哀想な気がする。信長をあざ笑った、あの料理人も、京都人にありがちな考え方の持ち主だったと言えなくもない。

また戦後の味の濃い西洋料理に馴らされた世代は、味覚が麻痺していると言われ、料理を味わう感覚が失われているという。

それに比べて、戦前の素朴な家庭料理を食していた人は、味覚が研ぎ澄まされていたから、料理の微妙な味もわかるとされる。粗食というものから程遠い時代に、果たして、どれくらいグルメの味がわかる人がいるのだろう。

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2008年3月26日 (水)

未だ見ぬ女性に恋をする

別に表題どおりに、流風が恋をしたわけではない。ただ、昔の人は、結構そういうことがあったようだ。直接、異性と顔を合わせる機会が少ないからだ。だから噂が噂を呼び、ある女性が男性間で話題に上る。女性は見えそうで見えないほど美しい。妄想が妄想を生み、理想化する。そうなると、一目会ってみたいと思うのは男の性であろう。

現代だと、気になる女性にふと視線をやって、仲間に、お前、あいつに関心があるのだろう、という指摘ですむが、当時は直接顔をあわせることはまずない。だから、未だ見ぬ女性に恋をすることになる。

それを言葉にすると、当然、仲間内で、評判になるわけで、結構、そういうことがきっかけで、結ばれることがあったようだ。まあ、結ばれて、期待はずれも多かったようだが、それはご愛嬌(笑)。一夫一婦制でない時代だから、いろいろあっただろうね。皆が皆、光源氏のように面倒見がよかったわけでもないだろうし。

さて、話題を本題に戻すと、摂津多田源氏の流れを汲む源三位頼政も、そういう話題を提供している。近衛天皇の頃、紫寝殿に、鵺(ぬえ)が飛び交い、皆、恐れをなしていた。そこで妖怪退治で有名だった頼政に、天皇より鵺退治の勅命が下された。鵺は実際見えていないのだが、心眼で観て、見事矢で打ち落としたという。

鵺というものが何であったかはわからない。トラツグミの鳴き声が不気味だったので、それを怖れたという話もある。人間、誰だって暗闇の音には敏感になる。それを皆が煽って、そういうものが存在すると思ったのかもしれない。頼政は鵺の鳴き声の正体を知っていたのかもしれない。音の方向に矢を射たのだろう。そう言ってしまえば、話は面白くなくなるが。

しかし、これには、天皇も大いに喜び、お召し物を下された。そして、それとは別に、天皇は、特別の褒美の計らいをされる。実は、噂で、頼政が、藤壺の菖蒲の前という女性が好きだということをご存知だった。菖蒲(アヤメ)というと、端午の節句には付き物です。密生した小さい花だけどいい匂いもする。菖蒲の前も、すらっとして健康的で、いい匂いのする雰囲気を持っていたのだろうか(*注)。

それにしても相当、噂が宮中で流布されていたということになる。まあ、皆、他愛のない噂話は大好きということ。当時、世情は落ち着いているとは言えなかったけれども、そういう話は、別問題。天皇としては、彼に彼女を妻に与えようとお思いになったが、単純にそれをやっては面白くない。ちょっと、からかって意地悪したくなり、彼女の影武者を多数揃えて、その中から、菖蒲の前を当てよ、と御命じになる。

そんなん見たこともないのに、所詮無理。困っている彼に、ある女官が援け舟を出して、歌を詠うように、誘導し、彼は、天皇から、からかわれた状況に応じた和歌を詠う。

  五月雨に 沢辺の眞薦 水越えて

         いずれあやめと 引きぞわづらふ

その内容に天皇が、彼が文武に通じていることに感心して、菖蒲の前の袖を引っ張って、自ら教え、彼女を頼政に賜ったという。昔の人は、恋をするのも大変だったようだ。しかし、このように文武に通じていたことが、彼の名前を高めることになった。いかに、当時の人が文武両道を重んじていたかがわかる逸話だ。

*注

端午の節句の菖蒲とアヤメとは、異なる。菖蒲湯に使う菖蒲には花がないが、アヤメは、きれいな花だ。でも、同じ文字だから、ややこしい。文中の表現は、本当は正しくはない。

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2008年3月24日 (月)

適材適所ということ

適材適所と言われて久しいが、どの企業の経営者や人事担当者は苦労されているようだ。組織の長としては、限られた人材の中で、いかに人材を当てはめるかに頭を悩ます。

十七条の憲法の第七条にも、そのことが述べられている。基本的に、政治家・官僚向けの言葉であるが、参考にできることもあるだろう。政治家・官僚をトッブと読み替えればいい。そして組織運営者には、警告に聞こえるかもしれない。現代語訳にすると次のようになるのだろうか。

「政治家・官僚というものには、それぞれ与えられた任務がある。だから、担当の職務をきちんとこなすことが大事で、これを乱すことはよくない。能力があり人間哲学のある人(賢人)を政治家・官僚トップに任ずれば、人々から賞賛が起こるだろう。それとは逆に、能力もなく、私欲に熱心でよこしまな者が任じられれば、色々な禍が起こり、国を乱すだろう。

世の中には、生まれつき優れた人は少ないが、理想高く、国のことを慮り、国民のことを思い、よく考えると、聖人にもなりうる。事の大小にかかわらず、人を得る、すなわち適材適所すれば、自然と治まるものである。

世の中が、平時の場合も、非常時の場合も、賢人が中心となって政治を行えば、自然と普通に治まる。こうすることによって、国は永続し、世の中も無事に過ごせる。そういうことだから、昔の聖人と云われた王は、国家の仕事のために、人材を求められたのだ。決して、人のがいるから、役職を割り振ったのでないことに注意すべきである。」

このように見てくると、現在の日本の政治家・官僚の方々は、どのような思いで仕事をされているのであろうか。また官僚の縦割りの仕事をどのように改めるべきなのか。やはりマトリックス組織にしないといけないのか。また一般国民としては、どのようにあるべきなのだろうか。いろいろ考えさせられる。そして、それは民間一般経営者にも強い警告となっている。

*参考  十七条の憲法の第七条 原文

七に曰く

人、各々任あり。

掌ること宜しく濫れざるべし。

其れ賢哲 官に任ずれば、頌音則ち起こり、奸者官を有つときは、禍乱則ち繁し。

世に生知少なれども、尅念えば聖となる。

事 大小となく、人を得れば、必ず治まり、時 急緩となく、賢に遇えば、自ら寛なり。

これに因りて、国家永く久しくして、社稷危きことなし。

故に古の聖王は、官の為にして以て人を求め、人のために官を求めたまわざりき。

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2008年3月21日 (金)

灘の酒蔵探訪

3月1日より、灘の酒蔵探訪として、毎年恒例の「灘の酒蔵スタンプラリー」が始まっている。ゴールデンウィークまで開催される。11箇所の内、3箇所のスタンプをもらって、応募すれば、抽選でホテルの宿泊券など、いろんなものが当たる。

酒造会社は、宮水の関係で、多くが、海の近くにある。宮水は、塩水と六甲山から地下に流れてくる水との境界にあるらしい。混血が美しいように、水も同じことが言えるのかもしれない。

そういう水で、できたお酒は、美味しいらしい。流風は、残念ながら、酒党ではないので、わからない。それより酒蔵の雰囲気が好きで、毎年見に行っている。それぞれの酒造会社が、甘口、辛口の特徴を競いながら、試飲させてくれる。それが目的ではないが、試飲は一応厚かましくしている。試飲だけで酔ってしまう安い酒だ。

さて、今年はいつ行こうかな。ちょっと、行きそびれている。

*追記

交通は、阪神電車が便利だ。魚崎駅から大石駅の間に、酒造会社が並んでいる。すべて歩いて行くのも可能だが、初めての方は、どこかで乗り継いで行った方がいいかもしれない。

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2008年3月20日 (木)

功名心を漢詩「述懐」から見る

人間の心は複雑で、功名心など関係ないという顔をしている人でも、ライバルが現われると、自然と功名心が湧くようだ。また誰かに認められて、それに応じようとする場合の功名心もあるだろう。

漢詩では、唐の時代の太宗の時の、魏徴 「述懐」(*参考参照)が有名だ。太宗の期待に応え、忠誠心を詠っている。ある意味。ゴマすりの詩と言えないこともない。ゴマすりが悪いとは言わないが。書き下し文(訓読文)は、参考を読んでもらうとして、若干の流風の解釈を加えた概略の意味は次のように示しておこう。

「天下は乱れ、群雄割拠している。彼らは、天下の座を狙っている。私、魏徴も筆を捨て、戦争に身を投げる。蘇秦や張儀の如く、弁舌で天下を取ることを献策したが、それは成すことができなかった。しかし、この強い情熱は変わらない。」

まあ、机上での理論と実際は大きく異なることが多い。石田三成のような茶坊主では、現場の信頼を得ることは難しい。机上の理論を確立して、現場に出れば、それに越したことはない。問題は、机上と同様、現場で冷静な心を持ち続けられるかどうかであろう。

「そうだからこそ、杖をついてでも、天子にお目通りし、臣下になり、馬を駆って函谷関の門を出て行く。頂いた冠のひもで南粤(なんえつ)王を縛って、かつての酈食其(れいいき、漢の人)のように武力を使わず、策謀で東方の国々を攻め落とした人々のような功績をあげよう。」

要するに、武力と知略で功績を挙げると言っている。また酈食其の手法は、いわゆる調略で、秀吉が得意としたものと似ている。武力で無理やり征服しても、征服者と被征服者の関係は微妙で、その後の統治を誤まれば、元の木阿弥だ。ただ調略で、味方につけても、一時的で脆いという見方もある。

「曲がりくねった道を、高い峰を登っていき、緩やかな平野を見渡すと、古木には、冬の鳥が鳴き、人気のない山の夜には、猿が啼いている。私も人の子、はるかかなたを見やると、心は痛み、故郷への思いも強い。しかしながら、この難儀をどうして厭えるだろうか。国士として遇していただいた恩を思い、いかに報いるか。」

やっと、漢詩的な情感のこもった表現になっている。望郷の念を強くしつつも、それを乗り越え、王のために戦うと決意表明。浪花節的?と言えないこともない。

「季布は、一度言ったことは決して違えなかったし、候嬴も、一言の約束を重んじた。人間、人生、意気に感じたら、男と男の約束を守るためなら、成功して得られた功名など、どうでもいいことだ。」

先人の有名な事例を挙げながら、太宗との約束は違えないと、さらに表明。しつこいなあ。やはり裏には、太宗に本当に信用されているか心配なのだろう。

この詩を通読すると、太宗への忠誠心を表明すると共に、功名心を隠している詩と言えよう。これには複雑な背景がある。というのは、彼は、かつて皇統を争った太宗の兄の方に仕えていた。太宗は、そういうわだかまりを捨て、彼を重用してくれた。それが故に、改めて忠誠心の表明している。

魏徴の立場は複雑だっただろう。人間の心理は、微妙に詩にも表れる。こういったことはサラリーマン社会でも同様のことがあるだろう。ライバル会社から転職したり、敵対派閥が主導権を握った場合の処世術としては、当然求められよう。そして、この詩が、『唐詩選』の第一番に挙げられていることに注目したい。編者は、どういう気持ちで、この詩を選んだのだろうか。

*参考 『唐詩選』魏徴 「述懐」

    中原 還た鹿を逐い

    筆を投じて戎軒を事とす

    縦横の計は就らざれども

    慷慨の志は猶お存せり

    策に仗(よ)りて天子に謁し

    馬を駆りて関門を出ず

    纓(えい)を請うて南粤(なんえつ)を繋ぎ

    軾に憑(よ)りて東藩を下さん

    鬱紆(うつう) 高岫(こうしゅう)に陟(のぼ)り

    出没 平原を望む

    古木に寒鳥鳴き

    空山に夜猿啼く

    既に千里の目を傷ましめ

    還た九逝の魂を驚かす

    豈艱険を憚らざらんや

    深く国士の恩を懐う

    季布に二諾無く

    候嬴(こうえい)は一言を重んず

    人生 意気に感ず

    功名 誰か復た論ぜんや

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2008年3月19日 (水)

ミナトもの創り匠館 TEN×TEN再訪

暖かくなって、ヒイラギナンテンの小さな黄色い花が咲きかけている。それにつられて、しばらく落ちていた散歩のペースもやっと上がってきた。やはり歩くと体調がいい。やはり流風の場合、冬場の運動量の確保が毎年、課題だ。

そういうことで、久しぶりに、神戸波止場町のミナトもの創り匠館 TEN×TENに散歩がてら行って来た。いつものように、元町商店街から、マリンロードを南に行き、国道二号線を渡ればすぐだ。以前、ブログでも紹介したが、神戸の工芸作品展示を集結したような施設だ。

また、神戸の作家の作品の展示だけでなく、全国の選りすぐりの作家の作品も展示する仕組みになって、神戸だけに拘らないようにしているのがいい。各地の工芸施設は、その地域の特性が強く出るものだが、この施設は、そういう感じはしない。ある意味、東京的かもしれない。

特に3月15日から5月25日までは、「もの創り作家~春の饗宴~」と称して、50人近くの作家の力作が展示されている。今回見た限りでは、以前より作品のレベルがかなり高くなっているような感じがした。分かり易く言えば、ハイカラになっている。

もちろん、以前の作品がよくなかったという意味ではないが、今回の展示群は、どこか洗練された感じを受けた。それは裏を返せば、いろんな作家達が、この施設に強い関心を持ち始めたということかもしれない。

帰りは、フェリーの中央ターミナルの「かもめりあ」を経由して、ボートタワー、メリケンパークを散歩して、南京町方面に、取って返した。大丸の八百丑で焼き豚を買い求め、帰宅。ここの焼き豚は、いつ食べても美味しい。まんぞく、まんぞく、池波正太郎状態?あれ、何の話だっけ。TEN×TENに行ったことなんぞは忘れてしまった。もちろんTEN×TENも美味しかったよ(笑)。

*追記

神戸波止場町のミナトもの創り匠館 TEN×TEN      http://tenten.chu.jp/

TEN×TENは入り口が南側になっていて、マリンロードの突き当りを右に曲がればあるのだが、初めて元町方面から行くと少しわかりにくいかもしれない。入り口案内標識をもうすこしよく見える位置に欲しい。

TEN×TENの喫茶コーナーは、コンサートなどの催しは、利用者だけ、座って見られるのはいいのだが、それ以外のときは、どうも落ち着かない。オープンスペースにあるのだが、どうも利用しにくい。スタバ方式で、外側からも、喫茶コーナーが見えて、TEN×TEN以外の客も見込める造りにしてはどうだろうか。場所としては、入り口付近が望ましい。

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2008年3月18日 (火)

初任給を上げる愚

一部の大手の企業が初任給を上げている。これは優秀な人材を確保しようとしているからだろうか。しかし、日本全体としてみれば、愚かなことである。自社だけよければいいという感じと受け取れる。確かに、労働市場から、有利な条件で、若い優秀な人材を獲得したい気持ちはわかる。

だが、学卒の優秀の判断は、非常に難しい。特に画一的な成績優秀という判断は、将来、企業を駄目にすることもわかっている。官僚の世界はその典型だろう。大体、どんなに学校の成績がよくても、必ずしも企業で戦力になるとは限らない。そうであれば、いろんなタイプを採用する必要がある。

そうだとすれば、初任給の高さで、人材を釣る行為は、あまり意味がない。それにまた、どんな人材も、戦力になるには、最低3年間は必要だ。日本の初任給は、現在でも異常だと思う。むしろ、初任給は切り下げる必要があるのに、一部の企業の身勝手で、引き上げようとしている。

一般に、初任給の高い企業は、企業間で業績の差はあるものの、その後の昇給が低いと云われる。結局、給与の財源が限られるため、それ成果主義だ、年俸制だということになる(もちろん、結構稼いでいる企業もあるが、どこか、その稼ぎ方に問題がある場合が多い)。

普通よく言われるのは、顧客と直接接客する、サービス業や流通業は、初任給が高く、その後の昇給が低い。それは業界の経営体質によるものかもしれない。それに対して、製造業は、比較的初任給が低く、年々昇給が高くなる傾向がある。

そういうことを加味しても、一部大手企業の初任給を上げる行為は、独善的だろう。このような馬鹿げた行為をする企業が続かないことを願いたい。また学生の方々も、初任給で会社を選ばないよう注意して欲しい。

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2008年3月17日 (月)

花粉症とレンコン

今年は花粉が多いようである。昨年は、少なかったせいか、花粉症はそんなに感じなかった。今年も、今のところ、そんなに感じない。しかし、花粉症の恐怖はある。以前、花粉症にかかった時は、ティッシュペーパーがあっという間になくなり、鼻が赤くなり、辛い目をした。

それ以後、レンコンの食を勧められ、比較的軽い症状で済んでいる。レンコンの料理といっても、お節同様、煮汁で炊くだけであるが、これが結構いいようだ。もともとレンコンは、咳止めとしても活用されてきた歴史がある。何かよい成分が含まれているのだろう。

また先日、テレビを見ていたら、レンコンとキムチの組み合わせがいいと言っていたが、キムチは苦手だから、まだ試していない。もし、花粉症がひどくなるようなら、試してみますか。

*追記

花粉症の原因は、いろいろ言われるが、父は油物の摂取が多いと、そういう体質になるのではと言っていた。あくまでも仮説であるが、そんな感じもする。父は、肉類は嫌いで、魚料理と野菜の煮た物が好きだったからか、花粉症と無縁だった。それに対して、肉やフライ物の好きな母は、花粉症でずっと苦しんでいた。

それでいくと、上記のレンコンも花粉症対策には、揚げ物にはしない方がいいかもしれない。

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2008年3月16日 (日)

農村の荒廃と食糧自給率

あらゆる国で、自国の農業が衰退すれば、国が衰退すると云われる。日本は、食料自給率が先進国の中では最悪の状態が続いている。これは、海外が不作で、輸入できなくなったら、私達が食糧に困るということである。さらに、先進国では、バイオエネルギー資源として、無駄に食糧が使われており、多くの貧しい国を作り出すだけでなく、環境破壊も促進している。

しかし、現在の日本の現実は、食生活で輸入加工品が問題になっているが、その一方で、農家の皆さんが、農業だけでは食べられないという。現実は、ボランティアで、お米を作っているようなもんだとも聞いたことがある。農村の荒廃は、もう限界まで来ているということだろう。国は、いつまで、そのようなことを放置するのだろうか。

そういった国際食糧環境下で、大変な国際流通コストをかけて、日本はいつまでも食糧を輸入し続けるべきだろうか。現在の状況は、自給率を下げて国内農業を荒廃化させ、国際的には貧困化を促進するだけではないか。

国は、長い間、政策的に補助金を出してきたと言うかもしれない。しかし、それは、農地所有者や農業者を直接には支援していない。農業環境整備と称して、わけのわからないお金を無駄に使ってきたというのが正しいだろう。もちろん、その全てが無駄とは言わない。

しかし、農業の荒廃は止められなかった。そのように、国による無駄な補助金は問題が多いかもしれない。今後は、各地の農業者のそれぞれの実情にあったきめ細かい政策が望まれるのだが、それは国がやるのは無理で、自治体レベルで任せるしかない。よって、農業に対する支援は、補助金か、一般財源で、地方の首長が采配を振るうしかないのかもしれない。

また、一般国民の立場としても、国内の農業をもう一度見直し、都市に住む者も、一定の負担をした方がいいのではないか。すなわち、国内産の安心できる農作物を積極的に消費することが、必要経費と考えられないだろうか。その点、流通業者は何も考えていないので、消費者が国内産を積極的に消費して、流通業者を誘導するぐらいの気構えが望まれる。

そうすれば、農業後継者や新規営農者も増えるかもしれない。国家的には、農業の安定は民生の安定につながるのは、歴史的にも今も変わらない。そういう意味では、補助金より、むしろ、そういった実際の国内消費を増やす方策を国は取るべきだろう。

*追記 望まれる政策の柱

       一 農地の転用禁止と環境問題で保護

       二 農業生産者の所得保障

       三 消費者と共に農産品の品質基準 ~時代に応じたベターな選択

       四 国際食糧危機に備えて、米、小麦、大豆の増産

       五 余剰穀物の国際運用システムの構築

       六 環境問題及び農業・林業問題と都市生活者の連携強化

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2008年3月15日 (土)

夢か現か幻か

信長の愛した幸若舞『敦盛』の一節、「夢か現(うつつ)か幻か」というのは、人生を、ある程度の歳になれば、誰でも感じることかもしれない。若い時は、不安を抱きながらも、希望と夢に溢れているので、そういうことは感じにくい。

また、これは、『荘子』の「胡蝶の夢」の認識に近いものがある。『敦盛』の作者も影響を受けているのかもしれない。胡蝶の夢は有名なので、多くの方がご存知だろうが、念のため、次のように日本訳を挙げておく。

「むかし、荘周は自分が蝶になる夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(すなわち万物の変化)と名づけるのだ」(『荘子』金谷治訳注 岩波書店より)

これは何を語っているのだろうか。『荘子』は難しいので、流風が理解するには、ちと辛い面があるが、要するに、この世の中は、変化と考えがちだが、時空間を超えた絶対的世界があるということを言っているのかもしれない。

人間というものは、現在の存在を前提として、物事を考えがちだが、それは変化の極小さな一局面に過ぎないということだろう。そして、変化しているように見えることも、それは不変の原則に従って、動いている。世の中は、次々と変化していくが、変化していくことが不変であると言える。

我々は度々夢を見るが、それは現在を基点としており、夢さえも、この不変の原則に従っている。そう考えると、夢も現実も、大した変わりはない。人間の営みは、せいぜい、夢は未来に対するものなのか、それとも現在の延長にあるものなのかと考えるぐらいのことなのだ。さらに言えば、現在は過去の夢だったと言えないこともない。

つまり夢が現実に立脚している限り、夢は現実であるし、現実は夢である。そう考えれば、人の考えは、現時点での存在がすべてなのかもしれない。まあ、生きているうちが花ということかな。

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2008年3月14日 (金)

外国語教育改革

流風は、義務教育での英語授業の無駄を度々主張している。そして、その根本は、何のために英語を習うかということにある。現在は、その目的が極めて不明である。戦後教育からの惰性で続いていると言って間違いはないだろう。

現在の日本で、英語で情報をわざわざ入手しなければならないことは、限られる。日本は、ほとんどの情報を入手してしまっている。更に情報がネットで簡単に手に入る時代に、英語の学習に時間をかけるのは無駄であり、その他の教育に時間をかけるべきなのだ。

そういう環境を踏まえると、全ての人に英語教育を施す必要はない。もちろん、英語を必要とする人々がいることは否定しない。つまり、現在の日本は、英語を必要とする人と必要としない人の存在があるということを明確にしておくべきだろう。結論としては、外国語は選択科目にすべきだということになる。

更に言えば、外国語を必要とする人たちも、世界は多極化の方向にあり、多言語が意味を持つことになる。すなわち、英語で、世界をカバーできない。そういう意味では、日本語と外国語の関係を見直す時期に来ているのだ。言い換えれば、多言語の時代には、外国語は選択科目にすべきだろうし、英語は選択科目の一つに過ぎないということだ。

国は、多極化する世界に対応するため、外国語教育を見直し、カリキュラムの内容を見直しすべきだろう。

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2008年3月13日 (木)

情報処理能力と小学生教育

私達は、過去・現在・未来という時間軸で、いろんな歴史的空間において経験しているが、未来というのはわからないというのが、私達を惑わせるのだろう。いろんな予測はしても、それが必ずしも当たるわけでもない。しかし、未来に対して、有利に時間を過ごしたいのは、誰もが感じることだろう。

子供時代は、将来に対する茫漠とした不安を持っていたことを今でも思い出す。両親は、お前はまだ時間がいっぱいあるから、悩まなくてもいいと慰めてくれたが、それでは解決しない。

そこで、いろいろな情報を集めて、将来のことを探り出したい気持ちが出てくる。しかし、何も知識も無いままで、情報を集めても、脳の中は混沌とするばかりである。だから、情報を捌く知識が必要になってくる。だから勉強するのだ。しかし、学校の教師は、誰も、そのことを教えてくれなかった。流風が、それを認識したのは、社会人になってからのことだ。

以前、ゆとり教育が議論されていたが、それが問題ということで、現在は、元に戻されつつある。これは情報に対する考え方の違いと言える。はっきり言えることは、情報を情理に基づいて捌く力は、早く入手した方が、人生において有利だということだ。

だから小学生の低学年の間に、ある程度の詰め込み教育は止むを得ない。問題は、詰め込むカリキュラムの内容ということになる。そして、高学年になるにつれて、近い将来、何らかのヒントになる考え方が本来小学生に教え込むことが求められる。

そのことは別に新しいことではない。戦前の小学校の読本は、難しいことも、優しく噛み砕いて、分かり易く、歴史的事例を挙げながら、物語にしていた。そうして、知らず知らず、人としてのあり方を学んでいる。それは情報を捌く基礎になっている。

だから、両親を含めて、戦前の教育を受けた人たちは、それ以上の高等教育を受けなくても、ある意味、見識があった。それに基づいて行動していた。それが日本人を美しくしていたとも考えられる。小学生教育の重要性は今も変わらない。教育問題を考える基点にしてもらいたいものだ。

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2008年3月12日 (水)

解語の花

男にとって、ふんふんと聞いてくれる女性ほど、いとおしいものはない。男の話す内容を理解しているのがベストだが、聞いてくれるのが好ましいのだ。最近の女性は、賢すぎて、そういう風に振舞うのを嫌がっているように見える。それは、賢すぎて、結局、男を遠ざける結果になることもわからずに。まあ、もっとも、聞く振りをするずるい女もかなわんけど(笑)。

解語の花という言葉がある。文字通り、語を解する花、つまり、言葉を理解する女性ということだ。かの玄宗皇帝が、楊貴妃を例えた言葉とされる。きれいな花は、単に見るだけであれば、美しいが、それだけだと飽きてくる。しかし楊貴妃は、美しい上に、私の言葉をちゃんと理解してくれる。そういうことを玄宗皇帝は言いたかったのだろう。

楊貴妃と言えば、玄宗皇帝の子の寿王の妃だったのを、無理やり引き離し後宮に入れたと云われる。理由は、美人だったのは確かだが、それ以上に、彼女は、玄宗の心に取り入る術を知っていたからだろう。つまり、彼女は、単なる美人でなかったのだろう。男の心をくすぐり、常に玄宗の関心事に心地よい言葉を発したのだろう。

しかし、玄宗皇帝の前半の治世二十数年間は、開元の治として知られているように名君であったのに、彼女によって、彼は駄目になってしまった。そういう意味で、彼女はまさに“傾城”と言える。

皇帝というのは、全ての決裁を求められ、それによって、国家の命運が決まってしまう。それゆえ、いつの時代も皇帝は孤独である。その心の隙間に入り込んで、彼女は、言葉で彼の心を掴んだということになる。

男女間には、言葉のキャッチボールができるのが、望ましいが、どちらかが一方的に話す場合は、うまく行かないと言われる。楊貴妃は、そういうことに巧みだったのだろう。現在だったら、ホステスになれば、売上ナンバーワンになっただろう。

しかし、男にとって、女性の心地よい言葉は、ある意味、毒にもなる。そういう意味では、現在の女性のように、言いたい放題の女性の方が裏表がなくて、いいのかもしれない。ストレスはたまりますけどね(苦笑)。

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2008年3月11日 (火)

政策の優先順序の違いとマスコミ

自民党と民主党の大きな違いは、政策の優先順序だ。それをこちらが先だ、あちらが先だと揉めているのが国会の現状だろう。流風は、これらの論争が無駄とは言わない。なぜなら、それによって、各党の政策の優先順序が明らかになるからだ。これらは、いずれ選挙公約につながっていく。

そう考えると、有権者は、国会論議も無視できない。だが、あまり細部の議論に時間をかけるのはどうかと思う。それにマスコミが尻馬に乗るように、小さい現象を捉えて問題化するのはどうかと思う。マスコミは、各政党の基本路線との整合性があるかチェックする方が大事だ。すなわち、八方美人政策に歯止めをかけるのがマスコミの役割ではないだろうか。

各政党の国民に心地よい言葉が、必ずしもいい政策を生み出すとは思われない。現実を直視し、その中でよりよい政策を実現するのが政治とすれば、マスコミは、国民にも、それを報せる必要がある。政党の打算や、国民の打算で、国の将来は決められない。

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2008年3月 9日 (日)

教え方の原点

かつて流風は、教え過ぎと批判されたことがある。その時は、その批判に対して、むっとして、やや感情的になったが、後々、ゆっくり考えると、その批判が正しいことがわかった。

すなわち、教えすぎると、教えられた方は、答えが予めわかってしまって、却って意欲が減少する。学校の学問に限らず、あらゆる学びには、本人の意欲が大切だが、それを削ぐことは望ましくない。本人が、とことん考えてわからない場合だけ、適切なアドバイスをすればいいのだ。そして、それさえも、ほどほどが望ましい。

実は、このことは、後年、『礼記』にあると知って少し驚いた。その『礼記』によると、ポイントは三つある。基本は学ぶ者の自発性に任せることが重要と論じている。論じている内容を流風なりに解釈すれば、次のようだ。

一つは、学ぶ者の能力に応じて教えていくわけだが、無理やりに導かないこと。

二つ目に、学ぶ意欲を刺激はするが、一定の方向に無理やり導かない。

三つ目に、問題点のありかをぼやかして示唆するけれども、細かい所までは教えない。

だから、答えを教えろと質問してきても、答えを教えないのも教育と言える。突き放すのも重要なことだ。最近の教育は、わかりやすい方向に行っているが、あまりよくないのかもしれない。

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2008年3月 8日 (土)

日本銀行総裁選び

日本銀行総裁選びで、自民党と民主党で揉めているようだ。ただ、これは客観的に見れば、日本銀行派と財務省派の抗争と言える。自民党と民主党は、その代理戦争と言えるだろう。

もちろん、民主党が言うように、日本銀行の独立性は重要なことだ。主体的な判断ができる日本銀行総裁が望ましい。ややもすれば、政治の意向を汲んで、金融政策を変更せざるを得ないようなことでは困る。

しかし、その一方で、日本銀行は、政府や国会との協調も求められる。すなわち、主張すべきことは主張し、日本銀行の政策を浸透させる能力が日本銀行総裁には求められる。いわゆるコミュニケーション能力が重要だ。

コミュニケーション能力は、政府、国会のみならず、国際金融市場に対しても、そうであろう。福井総裁は、そういう役割を十分果たされてきた。その説明の仕方も、巧みであった。後継総裁も、そういう人になって欲しい。

出身機関に捉われず、真に能力と主体性があり、日本銀行の独立の気風を感じさせるタイプが望ましい。今後も、総裁選びに混乱をきたすようなら、思い切って、福井総裁の任期延長でもいいのではないか。

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2008年3月 7日 (金)

問題意識を持つ

問題意識を持って成功した人は多い(*注)。一般人が、現象面を、ただ、ぼんやり見ていて見逃すことも、問題意識を持っていると、新しい課題を見つけ出すことができる。

問題意識とは何か、と問われることも多いが、世の中の常識の中に、おかしな点を見つけ、自ら課題化し、解決方法を探ることと言えようか。

こういうことは、必ずしも学校教育では教えていないようだ。いや、教えられないというべきか。人々は、皆、課題を見つけ出す能力を持っているが、そういう立場にならないと、なかなか問題意識を持つに至らないということかもしれない。

問題意識を持つには、実際に見聞を広げて、矛盾点を見つける作業をした方が効率がいい。この世の中は、完成されてはいない。一時的な完成点は見出せても、常に、それは変化する。

だから、現状に満足すれば、たちまち問題が生じる。つまり世の中は、時の変化と共に、常に未完全な状態である。完全な状態のように見えても、常に未完成で矛盾を抱えていると言えよう。

だから、本来、誰でも、矛盾点は見つけられるはずである。問題は、いかに問題意識を持って、課題化できるかにある。課題化ということは、原因・結果の原則で解決できるということである。そういう道筋を作った人が、成功した人のほとんどと言えよう。

*注

本来は、「問題意識を以て」が正しい表現だが、敢えて、「意識を持つ」とした。「意識を持つ」とは、変な表現かもしれないが、流風的には、そのように感じている。「以て」より、「持って」の方が、更に踏み込んだ感じのニュアンスだと思っている。

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2008年3月 6日 (木)

得意という惰性

人間誰でも、得手不得手がある。ただ流風なんて、特に得手なものは無いが(苦笑)。何でも、器用にこなす人を見ていると羨ましくなる。

しかしながら、職人の世界を見ていると、得手なことをやっている人が必ずしも成功していないことがある。職人世界は、手先が器用な人の方が成功しそうに思うが、そうでもないらしい。大抵、極めたという人は、不器用だったと告白する人が多いのには驚く。

どうも、これは器用で皆に誉めそやされると、得意になって、進歩が止まるようなのだ。それに比して、不器用な人で成功する人は、とことん問題点を追及し、問題意識を持って課題を抽出し、より高いレベルにまで、その技術を引き上げるようなのだ。

もちろん、ここに来るまでは、たくさんの無駄と思われるような努力を積み重ねている。そういう意味では、ウサギとカメの逸話を髣髴とさせてくれる。

だから、何でも器用にこなす人は、周囲が褒めても、今一度、その賞賛を疑い、新しい壁をブレーク・スルーする努力をする必要がある。天才が努力すれば、それは非の打ち所がないということになる。

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2008年3月 5日 (水)

最近の川柳もどき、に思う

最近、川柳が流行っているらしい。そういうと、新聞や雑誌などでも、よく取り上げられている。しかし、専門家に言わせると、「あれは川柳ではない。川柳のようなもの」らしい。流風に十分な川柳の知識は無いが、俳句同様、5・7・5で読むことぐらいはわかっている。それに俳句と違って、季語も無いことも。

しかしながら、本来の川柳に、それ以上に大事なのが、物事を一面で捉えないことらしい。そういうと、最近の川柳は、現象の単なるボヤキのようなものが多い。ある意味、その時点における作者の感情を表したものがほとんどで、漫画的だ。すなわち、瞬間芸のようなもので、その現象の裏面というか、反面のような捉え方が弱いようである。

もちろん、このような気楽な川柳もどきも、時代の雰囲気を表すには、いいものだと思うし、庶民のストレス発散の場所にはなっているから、全てが悪いとも言えない。しかし、これほどに、流行るのなら、次のステップとして、そろそろ本来の川柳に近づく努力は求められるかもしれない。

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2008年3月 4日 (火)

親にお上手

親にお上手なんて言えば、何か下心があるんじゃないかと思われがちだが、親の心の琴線に触れれば、案外嬉しそうにするものだ。流風の謹厳実直な父も、そういうところがあった。

もちろん、何でもかんでもご機嫌とりをすれば、かえって何かあるのかと思われるから、そんなに頻繁にはしない。そんなことより、普段の会話の中での、何気ない一言に価値があるのだ。

反抗期とか、女性が父親と距離を置きたくなる年頃とかは、なかなか難しいが、ある程度の年齢になれば、子供の方から話しかける努力は求められる。特に父親というのは孤独である。話題は何でもよく、昔の子供時代のことから、最近の出来事まで、気になっていることを話せばよいのだ。

そういった会話の中で、少し感謝の気持ちを表すと、親は嬉しいものである。そういうことで、父が本当に嬉しそうにしたことがある。そのような反応が返ってくると、こちらも少し嬉しい。古語にも、「媚字を以て親に奉ず」という言葉もある。積極的に、ヨイショしよう(笑)。

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2008年3月 3日 (月)

『四看』ということ

企業において、人の評価は本当に難しい。営業でさえも、単なる結果の数字だけでは評価できない。今はプロセスも問われる。プロセスが悪ければ、結果も、企業にとって将来問題になるからだ。

ところで、四看という言葉がある。呂新吾の『呻吟語』にある。人の評価は、多面的な観察からなされるが、呂新吾の考え方はさらに広さと深さがある。能力、胆力、心の広さ、深さ、鍛錬などを評価の基準にしているようだ。それは次のようなものだ。

   大事難事に担当を看る。

   逆境順境に襟度を看る。

   臨喜臨怒に涵養を看る。

   群行群止に識見を看る。

大事難事に担当を看るとは、困難にぶつかった時、逃げずに仕事を処理できるかどうか。平時に大きな事を言っていても、実際の難しい局面に立った時、結構、動けない人が多い。そういう場面になって、初めて真の能力があるかどうかがわかるものだ。もちろん、ある程度の経験は必要だが、それだけでは決まらない。

そして、いつでも、慌てず騒がず、淡々と処理できる人がいるかどうか。そういう人は、淡々と普通に処理してしまうため、目立たないものだ。それをきちんと観察して評価する仕組みができているだろうか。

次に、逆境順境に襟度を看るとは、逆境順境でも、心のブレが少ないことを望んでいる。上記のことと重なるが、逆境でも、それはいつまでも続かず、いつかは元に戻るとの確信の下、辛抱強く対応でき、また順境の時も、驕ることなく、将来の逆境に備えることができるかどうか。

臨喜臨怒に涵養を看るとは、人は喜ばせたり怒らせたりするが、その裏にあるものを深く読み取って、そういうものに左右されない心の鍛錬ができているかどうか。基本的には、人を知ることから始まる。世の中には、いろんな人がいる。いろんな考え方がある。いつも述べているように、嫉妬社会でもある。そういうことを踏まえて、人の発言を粛々と受け止めているかどうか。

群行群止に識見を看るとは、多くの人の前に出ても、自分の立場を弁え、自分の哲学に基づき、淡々と冷静に振舞えるかどうか。時代の流行に流されず、空間的、時間的、根本的な視野から、じっくり自分の見解を述べることができるかどうか。

人の評価は難しいが、単に成績がよいだけで、管理者にしてはいけない。基本的に人物であるかどうかが決め手にならなければならない。結局、トップは、各人に関する情報を多面的に収集する仕組みを作っておかないと、正しい評価は難しい。

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2008年3月 2日 (日)

投資家の性

投資家というのは、余程、できた人間でないと、欲が出るものだ。例えば、企業に投資するファンドなども、純投資と言っておきながら、投資が進むと、買収に意欲を示すようになる。すなわち、リターンに欲が出るのだ。

そういったことが、国ベースでも行われようとしている。それが政府系ファンドだ。彼らも、一応純投資だと、盛んに言っている。しかし、これは一般のファンド同様信用ならない。さらに、国家が関与するのだから、より複雑だ。

ある意味、政府系ファンドは外交案件と言ってよい。政府系ファンドは、政治目的であることは否めない。極めて胡散臭い。そういうところから投資案件が来ても、あまり喜べないだろう。

米国は、サブプライムの問題で、受け入れざるを得ないだろうが、処理を間違えば、国を売ることになる。さあ、どのように対応するのか、見ものである。また日本としても、そういうファンドにどのように対応するのか、課題が残る。

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2008年3月 1日 (土)

ごはんのまつり

寒い寒いと言っていたのに、もう3月だ。少しは暖かくなったような気もするが、実感としてはまだ寒い。出かけるのも、少しうっとうしい。来週ぐらいからは、温度も上がるのかな。

さて、中国産餃子から発した海外調達食料品の危さは、皆が感じていることだろう。食文化やその品質管理の違う国から、食料品やその加工品を輸入するのはリスクが大きすぎる。

ただ食糧や食品調達については、マスコミでは大袈裟に取り上げて、中国から農産品やその加工品が入らなくなったら、日本の食は成り立たないなど言っている。どこの業者の提灯を担いでいるのか。別に輸入しなくてもいいではないか。

中国産に限らず、輸入食材を利用しなくても、食に困ることはないだろう。困るのは、それらを何の検査も無く、輸入して儲けていた業者であり、それを利用して儲けていた外食産業だけだろう。

私達は、日本の食生活を見直せば、別に困ることも無い。流風など、輸入食材などほとんど利用することも無い。その季節に取れる大量の農産物を調理すれば、安くつく。調理内容も、あまり複雑なものにせず、日本本来の素材のよさを活かす調理法にすれば、問題は無い。だから、そんなに騒ぐことのことのほどでもない。冬に夏の食材を利用しようとするから無理が来るのだ。

人間の身体は、季節に取れるものを食べれば、健康にもいいことがわかっている。季節外の食品を摂取すれば、健康を害することもわかっている。今まで、季節感のない食事をしてきたから、日本の食卓がおかしくなり、昔なら考えられない病気になったりするのだ。

ところで、タイミングよく、三食御飯の流風としては、関心のある催しがある。それは六甲アイランドファッションマートで行われる『ゴーゴーご組 春の文化祭「ごはんのまつり」』だ。御飯に関するいろんな催しがあるらしい。開催日は、3月8日・9日の2日間(10:00~16:00)。入場無料。御飯とその周辺食材や兵庫県下の地産地消の食材も展示され、試食もできるらしい。御飯のよさを感じるために、散歩がてら、覗いてみますか。

*ごはんのまつり

  http://gokumi.com/contents/festival/index.html

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流行語と若者の略語

数年前のことだが、あるハンバーガーショップで、滅多に食べないハンバーガーを注文し、店員が品物を渡しながら、流風に向かって、「ビミョウ」と言ったのを覚えている。しかし、あれは流風の何に対して、そう言ったのか、未だに不明である。

漢字にすれば、「微妙」であろうが、そういう意味とは違って発しているようで、嫌な感じだった。店員教育はどうなっているのだろうか。その店は、その後、利用していない。多分、あの店員はもういないだろうが。

この「ビミョウ」は、最初は若い女性が言っていたのに、最近は、中年のおばさんも、よく言っているのを見かける。先日、スーパーのレジの女性が発していた。ただ似合わない(笑)。日本語も、ある意味、進化しているのかもしれないが、ちょっと変な感じ。

ところが、その流風が、ある売り場で、「ビミョウ」を発してしまった。ということは、流風も、その「ビミョウ」が身体に宿ったのかもしれない。ちょっとショックだ(苦笑)。

そういうと、最近のローマ字略語も広まるのだろうか。略語というのは、どの時代にもある。特に若者は、何でも略したがる。それを新しい感覚と捉えがちだ。

ただ、この略語がわかりにくいのは、ローマ字にしているからだろう。最近のローマ字略語が、日本語を省略するか、英文字を省略するかの違いとわかるには、少し時間がかかった。

しかし、仲間言葉としての隠語という捉え方では違和感はない。自分たちだけの言葉空間を創りたい気持ちもわかる。それは若い人特有の、自分たちは他と違うのだという気分(主張というほどのものでもなさそうだ)の一つの表現方法なのだろう。

結局、こういうことは別に特別扱いしなくても、いつの時代も、若者は新しい言葉が好きだった。省略語は流風の世代も作っていたし、そういうことは世代を超えて繰り返されるのだろう。そして、これらのいくつかが残って、広辞苑にも掲載されるようになるのだろう。

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