« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »

2008年4月30日 (水)

小心翼々の誤解

  仲山甫の徳たる 柔嘉にして則あり

  儀を令(よ)くし色を令くし 小心翼々たり

  古訓これ式(のっと)り 威儀これ力(つと)め

  天子これ若(したが)い 明命を賦かしむ

小心翼々と言う言葉は、日本では、「気が小さく、びくびくしていさま」のように悪いように使われるが、本当の意味はそうではない。本来の意味は「慎み深く、細事まで注意すること」を指す。出典は、『詩経』の「大雅」の「烝民」で、仲山甫のことを称えた歌から出ている。

同じく周に仕えていた尹吉甫が彼を称えて贈ったとされる。それほどに、仲山甫は、当時、人々に愛されていたようで、徳のある人であったようだ。

「烝民」との「烝」は見慣れない文字だが、「蒸」と同じこと。人は天地の間で、その気が蒸して創っていると考えられていたらしい。国の長は、民を蒸すことを天地に代わってやっているとし、民の実情調査を自らもしくは、臣下を使って行っている。

紀元前789年、異民族と戦っていた周の宣王は、敗れ、太原地方の民を精査して、兵を徴収して軍を立て直そうとした。それを仲山甫が諌めている。為政者の都合で、民を追いつめないように配慮しているのだ。

今の日本の政治や行政に足りないのは、こういうことではないか。机上で政策を作ってしまい、国民の実情も把握せず、いきなり実行に移し、国民を混乱させている。ああ、小心翼々な為政者を望みたいものだ。

| | コメント (0)

2008年4月29日 (火)

逆鱗に触れると虎の尾を履む、どっちが怖い

逆鱗に触れることと、虎の尾を踏むこと、どっちが怖いのだろう。

まず逆鱗に触れる、から見ていこう。逆鱗とは、竜の咽喉の下にある逆さに生えた鱗のことである。竜は本来優しいそうだが~本当かな~、この逆鱗に触られると、その触れた者を突き落とし、殺してしまう。

これはたとえ話で、あの韓非子が、その書物『韓非子』で述べたものだ。竜とは君子のことで、君子にとっても触れられたくないものはある。だから仕える者は、その点に要注意ということだ。

確かに、トップのプライバシーに触れることは避けることが求められるだろう。しかし、そういう問題以外でも、トップとの接し方は難しい。そういうと、会社員時代、トップの痛い所を突いて、悦に入っていたが、そういうのを受け入れられるトップとそうでないトップがいることを痛切に感じさせれられたことがある。

批判を建設的に受け入れられるタイプのトップの時は、むしろ好意的に受け取られるが、官僚的なトップの場合は、面子やプライドを大事にするためか、煙たがられ嫌がられた。

ある時、官僚的タイプのトップのことを批判して、そのことで逆鱗に触れ、飛ばされそうになった。口にチャックは辛いことで、それ以後、飛ばされはしなかったものの、あまり仕事は面白くなかった。息が詰まりそうで。

でも、部下としては、上司のタイプを見極めて処世するのがいいのだろう。流風みたいなタイプは、会社員には向かないと言うことだろう。

次に、虎の尾を踏む、ということは、常識的に考えても、危険だとわかる。凶暴な虎の尾を踏めばどういうことになるかわかる。生死に関わってくる。しかし虎も、その状態、状態で、いつも襲うわけではない。

出典は、『易経』の上経「履」からだ。「虎の尾を履むも人を咥わず」とある。これもたとえ話で、剛強の人に対しても、礼にかなった柔順和悦の態度で接すれば、危険はないとする。ただ実際に虎にこのように接して大丈夫かどうかは保証の限りではない(笑)。

しかし、基本的には、こういう処世が正しいのだろうけど、これもやりすぎれば慇懃無礼になる。トップは人事権を握っている限りにおいて、怖ろしいという感覚を従業員に持たせることは大切だが、ワンマンになってしまうと、見えるものも見えなくなる。

ワンマンになると、周辺には、イエスマンというか、慇懃無礼な部下ばかりになってしまう。企業のトップの場合、周囲にこのようなタイプばかりだと、危機に対応できない。敢えて虎の尾を踏んでいくタイプも、幾人かはトップは持っていないと危ない。そういう器を養えるかがトップに求められている。

これらの故事もいろいろ教えてくれる。流風は気づくのが遅すぎた(苦笑)。でも、もう人生の後戻りはできない。若い人、宜しくね。

| | コメント (0)

2008年4月26日 (土)

姫路菓子博に行く

女、子供向けの博覧会と思っていたが、一応甘党として、姫路菓子博に行って来た。予想以上に人が多く、ちょっとした驚きだ。当日は、あいにく雨だったが、年輩者の男女中心に、若い人も割りと来ていた。平日のため、子供さんは比較的少なかったようだが、人波は途切れなかった。

この催しを、地元の人がいかに期待していたがわかる。こういった催しが多分今までなかったのだろう。こちらでの菓子博というのは、今年限りであろうが、こういう催しに期待する人々が年輩者中心に多いということかもしれない。一応、感じたことを記してみよう。

まず、全館を見るには移動距離が長いことだ。結構、歩くことになる。健康のためにはいいかもしれない。一日一万歩のノルマは軽く達成。ただ13のパビリオンがあるが、並ばないと入場できない館もあり、全てを回り切るには、かなりの時間と労力を要する。

だから、自分の見たい物を事前に計画して、行く方が効率がいい。人の流れで行ってしまうと、待ち時間で疲れるだけだ。つまり、一体何を見たいのか優先順序をはっきりさせた方がいい。

テレビでは、女性レポーターが、まず食べるコーナーに急いだ方がいいとアドバイスしていた。多分、それは提供されるものが数量限定だからだろう。この辺の感覚は、流風にはわからない。現実的な女性独特の判断の仕方のようだ。確かに、工芸菓子の展示はなくなることはないのだが。

主たる展示内容としては、似たような展示のパビリオンがあった。それは、「テーマ館」、「全国工芸菓子館“和の匠館”」と「全国工芸菓子館“和と洋のシンフォニー館”」だ。

まず、「テーマ館」は、「姫路城 白鷺の夢」などを除けば、展示内容は他の館と似たり寄ったりの展示だ。ここには、待ち時間2時間なのに、大変多くの人が並んでいたが、待った割には、マスコミで既に報道されていたためか、内容はそれほどでもないというのが印象だ。

「全国工芸菓子館“和の匠館”」は山水花鳥風月の工芸菓子があり、「全国工芸菓子館“和と洋のシンフォニー館”」は名の通り、全国の和洋の工芸菓子の展示であった。

すなわち、お菓子の工芸アートを競っている感じである。花をテーマに扱ったものが多く、ここは生花の展示会かと思ったぐらいだ。ただ、そういうものに興味がなければ、男には、あまり面白いものではないだろう。やはり女性向の館であるといえる。

あまり興味のない人は、3館の内、どれか一つを鑑賞すれば十分だろう。時間がない人は、待ち時間に2時間もかかる「テーマ館」は避け、他のパビリオンを見るだけで楽しめるだろう。「テーマ館」は残りの持ち時間があれば、最終コースにしてもいいと思う。ただ、話のネタを重視する人は、はずせないだろうけど。

また館内は撮影禁止なのに、工芸菓子の図録やポストカードなどは販売されていなかった。館内に入ることを断念した人々も、図録やポストカードがあれば、購入したかもしれない。またデジカメ持参の人々も多く、撮影を断念した人も多いことを考えれば、その辺の配慮がアピール力と共に足りない感じがする。

「日本縦断!お菓子めぐり館」は全国のお菓子が展示してある。各県のお菓子を平面的に多数陳列して並べても、そんなに楽しいものではない。似たり寄ったりのお菓子の羅列だからだ。菓子業者の自己満足に過ぎないかもしれない。また、そこでは販売はされず、出口辺りの販売所でまた並ばなければならなかった。これは少し残念だ。

もっと販売に力を入れて展示する方法を考えてもよかったのではないか。人々も百貨店の物産展のようなものを期待していたはずだ。狭い販売所に多くの人が集まり、買えなくて不満を言っている人もいた。であれば、駅から会場に行く途中の、広い通りを歩行者天国にして、そこに売り場を設定することは出来なかったのか。交通上支障があるというのなら、別の場所でもっと広い場所で販売できないものか。いずれにせよ人々の期待とのズレを感じる。

夢のスイーツカフェは人気上々のようだ。当日、中には入らなかったので様子はわからないが、多くの女性が並んでいた。もっと中間辺りの野点庭園の近く辺りでよかったのではないか。あの雰囲気の中で、全ての人が野点を味わおうとするのは、なかなか難しいものがある。中間点で少し休憩の意味と期待を込めて、そういう施設があることが望ましい。

次に、休憩所が少なく、トイレが割りと少ない。基本的に館内にはないので、並んでいる途中や館内に入って催すと大変だ。主要な物を見終わってから、食事や飲み物を取ることが望まれる。特に子供さん連れの場合は要注意。

また食事するのも少し大変だ。基本的に入り口を少し入った所と、交流の舞台の近辺にしか飲食施設はない(博物館の飲食施設はあったが)。まあ、これは開催者側が、博覧会内での食事をあまり想定していないのかもしれない。

当日は雨だったので、余計に大変だった。雨の日に立ち食いは辛い。この博覧会に行くには、天気の良い日は混みあうだろうが、トータルで見れば、博覧会会場の内外で食事するとしても、やはり晴れの日の方がよさそうだ。

また、「ふれあいステージ」で、色々な催しを期待したのだが、事前に公演時間の記載もなく、終日催しがあるわけでもなく、400席足らずの休憩所になっていたのは、違和感を感じる。よく考えると、尤も、この催しが、博覧会であり、祭りではないということに気がついた。しかし、もう少し、工夫が欲しい。

以上、かなり厳しいことを書いたが、所詮、男の眼。女性の評価は、また違うのだろう。ただ催しの内容は、バージョン・アップがまだまだ可能だろう。

*追記

菓子博の前売り券を持っている人は、入場券についている姫路城と好古園の5割引の割引券でそちらに先に行って、後から、菓子博に入場するのも一つの方法。どちらがいいかは、その人の考え方次第。

*追記

帰りに、駅近くの山陽百貨店で開催されている関連の展覧会「北大路魯山人展」(5月6日まで)を鑑賞してきた。大人600円だが、菓子博の入場券の半券があれば、半額になる。たまたま手元にあり、半額で入場できた。彼の作品は、昔どこかで見たような気がするが、今回は、割とゆっくり鑑賞できた。会場も静かであった。彼の作品に、お菓子や料理がのっており、彼の目指したものが、ちょっぴりわかったような気もした。

*平成20年5月1日追記

本日、入場者数が50万人を突破したようだ。予想をはるかに超えるペースだ。それに伴い、開催者側も、いろいろ工夫していると報道していた。確かに、こういうことは予測できない。変化対応が問われると行ってしまえば簡単だが、当事者は大変だろう。後10日間。どうなりますか。

*平成20年5月13日追記

菓子博は11日で終了したが、集客は92万人だったそうだ。なんだかんだといっても、集客は成功したようだ。県庁の所在地でもないのに、これだけ集客できたことは、ある意味凄い。地域の営業力が優れているということだろう。

また、大都市にありがちな自治会の崩壊もなく、前売り券を相当消化したのかもしれない。もちろん、催し自体が、老若男女参加できる内容だったことも見逃せない。また子供の入場料がただだったのも、気軽なレジャーになった可能性もある。

博覧会自体には興味が薄くでも、姫路城などの入場料が半額になっていたことも幸いしているかもしれない。それに半券を見せれば、市内各所の施設が半額といったこともあったようだ。

結局、わかったことは、営業企画と販売促進が、このような博覧会に有効ということであろう。博覧会の内容はイマイチでも、ビジネスは一回きりだから、採算は取れる。でも、もう少し展示内容については、マーケティングして欲しかったなあ。

| | コメント (0)

2008年4月24日 (木)

信賞必罰ということ

人の評価は、いつの時代も難しいものだ。それは人が人を評価するということに無理があるのだろう。特に評価する方が、偏りのある考え方だと、正しい評価は難しい。

評価する者は、立場的には、部下より見えることも多いが、全てが見えるわけでもない。評価者の見える範囲は限られていると思って、人を評価する必要がある。

では、どうすればいいのか。基本的には、毎日、評価するしかない。そのことで、評価者も評価能力がついてくる。

その信賞必罰について、十七条の憲法第十一条に、信賞必罰が論じられている。参考までに記しておこう。

「功績や過ちを公明正大に調べて、それぞれの賞罰が誤まりなきように努めなければならない。最近、功績もないのに、賞を与えたり、過ちもないのに罰するようなことが行われている。大臣や官僚の長は、賞罰を正確にする必要がある」と。

*参考 訓読文

十一に曰く

明らかに功過を察し、賞罰を必ずただしくせよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず。事を執るの群卿、宜しく賞罰を明らかにすべし。

| | コメント (0)

2008年4月23日 (水)

危険水域に入った原油価格

原油価格が、更に高騰しており、憂慮すべき事態だ(*注)。いかに省エネの進んだ日本とはいえ、原油価格の高騰は、生活物資の価格に反映される。1バーレル=120ドルになれば、国民経済にも、強い影響をもたらす。特にガソリン価格のさらなる上昇は避けられない。

しかし、これに対して、国は何もできていないように感じる。基本は需要を減らすことだが、中国、インドなどの需要が増えれば、一国経済の努力だけではどうにもならないのも事実だ。よって、世界全体で、石油需要を減らす必要がある。

たとえば、家庭用電力にはソーラーシステムの普及も望まれる。一時、日本では国の補助金があった時は盛り上がったが、現在は停滞している。それに電力会社の電気買取が積極的でないことも災いしているようだ。

電力会社のエゴだけでは済まされないはずだが、経営者の器に問題があるのだろう。大体、国民経済を考慮に入れられない資質に欠ける公益産業の経営者が多いのには困ったことだ。もちろん、経済産業省の政策にも問題があるのだが。

またオール電化を電力会社は盛んにアピールするが、もしそうしたいなら、リスク回避の意味で、家庭用電力は全てソーラーシステムとし、電力会社から買う電力はなくすことが望ましい。オール電化は、片手落ちの電力会社のエゴのやり方だ。

家庭でソーラーシステムをつけられない所は、地域で共同ソーラーシステムなど可能であろう。それでも、ソーラーシステム導入の難しい地域だけ電力会社は電力供給すればいい。電力が余り過ぎている現在、電力会社はリストラすべき時代なのだ。

また、小型ソーラーの普及も望まれる。小型電気機器(充電の必要な小型の機器。携帯電話、携帯掃除機、デジタルカメラ等々)は使用電力が小さいとはいえ、数があるので、その合計は大きいと思う。一時、販売されていたが、普及には至っていない。これらの機器は、電卓のように、ソーラー搭載機器への転換が望まれる。

車についても、ノン・ガソリン車の普及が大切と思うが、燃料電池車は遅々として普及しない。開発が進まないのか、政府の支援が足りないのか、一国の需要では価格ダウンができないからか。原因は知るよしもないが、新興国を含めた世界市場を睨んで、トータルで考えるべきだろう。

石油を原料とするプラスチック包装材についても、食料品中心に使用が多いが、これをなくす必要も感じられる。これは毎日、全国で大量のプラスチックゴミを出している。ゴミの減量を考えるが、これが一番の難関である。

もちろんトレーの不要の生鮮食料品ばかり買えばいいのだが、そうもいかない。また昔は新聞で包装していたものが、いつのまにか、小さな八百屋でも、トレーで包装されている。これらをなくすためには何をすべきなのか。

原油価格の上昇はどこまで行くのかわからないが、国民生活においても、危険水域に入ったことは否めない。一人一人が石油を使わないようにするには、どうすればいいか考えなくてはならない。生活の見直しが求められる。

*注

原油価格の高騰には、各種原因が考えられるが、新興諸国の需要拡大と共に、サブプライムの崩壊によるドル安の影響が大きいとされる。この状況は、4~5年続くと考えられる。

| | コメント (0)

2008年4月22日 (火)

『画竜点睛』を考える

百貨店などでウインドーショッピングしていると、時々、いいなあというものを見つける。ただ非常に高かったり、一部のつくりが気に入らなかったりして、購入には至らないことが多い。また、女性と同じ(女性からすれば、男も同じ?)で、遠くから見ていたら、結構いいものに見えても、手に取ると、仕上がりがイマイチということもある(笑)。

そういう意味ではないのだが、今回は、『画竜点睛』を取り上げよう。「ガリュウテンセイ」と読む人がいるが、正しくは、「ガリョウテンセイ」。また念のために記せば、「点睛」の「睛」は「晴」ではない。「睛」とは、「ひとみ」のことだ。

日本では、「画竜点睛を欠く」として、「全体はいいが、肝心なものが欠けている」として、否定の意味としてよく使う。しかし、もともと、画竜点睛は、最後の仕上げを意味する。

この話の源は、中国の南北朝の時代の話だ。ただし、突拍子もない話なので、事実かどうかはわからない。でも、この話は営々と伝えられてきたと思うと、人々の心に何か響くものがあったのだろう。

南朝の梁の国の張僧繇(ちょうそうよう)という人がいたそうな。彼は政治家としては、そこそこの地位にあったが、もう一つの画家としてり面があった。むしろ、その面の方が名高かった。

彼は、ある時、金陵の安楽寺から双竜を描くことを依頼された。双竜というと、日本でも、京都の禅寺などを拝観すると、天井に描かれていることが多い。それがどういう意図で描かれているのか、不勉強であるが、強い生命力を感じるのは、流風だけではないだろう。

彼は渾身の絵を壁に書き上げた。今にも天に昇りそうな双竜には、非常な迫力があって、皆感嘆した。ただ、そこに睛(ひとみ)が画き込まれていなかった。大体、白眼というのはうつろで不気味だ。そこで、多くの人が、その理由を尋ねた。

彼が言うには、「睛を画き込めば、竜は生命の息吹を感じ取り、壁を打ち破って、まさに天に上って行くだろう」と。しかし、人々は、そんな馬鹿なことがあるはずがないと、睛を画き込めとうるさい。まるで関西のおばちゃんの乗りだ(笑)。

やむなく、睛を画き込むと、にわかに天が掻き曇り、雲間ならぬ壁から電光がきらめき、雷鳴が響いた。壁の竜はあっという間に、天に上って、睛を画き込まれなかった、もう一つの竜が行き所を失ったように、空しく残っていたということだ。

おおよそ完成されたものというのは、この世にはない。完成されたと思っても、それは一瞬だ。思った時点で、完成は失われている。時と空間の変化に、常に対応しつづけようとすれば、常に未完成ということになる。

この「画竜点睛」の故事が何を伝えようとしたのか、作者の真意はわからないが、完成したら、なくなってしまうぞ、と人々を諭そうとしたのかもしれない。そう考えれば、私達が付き合うモノにしても、人にしても、同じことが言えるのかもしれない。

| | コメント (0)

2008年4月21日 (月)

お返しをするということ

子供時代、まだ草履はよく売られていたように思う。しかし、最近はあまり見かけない。そういうと下駄をはいている人も少ない。子供の頃は、父に連れられて、夏祭りに行く時に、浴衣を着て下駄を履いて行ったものだが、鼻緒が指の間が食い込んで痛くなるので嫌だったことを覚えている。

子供時代を除けば、草履も下駄も履いたことはない。ところが、ある街でぶらぶら散歩していたら、草履が売られていたので、少し懐かしい気持ちになった。ただ使い方が、上履きだったので、少し驚いた。デザインはハイカラだったから、確かに、そのように使えば使えないこともない。既成概念に捉われると、やはり良くないのかもしれない。

ところで、神戸には、貧しい草履売りの夫婦の民話がある。彼らは仲良く貧しいながらも暮らしていた。年も暮れ、本日は大晦日だ。それなりに慌しくしていた。そこへ、ある見知らぬ僧が訪れ、泊めさせてくれと頼まれる。しかし、「家というほどのものでもないし、人をお泊めするようなところではない」と断ると、その僧は、「いやいや、野宿するのも大変なので、軒先でもお借りしたいのじゃ」と言う。

そうすると、夫婦は、「貧しくて、碌な食べ物も差し上げることができません」と言う。僧は、「そなた達が召し上がるものでよいのだ」と言う。そこまで言われれば仕方ないと、泊めさせて、ぺんぺん草(なずなのこと)入りの割れ米を粥にしたものを差し上げた。

僧は、翌日の正月に、竈に手を合わせ、ぬかみそ桶にお経を読み、彼らに礼を言って立ち去った。しばらくたつと、ぬかみそ桶から、かぐわしい匂いが立ちこめ、蓋を開けると、ぬかみそは味噌になっていた。

夫婦は喜び、食べて見ると非常に美味しく、近所にもお裾分けをし、喜ばれた。しかし、食べても、お裾分けしても、桶はすぐに一杯になり、減ることはなかったという。そういうことで、この味噌を売って長者になったとさ。

まず、話は、ここで終結する。ここでの教訓は、困っている人がいれば、できる範囲で助けろということが一つである。

そして、もう一つは、一宿一飯の恩義は必要だということだろう。一宿一飯と言えば、任侠映画のようだが、何かをもらったら、お礼に何かを返すということは求められる。僧がどういう細工をしたかはわからないが、夫婦は、お陰で結果的に金持ちになった。

さて、この話には、続きがあり、夫婦は以前同様仲良く暮らしていたのだが、亭主がある日、夢を見る。例の僧の夢を見たのだった。亭主は悟り、ああ、お返しのお礼ができていなかったと思い、夫婦で話し合い、お寺の建立を思いつく。早速、船を手配し、材木を購入する。しかし、暴風雨に襲われ、後もう少しのところで、兵庫港で船が沈んでしまう。

意気消沈しているところに、可禅という僧が通りかかり、「これは、あなたの心を海神が試しているのだ。財産を全て投げ出すつもりで、もう一度手配してみなさい」と忠告する。彼は、それに従い、再度船を出し、材木を集める手配をする。夫婦は、もとは貧乏だったあばら家に住んでいたと思い返し、決心すると、行動は早かった。全ての財産で、できるだけのことはした。

そして、再度、和田岬に入港という時、前に沈んだ船が浮き上がり、積んでいた材木も失われていなかった。よく見ると、それは大きな亀(*注)がその船を背負っているのだった。彼はその材木を使って、無事、寺(福厳寺)を創建したという。

よく一代で叩き上げた経営者に話を聞くと、「昔は貧乏だったから、いざとなったら、いつでも戻れる」というようなことを言われる。しかし、話をさらに聞いていくと、「夫婦二人の会社であれば、いつでもそういう気持ちなのだが、従業員を抱えていると、そういうわけにも行かない。彼らを路頭に迷わすこともできない。経営は神仏に祈る気持ちで毎日を過ごしている」と仰っていた。

そう考えると、元草履売りの夫婦のお寺の建立も、同じ心境だったのかもしれない。民話も多くの示唆をしてくれる。

*注

大きな亀とは、鯨のことか。亀とは現実的には考えにくい。

| | コメント (0)

2008年4月19日 (土)

人間の限界

大阪市内や神戸市内には、占いの館のようなものがあちこちにある。このようなものが流行るのは、人間誰しも、将来について、予め知りたい気持ちがあるからだろう。しかし、占いは人間にとって、本来不可能なものだろう。所詮、占い師は自己の経験から人生相談にのっているに過ぎないと言って間違いはなかろう。

だが、そういうことがわかってか、わからずか、女性の占いに対する人気は衰えない。またテレビでも、同様な番組があったし、視聴率もそこそこに稼げたようだから、同じ様な思いの人が多いのだろう。

しかしながら、人間というのは、そもそも未来予測などできるようにつくられていないと思う。もちろん、過去のデータから、近未来を推測することはできるかもしれない。そう、せいぜい推測なのだ。予測などはできるはずもない。

だから、できないことで、悩む必要は何もない。悩む必要があるのなら、一歩踏み出すことだ。そうすることで、可能性が膨らむかもしれない。私達は、人間の限界を知っておく必要がある。

*追記

ただ先日(平成20年4月17日)の全国的に起こった地震のようなものについては、予知できるものなら、したい気持ちがある。しかし、それさえも、経験に基づくデータの解析しか手立てはないだろう。

地下水の汚れから察するに、関西で、また大掛かりな地震が起こるかもしれない。地下水の汚れは、地震後、落ち着いてはいるが、まだ汚れている。嫌な予感がする。変な雲が出ないかも注意したい。

そして、地震には、予知も大切だが、どのように対応するかが大切なのだろう。とりあえず、懐中電灯と携帯ラジオは身近に置いておく。

*平成20年4月21日追記

やっと地下水の水の濁りがなくなった。このまま平穏であればいいのだが、、、、。

| | コメント (0)

2008年4月18日 (金)

美人に誘われて...

美人に誘われるということは、自分の方から誘うということもあまりなかったが、今まであまりなかったように思う。仮に誘われるとしても、大抵が、何か問題を抱えた時か、それとも彼女自体に問題がある時に相談にのるぐらいだ。その流風が、先日、“美人”に誘われて、ある所に行って来た。

それは神戸大丸で開催されていた『松園と美人画の世界』だ。松園すなわち上村松園の美人画30点あまりと、その他の画家たちの美人画60点(説明には70点とあるが、そんなになかったと思う)あまりが一堂に会したものだ。その他の画家と言っても、契月、夢二、麦僊、紫明、深水、遊亀など有名な画家の作品が出品されており、なかなか見ごたえがあった。

その中の幾人かの画家の展示会は、行ったことがあるが、これほどに、いろんな画家の美人画を集めた展覧会は初めてだったので、かなり見入ってしまった。会場も、どこかと違って、観覧している方々も静かだった。

そうして、まず気づいたのは、女性の松園の絵とその他の男性の画家の絵では、同じ美人画でも、描き方がかなり異なるということだった。男の感性と女性の感性の違いからだろうか。

松園は、確かに、女性が好きな花を描くように、女性を描いている。それは美しいモノを描くという意味でだ。しかし、それは花が自然物なのに対して、彼女の描く女性美は抑圧された人工美の女性たちという違いがあるが。

すなわち、彼女は、対象となる女性の描き方には、一つのパターンがあって、女性の感情をほとんど見せないように描いている。それは目の描き方でわかる。対象の女性が花柳界独特の厚化粧であることも影響しているのかもしれない。

美人と言っても、厚化粧で作られた美であるということだ。つまり人工美ということかもしれない。だから、顔だけ見ていると、対象者の感情はわかりにくい。そこで、彼女は、それを補う意味で、仕草とか、身に着けている物で、それを表しているように努めているのかもしれない。そこには、女性なりの細やかな観察が見て取れる。

これに比べて、男性の画家は押しなべて、女性の内面にあるものを、絵の上に直接、表現しようとしている。すなわち対象者の心情を察知して、鑑賞する者がすぐわかるような絵にしようとしている。そういうわけで、目の描き方が直接的で、人間臭さを全面的に押し出している。

もちろん、どちらが良いとか悪いとかは、流風は論評できない。それぞれに価値があるのだろう。ただ、松園の絵は、一般に女性は同性に厳しいが、彼女の同性を見る目は、やや優しい感じがする。彼女等に対する一種の思い込みから描かれた男の画家達の絵とは、少し違うように感じる。女性を描くという点では、その心の深さは、男性の画家では、ちょっと及ばない感じがした。“美人”も、いろいろ考えさせてくれる。

| | コメント (0)

2008年4月17日 (木)

渋沢栄一の『家訓抄』

明治の実業界の基礎を作った渋沢栄一は、『家訓抄』を残しているので、そのまま下記に記す。余計な解釈は不要だろう。

一、言忠信を主として、行篤敬を重んじ、事を処し人に接する、必ずその意を誠にすべし。

二、益友を近づけ、損友を遠ざけ、己に諂う者を友とすべからず。

三、人に接するには必ず敬意を旨とすべし。宴楽遊興の時と雖も敬礼を失うことあるべからず。

四、およそ事を為し、一物に接するにも、必ず満身の精神をもってすべし。瑣事たりといえども、これをかりそめに付すべからず。

五、富貴に驕るべからず。貧賎を患うべからず。唯唯知識を磨き、徳行を修めて、業に励み、真誠の幸福を期すべし。

六、口舌は禍福の因を生ずるところの門なり。故に片言隻語、必ずこれを妄りにすべからず。

七、勤と倹とは創業の良図、守成の基礎なり。常にこれを守りて、苟くも驕り、且つ怠ることあるべからず。

| | コメント (0)

2008年4月16日 (水)

食養訓は正しいか

食養訓らしきものは、昔から、いろんな人々から伝えられてきた。ただ最近は、「食育」などの奇妙な言葉が使われているが、流風は決して認めない。食は、上からの押し付けでは真に理解できない。知識に頼り過ぎるのは危険だ。経験知も必要だが、自ら学び取るものだ。

人々には、本能があり、食に対する意識は誰しも持っている。それは学ばされるものではないはずだ。もし、それがないというのなら、それは本能が衰えているということの証左だ。つまり各個人が、食に対する、どういう問題意識を持つかが大切なのだ。

さて、ここでは、その問題は措いておいて、参考までに『食養訓六訓』を挙げておこう。これらは貝原益軒の『養生訓』を参考にしたものと云われる。彼の書にしても、過去の多くの経験知がまとめられたものと言えよう。ただ、以下のことが正しいかどうか、自分で確認して欲しい。

一、粗食にすること。

最近は、食が全般的に贅沢になり、それが却って身体を蝕んでいる。特に若い時の食生活は、身体をよく動かして、粗食が望ましいと云われる。そしてアルカリ食品を多めにして、酸性食品を少なめに。

二、旬の物を食べること。

季節のものを食べれば、健康にいいとされる。逆に、その季節にとれない食物は摂取しない方がいいとされる。

三、多様な物を組み合わせて食べること

これは科学的にも、裏付けが取れているようだ。ある学者は、健康情報で、確かなことは、このことだけと指摘している。

四、味付けを薄くし、素材を味わう料理にすること

味付けを薄くするか、濃くするかは、環境による考え方の問題。ただ、塩分や糖分を多く摂取することは悪いと云われている。素材そのものを味わうのがいいだろうということは、本能的にはわかる。

五、よく噛んで味わうこと。噛む回数は多いほどよい。

確かに、長寿者は、よく噛むようだ。これで免疫力が高まるというのは、どうもそうらしい。

六、腹八分目。食べ過ぎない。

常に、若干お腹が空いた状態が望ましいと云う。何でも余裕が大切ということのようだ。あまり詰め込みすぎると、胃腸がきちんと活動できない。

| | コメント (0)

2008年4月15日 (火)

無責任経営

上場会社の中に、経営責任数値を出さない企業があるらしい。えっー、今時、そんな企業があるのか。数値を出さないということは、結局、無責任経営になりやすいはずだ。そんなことが許されるのか。

東証やベンチャー市場の上場審査基準や維持基準は、おかしくなっているのかもしれない。それはかつて説明責任を果たさず、金融商品を販売し続けた銀行や生保などと同類の企業なのかもしれない。

もはや上場しているからといって、社会的責任を果たしているとは言えないようだ。おかしな経営者が蔓延すれば、社会に進歩は期待できない。これらの経営者を大掃除する時が来ているようだ。

*追記

最早、米国の経営者のように無責任経営者の時代は終わっている。経営者には、くれぐれも彼らの真似をしないよう願うばかりだ。

| | コメント (0)

2008年4月14日 (月)

世の中の最大公約数

この世の中は、最終的には妥協の産物とは思うが、妥協しすぎると談合になり、だらけてくる。よく言われるように、競争しつつ協調するのがいいのだが、その頃合が実に難しい。妥協が早すぎると、世間や周囲から批判にさらされるし、遅すぎると、まとまるものもまとまらなくなる。

理想の実現は大切だが、前に全く進まないというのも困る。だから、判断基準に幅を持つ必要があるのだが、トップに、人望とその幅が認められない場合は、世の中、停滞することになる。

すなわち、あの人が言うのなら仕方ない、というような雰囲気を持っており、人間社会をよく知っている人がトップになるのが相応しい。また、その時の、トップは片方だけがそうであっても駄目で、双方が、そのようなトップでなければならない。

そういうわけで、世の中の最大公約数をまとめるのは、誰でもできるというわけではない。ところが、残念ながら、世の中には、そのことを理解してない人々がいる。つまり期待してはいけない人たちに期待はしてはいけないのだ。

結局、トップの選定に、私達が、直接にせよ、間接にせよ、強い関心を持つことが大切になる。彼らの私生活や、日頃の言動などの観察も大切だ。企業のトップにしても、政治家のトップにしても、それで業績が決まるのだ。企業のトップの場合は、投資の目安になるだろうし、政治家の場合は、投票の目安になる。

最終的には、私達の選択が、自分の身に降りかかってくることになる。その時、世の中の最大公約数は、選択の判断の一つの基準になると言えるかもしれない。すなわち、私達にも、ある程度の幅のわかることが求められるのだ。

| | コメント (0)

2008年4月13日 (日)

そうですか

4月になり、多くの新入社員が、元気よく張り切っているであろう。今のうちは、覚えることもたくさんあり、時間もあっという間に過ぎていく。しかし、しばらくして落ち着いてくると、新たな悩みが出てくるかもしれない。多くの矛盾を感じるかもしれない。特に人とのコミュニケーションに悩む人も出てくるかもしれない。

人との接し方はいつの時代も難しいものがある。人それぞれの思考方法が違うからだ。しかし、接し方のテクニックはある。それは、まず受け止めることである。“そうですか”と聞き届けるとも言えようか。現代的に言えば、“YES,but....”となるかもしれないが、新入社員には、“but...”は早すぎる。まず受け止めることが大事だ。

若い時は、親から意見されると、反発したくなるの気持ちとしてはわかる。しかし、流風の経験でも、親の意見に反発したものの、後で冷静に考えれば、親の意見が正しかったという経験はよくした。反抗期には止むを得ない面もあるが、親の意見には耳を傾ける意味はある。だから、親は、子供に嫌がられても、意見はする必要があるのだ。

それは同様に、姑に逆らう嫁の話は昔からよく聞くが、うまくやっている嫁は、まず姑の意見や小言をよく聞いている。そして、そのことの積み重ねで、信頼を得て、じっくりと自分の意見を通す努力をしておられる。現代は、いきなり反発する元気な嫁さんもいるようだが、大抵がうまく行っていない。

一般社会でも同様だろう。企業でも、新入社員が、先輩の言うことを批判して、やり方が古いだの、なっていないとの意見書を出して、目立つ人もいるが、あまり望ましくない。おおよそ、組織の中で力を発揮するには、組織の力を使わないと難しい。単独で能力を発揮しても、それは大した力にはならない。新入社員は、まず、その企業の文化をまず把握することに注力するべきで、まず先輩の意見を聞き届けることが必要だ。ただ、疑問に思ったことは何でも聞けばよい。それは新入社員の特権だ。

もちろん、とりあえず、“そうですか”と受け止め、自分なりの疑問点は、メモをして将来のために取っておくことは必要だ。いいこと、悪いこと、全て受け止め、自分なら将来どうするか、という問題意識は常に持っておく必要はある。そうすることが、将来のリーダーシップに役立つだろう。

| | コメント (0)

2008年4月12日 (土)

石山寺の美を鑑賞

石山寺の美を鑑賞してきた。と言っても、滋賀県大津市にある石山寺まで参詣したわけではない。現在、明石市立文化博物館で開催されている『石山寺の美~観音・紫式部・源氏物語』を鑑賞してきたのだ。この催しは、「源氏物語千年紀」の一環事業だ。

さて、その展示内容だが、石山寺縁起の絵巻、観音信仰と石山寺の至宝、紫式部と源氏物語という三部構成になっている。見所はたくさんあるが、絵が小さいので、目を凝らさないと詳細はわかりにくいものもある。止む無く、図録(2,000円)を買い求め、補うことにした。

このブログでは、紫式部と源氏物語について、若干、感想を含めて記してみよう。一条天皇の叔母の選子内親王より、もっと珍しい物語がないかと、紫式部に問われて、7日間籠ったのが、この石山寺と云われる。

当時、観音信仰が流行っていて、紫式部も、それに倣ったのだと思う。そして旧8月15日の夜、満月の月を見て、「源氏物語』の着想を得たそうだ。おわかりのように、旧8月15日といえば、秋だ。やはり着想は、この時期が良いのかもしれない。

おおよそ、その着想などというものは、意識を集中して、ある一瞬、ぱっと解き放れた時に浮かぶのではなかろうか。流風も、振り返れば、この人生に2,3回ある。その時の気分は、何とも言えない晴れやかさだ。しかし、放っておけば、すぐに忘れてしまうようなものだ。近くにあるメモ用紙に乱雑な字で走り書きした記憶がある。

同様に、紫式部もそのようにしたようだ。彼女は、実に、罰当たりというか、大般若経の裏に書き付けたようだ。もちろん、彼女はその後、お詫びの意味か、大般若経を書写して、奉納している。だが、彼女の留め書きした気持ちは手に取るようにわかる。

そして源氏物語の「須磨」「明石」から書き起こしたというから、これらに、このひらめきの真の意図が隠されているのかもしれない。その流れが、全体を通じてあるのかもしれない。そう考えると、これらには相当重要な意味があるとみて差し支えなかろう。もう一度、読み直しして再確認しようと思う。

そういうことで、源氏物語の舞台になっている、須磨・明石の絵巻も見てみた。多分、紫式部は、須磨や明石は実際に見ていないだろうし、見聞などによって、想像したに違いない。更に絵巻だけでは、物語ができて、割とすぐに手がけられたようだが、やはり、なかなか彼女の意図は読みきれない。

しかしながら、そういうことは別にすれば、絵巻を描いた絵師も、現地は見ていないだろうが、その想像力には感服する。まあ、日本の海辺は、どこも似たり寄ったりと言えばそうだが。それにわからぬ所は、適当に手抜きして誤魔化している感じもある。後世の評論家は、それを手法と説明するが。

それでも僅かの時間ではあったが、ああだこうだと思いながら、彼女の時代に吸い込まれた感じだ。そう考えれば、千年も一日が如しだ。源氏物語は素晴らしい。そして、紫式部にそういう着想をさせた石山寺も、心眼を開かせる何かを秘めているのだろう。

*追記

関連の展覧会としては、京都文化博物館で、4月26日~6月8日に開催される予定の『源氏物語千年紀展』がある。どうも、こちらと展示内容が重複する感じだ。確かに、あちらの方が、講演会とか、演奏会とか、特別講座とかいろいろ催しがあるようだ。講演会とかは無理だが、時間を見つけて行ってみるとしましょうか。長いこと、京都ともご無沙汰だし。

*追記

しかしながら、当日は高齢のお婆さんが多かったのだが、私語の多いこと、多いこと。声が通るから、うるさいの何の。困った方々だ。博物館など、あまり行かれないのかな。う~ん、参った(苦笑)。

| | コメント (0)

2008年4月11日 (金)

ファンド投資規制の必要性

経済産業省次官がJパワーへの英国投資ファンド「TCI」による投資制限を述べていた。ファンドは反発しているようだが、これはいろんな思惑があるにせよ、止むを得ない。国民としても、ファンドの介入で、エネルギーコストが上がってもらっても困る。少なくとも、ファンドが日本国民のことを考えての行動ではないだろう。

おおよそ、投資が投資である限りはいいが、前にも述べたが、度々、投資は投機化する。そうなれば、ファンドは、資本の暴力になり、投資先の有用な資産を食い荒らすに違いない。その時、ファンドは侵略行為に限りなく近くなる。

世界の金融の流れを見ていると、ファンド投資規制の必要性は自然の流れだ。ファンドに自制が求められるが、残念ながら、そのような動きはない。ファンドは自由主義の権化であるからだ。だから、最早、放置できない状態にある。

まして、今回の英国投資ファンド「TCI」の黒幕は不明だ。別の企みがある可能性は高い。経済産業省次官の判断は正しいと思う。一部政治家は、説明責任だとか大騒ぎしているが、お人好しにも程がある。国家的観点から見て、次官の判断に同意すべきだろう。

投資でなくて投機の暴走がいかに恐ろしいものか、国民としても注視しなければならないだろう。

| | コメント (0)

2008年4月 8日 (火)

後進に道を譲る

現役を引退した後、寂しくなったのか、復帰する人がいる。もちろん、事情は様々であろう。しかし、引退したものが、復帰して、後輩の仕事の邪魔をするのはいかがなものか。彼らには、後進に道を譲るという発想はないのだろうか。

また、その業界で、そこそこの年齢なのに引退しない人たちがいる。議員(定年制もあるようだが)やスポーツ選手が目立つ。プロ野球選手も、確かに運動能力が高ければ、続ける意味はあるのだろうが、それでも、ある程度の年齢になれば引退してもらいたいものだ。

そうしないと、後進は育たないし、結果として、その業界も衰退することになる。すなわち、頑張り続けることが、あまりよくない結果を招くのだ。誰でも、元気なうちは、前線でいつまでも頑張りたい気持ちはわかるが、後進を育成する意識を持たないと、社会はもたない。後進に道を譲るということは大切なことだ。

もちろん、それは民間企業にも言える。65歳への定年延長もその一つだろう。これは年金支給の先延ばしに対する国策だが、あまり感心できる政策ではない。あまり長くおられると、若い人たちにとっては、心理的に重苦しい。

新しいことを行うにも、やりにくいし、新しい発想も潰されがちだ。それは経験則が異常に重視されるからだ。定年延長ではなく、定年後の再就職環境を整えることの方が大切だ。

また官僚の天下りの場合は、官界を出ても、その影響力を行使する元官僚が後輩の仕事の重石になっている。それがいいように働ければいいが、大概は害になっている。

彼らが天下り先から、引退した段階で、初めて後輩は自分の仕事ができるだろうが、次々と天下りしておれば、そういうことはいつまでたってもできないということになる。それが官界の腐敗を生んでいるのだろう。

今一度、後進に道を譲るということがどれほど大切なことか、皆が考えてみる必要はあると思う。

| | コメント (0)

2008年4月 7日 (月)

あほな奴

東京では、「あほ」と言われると怒るそうだが、関西では、「馬鹿」と言われると気分が悪い。今回は、「あほ」を取り上げてみよう。「あほ」を売り物にして有名になった漫才師もいるが、そもそも関西では、あほな奴ほど可愛がられる。彼は演じているだけで賢い人だが。

この言葉の裏には、もちろん、思慮が足りないという意味があるが、それだけではない。愛すべき奴やなあ、という意味も含まれている。全てを計算づくでやる人には、そのような呼び方はされない。

むしろ脇が甘く、どこか抜けているように思わせる雰囲気を持っていると、そのように呼ばれるようだ。だから、「あほ」と呼ばれる人が、本当に「あほ」かと問われれば、そうとも言い切れない。そうかといって、「あほ」を演じている人が「あほ」かと言われると、それは真の「あほ」ではない。それは、まがい物の「あほ」だ。

真の「あほ」は、周囲に「あほ」だと感じさせ、本人も一途に「あほ」になっている。それが一時的でないから、なんか助けたらなあかんなという雰囲気になる。

でも、本来、人間は、「あほ」ばかりではないか。他人のことは、「あほ」な奴と笑いつつ、基本的に、皆「あほ」だと思う。人の「あほ」は見えても、自分の「あほさ加減」はなかなかわからないのだろう。こんなブログ書いている流風も「あほ」なんやろうな。

| | コメント (0)

2008年4月 6日 (日)

常備野菜と規格外の野菜

子供の頃、煎餅屋に勤めていた親類から、割れ煎餅をたくさんもらって、嬉しかったことを思い出す。煎餅等は製造過程で、どうしても割れが出る。そうした物は、売り物にならないので、安く処分される。それは最近でも、同じ様なことが行われており、自家用には、入手できれば、そのようにしている。

さて、スーパーなどに行くと、本当に、皆さん、店屋物の購買が多いですね。野菜を買うのは、高齢のお婆さんばかり。その他の女性は、あまり野菜を買っていない。彼女の家族の食生活は貧しいようだ。添加物いっぱいの食品ばかり食べてどうするんだろうね。

流風は、野菜の常備がほぼ決まっている。もちろん、季節により採れないものもあり、一年を通じてというわけにもいかない場合もある。皆さんは、どのようだろうか。一応、常備野菜を挙げてみる。もちろん、昔から全て国産のみである。

ⅰ 根菜類

ジャガイモ、タマネギ、大根、人参、レンコン、小芋、山の芋(または長いも)、ゴボウ、サツマイモ、生姜、ニンニク

ⅱ 青菜類等

白菜、キャベツ、白ネギ、ホウレンソウ、小松菜、モヤシ。時々チンゲンサイや春菊も。

ⅲ その他

きのこ類

ⅳ 季節物

ピーマン、トマト、キュウリは基本的に暖かい季節に地物を買う。冬には買わない。同様に、ナンキン、ナス、ブロッコリーも季節外には、あまり買わない。

これらは、主として、百貨店やスーパーで買い求めるが、時々、地域農産物直売の催しがあるので、そういう場合も、買い求める。そういうところでは、流通に乗らない規格外の農産物が格安で売られている。

農業者にとっても本来なら処分してしまうのが、お金になるのだから、お互いにメリットがある。少しぐらい曲がった大根でも、調理すれば、同じ大根。葉物などは、どこが規格外と思うようなものだ。

都市生活者と農業者の交流がもっと身近になればと思う。それにしても、そこの奥さん、流風が野菜をいっぱい買っているのを物珍しそうに、じろじろ見るのは止めにしてくれるかい。店屋物ばかり買い求めている、あんたより、内容のある食生活を送っているんだから。

| | コメント (0)

2008年4月 5日 (土)

門前雀羅

子供の頃、籠を逆さにして、紐を結びつけた割り箸等で支えて、中に米粒を入れておくと、雀が集まってきて、よく雀を取ったものだ。雀は、餌があるとすぐ察知するのだ。何もないと寄ってこないのに、米粒を少し入れると、間もなく寄ってくるので、餌には雀も弱いんだなと思ったものである。

しかし、取った雀を焼き鳥にすれば美味しいというので、試してみたが、残念ながら美味しくはなかった。その後は、捕っても、逃がすようになったのを覚えている。

さて、話は変わるが、世の中、羽振りのよいときは、周囲に自然と人が集まってくる。しかし、一度、その地位を失えば、人はいつの間にか離散して寂しい状態になる。流風は、それが悪いとは思わない。立場を考えれば、そのように行動するのが、人の常であろう。

同様なことを、漢の武帝に仕えた二人の事例を司馬遷が『史記』に取り上げている。それは汲黯(きゅうあん)と鄭当時(ていとうじ)のことだ。二人とも、相当な地位に就いていたが、人生の浮沈を経験している。

まず汲黯(きゅうあん)は諌臣であったがために、諫臣にありがちな人生の浮沈を味わっている。諫言が取り上げられれば、評価されるが、取り上げられないと左遷されるのだ。

評価された時は、取り巻きが増えるが、左遷されると、いつの間にか誰もいなくなる。大体、諫言というものは、トップにとって耳が痛いので、取り上げられないことの方が多い。彼も、それによって、辛い状況に陥っている。

鄭当時の場合は、人が良かったのか、相談に色々乗っているうちに、犯罪に巻き込まれ、一旦庶民にまで落ちている。その後、名誉回復したものの、辺鄙な地域の太守で終わっている。

そのようになることを辛いという人もいる。だから、適当に無難にやるんだと言う。もちろん、それは処世で悪いとは言わないが、自分を殺しすぎると、人生を無駄に過ごすことにもなる。多くの人は、止む無く、そうしているが、そのような人ばかりでも困る。

それに、人間、生まれてくるのも独りだし、死ぬ時も一人だ。そのように考えれば、人の離散を悲観的に考える必要はない。それが当たり前と思えばいいのだ。思い切って、自分の思いのままに道を歩むのも悪くない。周囲は大変だろうけど、日頃から覚悟させておけばいい。

なお、表題に掲げた「門前雀羅(もんぜんじゃくら)(*注)」とは、人が寄り付かなくなって、多くの雀がたくさん集まって遊び、雀取りの網を張れるほどになっている状況を指している。

*注

『史記』の原文は、「門外雀羅」となっているらしいが、未確認。

| | コメント (0)

2008年4月 4日 (金)

ひなたぼっこ

子供の頃、春先に、緩い太陽の光を浴びながら、土手の草の上に、寝転がっていた。俗に言う、ひなたぼっこだ。一人のこともあったし、友達と一緒の時もあった。時々、母とお弁当。それにしても、あれは、何とも言えない心地よさだった。目を瞑ると、日が赤く見える。子供が太陽を赤く描くのは、そういうことだろうか。

先日の報道では、京大の研究によると、妊婦が妊娠期間が日照時間の短い時期にあたると、子供はビタミンDが不足して、骨が柔らかくなると発表していた。4月、5月生まれは要注意だそうだ。

しっかりした骨にするには、魚介類やきのこ類の摂取もいいが、血中のコレステロールが太陽に当たる事によって、ビタミンDが生成されるので、妊娠中は、ひなたぼっこは、いいらしい。そして生まれてきた新生児にも、望まれるということだ。やっぱり気持ちのよいことは、身体にいいのだろう。

流風としては、今でも、休みに、ひなたぼっこして、ぼっーとしているのが好きだ。決して、呆けてるわけではないよ(笑)。でも、比較的のほほん人生だったかもしれない。それなりに、いろんな苦労もあったけれど。

さて、少し寒い日が続いたので、桜も寿命が延びたようだ。桜を見ながら、ひなたぼっこしましょうか。この季節の太陽は優しい。と思ったら、柏餅が食べたくなった。いや桜餅の方がいいか。やはり花より団子だ(笑)。

| | コメント (0)

2008年4月 3日 (木)

成功の原則

成功の原則は、最初に結論ありき、と云われる。いろいろ調査して、結論に導くことは難しい。結論は、直感によるものであるべきだ。それに対して裏づけを取るというのが順序というものだ。いきなり調査から結論を求めてはならない。

もちろん、目的達成のための実行には、冷静な判断は求められる。何でもかんでも、直感に基づいて実行していたら、転ぶのはわかりきっている。

やはり市場との継続的なコミュニケーションは欠かせない。求められるのは、切り口のセンスと市場を切り開く技術ということになる。その中で、柔軟に微調整することは求められる。

その上で、やるかやらないかを決める。でも、心配しすぎると、何もやれない。最終的には、本人のやる気で決まるようだ。一歩を進めるか、何もしないでおくか。

確かに、全てがすべて成功するわけではない。いろんな失敗事例を見てきた。しかし、見通しを厳しくして、前に進めた成功例は多い。若い時は、まだやり直しがきくので、とりあえず挑戦してみることだ。

*注意

ただし、直感を磨く必要はある。若い時に、哲学と五感に基づいて、頭と体で、かなりの情報量を仕込む必要はある。

上記のブログの内容は、流風の反省によるもの。

| | コメント (0)

2008年4月 2日 (水)

人の意見を聞く

人の意見を聞くのは大切なことだけど、なかなか難しいようだ。それは自我が強すぎるためなのか。自分だけが正しいと思っているからか。子供が親の言うことを聞かないなどとよく言うが、頭の固まった高齢者は、子供の言うことをもっと聞かない。

そして、それは政治の現場でも見られる。よくテレビ等で議論しているが、結局、自陣の主張を繰り返し、相手の意見には、ほとんど耳を貸さない議員も多い。また記者なども、その思い込みから、自分の意見に無理やり誘導尋問的な質問を繰り返す例も、多く見られる。マスコミとしては、極めて不適切と思うのが、その傾向は止まない。

そいうことを戒めたことを十七条の憲法の第十条では語られている。いつものように、若干の意訳を踏まえながら、解釈していこうと思う(カギカッコ内は現代語解釈。それ以外は流風の解説)。

「心の中の怒りを絶ち、目に角立てないようにしなさい。他者が自分の意見と違うからといって、怒ってはなりません。」

自分の意見が絶対だと思いがちだが、意外と考えが足りない場合がある。指摘されて、怒っていては進歩がない。

「人には、皆心がある。人には、立場により、それぞれ意見があるものだ。ただ言えることは、彼が正しい場合は、自分が間違っているのであり、自分が正しい場合は、彼が間違っているのである。」

人は、立ち位置によって、見えるものが違ってくる。だから、意見は違って当たり前なのだ。だから、総合的に見て、意見の是非を考えなければならない。

「しかし、自分は、聖と呼べるようなものでないと同様に、彼も愚かであるとは言えない。自他共に凡夫であることを忘れてはならない。是非というものは、簡単に定められるものではない。それが世の中だ。お互いに賢愚を言い合っても、自他共に、丸い円に両端のないのと同様、変わりはないのだ。」

人間がどんなに優れているといっても、天と比べれば、大した存在ではない。多くは似たり寄ったりの能力の持ち主に過ぎないことを認識しなさいということだろう。

「そういうことだから、彼が怒った場合も、自分が冷静に反省し、自分が唯一正しいと思っても異を唱えずに、議論の進行状況を読み取りながら、多くの人の意見を取り入れて、皆が冷静に話し合えるように努めよ。」

独りよがりにならず、多くの考え方を入れて、最終判断をすれば誤りが少なくなる。

どこかの国の政党に聞かせたいですなあ。

* 十七条の憲法の第十条

十に曰く

忿を絶ち、瞋を棄てて、人の違うを怒らざれ。

人みな心あり、心おのおの執ることあり。

彼、是なれば、則ち我、非なり。

我、是なれば、則ち彼、非なり。

我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚ならず。

共にこれ凡夫のみ。

是非の理、たれか能く定むべけむや。

相ともに賢愚なること、鐶の端なきが如し。

是を以て、彼の人瞋るといえども、還ってわが失を恐れよ。

われ独り得たりといえども、衆に従って同じく挙(おこな)え。

| | コメント (0)

« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »