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2008年4月18日 (金)

美人に誘われて...

美人に誘われるということは、自分の方から誘うということもあまりなかったが、今まであまりなかったように思う。仮に誘われるとしても、大抵が、何か問題を抱えた時か、それとも彼女自体に問題がある時に相談にのるぐらいだ。その流風が、先日、“美人”に誘われて、ある所に行って来た。

それは神戸大丸で開催されていた『松園と美人画の世界』だ。松園すなわち上村松園の美人画30点あまりと、その他の画家たちの美人画60点(説明には70点とあるが、そんなになかったと思う)あまりが一堂に会したものだ。その他の画家と言っても、契月、夢二、麦僊、紫明、深水、遊亀など有名な画家の作品が出品されており、なかなか見ごたえがあった。

その中の幾人かの画家の展示会は、行ったことがあるが、これほどに、いろんな画家の美人画を集めた展覧会は初めてだったので、かなり見入ってしまった。会場も、どこかと違って、観覧している方々も静かだった。

そうして、まず気づいたのは、女性の松園の絵とその他の男性の画家の絵では、同じ美人画でも、描き方がかなり異なるということだった。男の感性と女性の感性の違いからだろうか。

松園は、確かに、女性が好きな花を描くように、女性を描いている。それは美しいモノを描くという意味でだ。しかし、それは花が自然物なのに対して、彼女の描く女性美は抑圧された人工美の女性たちという違いがあるが。

すなわち、彼女は、対象となる女性の描き方には、一つのパターンがあって、女性の感情をほとんど見せないように描いている。それは目の描き方でわかる。対象の女性が花柳界独特の厚化粧であることも影響しているのかもしれない。

美人と言っても、厚化粧で作られた美であるということだ。つまり人工美ということかもしれない。だから、顔だけ見ていると、対象者の感情はわかりにくい。そこで、彼女は、それを補う意味で、仕草とか、身に着けている物で、それを表しているように努めているのかもしれない。そこには、女性なりの細やかな観察が見て取れる。

これに比べて、男性の画家は押しなべて、女性の内面にあるものを、絵の上に直接、表現しようとしている。すなわち対象者の心情を察知して、鑑賞する者がすぐわかるような絵にしようとしている。そういうわけで、目の描き方が直接的で、人間臭さを全面的に押し出している。

もちろん、どちらが良いとか悪いとかは、流風は論評できない。それぞれに価値があるのだろう。ただ、松園の絵は、一般に女性は同性に厳しいが、彼女の同性を見る目は、やや優しい感じがする。彼女等に対する一種の思い込みから描かれた男の画家達の絵とは、少し違うように感じる。女性を描くという点では、その心の深さは、男性の画家では、ちょっと及ばない感じがした。“美人”も、いろいろ考えさせてくれる。

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