« 外国語教育改革 | トップページ | 農村の荒廃と食糧自給率 »

2008年3月15日 (土)

夢か現か幻か

信長の愛した幸若舞『敦盛』の一節、「夢か現(うつつ)か幻か」というのは、人生を、ある程度の歳になれば、誰でも感じることかもしれない。若い時は、不安を抱きながらも、希望と夢に溢れているので、そういうことは感じにくい。

また、これは、『荘子』の「胡蝶の夢」の認識に近いものがある。『敦盛』の作者も影響を受けているのかもしれない。胡蝶の夢は有名なので、多くの方がご存知だろうが、念のため、次のように日本訳を挙げておく。

「むかし、荘周は自分が蝶になる夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(すなわち万物の変化)と名づけるのだ」(『荘子』金谷治訳注 岩波書店より)

これは何を語っているのだろうか。『荘子』は難しいので、流風が理解するには、ちと辛い面があるが、要するに、この世の中は、変化と考えがちだが、時空間を超えた絶対的世界があるということを言っているのかもしれない。

人間というものは、現在の存在を前提として、物事を考えがちだが、それは変化の極小さな一局面に過ぎないということだろう。そして、変化しているように見えることも、それは不変の原則に従って、動いている。世の中は、次々と変化していくが、変化していくことが不変であると言える。

我々は度々夢を見るが、それは現在を基点としており、夢さえも、この不変の原則に従っている。そう考えると、夢も現実も、大した変わりはない。人間の営みは、せいぜい、夢は未来に対するものなのか、それとも現在の延長にあるものなのかと考えるぐらいのことなのだ。さらに言えば、現在は過去の夢だったと言えないこともない。

つまり夢が現実に立脚している限り、夢は現実であるし、現実は夢である。そう考えれば、人の考えは、現時点での存在がすべてなのかもしれない。まあ、生きているうちが花ということかな。

|

« 外国語教育改革 | トップページ | 農村の荒廃と食糧自給率 »

古典文学・演芸」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 外国語教育改革 | トップページ | 農村の荒廃と食糧自給率 »